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第一部 第二章 花滞雨の巻
二〇一六年四月十日 2016/04/10(日)昼間
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澄子は、買ったばかりの淡いピンクのパンプスを履いてきたことを、ほんの少し後悔した。
都内は朝から曇り空で、風も冷たく、先週の快晴とは正反対の天気だった。それでも、何かに歯向かうような想いで、今日だけは上から下まで春めいた色合いの服にしたが、一向に晴れそうにない暗い空の下、澄子の心はますます沈んだ。
花見の誘いに、柿坂は普通に応じてくれた。
時間も澄子が決めて良いというので、悩んだ挙句、夕方の時間帯にした。特にライトアップなどをするような場所でもないので、昼間の人混みの中で花見をするよりは、静かな方が良いと判断したのだ。
ところが、それが完全に裏目に出た。あろうことか、澄子の頬にはポツポツと冷たいものが落ちてきたのだ。
――雨なんて、聞いてない。
当然、傘も持ってきていない。
道行く人の中には、慌ててコンビニに駆け込む者もいた。
――ここで、傘をさしたら何となく負けのような気がする。
澄子は、ジャケットの合わせをグッと掴むと、通りを足早に進んだ。
その時、澄子のスマートホンがかすかに震えた。
「柿坂さん……」
メールのメッセージは、近くのカフェで一度落ち合おうという内容だった。柿坂も天気を気にしているのだろう。この後どうするか話し合う必要がある。
まだ本降りにはなりそうにない。しばらくしたら、雨も上がるかもしれない。澄子は、ひとまず指示どおりに公園近くのカフェに向かった。
曇天とはいえ、日曜の都心は人で溢れていた。雨避けを求めてきたのか、若者たちがカラオケボックスの前に集まっているのが目に入る。
ふと、祐樹のことが思い浮かんだ。
――仲直りしたのかな。
その想いを、すぐに振り払った。
――今は、まず自分の心配でしょうが。
横断歩道に差し掛かると、信号待ちの中、次々と傘が花を咲かせた。
少しずつ、雨粒が大きくなっている。
澄子は青になると同時に、足早に道路を渡った。
正面の通り、待ち合わせのカフェが入っているファッションビルの前で、柿坂を見つけたのだ。
ビニール傘を持っている姿に、少しばかりショックを受けたが、澄子は自分に言い聞かせた。
――今日は、今日こそは、ちゃんと柿坂さんとの時間を――。
その足が、一瞬で止まった。
澄子より先に、若い女性が一人、柿坂に近づいていく。長身の男を、じっと見つめる眼差しは、どこか熱を秘めている。
澄子は、その女性に見覚えがあった。
以前、ショッピングモールで行なわれた柿坂のコンサートで、二胡をやってみたいと言って、弾かせてもらっていた女性だ。
――どうして。
『他のヤツを優先なんて、もう浮気じゃないッスか』
祐樹の言葉が、澄子のすべての動きを奪う。
冷たい雨が頬を打った。
立ち尽くす澄子に向かって、苛立ったクラクションが鳴らされた。一斉に多くの人々がこちらを振り返る。柿坂も女も、澄子を視界にとらえた。
そして次の瞬間、女が柔らかく微笑みながら澄子に会釈をした。
――何。
何の意味があるの?
会釈って、どういうこと?
わからない。
わからない。
――。
「わからないよ……っ!」
澄子は柿坂に背を向けて、雨が降る通りを駆け出した。
家に帰ることも出来た。
しかし、先週の友人との約束のためにも、澄子はどうにか思いとどまった。
気づけば、ポプラ公園の並木道を歩いている。
小さな水たまりに、雨粒が輪を広げた。
「今まで、こんなに悩んだことなんて……なかったな」
だって、いつも恋が始まる時には終わってしまったから。
「わたしが……いけないのよね」
だって、いつも原因は同じだから。
「でも……」
不安で。
怖くて。
自信がないけれど。
澄子は、雲で覆われた空を見上げた。
「……好きな人と、一緒に桜を見るくらい、いいでしょう……?」
冷たい風が澄子の髪に吹きつけ、スタイリングが台無しになる。
淡いピンクのパンプスには、茶色の染みが浮いている。
それが目に入った瞬間、澄子の中で、押しとどめていたものが一気に破裂した。
こらえようもない涙が溢れる。
両手で、乱れた髪の毛を鷲掴みにしたまま、喉が張り裂けんばかりに、声を上げて泣いた。
年下の少年には呆れられ、
新婚の友人には心配かけて、
好きな人には何一つ行動を起こせない。
そして、雨に打たれて、狂ったように泣いている自分は、普通じゃない。
そう。
わかっているのは、自分が普通じゃないってことだけ――。
「……何をしてるんですか、アンタは」
嗚咽が一瞬止まった。
――。
パシャパシャと近づいてくる背後からの音。
愛しい人が後ろにいる。
それなのに、怖くて振り返ることすらできない。
少し前までは、怖くてもあんなに積極的に近づこうとしたのに。
何で、こうなってしまったの?
「すみません……。ちょっと今日は……」
澄子は、取り繕うことに必死になった。泣いた声が裏返り、上手く言葉が紡げない。
「気分がすぐれなくて……少し放っておいて下さい。一人に……させて下さい……」
しばらくすると、柿坂の小さなため息が聞こえた。
「アンタが放っておいて欲しいなら、そうします」
「……はい。すみません」
澄子は小声で答えた。
早く、この場を離れたい。
「その前に、アンタに一つだけ言っておきたいことがあるんですがね」
ため息まじりの静かな声に、澄子は緊張した。
「……何、ですか……」
ところが、柿坂は一向に何も言おうとはしない。
震える身体で、澄子はゆっくりと振り返った。
それに合わせるように、柿坂もゆっくりと言葉を発した。
「私はアンタと違って、理由も言わずにそうやって逃げたりはしません」
柿坂は、傘をさしていなかった。
腕組みをした肘に、折れたビニール傘を引っ掛けたまま雨に濡れていた。淡いカーキ色の上着に、徐々に黒い染みが浮いていく。
鋭い視線が、澄子をとらえて離さない。
あれは――怒っている。
「……あなたまで、わたしを……」
澄子は震える唇を引き結んで、柿坂を睨み返した。
「わたしが……逃げた……理由、ですって?」
声に棘があるのが自分でもわかる。
「誰だかも知らない女の人から、得意げに会釈されました」
「……」
「若くて綺麗で、貴方にも簡単に近づけて、誇らしげに笑っていられる人を相手に、こんな惨めなわたしが、勝ち目なんかあるわけないじゃないですか」
情けないくらいに、涙が止まらない。
「どうしたら良いかわからないんです。自信がないんです。怖いんです。あの人は誰なのって、貴方に聞くことすらできないんです!」
――恋愛は、失敗を重ねて成長するもの。
「もう四十になる女でも、失敗するほど恋愛経験がないんだから成長してないに決まっているでしょう?どうしたら良いかなんて、わかるわけないじゃないですか!」
――大人の女は、若者に恋愛テクを伝授しなきゃ。
「年下の若い子が浮気されて悩んでいるのに、何も言ってあげられなくて、かえって呆れられるようなわたしの方こそ、大人の恋愛テクが手に入るなら、今すぐ欲しいくらいですよ!」
――友だち以上恋人未満の関係でも良いんじゃない?
「恋人だろうが友だちだろうが、男が怖くて近寄れない女に、そんな簡単に線引きができるわけないでしょう?だいたい、どっちの関係もわからないから悩んでいるんじゃないのよ!」
身体じゅうが震えてくる。
喉がはりついて、息が乱れ始める。
「柿坂さんに嫌われたくないって思うと何もできないんです!怖くて仕方ないんです!逃げたくて逃げているわけじゃないのに、結局はいつも、柿坂さんが一番嫌うことばかりしているんですよ。バカでしょう?初めて会った時からずっと……死ぬまで……きっと、わたしは、わたしは……わたしは……」
震える唇に、前髪から雨粒が落ちる。
「柿坂さんに……片想いしかできない……ごめん、なさい」
雨に打たれながら、澄子は柿坂に頭を下げた。
今まで抱え込んだ自分の醜い感情を、よりによって一番愛しい人にぶつけてしまった。
最低だ――。
「すみません……意味不明ですよね……いきなり変なこと口走って……」
「いいえ、よくわかりましたよ」
柿坂が小さくうなずきながら、ため息まじりに言った。
「何しろ、アンタの大泣きの原因は全部私なんですからね」
――。
「柿坂さ」
「アンタ、また色々と周りから吹き込まれちまったようですけど、結局のところ答えはたった一つです」
「……」
「単純に、私がアンタを不安にさせているだけ、要は信頼されていないだけの話です」
澄子は柿坂の言葉の意味がよくわからなかった。
――だって。
「だって、おかしいのは、わたしの方で……」
「誰にそう言われたんです」
「……」
「仮に言われたとして、それに何の問題があると言うんですか」
柿坂が目を細めた。
「アンタの悪いところを強いて言うなら、そうやって一人で思い込むことです。この一カ月、アンタが色々な人間の話を聞いて悩むのは、想定内でしたけど、それについて私には何も話すことなく、一人で抱えこんで泣いていることの方が問題なんですよ」
澄子は、雪の日に柿坂に諭された言葉を思い出した。
『私に関する悩みは、私に全部聞きなさい。きちんと答えは出しますから』
――。
「でも、嫌われたらどうしようって……」
「そこも含めて、一人で抱える問題じゃないんですよ」
柿坂はそっと目を伏せた。
「雪の日に、アンタに伝えた言葉。あれがすべてなんですけどね」
――私と、幸せになりませんか。
「……」
「一つずつ、全部答えを出しますから、よく聞いてください」
草木と雨の匂いが立ち込めていく中、柿坂が静かに口を開いた。
「まず、さっきの女性ですが、以前からコンサートに顔を出していた人です。二胡を習いたいと言い出したのは最近でしょうか。今日、私は午前中に仲間の演奏を聴いてきたんですが、どうもそこにいたみたいですね。今日も二胡を教えて欲しいと言われました」
「え……」
「その都度、私はプロじゃないので教えるつもりはないということ、そして弦楽器を真剣にやるなら、まずは付け爪をやめるようにと、ハッキリ伝えています」
柿坂は首をかしげるように澄子を見つめた。納得したか、そう聞いているようだ。
「でも、きっと……あの女の人は柿坂さんを……」
「私は二胡を教えて欲しいと言われたので、それに対しての答えを出しただけですよ」
「……」
「あの人が、アンタに会釈をした理由はわかりません。それが知りたいなら、今度またやって来た時にでも聞いても良いですけど……もう、充分でしょう?」
慌てて澄子がうなずくと、柿坂は目を伏せて小さく息を吐いた。
「それと、恋愛経験には失敗がどうこうという話ですが……失敗なんか、ない方が良いに決まっているでしょうよ」
「え?」
「科学実験じゃねえんですから。そんなのは、上手くいかなかった人間たちの単なる言い訳ですよ」
澄子の脳裏に、先日のテレビのコメンテーターの言葉が思い出された。
「でも……失敗して、やり方を間違えてこそ、新しく知ることだってあるんじゃないですか?」
「なるほど。では、何故その新しく知ったことを、失敗しそうな相手のために
試そうとしないんですか」
「……」
「要は、てめぇの思い込みで相手を測って、自分の思い通りにいかなかったことを自ら卑下することで『いい人』であろうとしているだけでしょうが。話は、そこを認めてからです。暴力を振るわれたなど別の理由があるならまだしも、人間関係を軽々しく『失敗』などという言葉で片付けるなんて、ずいぶんと乱暴な話ですよ」
その鋭い言葉と視線に、澄子は思わず下を向いた。
雨粒が輪を広げていく。
「ついでに、大人の恋がどうだの、恋愛テクが何だの……女の悩みは本当によくわかりませんけど」
柿坂が少し頭が痛そうな顔をした。
「そんなテクニックを身に着けて、アンタは私以外の誰に試すつもりです?」
「え?」
「まさか、私じゃないでしょうね。さっきの女みたいに、通用しませんよ」
澄子の胸に小さな痛みが走った。
「……やっぱり、あの人のこと気づいて……」
柿坂の鋭い目が澄子を射抜いた。
「私の仕事が国家公務員だと知った瞬間に、二胡をやりたくなるとは思えません」
「……」
「そもそも、下手な小細工や駆け引きをしようとする人間、誰が信頼できますか」
――。
『オレばかり気持ち伝えるのは、フェアじゃないでしょ?』
ギター弾き少年の言葉がかすれていく。
――だけど。
「わたしは……少しでも、柿坂さんと……」
そこで、柿坂の頬が少し緩んだ。
「だから私は、雨の中をいきなり突っ走って、傘も差さずに声を上げて大泣きしながら、洗いざらい言いたい放題に気持ちを伝えようとする――」
ポン、壊れたビニール傘が目の前で開いた。
「和泉さん、アンタが良いんです」
柿坂は、傘の壊れていない方を澄子へ向けると、それを少しだけ傾けた。
都内は朝から曇り空で、風も冷たく、先週の快晴とは正反対の天気だった。それでも、何かに歯向かうような想いで、今日だけは上から下まで春めいた色合いの服にしたが、一向に晴れそうにない暗い空の下、澄子の心はますます沈んだ。
花見の誘いに、柿坂は普通に応じてくれた。
時間も澄子が決めて良いというので、悩んだ挙句、夕方の時間帯にした。特にライトアップなどをするような場所でもないので、昼間の人混みの中で花見をするよりは、静かな方が良いと判断したのだ。
ところが、それが完全に裏目に出た。あろうことか、澄子の頬にはポツポツと冷たいものが落ちてきたのだ。
――雨なんて、聞いてない。
当然、傘も持ってきていない。
道行く人の中には、慌ててコンビニに駆け込む者もいた。
――ここで、傘をさしたら何となく負けのような気がする。
澄子は、ジャケットの合わせをグッと掴むと、通りを足早に進んだ。
その時、澄子のスマートホンがかすかに震えた。
「柿坂さん……」
メールのメッセージは、近くのカフェで一度落ち合おうという内容だった。柿坂も天気を気にしているのだろう。この後どうするか話し合う必要がある。
まだ本降りにはなりそうにない。しばらくしたら、雨も上がるかもしれない。澄子は、ひとまず指示どおりに公園近くのカフェに向かった。
曇天とはいえ、日曜の都心は人で溢れていた。雨避けを求めてきたのか、若者たちがカラオケボックスの前に集まっているのが目に入る。
ふと、祐樹のことが思い浮かんだ。
――仲直りしたのかな。
その想いを、すぐに振り払った。
――今は、まず自分の心配でしょうが。
横断歩道に差し掛かると、信号待ちの中、次々と傘が花を咲かせた。
少しずつ、雨粒が大きくなっている。
澄子は青になると同時に、足早に道路を渡った。
正面の通り、待ち合わせのカフェが入っているファッションビルの前で、柿坂を見つけたのだ。
ビニール傘を持っている姿に、少しばかりショックを受けたが、澄子は自分に言い聞かせた。
――今日は、今日こそは、ちゃんと柿坂さんとの時間を――。
その足が、一瞬で止まった。
澄子より先に、若い女性が一人、柿坂に近づいていく。長身の男を、じっと見つめる眼差しは、どこか熱を秘めている。
澄子は、その女性に見覚えがあった。
以前、ショッピングモールで行なわれた柿坂のコンサートで、二胡をやってみたいと言って、弾かせてもらっていた女性だ。
――どうして。
『他のヤツを優先なんて、もう浮気じゃないッスか』
祐樹の言葉が、澄子のすべての動きを奪う。
冷たい雨が頬を打った。
立ち尽くす澄子に向かって、苛立ったクラクションが鳴らされた。一斉に多くの人々がこちらを振り返る。柿坂も女も、澄子を視界にとらえた。
そして次の瞬間、女が柔らかく微笑みながら澄子に会釈をした。
――何。
何の意味があるの?
会釈って、どういうこと?
わからない。
わからない。
――。
「わからないよ……っ!」
澄子は柿坂に背を向けて、雨が降る通りを駆け出した。
家に帰ることも出来た。
しかし、先週の友人との約束のためにも、澄子はどうにか思いとどまった。
気づけば、ポプラ公園の並木道を歩いている。
小さな水たまりに、雨粒が輪を広げた。
「今まで、こんなに悩んだことなんて……なかったな」
だって、いつも恋が始まる時には終わってしまったから。
「わたしが……いけないのよね」
だって、いつも原因は同じだから。
「でも……」
不安で。
怖くて。
自信がないけれど。
澄子は、雲で覆われた空を見上げた。
「……好きな人と、一緒に桜を見るくらい、いいでしょう……?」
冷たい風が澄子の髪に吹きつけ、スタイリングが台無しになる。
淡いピンクのパンプスには、茶色の染みが浮いている。
それが目に入った瞬間、澄子の中で、押しとどめていたものが一気に破裂した。
こらえようもない涙が溢れる。
両手で、乱れた髪の毛を鷲掴みにしたまま、喉が張り裂けんばかりに、声を上げて泣いた。
年下の少年には呆れられ、
新婚の友人には心配かけて、
好きな人には何一つ行動を起こせない。
そして、雨に打たれて、狂ったように泣いている自分は、普通じゃない。
そう。
わかっているのは、自分が普通じゃないってことだけ――。
「……何をしてるんですか、アンタは」
嗚咽が一瞬止まった。
――。
パシャパシャと近づいてくる背後からの音。
愛しい人が後ろにいる。
それなのに、怖くて振り返ることすらできない。
少し前までは、怖くてもあんなに積極的に近づこうとしたのに。
何で、こうなってしまったの?
「すみません……。ちょっと今日は……」
澄子は、取り繕うことに必死になった。泣いた声が裏返り、上手く言葉が紡げない。
「気分がすぐれなくて……少し放っておいて下さい。一人に……させて下さい……」
しばらくすると、柿坂の小さなため息が聞こえた。
「アンタが放っておいて欲しいなら、そうします」
「……はい。すみません」
澄子は小声で答えた。
早く、この場を離れたい。
「その前に、アンタに一つだけ言っておきたいことがあるんですがね」
ため息まじりの静かな声に、澄子は緊張した。
「……何、ですか……」
ところが、柿坂は一向に何も言おうとはしない。
震える身体で、澄子はゆっくりと振り返った。
それに合わせるように、柿坂もゆっくりと言葉を発した。
「私はアンタと違って、理由も言わずにそうやって逃げたりはしません」
柿坂は、傘をさしていなかった。
腕組みをした肘に、折れたビニール傘を引っ掛けたまま雨に濡れていた。淡いカーキ色の上着に、徐々に黒い染みが浮いていく。
鋭い視線が、澄子をとらえて離さない。
あれは――怒っている。
「……あなたまで、わたしを……」
澄子は震える唇を引き結んで、柿坂を睨み返した。
「わたしが……逃げた……理由、ですって?」
声に棘があるのが自分でもわかる。
「誰だかも知らない女の人から、得意げに会釈されました」
「……」
「若くて綺麗で、貴方にも簡単に近づけて、誇らしげに笑っていられる人を相手に、こんな惨めなわたしが、勝ち目なんかあるわけないじゃないですか」
情けないくらいに、涙が止まらない。
「どうしたら良いかわからないんです。自信がないんです。怖いんです。あの人は誰なのって、貴方に聞くことすらできないんです!」
――恋愛は、失敗を重ねて成長するもの。
「もう四十になる女でも、失敗するほど恋愛経験がないんだから成長してないに決まっているでしょう?どうしたら良いかなんて、わかるわけないじゃないですか!」
――大人の女は、若者に恋愛テクを伝授しなきゃ。
「年下の若い子が浮気されて悩んでいるのに、何も言ってあげられなくて、かえって呆れられるようなわたしの方こそ、大人の恋愛テクが手に入るなら、今すぐ欲しいくらいですよ!」
――友だち以上恋人未満の関係でも良いんじゃない?
「恋人だろうが友だちだろうが、男が怖くて近寄れない女に、そんな簡単に線引きができるわけないでしょう?だいたい、どっちの関係もわからないから悩んでいるんじゃないのよ!」
身体じゅうが震えてくる。
喉がはりついて、息が乱れ始める。
「柿坂さんに嫌われたくないって思うと何もできないんです!怖くて仕方ないんです!逃げたくて逃げているわけじゃないのに、結局はいつも、柿坂さんが一番嫌うことばかりしているんですよ。バカでしょう?初めて会った時からずっと……死ぬまで……きっと、わたしは、わたしは……わたしは……」
震える唇に、前髪から雨粒が落ちる。
「柿坂さんに……片想いしかできない……ごめん、なさい」
雨に打たれながら、澄子は柿坂に頭を下げた。
今まで抱え込んだ自分の醜い感情を、よりによって一番愛しい人にぶつけてしまった。
最低だ――。
「すみません……意味不明ですよね……いきなり変なこと口走って……」
「いいえ、よくわかりましたよ」
柿坂が小さくうなずきながら、ため息まじりに言った。
「何しろ、アンタの大泣きの原因は全部私なんですからね」
――。
「柿坂さ」
「アンタ、また色々と周りから吹き込まれちまったようですけど、結局のところ答えはたった一つです」
「……」
「単純に、私がアンタを不安にさせているだけ、要は信頼されていないだけの話です」
澄子は柿坂の言葉の意味がよくわからなかった。
――だって。
「だって、おかしいのは、わたしの方で……」
「誰にそう言われたんです」
「……」
「仮に言われたとして、それに何の問題があると言うんですか」
柿坂が目を細めた。
「アンタの悪いところを強いて言うなら、そうやって一人で思い込むことです。この一カ月、アンタが色々な人間の話を聞いて悩むのは、想定内でしたけど、それについて私には何も話すことなく、一人で抱えこんで泣いていることの方が問題なんですよ」
澄子は、雪の日に柿坂に諭された言葉を思い出した。
『私に関する悩みは、私に全部聞きなさい。きちんと答えは出しますから』
――。
「でも、嫌われたらどうしようって……」
「そこも含めて、一人で抱える問題じゃないんですよ」
柿坂はそっと目を伏せた。
「雪の日に、アンタに伝えた言葉。あれがすべてなんですけどね」
――私と、幸せになりませんか。
「……」
「一つずつ、全部答えを出しますから、よく聞いてください」
草木と雨の匂いが立ち込めていく中、柿坂が静かに口を開いた。
「まず、さっきの女性ですが、以前からコンサートに顔を出していた人です。二胡を習いたいと言い出したのは最近でしょうか。今日、私は午前中に仲間の演奏を聴いてきたんですが、どうもそこにいたみたいですね。今日も二胡を教えて欲しいと言われました」
「え……」
「その都度、私はプロじゃないので教えるつもりはないということ、そして弦楽器を真剣にやるなら、まずは付け爪をやめるようにと、ハッキリ伝えています」
柿坂は首をかしげるように澄子を見つめた。納得したか、そう聞いているようだ。
「でも、きっと……あの女の人は柿坂さんを……」
「私は二胡を教えて欲しいと言われたので、それに対しての答えを出しただけですよ」
「……」
「あの人が、アンタに会釈をした理由はわかりません。それが知りたいなら、今度またやって来た時にでも聞いても良いですけど……もう、充分でしょう?」
慌てて澄子がうなずくと、柿坂は目を伏せて小さく息を吐いた。
「それと、恋愛経験には失敗がどうこうという話ですが……失敗なんか、ない方が良いに決まっているでしょうよ」
「え?」
「科学実験じゃねえんですから。そんなのは、上手くいかなかった人間たちの単なる言い訳ですよ」
澄子の脳裏に、先日のテレビのコメンテーターの言葉が思い出された。
「でも……失敗して、やり方を間違えてこそ、新しく知ることだってあるんじゃないですか?」
「なるほど。では、何故その新しく知ったことを、失敗しそうな相手のために
試そうとしないんですか」
「……」
「要は、てめぇの思い込みで相手を測って、自分の思い通りにいかなかったことを自ら卑下することで『いい人』であろうとしているだけでしょうが。話は、そこを認めてからです。暴力を振るわれたなど別の理由があるならまだしも、人間関係を軽々しく『失敗』などという言葉で片付けるなんて、ずいぶんと乱暴な話ですよ」
その鋭い言葉と視線に、澄子は思わず下を向いた。
雨粒が輪を広げていく。
「ついでに、大人の恋がどうだの、恋愛テクが何だの……女の悩みは本当によくわかりませんけど」
柿坂が少し頭が痛そうな顔をした。
「そんなテクニックを身に着けて、アンタは私以外の誰に試すつもりです?」
「え?」
「まさか、私じゃないでしょうね。さっきの女みたいに、通用しませんよ」
澄子の胸に小さな痛みが走った。
「……やっぱり、あの人のこと気づいて……」
柿坂の鋭い目が澄子を射抜いた。
「私の仕事が国家公務員だと知った瞬間に、二胡をやりたくなるとは思えません」
「……」
「そもそも、下手な小細工や駆け引きをしようとする人間、誰が信頼できますか」
――。
『オレばかり気持ち伝えるのは、フェアじゃないでしょ?』
ギター弾き少年の言葉がかすれていく。
――だけど。
「わたしは……少しでも、柿坂さんと……」
そこで、柿坂の頬が少し緩んだ。
「だから私は、雨の中をいきなり突っ走って、傘も差さずに声を上げて大泣きしながら、洗いざらい言いたい放題に気持ちを伝えようとする――」
ポン、壊れたビニール傘が目の前で開いた。
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