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一話 悪夢は、続く

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 彼が死んだ夢を見た。
 悪い悪い夢だったんだと彼に笑い飛ばしてほしくて、話してみた。

 大きな怪獣にぺろりと食べられる夢や、お菓子を食べすぎて歯が全部抜け落ちる夢。
 その全てを彼はいつも、笑い飛ばしてくれた。

 でも、「今日死ぬんだよ、本当に」と、その言葉は口にできなかった。
 だって悪い夢だったと思い込んでも、じっとりと汗ばんだ体は変わらないし、あの時の胸の痛みは本物だった。
 そして、伝えたところで、困ったように眉毛を八の字に下げるだけなのがわかっていたから。

「また怖い夢の話か。大丈夫だって、俺そんなに弱そうに見える?」

 ほっと胸を撫で下ろす。
 もし本当になってしまったとしても、君となら大丈夫な気がする。
 たとえば、死なないためにできることを探し出すとか。
 答えはすぐには見つけられそうにないけど。

 だから、本当でも、今回だけ、今回だけはこの幸せな夢におぼれていてもいいよね?
 今回だけ、をもう何回も繰り返した気がするけど。

 ブランコに乗ったまま、旅人が怖い気分を吹き飛ばすかのように地面を蹴り飛ばす。
 だから、私も併せて地面を蹴り飛ばした。
 体がふわりと浮いて、まるで本当に夢だったんじゃないかって思いこんでしまう。

 風が私たちの髪の毛を巻き上げて、夕日に体が照らされる。
 旅人の横顔も、赤紫に染まっていた。

「夢香は夢みがちだからなぁ」

 名前からロマンチストで夢見がちなのわかってたでしょ、は言葉にしない。
 旅人だったらきっと、すぐさま否定してくれるのがわかっていたから。

「旅人は、信じていないでしょ」
「ううん、夢香が言うから信じてるよ」

 ふふっと笑ってから、足でブレーキをかけた。
 地面はかたくて、擦れる感覚がする。

 ぼおっとしていた頭が、どんどん明瞭になっていく。
 体に吹き付ける風も、耳に響く旅人の笑い声も、くすぐったくて身を捩る。
 
 あぁやっぱり、こっちが現実なんだよね。

 カバンから取り出した、ぬるくなった水を飲み干す。
 旅人と出会ってから、いつだって夢は幸せな色をしていたの。

 いつも通りな普通の風景なのに、汗が全身から吹き出す。
 悪寒が体を震えさせた。
 帰り道を歩きながら、旅人の手を引っ張る。

「ねぇ、旅人、待ってこっちの道にしよう」

 道を変えて歩いてもイヤな予感は、べったりと私の背中にくっついている。
 夏も終わりかけの涼しい夕方なはずが、額からポタポタと汗がこぼれ落ちた。

「なんでそんな顔してるの」

 旅人は私のほっぺたを一回つねってから、いつもの笑顔を作った。
 あぁ、いつもの、旅人だ。
 ぎゅっと抱きついて、このまま幸せな時間が続くことを祈る。

「ほら、行くぞ」

 私の手を取って、歩き出す旅人の横を慎重に歩く。
 周りには何もない。
 帰り道であろう小学生に、買い物帰りのサラリーマン、ただの普通の日常の景色が続いている。

 洗濯物を取り込んでる家だってある。
 ほっとしながら、手を繋いだ先の旅人を見ようとした瞬間。

 急な雨が降り頻る。
 ボツボツと大きい雨粒は、私も旅人も全身ぐちゃぐちゃに濡らしていく。

「やば、急ごう!」

 慌てて走り出す旅人の後ろ姿を見つめて後悔する。

 近くの軒下に避難すれば良かった。
 そう、私はわかっていたのに、あれが悪い夢だったと言い聞かせたのが間違いだった。

「旅人! だめ!」

 急激な雨で視界を悪くしたトラックが、私たちに向かって飛び込んでくる。
 引っ張ろうとした右手はもう離されていて、旅人の手はただ強く私を突き放した。

 いつも、そうだ、悪い夢は幸せの隙間から勝手に侵入してくる。


***


 世の中でいう「当たり前」は私には難しすぎた。
 人を好きになること、誰にでも優しくすること、他人に嫌われないように生きること。
 全部が、私にはうまくできない。

 普通の女の子はもっとお母さんに優しくて、寄り添ってくれるらしい。
 お母さんが言うには、だけど。
 私には、それがうまくできない。

 お母さんの普通の女の子、イコール、昔のお母さんの話だと私はわかっていながら、平坦に「ごめんね」を何度も繰り返す。

「おはよう」

 今日は、穏やかなお母さんだ。
 そう安堵するところから、私の毎日が始まる。
 穏やかじゃない日もあるんだけど、それはきっと私が見た悪い夢だ。
 だから、笑顔を作ってあいさつをする。

 黙って耐えれば、悪い日々は通り過ぎてくれるから。
 幸せな日々は、大切に大切に手のひらの間に押し込めよう。

 一番最悪な夢は、大切な人が目の前で死んだ夢と、お母さんから面と向かって「あんたなんか生まなきゃよかった」の一言を聞いた夢だ。

 私がまだ小さかったころの夢。
 お父さんも見ていたのに、何も言わずただ落ち着かないお母さんの背中を撫でていた。
 現実だったのかもしれないけど、夢だったってことにしてる。

 お父さんは私よりもお母さんが大切で、お母さんはお母さんが一番大切。
 じゃあ、私は誰の一番なんだろう?
 みんなを不幸にしてしまう私は、誰の一番にもなれない。

 お母さんがトーストとミルクを机に置いてから、目の前のイスに座る。
 どんな空気でも一緒にご飯を食べるのが、家族の普通。
 それがお母さんの意見だった。

 お父さんは仕事で不在なことが多かったけど。
 でも、それは仕事という理由があるから特別なんだって言っていた。

 テーブルの上には、三人分の食器が並べられている。
 まるで、それが当たり前の家族みたいに。
 今日もありふれた家族のフリをして、やり過ごす。

「お父さんはもう、先に出たから気をつけて行くんだよ」
「うん、お母さん今日も朝ごはんありがとう」
「いえいえ」

 トーストを一口かじってから、ジャムを手に取れば空気が豹変した。
 あぁ、まだ、悪い夢の中だったみたいだ。

「お母さんが焼いたトーストじゃ、おいしくないのね」
「違うよ! ジャムを付けたらもっとおいしいかな、って」

 お母さんの曇った表情に言い訳を考えて、お母さんが納得するように細心の注意を払って言葉にする。
 それでも、お母さんの気は晴れはしないようだった。

 わざとらしくガタンと大きな音を立ててお母さんがイスから立ち上がる。
 ごめんなさいと、思いつく限りの謝罪を並べ立てた。
 でも、伝わらない。

「ごめんなさい、お母さんがせっかく作ってくれたのに」
「いいのよ、私が悪いんだもんね、少し寝るわ」

 その言葉を最後にお母さんはいつも部屋にこもってしまう。
 憂鬱な気持ちと、生まれてこなければ良かったと言われないだけマシかと、胸を落ち着かせる。
 あの言葉は、私の体を中心からバラバラに崩れ落としてしまうから。

 気にしないふりをしてかじったトーストの味は、よくわからない。

 自分の使ったお皿と、お母さんのマグカップをキレイに洗う。
 一口だけ飲んで放置された、茶渋の残るマグカップ。
 悲しさが湧き上がってきて、茶渋をゴシゴシとスポンジでこそげ取る。
 
 シンク横の水切りマットに全て乗せて、キッチンをでる。
 部屋に閉じこもったお母さんに、扉越しに声をかける。

「洗い物しておいたよ」

 シーンと静寂だけが数秒流れて、諦めたの。
 返事がないのはいつものこと。

 学校へ行く準備をして、リュックを背負う。
 着なれた制服は、それでもまだ窮屈に感じてしまった。
 もう一度、閉じこもったままの母の部屋に声を掛ける。

「いってきます」

 「いってらっしゃい」はいつから聞いていないか、もう数えるのもやめた。
 おかえりの回数も数えていない。
 家族どころが、人間は普通あいさつをするもんだとお母さんに習った。

 あいさつを私に返してくれないのは、私は家族、ましてや人間ですらないと思われてるのかもしれない。

 はぁっと大きく出そうになったため息を両手で、喉の奥に押し込んで家を出る。
 私は喉から手が出るくらい「いってらっしゃい」と「おかえり」を欲している自分に気づいていた。
 でも、それすらも胸の奥の深いところに押し込めて気づかないふりをする。
 だって、欲したところで手に入らないなら、気づかない方が幸せだと思ったから。

 人と関わるのをやめたのも、回数を数えるのをやめた辺りかもしれない。
 だって、私は人を不快にしてしまう人間だから。

 家の外に出れば、春の太陽は光を突き刺す。
 わざと太陽から目を背けて下を向いたまま、歩き続けた。
 
 朝の通学路は、楽しそうにあいさつを交わし合う子たちで賑わっていて、肩身が狭い気がしてしまう。
 寂しい気持ちと、これでいいんだ、っていう清々しい気持ちで胸の中はぐちゃぐちゃだ。

 近くから聞こえたクラスメイトの声に、つい、「おはよう」と言いそうになって、顔をあげた。
 ぎゅっと唇を閉じた、無音のあいさつだったのに、彼が振り返る。

「あ……」

 ため息みたいな言葉だけ漏れて、視線がぶつかる。
 彼はニコッと人懐っこい笑顔を見せてから、何も言わずに前を向いてしまう。

 彼に、あいさつできて、仲良くなれたらどれだけ幸せなんだろうか。
 私の初恋は、拗らせに拗らせ、今ではただ盗み見るだけのストーカーのようになってしまっている。

 でも、それでいいんだ。
 関われば、不幸にしてしまうから。
 私は、クラスメイトに疫病神と陰で呼ばれているのを知っていた。

 周りを見ないように、気づかれないようにと、また下を向いて歩く。
 小さい花が隅っこの方で咲いていたり、誰かがこぼした水で濡れていたり、地面はいつも少しずつ違っていた。
 学校に向かう交差点の角のあの黄色の花は、いつも咲いているけど。

 黄色の花を目印に曲がろうと体を傾ければ、ぽすん、っと頭が何かに触れる。
 すぐに、失敗したに気づいた。
 いつもだったら、もっと左に寄っていたはずなのに、今日は右寄りに歩いていたらしい。

 先ほど、あいさつをしかけた彼が私の顔を見下ろしていた。

「おはよう、唯野さん」
「おはよう、天成くん」

 目線を合わせずに、あいさつを返す。
 これ以上話が続きませんように、と願いながら。
 
「唯野さんもいつも、この時間?」

 私の願いは虚しく、天成くんはいつものように優しく私の隣に並ぶ。
 一緒に行くことが決まってるかのように、当たり前のように。
 
 天成くんは、みんなと違って、疫病神とは私を呼ばない唯一の人。
 だから、好きだった。
 初恋なのに、私は臆病で、天成くんの顔を見れない。
 だって見たら好きになってしまう。
 天成くんを、不幸にしてしまう。

「唯野さんは、どうして顔を見ないの?」

 投げられた疑問にうまく答えられない。
 だって、私は変わらず普通じゃない疫病神。
 あなたを不幸にしてしまうから、と言えれば、楽なのかもしれない。

 見慣れた顔だって、何回見ても私は恋に落ちてしまう。
 八重歯とか、困ったように下がる眉毛とか、あと、唇の横の小さいホクロとかに。

 だから、天成くんの顔を見ないように地面と向き合う。
 道端の黄色い花がもう枯れそうだとか、そういえば数か月前から咲いていたな、と考えながら。

 じぃっと答えを待つような間に耐え切れず、適当な言い訳をでっちあげて言葉にする。

「緊張しちゃうんだ、天成くんみたいな人と話すの。ほら、私陰キャだから」
「そう」

 すうっと吸い込んだ息の音に、これでおしまいだとわかった。
 今日をうまく乗り切った。
 天成くんは、なぜかこんな私にいつも話しかけてくれる。

 心が惹かれてしまうのだけは、避けないといけない。
 だって、私は天成くんを好きになる資格なんてないのだから。

 天成くんの足を見ながら、わざとらしすぎるくらいゆっくり進んで、遠ざかるのを待つ。
 いつまでたっても、天成くんの足は私と並んで進む。
 何かあるのかと、顔を上げればズイっと顔が近くにいて驚いてしまう。

「ひゃっ」

 どくんっと心臓が跳ねて、体中に熱が走っていく。
 天成くんは、笑い声をあげて、細い腰を自分の腕で抱きしめる。
 
「ははっ! そんな声出せんだ、唯野さんって」
「笑わないで、よ」

 緊張のあまり、唇の右側がヒクヒクとする。
 うるさいくらい音を立てる心臓を手のひらで押さえつけて、天成くんの口を見つめた。
 少しだけ、緩んだ頬に目が止まる。
 そして、天成くんは、指でメガネを作って目元を覆う。

「唯野さんって、メガネだったけ?」

 可愛い仕草に、また、脈が早くなる。
 あれ、でも、普通に会話できてる? 
 普通がわからないくせに、普通じゃないのに、ううん、だからこそ私は普通にこだわってしまう。
 
「ずーっと、メガネだよ?」

 メガネを押し上げるしぐさをして、元々だよ、と伝えてみせた。
 天成くんは不思議そうな顔をして、上擦った声で答える。
 
「そっか、俺のかんちがい」
「そうだね」
「ね、友だちになろ。俺、唯野さんと今友だちにならないとダメな気がする」

 ひゅっと喉の奥が詰まる感覚がする。
 友だちになろう、なんて小学生以来に聞いた。つい笑いそうになってしまった。
 それでも、言葉の重みに胸が締め付けられている。

 私が天成くんと友だちになるだなんておこがましい。
 胸の中では好きになってはいけないと、言い聞かせる思いがふくれあがっているのに。

「むり」

 なんとか一言だけ言葉にすれば、天成くんはむっとしたように頬を膨らませる。
 その仕草すら、私の心を惹きつけてやまないのが、もはや憎らしくまで思えた。

 不意に「憎いは愛情の裏返しだよ」なんて誰かの言葉がよぎった。
 誰かが言っていた言葉、誰か、なんて今はどうでもいい。
 それよりも、どう逃げればいいのか考えることに必死だった。
 
「なんで」
「むりむり、天成くんと友だちなんて無理!」
「なんだよそれ。これ以上絡んだら、嫌われそうだから、今日はここまでにする。またね! 唯野さん」

 ひらひらと手のひらを振って、軽く走り出す天成くんの後ろ姿を見つめる。
 校門はもう目の前に来ていて、自分から友だちにはなれないと断ったくせに、ほかの人に見られたら困るから? と勝手な理由付けをして心が落ち込んだ。

 天成くんの大きな背中は太陽に照らされて、とても暑そうに見えた。
 触れたらきっと火傷してしまう。

 触れられる距離にはいないのだけど。
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