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治承3年(1179年)
治承三年の政変
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治承3年(1179年)平家が銀二的権力を奪取する治承三年の政変が起こります。
前年の治承2年(1178年)平清盛の娘である建礼門院中宮徳子は高倉天皇、のちの安徳天皇になる第一皇子を出産しました。
清盛はこの皇子を皇太子にすることを後白河法王に迫り、法皇はそれをしぶしぶ受け入れ親王宣旨が下されて言仁と命名され立太子しました。
皇太子の後見人は平家一門や親平氏公卿で固められ、院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになるのです。
またこの年は治承の大火が起こりました。
前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡とも呼ばれるこの火災は七条東洞院から出火し、折からの東風に煽られて朱雀大路に至るまでの三十数町が全焼したのです。
そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、この二度の火災により平安京の三分の二が焼けたと言われています。
治承3年(1179年)3月、清盛の娘である白河殿盛子が死去しました。
盛子は夫・近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたのですが、後白河は白河殿倉預に近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまったのです。
また関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になりました。
基房は摂関家領を奪われた上に、殿下乗合事件に巻き込まれたこともあり、反平氏勢力の急先鋒となっていたのです。
この人事は自らの娘・完子を基通に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものでした。
さらに親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになっていたのです。
さらにこの年は冷夏で冷たい雨ばかり降ったため、例年より米が不作でした。
この時の源頼政の位階は正四位下でしたが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があったため、70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいました。
そしてこの年清盛の推挙により念願の従三位に昇叙したのです。
清盛は頼政の階位について完全に失念しておりそのため長らく正四位であった頼政が、
のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたといわれます。
治承3年(1179年)11月14日、清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入りました。
京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず騒擾を極めたといいます。
15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命されました。
清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れたのですが、16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰します。
さらに、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官され、この中には一門の平頼盛、縁戚の花山院兼雅も含まれていたのです。
諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国は17ヶ国から32ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」という状態となったのです。
18日、基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まりました。
これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示しています。
20日の辰刻(午前8時)、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移され、鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(成範・脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。
清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げ、次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされました。
後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となったのです。
このとき源範頼を養育していた藤原範季も解官されています。
ただ、清盛も当初から軍事独裁を考えていたわけではなく、左大臣・経宗、右大臣・兼実など上流公卿には地位を認めて協力を求め、知行国の増加に比して人事面では平経盛が修理大夫になったのが目立つ程度で、解任された公卿たちの後任の多くを親平氏あるいは中間派とみなされた藤原氏の公卿が占めたのです。
また、解任された公卿の多くも翌年には復帰しています。
ちなみにこの時の平氏の知行国は
出羽(秋田)常陸(茨木)上総(千葉)下総(千葉)武蔵(東京埼玉)
伊豆、駿河(静岡)三河(愛知)尾張(愛知)
越後(新潟)佐渡、能登(石川)加賀(石川)飛騨(岐阜)美濃(岐阜)
越中(福井)越前(福井)若狭(福井)
伊勢(三重)紀伊(和歌山)
丹波(兵庫)但馬(兵庫)播磨(兵庫)備中(岡山)伯耆(鳥取)周防(山口)長門(山口)
淡路、讃岐(香川)阿波(徳島)土佐(高知)
筑前(福岡)薩摩(鹿児島)でした。
そして後白河法皇を幽閉して平家が政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出したのです。
寺社勢力では関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺が代表で延暦寺系列とその他の寺社の対立につながります。
とくに後白河法皇の近臣から没収し新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こったのです。
特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となったのでした。
治承三年の政変が起こり、状況が緊迫感を増す中ですが、いまの私に直接的に取れる行動は今はさほど多くありません。
各地に巻いた草からの情報を集めながら対策を取り、兵の訓練を継続し、開梱を行って農作物の確保を行うくらいですね。
この2年間、私は越前の重盛の屋敷に度々赴いては、彼の容態を見ていました。
2年前には重篤な症状でしたが清盛と後白河法皇の間の板挟みの重圧からの開放と、塩の多い保存食中心の生活から新鮮な食べ物を食べられる食事になったことで症状はかなり改善されたようです。
今では普通に生活ができるようになりました。
「重盛様本日のお体の調子はいかがですか?」
彼は笑って言いました。
「うむ、政務からの開放や塩辛い食事をしなくて良くなったせいで、だいぶ良くなった。
まあ、また政治に戻れと言われても、もう戻りたくないがね」
私はその言葉にうなずきます
「それはようございました、何れにせよ無理は禁物でございます。
今後もお体には気をつけてください」
「わかっている、そちらもな」
「はい、ありがとうございます」
私は重盛の屋敷を出て湊に向かいました。
私は信濃で算出する硫黄・木材や信濃で加工した漆器・干し椎茸などと大陸で作られる陶磁器やお茶、砂糖や氷砂糖、綿花の種、その他日本で手に入らない漢方薬などを交換して交易を行っていました。
宋代の壺というのはとても美術的価値が高いものですが、私が買っているのはもっと実用的なものです。
また高麗からも小麦などの食料や高麗人参などの医薬品、紙、筆、墨などの文房具の手工業品を輸入しております。
「できればお茶と綿花は栽培して増やしたいのですけどね……」
信濃は高地で気温が低くお茶や綿花が栽培できる環境ではありません。
「信濃の近くでは遠江か三河あたりが一番いいはずなのですが、流石に今は無理ですしね」
とは言え、戦乱が始まってからでは遅いわけで今のうちに入手しておくに越したことはないですからね。
前年の治承2年(1178年)平清盛の娘である建礼門院中宮徳子は高倉天皇、のちの安徳天皇になる第一皇子を出産しました。
清盛はこの皇子を皇太子にすることを後白河法王に迫り、法皇はそれをしぶしぶ受け入れ親王宣旨が下されて言仁と命名され立太子しました。
皇太子の後見人は平家一門や親平氏公卿で固められ、院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになるのです。
またこの年は治承の大火が起こりました。
前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡とも呼ばれるこの火災は七条東洞院から出火し、折からの東風に煽られて朱雀大路に至るまでの三十数町が全焼したのです。
そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、この二度の火災により平安京の三分の二が焼けたと言われています。
治承3年(1179年)3月、清盛の娘である白河殿盛子が死去しました。
盛子は夫・近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたのですが、後白河は白河殿倉預に近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまったのです。
また関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になりました。
基房は摂関家領を奪われた上に、殿下乗合事件に巻き込まれたこともあり、反平氏勢力の急先鋒となっていたのです。
この人事は自らの娘・完子を基通に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものでした。
さらに親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになっていたのです。
さらにこの年は冷夏で冷たい雨ばかり降ったため、例年より米が不作でした。
この時の源頼政の位階は正四位下でしたが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があったため、70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいました。
そしてこの年清盛の推挙により念願の従三位に昇叙したのです。
清盛は頼政の階位について完全に失念しておりそのため長らく正四位であった頼政が、
のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたといわれます。
治承3年(1179年)11月14日、清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入りました。
京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず騒擾を極めたといいます。
15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命されました。
清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れたのですが、16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰します。
さらに、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官され、この中には一門の平頼盛、縁戚の花山院兼雅も含まれていたのです。
諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国は17ヶ国から32ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」という状態となったのです。
18日、基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まりました。
これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示しています。
20日の辰刻(午前8時)、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移され、鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(成範・脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。
清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げ、次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされました。
後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となったのです。
このとき源範頼を養育していた藤原範季も解官されています。
ただ、清盛も当初から軍事独裁を考えていたわけではなく、左大臣・経宗、右大臣・兼実など上流公卿には地位を認めて協力を求め、知行国の増加に比して人事面では平経盛が修理大夫になったのが目立つ程度で、解任された公卿たちの後任の多くを親平氏あるいは中間派とみなされた藤原氏の公卿が占めたのです。
また、解任された公卿の多くも翌年には復帰しています。
ちなみにこの時の平氏の知行国は
出羽(秋田)常陸(茨木)上総(千葉)下総(千葉)武蔵(東京埼玉)
伊豆、駿河(静岡)三河(愛知)尾張(愛知)
越後(新潟)佐渡、能登(石川)加賀(石川)飛騨(岐阜)美濃(岐阜)
越中(福井)越前(福井)若狭(福井)
伊勢(三重)紀伊(和歌山)
丹波(兵庫)但馬(兵庫)播磨(兵庫)備中(岡山)伯耆(鳥取)周防(山口)長門(山口)
淡路、讃岐(香川)阿波(徳島)土佐(高知)
筑前(福岡)薩摩(鹿児島)でした。
そして後白河法皇を幽閉して平家が政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出したのです。
寺社勢力では関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺が代表で延暦寺系列とその他の寺社の対立につながります。
とくに後白河法皇の近臣から没収し新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こったのです。
特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となったのでした。
治承三年の政変が起こり、状況が緊迫感を増す中ですが、いまの私に直接的に取れる行動は今はさほど多くありません。
各地に巻いた草からの情報を集めながら対策を取り、兵の訓練を継続し、開梱を行って農作物の確保を行うくらいですね。
この2年間、私は越前の重盛の屋敷に度々赴いては、彼の容態を見ていました。
2年前には重篤な症状でしたが清盛と後白河法皇の間の板挟みの重圧からの開放と、塩の多い保存食中心の生活から新鮮な食べ物を食べられる食事になったことで症状はかなり改善されたようです。
今では普通に生活ができるようになりました。
「重盛様本日のお体の調子はいかがですか?」
彼は笑って言いました。
「うむ、政務からの開放や塩辛い食事をしなくて良くなったせいで、だいぶ良くなった。
まあ、また政治に戻れと言われても、もう戻りたくないがね」
私はその言葉にうなずきます
「それはようございました、何れにせよ無理は禁物でございます。
今後もお体には気をつけてください」
「わかっている、そちらもな」
「はい、ありがとうございます」
私は重盛の屋敷を出て湊に向かいました。
私は信濃で算出する硫黄・木材や信濃で加工した漆器・干し椎茸などと大陸で作られる陶磁器やお茶、砂糖や氷砂糖、綿花の種、その他日本で手に入らない漢方薬などを交換して交易を行っていました。
宋代の壺というのはとても美術的価値が高いものですが、私が買っているのはもっと実用的なものです。
また高麗からも小麦などの食料や高麗人参などの医薬品、紙、筆、墨などの文房具の手工業品を輸入しております。
「できればお茶と綿花は栽培して増やしたいのですけどね……」
信濃は高地で気温が低くお茶や綿花が栽培できる環境ではありません。
「信濃の近くでは遠江か三河あたりが一番いいはずなのですが、流石に今は無理ですしね」
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