木曽義仲の覇業・私巴は只の側女です。

水源

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承安3年(1173年)

日本の歴史と院政と崇徳天皇

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 さて、私は平安京にて二ヶ月間ほど薬院を開いて治療などの救済活動を行ってまいりましたが、そろそろ秋に入り、湯屋のお湯も十分温まらなくなってきたので、八条院様に許可を頂いて薬院を閉じることにいたしました。

「八条院様、矢田義清殿長らくお世話になりました」

「ああ、いいんどすえ、またいつでもおこしやす、歓迎しますえ」

「ああ、いつでも戻ってきてくれ」

「ありがとうございます、では南海巡りに行ってまいります」

 そして私は八条院様や矢田義清殿に礼を述べて、讃岐国(香川県)ヘ向かうことに致します。
 まずは平安京を出立し宇治川にて水路で川を下り、河口部の神崎の港へと向かい川船から海上船へ乗り換えます。

 神崎の港は西日本から運ばれてきた海上船の物資を川船に積み替えたり、逆に京から西日本各地の荘園や住吉大社詣でに向かう貴族や庶民が溢れ大変賑わっている港町です。

 また、神崎は遊女の集う天下第一の歓楽の地として並び立ち全国に知られています。

 遊女たちはきらびやかな衣装をまとい貴族や武士たちに寵愛されたものの、彼女たちは戦乱や重税で疲弊した各地の荘園などから売られたり流れてきた者たちであり、ここには彼女らを弔った塚(遊女塚)なども残されています。

 遊女というのはいつの時代でも華やかなようでありながらもとても厳しい世界なのですね。

 さて、船に揺られて瀬戸内の海上を揺られしばらくして讃岐の国に到着しました。

 讃岐の国は後に日本最強最大の怨霊と呼ばれることになった讃岐院こと崇徳上皇が眠っている場所です。

 崇徳上皇といえば、菅原道真、平将門と並ぶ日本3大怨霊といわれており、その中でも最強とされています。

 さらには諡号しごう()で生前に不幸な境涯に落ちた天皇に対しては、「崇」の字が意図的に与えられているとされますが、第32代天皇の崇峻天皇は蘇我馬子の手によって暗殺されており、崇道天皇いわゆる早良親王は藤原種継暗殺事件に連座して廃太子され淡路国に配流される途中、絶食して憤死したと言われます。この早良皇太子と、天皇呪詛の嫌疑で暗殺された井上内親王の怨霊によって、皇族・貴族の相次ぐ死、疫病の流行、洪水などが起こったと考えられ、鎮魂の追供養を何度か行った後に、崇道天皇と追称されました。

 また、施薬院を作った聖武天皇と光明皇后によって謀殺された長屋王も怨霊の1人で、藤原一族の傀儡政権樹立の障害になる長屋王を排除するため藤原四兄弟と光明皇后が謀略により長屋王に謀反の容疑をかけ、既に光明子を通じて藤原一族の精神的支配下に陥っていた聖武天皇は成り行きに任せるしか術がなく、長屋王、吉備内親王とその皇子は自害に追い込まれました。

 長屋王の無実はすぐに判明し、それから5年ほどして、長屋王を糾問した舎人親王や新田部親王が相次いで世を去り、その後、この陰謀の主犯格である藤原四兄弟も天然痘で数ヶ月のうちに相次いで苦しみの渦中で死んでいきます。

 聖武天皇と光明皇后は長屋王の怨霊を大変に恐れ聖武天皇と光明皇后は仏教に助けを求めます。
 国分寺・国分尼寺の推進や東大寺建立はその流れの中にありますが、最も象徴的なのは新薬師寺の薬師如来像で、十二神将像に周囲を囲まれた薬師如来は、厳重に警護された中で怨霊に怯える聖武天皇を見事に表していますし、光明皇后が施薬院や悲田院を設立して民の救済を行ったのも実際は長屋王の怨霊を恐れ、仏に救いを求めてのことだったのですね。

平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになり、特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳での即位でした。

 これほど低年齢の天皇はそれまでに例がなくこのような幼帝の即位は天皇が次第に政治的実権を失っていったことを意味しています。

 こうした政治体制を摂関政治といいます。

 このような摂関政治の成立の背景には、主に畿内周辺における軍事的な脅威が少なくなったことが大きくそれににともなって政治運営が安定化し、政治の中心が軍事から儀式運営や人事などへ移行していったことにあるようです。

 そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられますが、摂関家が天皇の外戚の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされているますね。

 平安時代中期になると関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったりますが、そのときも、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではありませんでした。将門の反乱は朝廷から派遣された国司による不当な税の取り立てにとても苦しんでいた農民たちためと言われます。

 さらには、937年11月に富士山が噴火し、翌年には大地震が襲い、自然災害によって凶作と大飢饉が起こったが、国司たちは例年通りの重い税を取り立てたため、農民たちは領地から逃げ出したのです。

 このとき将門は苦しむ民を目の当たりにして、彼のもとに逃げてきた人を受け入れると、国司の圧政を逃れる方法を考え、農地改革を行い、朝廷の支配に属さない農地を開拓しようと自ら先頭に立って農民たちとともに動いたのです、ですが938年2月、隣国である武蔵国で事件が起こりました。

 朝廷から派遣された興世王と源経基が私腹を肥やすため違法に税を徴収するなど暴挙を働き、これに立ち向かった郡司の武蔵武芝と両者は激しく対立し一触即発の状態になったのです、この騒動を聞きつけ、武蔵国に向かった将門は興世王を説得し、武蔵武芝と和解させたのですが、源経基は朝廷に逃げ帰り「将門謀反」と偽りの告発をしたのです。

 将門の反乱に驚いた朝廷は、しかしながら、直接的な軍事力を持たなかったため、それまでの朝廷の常識を覆す太政官符を全国に通達しました。

「魁帥を殺さば募るに朱紫の品」というものです。

 魁帥とは将門のことで、朱紫とは貴族だけが着られた衣の色です。

 つまり、将門を討伐すればどんな身分の者でも貴族にするという通達を出して、関東の豪族を動かそうとしたのです。

 そして、その破格の恩賞に将門を討つという機運が高まり、常陸国の豪族・平貞盛・藤原秀郷らが合同し3000の兵を集めて将門の討伐に向かうことになります。

 3000に対して将門軍は400の兵しかなく坂東8カ国を治める将門なら最大で8000の兵を率いることができたはずですが、兵の9割は農民であり農繁期だったため兵を家に帰してしまっていました。

 将門は農民の支持はえましたが、関東の他の豪族武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊したのです、しかしながら関東での調停への不信感は一層強まり、こういった出来事は後に頼朝が挙兵した際に地方豪族たちが国司を追放し頼朝にしたがった理由となりました。

 さて、平安後期に即位した後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であり、摂関の権力から比較的自由に行動することができました。

 後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出し、さらに大江匡房らを重用して政治的な改革に乗り出しました。

 1069年には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等、摂関家の経済基盤に大打撃を与えたのです。

 この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらしました。

 一方、摂関家側は外戚関係などがなかったうえに摂関家内での内輪もめのために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかったようです。

 また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになりました。

 しかし1072年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して院政を開こうと図った後三条天皇は、翌年には病に倒れ、40歳で崩御したのです、後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する時代でありました。

 後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させました、これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるためで、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためであるとされます、さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至ったのです、しかしこれが皇族の王位継承争いを複雑化させます。

 この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退しました。

 院政を布いた上皇は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであったのです。

 治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用しましたが、このことが結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながったのです。

 さて、崇徳天皇は1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。

 母は待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)。

 治天の君である曾祖父の白河上皇(1034~1129)の意志により、1123年、鳥羽天皇を20歳の若さで退位させ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

 これにより崇徳は鳥羽上皇の恨みを買います。

 譲位させられた鳥羽上皇は、白河上皇存命のうちは何の権限ももてません。

 もう天皇ではなく、かといって治天の君として権力を振るうこともできない。

 鳥羽上皇はそうとう悔しい思いをしたことでしょう。

 しかし、治天の君・白河上皇は巨大すぎて、直接、怒りをぶつけることはできません。

 怒りの鉾先は子供の崇徳に向けられたのでした。

 5歳の崇徳に何の責任もなく、完全に逆恨みですが。

 また、これも、崇徳に何の責任もないことですが、崇徳は実は鳥羽の子ではなかったとされました。

 崇徳は鳥羽の子ではなく、白河上皇の子らしい、との噂が流されました。

 崇徳の母・待賢門院 璋子は、白河上皇の寵妃・祇園女御の養女であり、白河上皇にとって璋子は養女のようなものでした。しかし、白河上皇は璋子とまで性的関係を結んでしまいました。

 源氏物語の光源氏のようなお話ですが、実際にあったことなのでしょう。

 しかも、白河上皇はよりにもよって自分の愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の妃にしてしまうのです。
 鳥羽天皇は祖父の愛妾を皇后にしたことになります。

 そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。

 自分の后が祖父の子を生んだなどと考えたら、その子を疎ましく思うのも仕方ありません。

 そのため、鳥羽はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある。崇徳が白河院の子だとしたら、鳥羽にとって父の弟になります)と呼んで嫌いました。

 不義密通の子であり、自分から皇位を奪った崇徳を鳥羽は露骨に嫌いました。

 臨終の際の拝顔さえ許さなかったといいます。

 白河上皇の死後、鳥羽上皇は治天の君となり、これまでの鬱憤を晴らすかのように専制君主として振る舞います。高陽院 泰子を入内させ、白河上皇にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用し反白河体制で院政を行います。

 1141年、鳥羽上皇は22歳の崇徳天皇を退位させ、待賢門院亡きあと寵を得た美福門院得子(びふくもんいんとくこ)との間にできた第九皇子の近衛天皇(崇徳にとっては異母弟)を2歳で即位させます。

 しかも譲位の宣命には、体仁親王が「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されており、崇徳上皇は天皇の兄ということにされてしまいました。

 崇徳は、もう天皇でもなく治天の君でもないというかつて鳥羽上皇自身もした悔しい思いを味わわされます。

 しかし、近衛天皇が1155年、わずか16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく亡くなってしまいます。

 ただ、その近衛天皇が若くして崩御すると、皇位継承で揉めに揉めることになります。

 本来であれば、崇徳院の第一皇子である重仁親王が嫡流でもあり、みなが立太子となるはずでしたが、近衛天皇の死は崇徳上皇と藤原頼長の呪詛によるものとの噂が流れ、これに激怒した鳥羽法皇は美福門院、藤原忠通、信西と計って、守仁親王(二条天皇)の即位までの中継ぎとして、その父であり、鳥羽院と待賢門院璋子の第四皇子・雅仁親王後ことのちの後白河天皇が即位するのです。

 この後白河天皇、今様にうつつをぬかし、「文にもあらず、武にもあらぬ四の宮」「即位の器量にあらず」と評されるようなうつけものとされていました。

 そんなうつけものに即位させてまでも、鳥羽上皇は、崇徳の子には皇位を継承させたくなかったのでしょう。

 崇徳の子が天皇になるということは、鳥羽上皇没後は、崇徳が治天の君になるということです。

 崇徳が治天の君として院政を行う。

 そんなことには絶対にさせない、と鳥羽上皇は考えていたのでしょう。

 自らの皇統を否定された崇徳院は後白河天皇を「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評し、その怒りと不満は爆発寸前。そこに、藤原忠実・頼長と藤原忠通による摂関家の氏の長者争いと、源氏・平家という武家の内訌も絡んで、都は後白河天皇方と崇徳上皇方で、いよいよ不穏になっていくのです。

 そして、保元元年(1156年) 6月1日、法皇の容態が絶望的になった。法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めたのです。

 保元元年(1156年)、7月2日申の刻(午後4時頃)鳥羽法皇が崩御しました。

 このとき崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかったといいます。

 鳥羽法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したとされ、崇徳は憤慨して鳥羽田中殿に引き返したのです。

 ここから保元の乱が始まります。
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