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誰かのささやき
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船室と言うか病室と言うか、きっと正式な呼び方があるんだ。
でも誰かにそんなことを聞いても意味ないと思った。
それに、あの金髪女以外誰も来ない。あの黒人の男の人もあれ以来見ないな…。
とにかくあたしは体が動かせるようになった。もう起き上がることもできる。まあ歩くのは無理そうだけど。
「今日は何してたの?」
金髪女がニコニコとそう聞いてきた。演技だろうけど、なかなか堂にいったものだ。
「升堂入室」
「なあに、それ?」
「論語。あなたに対するあたしのことです」
「ん?」
いきなり言葉が頭に浮かんだ。可笑しかった。だってそれって人間として未熟だってこと。そうよ、あたしは身体も頭も不完全。いったい本当のあたしはどこへ行ったんだろう?
「いいんです。今日は気分がいいからずっと窓の外を見ていたんです」
「そう…何が見えたの?」
一度彼女はチラッとこの窓のない部屋を見回した。実際窓のある部屋もあるということかな?
「大きな観覧車と、公園、そしてタワーが見えました。空には大きな雲があって、ゆっくりと東から北に動いていました」
「ずいぶんいろいろなものが見えたのね。小さい窓から」
「前はもっと見えたんですけど」
「ふうん。…もういいかな?外すわよ」
「はい」
なにが辛いってこの時間が一番つらい。あたしはベッドで寝たきりにされてトイレに行けない。だからすべてここでしなけりゃならない。それがどんなに恥ずかしいか、いえ、屈辱だ。今まで想像もしなかった。だが現実にそうなってしまうと、情けない自分と、そしてこの女にすべて支配されている自分がいるだけで、その敗北感でもう何にも抗う気力さえ起こらなくなってくる。
「ねえアイゼンスさん」
「ミナ―ヴァでいいわ」
「じゃミナさん」
「いいわね、それ。気に入ったわ」
「ミナさんはアメリカ人?」
「国籍はね。祖母はウクライナ人よ。いまロスの施設にいるわ。両親は仕事でシンガポール。あたしは独立してニューヨークに住んでるわ」
設定どおり話してるって感じ。こう聞かれたらこう答えなさい的な命令なり決まりなりがあるんだね。
「いまは東京湾の上」
「そういうこと」
金髪女はそう言ってあたしにウインクした。それは仕事が終わった合図。綺麗にされたあたしが完成したということだ。石鹸の香りが漂っている。
「お願いがあるの」
「外を見たいってこと?前にも言ったけど…」
「ううん、そうじゃなくて、食事にニンジンは入れないでほしいの」
「そういえばいつも残していたわね。きらいなの?」
「ええ、お願い」
「わかったわ。伝えておくね」
「ありがとう、アイゼンスさん」
「ミナーヴァ、いえミナよ」
「はい」
ニンジン見ると母を思い出す。いっつも食べなさいってしつこかった。母はあの手この手であたしに食べさせようとした。あたしも必死で抵抗した。だってあるときは茹でたキャベツに巧妙に隠されていたり、すりおろされてハンバーグに入れられてたりしたんだ。なぜって思ったわ。ニンジンひとつで健康が左右されるわけないのに。
今にも泣きそうになっているあたしの顔を見て、金髪女は少し驚いたようだ。
「よっぽどマルコシが嫌いなのね…」
そうつぶやいて出て行った。あたしは背中に冷や汗を流した。マルコシってロシア語でニンジンのことだ。ウクライナ語じゃモルカって言う。あいつはアメリカ人なんかじゃない。ウクライナ人でもない。じゃあなぜロシア人が?って言うか、なんでそんなことあたしが知ってる?ロシア語なんてあたし知らないぞ?
とにかく母への思いの涙は止まった
氷が解けると
中から出てきたのは人形でした
まん丸い目の小さな人形
それはやがて火がついて
真っ白な灰になりました
心は灰のようだった。まるで重さがなく、それでいて気分を重くさせる。考えても考えても、その重さの理由がわからない。すっかり心は燃えかすなのに。
答えを知りたいかい?
あの紙切れはそう言っているようだった。わたしの手の中のあの手紙の端っこ。聖霊流しで届いた彼からの声。
ついにあれからその手紙の続きは届かなかった。これが最後ってこと?それを知らせてきたのかな。
「前略…だけじゃわからないよ、バカ」
あたしは小さくつぶやいた。でもそれは狭い部屋では意外に大きく響いた。と、同時にあの金髪女が部屋に入って来た。同時に香水の匂いがした。あの女がいっつもつけているやつだ。
「お花の水を取り替えるのを忘れちゃったわ」
そう言って金髪女はドアの横の机のコップをとった。コップには黄色い花が差してあった。
「歌を歌っていたの」
「ふうん、なんの歌?」
「日本の古い歌よ」
「そう」
金髪女は香水の残り香を残して出て行った。残り香を残す。重言だ。重複語ともいう。笑う。「学校に登校する」「事前予約」「まだ未定」これらはすべて頭痛が痛いと同じだ。じゃあ歌を歌うは?名詞と動詞と意味が異なるからセーフ。あれ?あたし何でこんなこと考えてるんだ?
そうじゃない。聞かれているんだ。この部屋の音を。
どんな音も声も聞かれている。あの黒人が一言もしゃべらなかったのはそういうこと?だからいったいなんで?どういう理由で?
監視
そんな言葉が頭をよぎった。あたしは監視されている?でもなんで?
あたしはまたあの手紙の端切れを眺めた。ねえ答えてよ。どうしてこんなことになるの?あたしが何したっていうの?ねえ!
その紙はまるで意思を持つかのように、あたしの手の中から落ちた。ちょっと驚いたけど問題はない。もう拾うことはできるからね。ベッドの下なら無理だけれども、今はあたしの胸の上。
指先で持ち上げると、そこには『前略』じゃない文字が書かれていた。これ裏だ。裏に何か書いてあったんだ。気がつかなかった。よくみるとそこには…
逃げろ
とだけ書いてあった。
でも誰かにそんなことを聞いても意味ないと思った。
それに、あの金髪女以外誰も来ない。あの黒人の男の人もあれ以来見ないな…。
とにかくあたしは体が動かせるようになった。もう起き上がることもできる。まあ歩くのは無理そうだけど。
「今日は何してたの?」
金髪女がニコニコとそう聞いてきた。演技だろうけど、なかなか堂にいったものだ。
「升堂入室」
「なあに、それ?」
「論語。あなたに対するあたしのことです」
「ん?」
いきなり言葉が頭に浮かんだ。可笑しかった。だってそれって人間として未熟だってこと。そうよ、あたしは身体も頭も不完全。いったい本当のあたしはどこへ行ったんだろう?
「いいんです。今日は気分がいいからずっと窓の外を見ていたんです」
「そう…何が見えたの?」
一度彼女はチラッとこの窓のない部屋を見回した。実際窓のある部屋もあるということかな?
「大きな観覧車と、公園、そしてタワーが見えました。空には大きな雲があって、ゆっくりと東から北に動いていました」
「ずいぶんいろいろなものが見えたのね。小さい窓から」
「前はもっと見えたんですけど」
「ふうん。…もういいかな?外すわよ」
「はい」
なにが辛いってこの時間が一番つらい。あたしはベッドで寝たきりにされてトイレに行けない。だからすべてここでしなけりゃならない。それがどんなに恥ずかしいか、いえ、屈辱だ。今まで想像もしなかった。だが現実にそうなってしまうと、情けない自分と、そしてこの女にすべて支配されている自分がいるだけで、その敗北感でもう何にも抗う気力さえ起こらなくなってくる。
「ねえアイゼンスさん」
「ミナ―ヴァでいいわ」
「じゃミナさん」
「いいわね、それ。気に入ったわ」
「ミナさんはアメリカ人?」
「国籍はね。祖母はウクライナ人よ。いまロスの施設にいるわ。両親は仕事でシンガポール。あたしは独立してニューヨークに住んでるわ」
設定どおり話してるって感じ。こう聞かれたらこう答えなさい的な命令なり決まりなりがあるんだね。
「いまは東京湾の上」
「そういうこと」
金髪女はそう言ってあたしにウインクした。それは仕事が終わった合図。綺麗にされたあたしが完成したということだ。石鹸の香りが漂っている。
「お願いがあるの」
「外を見たいってこと?前にも言ったけど…」
「ううん、そうじゃなくて、食事にニンジンは入れないでほしいの」
「そういえばいつも残していたわね。きらいなの?」
「ええ、お願い」
「わかったわ。伝えておくね」
「ありがとう、アイゼンスさん」
「ミナーヴァ、いえミナよ」
「はい」
ニンジン見ると母を思い出す。いっつも食べなさいってしつこかった。母はあの手この手であたしに食べさせようとした。あたしも必死で抵抗した。だってあるときは茹でたキャベツに巧妙に隠されていたり、すりおろされてハンバーグに入れられてたりしたんだ。なぜって思ったわ。ニンジンひとつで健康が左右されるわけないのに。
今にも泣きそうになっているあたしの顔を見て、金髪女は少し驚いたようだ。
「よっぽどマルコシが嫌いなのね…」
そうつぶやいて出て行った。あたしは背中に冷や汗を流した。マルコシってロシア語でニンジンのことだ。ウクライナ語じゃモルカって言う。あいつはアメリカ人なんかじゃない。ウクライナ人でもない。じゃあなぜロシア人が?って言うか、なんでそんなことあたしが知ってる?ロシア語なんてあたし知らないぞ?
とにかく母への思いの涙は止まった
氷が解けると
中から出てきたのは人形でした
まん丸い目の小さな人形
それはやがて火がついて
真っ白な灰になりました
心は灰のようだった。まるで重さがなく、それでいて気分を重くさせる。考えても考えても、その重さの理由がわからない。すっかり心は燃えかすなのに。
答えを知りたいかい?
あの紙切れはそう言っているようだった。わたしの手の中のあの手紙の端っこ。聖霊流しで届いた彼からの声。
ついにあれからその手紙の続きは届かなかった。これが最後ってこと?それを知らせてきたのかな。
「前略…だけじゃわからないよ、バカ」
あたしは小さくつぶやいた。でもそれは狭い部屋では意外に大きく響いた。と、同時にあの金髪女が部屋に入って来た。同時に香水の匂いがした。あの女がいっつもつけているやつだ。
「お花の水を取り替えるのを忘れちゃったわ」
そう言って金髪女はドアの横の机のコップをとった。コップには黄色い花が差してあった。
「歌を歌っていたの」
「ふうん、なんの歌?」
「日本の古い歌よ」
「そう」
金髪女は香水の残り香を残して出て行った。残り香を残す。重言だ。重複語ともいう。笑う。「学校に登校する」「事前予約」「まだ未定」これらはすべて頭痛が痛いと同じだ。じゃあ歌を歌うは?名詞と動詞と意味が異なるからセーフ。あれ?あたし何でこんなこと考えてるんだ?
そうじゃない。聞かれているんだ。この部屋の音を。
どんな音も声も聞かれている。あの黒人が一言もしゃべらなかったのはそういうこと?だからいったいなんで?どういう理由で?
監視
そんな言葉が頭をよぎった。あたしは監視されている?でもなんで?
あたしはまたあの手紙の端切れを眺めた。ねえ答えてよ。どうしてこんなことになるの?あたしが何したっていうの?ねえ!
その紙はまるで意思を持つかのように、あたしの手の中から落ちた。ちょっと驚いたけど問題はない。もう拾うことはできるからね。ベッドの下なら無理だけれども、今はあたしの胸の上。
指先で持ち上げると、そこには『前略』じゃない文字が書かれていた。これ裏だ。裏に何か書いてあったんだ。気がつかなかった。よくみるとそこには…
逃げろ
とだけ書いてあった。
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