8 / 10
潮の香り
しおりを挟む
少し、飲みすぎたか。
駅から自宅へ向かうタクシーが、川沿いの土手に差し掛かる頃、県立水蘭高校社会科教師、井岡義秀はそう思った。
日頃は生徒達に自己管理の大切さを説いておきながら、自分がこの有様では生徒達に示しがつかないと自責の念に駆られつつも、たまには酒でも飲まなければやっていられない、とも思う。
義秀は、三年生の学年主任でもある。担任を受け持っているクラスは無いが、職務上の責任は重い。以前より、酒を飲む機会も増えた気がする。
水蘭高校は、県内有数の進学校なだけに、基本的には真面目で手の掛からない生徒が多いが、それでもやはり、どこの学校にも問題児というのはいるものだ。
今義秀が授業を受けもっているクラスに、安西という生徒がいた。安西は赤点の常習犯で、何度も補修授業や追試を受けさせた。
留年ぎりぎりで二年生になった去年の一学期も、中間、期末共に、テストの点数が芳しくなかったため、補習授業を受けさせることになった。内容は、フランス革命についてだった。絶対王政の社会で、特権階級に虐げられてきた平民達が決起して起こしたこの革命は、現代における民主主義の原点とも言われている。
補修を受けさせられているというのに、全く危機感の感じられない様子の安西に「安西。今俺達が、民主主義の世の中で独裁者に抑圧されずに生きていられるのは、こういう人たちが、命がけで戦ってくれたおかげなんだぞ。お前も成人したら選挙には必ず行きなさい。せっかく与えられた権利を自ら放棄するのは怠慢だ。これは平和な時代に生まれた人間の義務だぞ」と問いかけると、安西は表情の無い顔で「別に、俺がそいつらに革命起こしてくれって頼んだわけじゃないし。政治とか興味ないし」と答えたあと、すぐに目を逸らし、虚ろな表情のまま窓の向こうへ視線を送ったのだった。
態度の悪い生徒を、ぶん殴ってやりたいと思ったことは一度や二度ではない。だが、それをやってしまえば、こちらの負けだ。そして、おそらく生徒達も、最終的にこちらが手を上げることはできないとわかっているからこそ、増長している部分もあるのだろう。
だが、義秀が生徒を殴らない理由は、それだけではない。義秀は、教師としても、父親としても、教育者として、何があっても決して暴力だけは振るうまいと、硬く心に決めているのだ。
酔いと車の揺れが、猛烈に眠気を誘う。シートに身を預けて目を閉じたら、今にも眠ってしまいそうだ。
義秀は、タクシーの窓を半分ほど開けた。窓から吹き込む風には、微かに潮の香りが混じっている。海からさほど離れていないこの辺りの川の水は、海水が混じっている汽水域なのだ。
義秀にとって、潮の香りは故郷の香りだった。
駅から自宅へ向かうタクシーが、川沿いの土手に差し掛かる頃、県立水蘭高校社会科教師、井岡義秀はそう思った。
日頃は生徒達に自己管理の大切さを説いておきながら、自分がこの有様では生徒達に示しがつかないと自責の念に駆られつつも、たまには酒でも飲まなければやっていられない、とも思う。
義秀は、三年生の学年主任でもある。担任を受け持っているクラスは無いが、職務上の責任は重い。以前より、酒を飲む機会も増えた気がする。
水蘭高校は、県内有数の進学校なだけに、基本的には真面目で手の掛からない生徒が多いが、それでもやはり、どこの学校にも問題児というのはいるものだ。
今義秀が授業を受けもっているクラスに、安西という生徒がいた。安西は赤点の常習犯で、何度も補修授業や追試を受けさせた。
留年ぎりぎりで二年生になった去年の一学期も、中間、期末共に、テストの点数が芳しくなかったため、補習授業を受けさせることになった。内容は、フランス革命についてだった。絶対王政の社会で、特権階級に虐げられてきた平民達が決起して起こしたこの革命は、現代における民主主義の原点とも言われている。
補修を受けさせられているというのに、全く危機感の感じられない様子の安西に「安西。今俺達が、民主主義の世の中で独裁者に抑圧されずに生きていられるのは、こういう人たちが、命がけで戦ってくれたおかげなんだぞ。お前も成人したら選挙には必ず行きなさい。せっかく与えられた権利を自ら放棄するのは怠慢だ。これは平和な時代に生まれた人間の義務だぞ」と問いかけると、安西は表情の無い顔で「別に、俺がそいつらに革命起こしてくれって頼んだわけじゃないし。政治とか興味ないし」と答えたあと、すぐに目を逸らし、虚ろな表情のまま窓の向こうへ視線を送ったのだった。
態度の悪い生徒を、ぶん殴ってやりたいと思ったことは一度や二度ではない。だが、それをやってしまえば、こちらの負けだ。そして、おそらく生徒達も、最終的にこちらが手を上げることはできないとわかっているからこそ、増長している部分もあるのだろう。
だが、義秀が生徒を殴らない理由は、それだけではない。義秀は、教師としても、父親としても、教育者として、何があっても決して暴力だけは振るうまいと、硬く心に決めているのだ。
酔いと車の揺れが、猛烈に眠気を誘う。シートに身を預けて目を閉じたら、今にも眠ってしまいそうだ。
義秀は、タクシーの窓を半分ほど開けた。窓から吹き込む風には、微かに潮の香りが混じっている。海からさほど離れていないこの辺りの川の水は、海水が混じっている汽水域なのだ。
義秀にとって、潮の香りは故郷の香りだった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ほのぼの学園百合小説 キタコミ!
水原渉
青春
ごくごく普通の女子高生の帰り道。帰宅部の仲良し3人+1人が織り成す、青春学園物語。
ほんのりと百合の香るお話です。
ごく稀に男子が出てくることもありますが、男女の恋愛に発展することは一切ありませんのでご安心ください。
イラストはtojo様。「リアルなDカップ」を始め、たくさんの要望にパーフェクトにお応えいただきました。
★Kindle情報★
1巻:1話~12話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B098XLYJG4
2巻:13話~19話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B09L6RM9SP
3巻:20話~28話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B09VTHS1W3
4巻:29話~40話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BNQRN12P
5巻:41話~49話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CHFX4THL
6巻:50話~55話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B0D9KFRSLZ
7巻:56話~64話・番外編
https://www.amazon.co.jp/dp/B0F7FLTV8P
Chit-Chat!1:ネタ750本
https://www.amazon.co.jp/dp/B0CTHQX88H
★第1話『アイス』朗読★
https://www.youtube.com/watch?v=8hEfRp8JWwE
★番外編『帰宅部活動 1.ホームドア』朗読★
https://www.youtube.com/watch?v=98vgjHO25XI
★Chit-Chat!1★
https://www.youtube.com/watch?v=cKZypuc0R34
Bグループの少年
櫻井春輝
青春
クラスや校内で目立つグループをA(目立つ)のグループとして、目立たないグループはC(目立たない)とすれば、その中間のグループはB(普通)となる。そんなカテゴリー分けをした少年はAグループの悪友たちにふりまわされた穏やかとは言いにくい中学校生活と違い、高校生活は穏やかに過ごしたいと考え、高校ではB(普通)グループに入り、その中でも特に目立たないよう存在感を薄く生活し、平穏な一年を過ごす。この平穏を逃すものかと誓う少年だが、ある日、特A(特に目立つ)の美少女を助けたことから変化を始める。少年は地味で平穏な生活を守っていけるのか……?

拝啓、お姉さまへ
一華
青春
この春再婚したお母さんによって出来た、新しい家族
いつもにこにこのオトウサン
驚くくらいキレイなお姉さんの志奈さん
志奈さんは、突然妹になった私を本当に可愛がってくれるんだけど
私「柚鈴」は、一般的平均的なんです。
そんなに可愛がられるのは、想定外なんですが…?
「再婚」には正直戸惑い気味の私は
寮付きの高校に進学して
家族とは距離を置き、ゆっくり気持ちを整理するつもりだった。
なのに姉になる志奈さんはとっても「姉妹」したがる人で…
入学した高校は、都内屈指の進学校だけど、歴史ある女子校だからか
おかしな風習があった。
それは助言者制度。以前は姉妹制度と呼ばれていたそうで、上級生と下級生が一対一の関係での指導制度。
学園側に認められた助言者が、メンティと呼ばれる相手をペアを組む、柚鈴にとっては馴染みのない話。
そもそも義姉になる志奈さんは、そこの卒業生で
しかもなにやら有名人…?
どうやら想像していた高校生活とは少し違うものになりそうで、先々が思いやられるのだけど…
そんなこんなで、不器用な女の子が、毎日を自分なりに一生懸命過ごすお話しです
11月下旬より、小説家になろう、の方でも更新開始予定です
アルファポリスでの方が先行更新になります
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

転校して来た美少女が前幼なじみだった件。
ながしょー
青春
ある日のHR。担任の呼び声とともに教室に入ってきた子は、とてつもない美少女だった。この世とはかけ離れた美貌に、男子はおろか、女子すらも言葉を詰まらせ、何も声が出てこない模様。モデルでもやっていたのか?そんなことを思いながら、彼女の自己紹介などを聞いていると、担任の先生がふと、俺の方を……いや、隣の席を指差す。今朝から気になってはいたが、彼女のための席だったということに今知ったのだが……男子たちの目線が異様に悪意の籠ったものに感じるが気のせいか?とにもかくにも隣の席が学校一の美少女ということになったわけで……。
このときの俺はまだ気づいていなかった。この子を軸として俺の身の回りが修羅場と化すことに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる