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ヒュギエイアはかく語りき
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むかしとある海辺の村に、老人とその孫が住んでいた。
老人は海で魚を取り、孫は浜でそれを待っているという、なに変わりない普通の暮らしをしていた。
あるとき孫が高熱を出し、老人は途方に暮れた。村には医者がいなかった。
衰弱した孫を見かねて老人は祈った。するとどこからか、医者がやってきた。女の医者だった。
医者は孫を診、そして言った。これは血の病だ、と。
老人は願った。命が助かることを。医者は頷き、そして孫の血を一滴残らず抜いて、海に捨てた。
老人は驚き、嘆き、悲しんだ。医者は村を去った。
その夜、老人は病気の治った死んだ孫と海に入り死んだ。
医者は思った。たった二人の命と引き換えに、多くの命を救ったと。
あのまま放っておけば、あの血の中の悪いものがみなに悪さをするからだ。
アラビアとアフリカのあるその海は、今でも時々孫の血で赤く染まるという。
人々はそこを紅海と言った。
「なあに、それ?」
流暢な日本語だ。どことなく大田めぐみ先生を思い出したが、姿は白人の金髪女だ。
「ヒュギエイアという女神の話です」
「ギリシア神話ね。ギリシア語で健康って意味よ。蛇と杯のデザインは『ヒュギエイアの杯』といって医学のシンボルだけど、そんな話は知らないわね」
「あたしが作りました」
「あなた、面白い子ね」
「よく言われました」
よく言われた。もう過去形だ。だがこの金髪女に言われて現在形に戻る。不思議なことだ。
「あなたは知っている?」
「何がですか?」
金髪女はあたしの目をライトで照らし、傍らの、唯一あたしと接続している計器の数値を見た。満足いったように見えるのは、その顔の、やっぱり金色したまつ毛が二三度小さく羽ばたいたから。
「いまその話の通り、あなたの血を全部抜いて入れ替えたってこと。だってあなたの血は放射線に侵され、もうどうにもなんなかったからよ」
「あたしは抜いて捨てたといったのよ」
「同じことよ。廃棄はしたから。この東京湾にね」
は?何言ってんだ、この人?ここは天国じゃないのか?
「東京湾?」
「そうよ。この船の下はそう呼ばれてるわね」
「ここは船なんですか?」
「そう。クルーズ船を改造した病院船。東京湾に係留されてるわ」
「あなたたちはいったい誰なんですか?」
驚いたように顔を、金髪女はあげた。
「ごめんなさい、まだ言ってなかったのね。あなたみたいな子が多くて、とうに言ったと勘違いしたわ。あたしはミナーヴァ・アイゼンス。医者よ。この船はカナダ船籍だけど実質アメリカ合衆国が運営してて、その依頼はWHОからよ」
なにか嫌な名前だ。それにそんな流ちょうにしゃべることも。みんな嘘くさい。
「助けてくれてありがとうございます」
あたしも嘘を言った。
「まったく瀕死のところだったわ。もう少し遅れていたら手の施しようがなかった。でもまあ、最新の医療設備が整ったこの船だから、なんとかなったかな」
自慢ね。自慢してるのね。まったく恩着せがましいわ。誰が助けてくれって言ったのよ。あ、あれ?言ったかもしんない。あたし…。
ここは海の上?
じゃあ陸はどうなったの?
何も聞こえない、なにもわからない
みんな怪獣に食べられてしまったんだ
世界という、恐ろしい怪獣に
「ここには誰がいるの?世界はどうなったの?日本はどうなったの?東京は…」
「また来るわね。今日はこれまで。まだ診る子たちがたくさんいるの」
そう言って金髪女は出て行った。部屋ドアの横に、プラスチックのコップに活けられた花が見えた。あのドアを出ればきっと、何もかもわかる。だけどそうしたとき、真実を知るのは、なんだか怖い。そう思った。
それからしばしばその金髪女の医者は来るようになった。いや、実際は頻繁に来ていたのかもしれないが、あたしはよく眠って、いえ眠らされていたから気がつかなかったってとこね。つまり眠らされている時間が少なくなったってことだ。
そうなると考えることが多くなる。それは辛いことだ。人間、眠っているときが一番幸せなのだ。なにも嫌なことを考えずに済むからだ。
でもそれは違った
夢を見る。それはとても嫌な夢だ。現実に見たわけでも聞いたこともない嫌なものが見え、そして起こった。あたしの夢のくせに、あたしにそんないやなものを見せる。なんて嫌なあたしの夢。なんて嫌なあたし。
そういえばあの手紙はどうなったかな?
聖霊流しはまだ続けられるのかな?聖霊はいくつもの力、そういうことをあいつは言っていなかったか?だとしたら、まだそれは残っているかもしれないわ。まだあたしがこうして生きているんだから…。
でも最後の手紙以来、あたしには手紙は届かなくなった。
この窓のない病室、いいえ、船室のせいだ。あのドアを出れば、きっとまた手紙は届く。あたしはそう思い、そしてそれを唯一の希望にした。
「今日は顔色がとてもいいわ」
金髪女はそう言った。じゃあいつも顔色悪かったんだ。嫌だな。
「今日は気分がとてもいいんです。ですから表が見たいなあ」
おや、という顔を金髪女はした。
「まだもうちょっとがまんよ。いまはまだ無理。あなたにとって外の空気はまだそんなに優しくないのよ」
「それはあたしの身体がってこと?それともそもそも外の空気がってこと?」
「なかなかよくしゃべれるようになったわね。もう少ししたら起き上がれるようになるかもね。そうしたら考えましょう」
情報は一方的に遮断された。まあこっちに開示する気はもとからないみたいだし。やはりあのドアの外だ。そこにすべてがある、ような気がした。まあ、またドアがあるかも知れないし、そこから出られないってことの方が、可能性としては高いけどね。
ああ気が滅入る
薬でもなんでもくれないかしら。もうずっと眠っていたい。もう何も考えたくない。
目が覚めると、ちょっと体が動かせた。
計器とつながってない右腕が、少し動く。
ゆっくりだ。ゆっくりとだ。ああ、なんてことでしょう。とてつもなく重い丸太のように感じるわ。じゃなかったら鉄アレイ。野球部の子がベンチでよく持ち上げていた。あたしも触らしてもらったけど、重くて一回持ち上げるのが精いっぱいだった。野球部のあいつ、笑っていやがった。あいつも死んだのかな?
いやいや今はそんなことじゃない。腕を肘を曲げるだけでいいのだ。あ、人差し指が見える。中指、親指も。ああ、薬指に…小指。おまえたち、無事だったか。あたしはうれしいよ。さあ、こっちへおいで。もっとこっちへ…。
あたしの右手は握られていたそれはとても固く。ゆっくりと開く。いや、開こうとするけどなかなか開けられない。
筋肉がまるでコンクリートみたいに固まっている気がした。それでもなんとか開けッ、あたしの指!
長い時間経った。ようやく少し開いた。
むすんで、ひらいて
赤ちゃんみたいね、あたしの手。でもその手の中に、小さな紙片が入っていたのを見たとき、あたしの心臓は止まるかと思った。
眼の焦点はその紙片。落とすな落とすな。落としたら終り。よく見ると、それはちぎられた紙きれ。なにか字の書かれた小さな紙きれ。ああ、それは知っている。その字を知っている。あたしは目を凝らした。
そしてその紙片には、『前略』とだけ書かれていた。
老人は海で魚を取り、孫は浜でそれを待っているという、なに変わりない普通の暮らしをしていた。
あるとき孫が高熱を出し、老人は途方に暮れた。村には医者がいなかった。
衰弱した孫を見かねて老人は祈った。するとどこからか、医者がやってきた。女の医者だった。
医者は孫を診、そして言った。これは血の病だ、と。
老人は願った。命が助かることを。医者は頷き、そして孫の血を一滴残らず抜いて、海に捨てた。
老人は驚き、嘆き、悲しんだ。医者は村を去った。
その夜、老人は病気の治った死んだ孫と海に入り死んだ。
医者は思った。たった二人の命と引き換えに、多くの命を救ったと。
あのまま放っておけば、あの血の中の悪いものがみなに悪さをするからだ。
アラビアとアフリカのあるその海は、今でも時々孫の血で赤く染まるという。
人々はそこを紅海と言った。
「なあに、それ?」
流暢な日本語だ。どことなく大田めぐみ先生を思い出したが、姿は白人の金髪女だ。
「ヒュギエイアという女神の話です」
「ギリシア神話ね。ギリシア語で健康って意味よ。蛇と杯のデザインは『ヒュギエイアの杯』といって医学のシンボルだけど、そんな話は知らないわね」
「あたしが作りました」
「あなた、面白い子ね」
「よく言われました」
よく言われた。もう過去形だ。だがこの金髪女に言われて現在形に戻る。不思議なことだ。
「あなたは知っている?」
「何がですか?」
金髪女はあたしの目をライトで照らし、傍らの、唯一あたしと接続している計器の数値を見た。満足いったように見えるのは、その顔の、やっぱり金色したまつ毛が二三度小さく羽ばたいたから。
「いまその話の通り、あなたの血を全部抜いて入れ替えたってこと。だってあなたの血は放射線に侵され、もうどうにもなんなかったからよ」
「あたしは抜いて捨てたといったのよ」
「同じことよ。廃棄はしたから。この東京湾にね」
は?何言ってんだ、この人?ここは天国じゃないのか?
「東京湾?」
「そうよ。この船の下はそう呼ばれてるわね」
「ここは船なんですか?」
「そう。クルーズ船を改造した病院船。東京湾に係留されてるわ」
「あなたたちはいったい誰なんですか?」
驚いたように顔を、金髪女はあげた。
「ごめんなさい、まだ言ってなかったのね。あなたみたいな子が多くて、とうに言ったと勘違いしたわ。あたしはミナーヴァ・アイゼンス。医者よ。この船はカナダ船籍だけど実質アメリカ合衆国が運営してて、その依頼はWHОからよ」
なにか嫌な名前だ。それにそんな流ちょうにしゃべることも。みんな嘘くさい。
「助けてくれてありがとうございます」
あたしも嘘を言った。
「まったく瀕死のところだったわ。もう少し遅れていたら手の施しようがなかった。でもまあ、最新の医療設備が整ったこの船だから、なんとかなったかな」
自慢ね。自慢してるのね。まったく恩着せがましいわ。誰が助けてくれって言ったのよ。あ、あれ?言ったかもしんない。あたし…。
ここは海の上?
じゃあ陸はどうなったの?
何も聞こえない、なにもわからない
みんな怪獣に食べられてしまったんだ
世界という、恐ろしい怪獣に
「ここには誰がいるの?世界はどうなったの?日本はどうなったの?東京は…」
「また来るわね。今日はこれまで。まだ診る子たちがたくさんいるの」
そう言って金髪女は出て行った。部屋ドアの横に、プラスチックのコップに活けられた花が見えた。あのドアを出ればきっと、何もかもわかる。だけどそうしたとき、真実を知るのは、なんだか怖い。そう思った。
それからしばしばその金髪女の医者は来るようになった。いや、実際は頻繁に来ていたのかもしれないが、あたしはよく眠って、いえ眠らされていたから気がつかなかったってとこね。つまり眠らされている時間が少なくなったってことだ。
そうなると考えることが多くなる。それは辛いことだ。人間、眠っているときが一番幸せなのだ。なにも嫌なことを考えずに済むからだ。
でもそれは違った
夢を見る。それはとても嫌な夢だ。現実に見たわけでも聞いたこともない嫌なものが見え、そして起こった。あたしの夢のくせに、あたしにそんないやなものを見せる。なんて嫌なあたしの夢。なんて嫌なあたし。
そういえばあの手紙はどうなったかな?
聖霊流しはまだ続けられるのかな?聖霊はいくつもの力、そういうことをあいつは言っていなかったか?だとしたら、まだそれは残っているかもしれないわ。まだあたしがこうして生きているんだから…。
でも最後の手紙以来、あたしには手紙は届かなくなった。
この窓のない病室、いいえ、船室のせいだ。あのドアを出れば、きっとまた手紙は届く。あたしはそう思い、そしてそれを唯一の希望にした。
「今日は顔色がとてもいいわ」
金髪女はそう言った。じゃあいつも顔色悪かったんだ。嫌だな。
「今日は気分がとてもいいんです。ですから表が見たいなあ」
おや、という顔を金髪女はした。
「まだもうちょっとがまんよ。いまはまだ無理。あなたにとって外の空気はまだそんなに優しくないのよ」
「それはあたしの身体がってこと?それともそもそも外の空気がってこと?」
「なかなかよくしゃべれるようになったわね。もう少ししたら起き上がれるようになるかもね。そうしたら考えましょう」
情報は一方的に遮断された。まあこっちに開示する気はもとからないみたいだし。やはりあのドアの外だ。そこにすべてがある、ような気がした。まあ、またドアがあるかも知れないし、そこから出られないってことの方が、可能性としては高いけどね。
ああ気が滅入る
薬でもなんでもくれないかしら。もうずっと眠っていたい。もう何も考えたくない。
目が覚めると、ちょっと体が動かせた。
計器とつながってない右腕が、少し動く。
ゆっくりだ。ゆっくりとだ。ああ、なんてことでしょう。とてつもなく重い丸太のように感じるわ。じゃなかったら鉄アレイ。野球部の子がベンチでよく持ち上げていた。あたしも触らしてもらったけど、重くて一回持ち上げるのが精いっぱいだった。野球部のあいつ、笑っていやがった。あいつも死んだのかな?
いやいや今はそんなことじゃない。腕を肘を曲げるだけでいいのだ。あ、人差し指が見える。中指、親指も。ああ、薬指に…小指。おまえたち、無事だったか。あたしはうれしいよ。さあ、こっちへおいで。もっとこっちへ…。
あたしの右手は握られていたそれはとても固く。ゆっくりと開く。いや、開こうとするけどなかなか開けられない。
筋肉がまるでコンクリートみたいに固まっている気がした。それでもなんとか開けッ、あたしの指!
長い時間経った。ようやく少し開いた。
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