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水平の楽園
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逃げろと言われても困る。
あたしはこのベッドから起き上がれもしないし、たとえ起き上がれたって歩けやしない。だってリハビリって言うのをしてないのよ?無理言わないで。
い、いや、とにかく逃げなくっちゃ。そうだ、車椅子だ。あれに乗って逃げるって言うのは?でもその車椅子ってどこにあるのかな?そもそもこの船に積んであるのかしら…。
答えはあるけど答える気はない
教えることはあるけど教える気もない
あなたはそこにいなさい
そこは永遠の水平
ただなだらかな 刻の牢獄
なんだかバカバカしくなった。人間不可能なことに直面するとやる気は完全になくなるか、かえって闘志を燃やすかどちらかだが、あたしは断然なくなる派だ。そうまでしたって、逃げられるかわからないし、見つかって、殺されはしないだろうがひどい目に合うかもしれない。あの金髪女の、まつ毛まで金色の目を思いだした。
あたし、完全に支配されてるじゃん…心からそう思った。情けなくなった。ああ、お母さん…。途端に悲しくなった。母さんに会いたいよ。もう死んじゃった母さんに…会いたいよ。母さん…。かあ、さん…ん…あれ?
母さんの作ったカレーを思い出した。キッチンで三本。袋に入ったニンジン。うえ、っと思った。食後、そのニンジンはなかった。冷蔵庫にもどこにも。カレーに入っていなかったのに?ニンジンはどこ行った?
ニンジンの行方を母は黙して語らなかった。沈黙こそ雄弁。そうか、そうなのね。
すりおろされてカレーに入れられていたニンジンを、あたしは今更吐き戻したりもできない。これはいわば母的完全犯罪。そしてあたしには状況証拠しかない。物的証拠はもちろんあたしの腹の中。
おまえの中に全てある
知りたかったら取り出してみな
おまえのその腐った胃や腸に
引っ張り出して聞いてみな
なくなったニンジンが証拠。それが唯一の手掛かり。それが答えのきっかけなんだ。ようやく気が付けた。なんだ、答えはすぐそばにあったんだ。それを言いたかったんだね、あんたは。
食事をしていない
ここにきてからあたしは食事をしていない。もちろん、ニンジンも残していない。ニンジンを食事に入れるなとは言ったけど、ただそれだけ。そのニンジンは見ていない。
ここはそう、意識世界なんだ。あたしの。いいや、違う!ここは他人の世界。あたしの世界じゃない。あたしの意識は支配されているんだ。ただ感情だけがあたしとしての自我を保っている。
ここはあたしの意識ではない
ただ純粋に邪な、ただ純粋に無知な世界。善も悪もない飽和した世界。ここはいったいどこなんだろう?このまま永遠に閉じ込めておく気なのかしら?それとも出てくるのを待ち構えている?一つ言えることは、この意識は面白がっている。落っこちそうななにかを、バランスを取りながら落ちないようにして遊んでいる…そんな感覚。皿回しの皿ね、あたしは。
ではその皿が自らまわるのをやめたら?さぞ曲芸師さんは困るでしょうね。
ではどうしましょう
身体も不自由で何もできないあたしが、自ら動きを止めることって、いったいどうやりゃいいのよ?あたしがあたしをやめること。それはあたしが死ぬこと。そんなことできるわけがない。いやできる。ようやく動かせるのはあたしの腕。これをあたしの口と鼻に。
押し当てる
すぐに苦しくなる。でも手を離さない。ほら、身体は反応しない。ほかの手も、足もバタバタ反応しない。ふふ、これこそ手も足も出ないってやつ。ああ苦しい。あらあたしを押さえてる腕が、まるであたしの腕じゃないみたい。何よそんなに力を入れることないじゃない。苦しいよ。もうやめて。マジ苦しい。い、息が…あ、た…し…
駅にいた。見渡す限り水平の、そのどこまでも水浸しになった地平の、その小さな駅にいた。
ぴしゃぴしゃと小さな波がホームに当たって音をたてている。水面は鏡のようで、空の雲を映している。ここはどこなんだろう?線路は水面からようやく出ていて、はるか地平に繋がっている。
ここで待っていれば電車が来るのだろうか?いや上には電線がない。電車は走れない。じゃあ機関車かな?それともディーゼル?単線っぽいし、ローカル線だろう。きっとかわいい列車が来るんだ。ここで待っていれば。
そうしていつまでそこにいたのだろう。驚いたことに、雲は流れているのに、太陽はずっと同じ位置だ。風は吹いているのに、時間はずっと止まったままだ。あたしはそして、ずっと立ったままだ。
「動けないのかな?」
はじめて声を出した。それはこのだだっ広い景色に吸い込まれて行った。
「動けないのかなーっ」
あたしはもう一度声を出した。あたしの声が波紋となって、その水浸しの水をかき回してほしいと思った。
さざ波も起らなかった。
ただ白い雲がゆっくりと移動しているのが見えるだけだった。あたしは意を決し、その水面に足を入れる。あたしの足は水面に波の輪を作り、広がっていった。それはどんどん大きくなって、やがて地平に、いやこの場合水平かな?
遠くのその線はもはやまっすぐな線に見えた。丸い歪曲した線ではなかった。小さな円はカーブがよくわかる。だけど大きな円の線はまっすぐに見える。ただそれだけのことなのに。あたしたちはきっと。ずっと曲がっている線を、真っすぐだと思い込み歩いているんだ。それはやがてまたもとの位置に戻るため。
そう思わせたいんだね
そうはいかないよ。そう考えたとき、波紋は消えた。
「ようやくきみに会えたね」
そう…声がした。
あたしはこのベッドから起き上がれもしないし、たとえ起き上がれたって歩けやしない。だってリハビリって言うのをしてないのよ?無理言わないで。
い、いや、とにかく逃げなくっちゃ。そうだ、車椅子だ。あれに乗って逃げるって言うのは?でもその車椅子ってどこにあるのかな?そもそもこの船に積んであるのかしら…。
答えはあるけど答える気はない
教えることはあるけど教える気もない
あなたはそこにいなさい
そこは永遠の水平
ただなだらかな 刻の牢獄
なんだかバカバカしくなった。人間不可能なことに直面するとやる気は完全になくなるか、かえって闘志を燃やすかどちらかだが、あたしは断然なくなる派だ。そうまでしたって、逃げられるかわからないし、見つかって、殺されはしないだろうがひどい目に合うかもしれない。あの金髪女の、まつ毛まで金色の目を思いだした。
あたし、完全に支配されてるじゃん…心からそう思った。情けなくなった。ああ、お母さん…。途端に悲しくなった。母さんに会いたいよ。もう死んじゃった母さんに…会いたいよ。母さん…。かあ、さん…ん…あれ?
母さんの作ったカレーを思い出した。キッチンで三本。袋に入ったニンジン。うえ、っと思った。食後、そのニンジンはなかった。冷蔵庫にもどこにも。カレーに入っていなかったのに?ニンジンはどこ行った?
ニンジンの行方を母は黙して語らなかった。沈黙こそ雄弁。そうか、そうなのね。
すりおろされてカレーに入れられていたニンジンを、あたしは今更吐き戻したりもできない。これはいわば母的完全犯罪。そしてあたしには状況証拠しかない。物的証拠はもちろんあたしの腹の中。
おまえの中に全てある
知りたかったら取り出してみな
おまえのその腐った胃や腸に
引っ張り出して聞いてみな
なくなったニンジンが証拠。それが唯一の手掛かり。それが答えのきっかけなんだ。ようやく気が付けた。なんだ、答えはすぐそばにあったんだ。それを言いたかったんだね、あんたは。
食事をしていない
ここにきてからあたしは食事をしていない。もちろん、ニンジンも残していない。ニンジンを食事に入れるなとは言ったけど、ただそれだけ。そのニンジンは見ていない。
ここはそう、意識世界なんだ。あたしの。いいや、違う!ここは他人の世界。あたしの世界じゃない。あたしの意識は支配されているんだ。ただ感情だけがあたしとしての自我を保っている。
ここはあたしの意識ではない
ただ純粋に邪な、ただ純粋に無知な世界。善も悪もない飽和した世界。ここはいったいどこなんだろう?このまま永遠に閉じ込めておく気なのかしら?それとも出てくるのを待ち構えている?一つ言えることは、この意識は面白がっている。落っこちそうななにかを、バランスを取りながら落ちないようにして遊んでいる…そんな感覚。皿回しの皿ね、あたしは。
ではその皿が自らまわるのをやめたら?さぞ曲芸師さんは困るでしょうね。
ではどうしましょう
身体も不自由で何もできないあたしが、自ら動きを止めることって、いったいどうやりゃいいのよ?あたしがあたしをやめること。それはあたしが死ぬこと。そんなことできるわけがない。いやできる。ようやく動かせるのはあたしの腕。これをあたしの口と鼻に。
押し当てる
すぐに苦しくなる。でも手を離さない。ほら、身体は反応しない。ほかの手も、足もバタバタ反応しない。ふふ、これこそ手も足も出ないってやつ。ああ苦しい。あらあたしを押さえてる腕が、まるであたしの腕じゃないみたい。何よそんなに力を入れることないじゃない。苦しいよ。もうやめて。マジ苦しい。い、息が…あ、た…し…
駅にいた。見渡す限り水平の、そのどこまでも水浸しになった地平の、その小さな駅にいた。
ぴしゃぴしゃと小さな波がホームに当たって音をたてている。水面は鏡のようで、空の雲を映している。ここはどこなんだろう?線路は水面からようやく出ていて、はるか地平に繋がっている。
ここで待っていれば電車が来るのだろうか?いや上には電線がない。電車は走れない。じゃあ機関車かな?それともディーゼル?単線っぽいし、ローカル線だろう。きっとかわいい列車が来るんだ。ここで待っていれば。
そうしていつまでそこにいたのだろう。驚いたことに、雲は流れているのに、太陽はずっと同じ位置だ。風は吹いているのに、時間はずっと止まったままだ。あたしはそして、ずっと立ったままだ。
「動けないのかな?」
はじめて声を出した。それはこのだだっ広い景色に吸い込まれて行った。
「動けないのかなーっ」
あたしはもう一度声を出した。あたしの声が波紋となって、その水浸しの水をかき回してほしいと思った。
さざ波も起らなかった。
ただ白い雲がゆっくりと移動しているのが見えるだけだった。あたしは意を決し、その水面に足を入れる。あたしの足は水面に波の輪を作り、広がっていった。それはどんどん大きくなって、やがて地平に、いやこの場合水平かな?
遠くのその線はもはやまっすぐな線に見えた。丸い歪曲した線ではなかった。小さな円はカーブがよくわかる。だけど大きな円の線はまっすぐに見える。ただそれだけのことなのに。あたしたちはきっと。ずっと曲がっている線を、真っすぐだと思い込み歩いているんだ。それはやがてまたもとの位置に戻るため。
そう思わせたいんだね
そうはいかないよ。そう考えたとき、波紋は消えた。
「ようやくきみに会えたね」
そう…声がした。
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