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第四章 霊山モルディブ

百六夜 魔獣暴走ノ1

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「旅の最中にはぐれっちまったのか、そりゃあ大変だ」
「ええ……どうにか彼女を、送り届けなくては」
「ヨーギ届けられる――!」
 馬車の荷台に横たわり、並走するヨーギに微笑む。
 ぼくの身体はとても正常とはいえず、精神が削れ力が入らない。あの時・・・……ただ感情の本流に流され、意思を繋ぎ止めるのに必死だった。
 一体自分になにが起こったのか、記憶を探りながらの逃避行。
 日射しが眩しく木陰で休んでいたら、1頭引きで2輪の荷馬車――コートで通りかかった若い行商人が、気を使い声をかけてくれる。
 そうノンビリもしておれず、感謝し乗せて貰った。
「はははっケンタウロスを託されるなんて、ずいぶんと信頼されてんだなあ」
「信頼か……そうですね、頼りになる仲間・・です」
 彼の真意は違うかもしれないけど――。
 ラクシュはボロを着てても貴族にしか見えず、追跡は難しくない。町や村など、人通りのある場所を通っていればだが。
「以前は街の外になにもないのを異質に感じたけど……現代の途切れない街並みや入り組んだ道路だと、なんともお手上げだったなあ」
 地図は持っていない。だがこの時代の町や村はスゴロクよろしく点在しており、道も複雑ではなかった。
 村落道などに迷い込めば方向が定まらず危険だが、北への街道は一本だけ。
 幸い兵士や職人ギルドの飛脚が、脇を通り過ぎた形跡はない。ラクシュの手配や沙汰の通告がされた様子はなかった。
 チャンドラがヴィーラ殿下に、取りなしてくれたのだろう。
 伝書バトはこれからはだし、少なくとも北方面へ情報は伝わっていないはず。
「チャンドラの証言があれば、ラクシュにかかった疑いを晴らせるかもしれない。なんとしても先に合流し、身の安全を確保しなくては……っ」
 ぼくが一緒にいれば、悪意を回避できたかも――なんて思うのは傲慢だろう。
 殿下も最善手を打たれたはず、ご無事を祈る他ない。
 北への街道は深い森を切り開いて続く。木々の影に覆われて先の見えない道が、ぼくの未来を暗示していた。

「新王都じゃあ突然現れた魔獣の暴走で大騒ぎだしな。騒動の取集がつくまでは、混乱が起きても仕方ないだろう」
「……領民に負傷者は、出たのですか?」
「家が何軒も吹き飛んでた、ありゃあ何人死んでても不思議じゃない」
 胸に鋭い痛みが走り、息が詰まる。
 心配して覗き込むヨーギに、なんでもないと首だけ振った。
「だが避難場所にヴィーラ殿下がお見えになられて、手をかざすと呻いてた子供や意識のない老人が目を覚まして起き上がった! さすがは殿下だと、今や新王都は喝采と賞賛に包まれているぞ!」
按手あんしゅ」――そうか殿下が、助けてくださったのか。
「それは、なによりですね」
 ぼくの尻ぬぐいをしていただいた……申し訳ない。
 暴走は湖を望む街外れの宿屋からであり、その軌道の大半が湖の上。チャンドラの誘導により、大通りなど領民が多く賑わう場所は避けられたのだ。
「本当チャンドラには、感謝しなきゃ」
 騒動を起こしたことに変わりないが、最大の懸念だけは払拭され息を吐く。
「お――~いあんたら、新王都から来なすったのかねぇ?」
 荷を背負った徒歩の行商人が、戸惑いつつ荷馬車に手を振る。
「ええっ……!? 大暴れする黒い翼の魔獣を、いっ一撃で倒しなすった!?」
「いや見事だったねえ。魔獣は跡形もなく吹き飛んで、真っ暗な世が昼間みたいに明るくなった。まさしく世界を照らされたんだ!」
「御顔を拝見したこともねえが、さぞ……その、凄まじい御方なんだろうなあ」
 物凄い美貌の少女って噂だぞ――オイオイ吟遊詩人の詩じゃねえんだから――。
 休憩する広場やすれ違う過客に、幾度も新王都の様子を尋ねられた。
 領民は畏怖に心臓をつかまれ、汗を落としながら笑いと尾ひれが繋がってゆく。
「そんな御方が国王になられるんだろ、この国も安泰だなあ」
 こうして殿下の抑止力うわさが広まるのは、いいことなのかもしれないけど。
「おい坊主、まだ顔色悪いぞ。いいから寝とき、町についたら起こしてやるから」
「ありがとうございます、お言葉に甘えまして」
 フード付きのマントを放られ、感謝して掛け布団にさせて貰う。体調がよければ念願ともいえる、荷馬車に寝転んでの牧歌的な旅だなと苦笑する。
 目をつむると、森の中で小鳥が低く鳴いていた。
「あれはゴシキヒワかな、疫病よけにお守りとして描かれた野鳥――…」
 荷台で横になり縁に頭をつける、何かが繋がりそうな、想い出しそうな予感。
 視点が固定しない……漂ってる感じだ。
 俯瞰ふかん視点で、あおり視点で。

 ぼくは、夢の中を歩く――。


 ☆


「あの鳥には、名前があるのかな……」
 縦に一筋ナイフの光を放つ瞳が、低く鳴く小鳥を視野に収め呟く。
 その領地には珍しく、森の開けた場所で亜人が1人土を崩していた。灰をかき分け蒸し焼きにした木炭を取り出し、丁寧に背負いかごへ詰めていく。
 ワーキャット――黒い猫の耳が小刻みに動き、その存在を誇示している。
 常になにかを探っており、作業しながらも意識は外に向いていた。
『近くに只人の気配はない?』
『ないよお姉ちゃん、もうしばらくここにいてもいいんじゃないかな』
『そうしたい所なんだけど――「そろそろ村に下りて、作った木炭を卸さなきゃ」
 黒猫の背後から、突如白猫が現れる。
 しかし黒猫に驚いた様子はなく、木炭を詰めながら平然と話を続けた。
「え――~…なんか商人あいつ、嫌な目つきしてたからなあ」
「只人なんて誰も同じよ、さっ行こ! 今回の稼ぎで、手斧やナイフ用の磨ぎ石が交換できればいいんだけど」
「うぅ……ん」
 白猫が率先して木炭を背負い、しぶる黒猫の気を引く。
 外見はともに9歳ほどで、背格好は同じだが白猫の方が年上気質を持っている。
 白猫は床に引きずるほど長い上着コットを腰に巻き動きやすくし、黒猫は膝丈の上着コット脚衣ブレーを履く。森の中を素足のまま、軽やかに歩いていた。
「どうしても嫌なら森で待ってていいよ……あっそうだ、久々にパンを買おう! チーズを暖めてつけると、美味しいんだよねえ――~!」
 白いフルテイルの尻尾がゆるやかに揺れる。
 聞き逃さなかった黒い耳がピンと立ち、背負った木炭の重さも忘れて駆け出す。
「ねえお姉ちゃんボクが買う! ボクがパンを選んでもいいでしょ!?」
 白猫の周りを黒猫が弾みながら追い、売りたてのが軟らかくて美味しいと力説。
 ハイハイと頷く白猫の、優しい笑いが木々に木霊した。
「小麦を買って保存して……窯をどうにかできれば、森でパンが焼けるんだけど」
『――っお姉ちゃん!』
 2人だけが通じる叫びを残し、森の中で気配が消える。
 自然の音楽だけが静かに流れ、目の前を獣が通っても気がつかなかっただろう。
『お姉ちゃん……これ、本当に只人? 魔獣の気配だよ!』
『こっこんな遠くなのに……なんて、激しい光っ!』
 生物が発している微かな光を、黒猫は気配として感じ取ることができた。
 黒猫の視線を頼りに、白猫もその気配をとらえる。通常なら視界も届かないほど隔てた距離に、天に届けと立ち上る輝き。
 村人の中に幾度か強い光を発する者はいたが、比べ物にならない異様さ。
『街に向かってるし、やっぱり只人か……この速さは騎馬か馬車だ』
『アタリ、ってことは貴族。まあ村で会うことはまずないでしょう』
 鼓動が高まる反面、怖いもの見たさか興味か視線が外せない。
 幸いこちらに気がついてる様子はなく、それでも……緊張感が毛を逆立てる。
「貴族って、妙な只人が多いんだね」
「ちょっとハズレ、妙な只人ばっかりよ」
 危険はないと判断し、絶っていた気配を戻して木炭を背負い直す。
 赤い仮面を被った小鳥が、突如現れた・・・2人に驚き飛び立った。



「――うごっ!?」
 素手の一撃が、騎士の胸部甲冑コート・オブ・プレートを穿ち吹き飛ばす。
 巨漢の騎士は天幕を破壊して転がり、3つ目の天幕を倒してあお向けに止まる。
 電車道に砂塵が舞い、同じく稽古していた騎士や従者が何事かと注視した。
「大層な甲冑を身にまとう騎士様が、戦いでどれほど役に立つのかと思えば」
 左頬に喉まで続く一文字の傷を持った男が、あざけて肩をすくめる。
 騎士同士の申し合い中に突如として乱入。一方を問答無用で殴っておきながら、不遜にもほどがある態度だった。
「慮外者がっ! 騎士が鍛錬を行う場に上がり込むとは、どういった了見か!!」
 対戦していたガッシリとした体格の騎士が、傷の男に剣を突きつけ叫ぶ。
 稽古用であり刃は潰してあれど、そうとは思えぬほどの迫力である。
「鍛錬だぁ? 男同士で肩寄せあい、醜いダンスでもしてるのかと思ったがね」
「貴様ぁ――っ!!」
 憤怒に表情を歪め、騎士が気迫をこめ剣の間合いを計った。
 傷の男は太い革ベルトの腰裏に2本の短剣を差している。しかしとても貴族とは思えず、さりとて兵士にも見えない。
 若いが長身で引き締まった筋肉――プレートメイルの騎士をなぎ倒した姿には、驚異的な膂力と敏捷性を感じさせた。
「ただ者ではないだろう、だがそれがどうしたっ!!」
 仲間を倒されあまつさえ見下され、引き下がっては騎士の名折れ。
 筋肉が怒りで膨張し、プレートメイルが金属音で呼応する。

「うがあああっ! 手を出すなミッタ――――ス!!」
 巨漢の騎士が傾いた天幕の支柱を殴り倒し、巨大な戦斧を両手に立ち上がった。
 殴られた胸部甲冑の横っ腹が凹み、滝の汗が流れている。
 しかし怒気が増さり、破壊された天幕を踏みしめ地を鳴らす。気の弱い者なら、それだけで卒倒しそうなほどの迫力を担っていた。
「おおヘートース! 無事かっ!!」
「当たり前だっ! この程度でやられはせん!! お主どこの盗賊だか知らんが、この俺がなます斬りにしてくれるっっ!!!」
 戦斧が八方の空を裂き、訓練場の仕切りに張ってあった杭とロープが吹き飛ぶ。
「なるほど、甲冑の頑丈さを誇るのが騎士の務めか」
「ほざけ――っ!!」
 平常心は地の彼方に吹き飛び、大地まで割れよと振り下ろす一撃。
 衝撃音とともに真っ二つにされたはずの男は、微動だにせず突っ立っていた。
「なっ……」
 頭上に迫る柄を片手で握る、ただそれだけで巨大な戦斧を固定したのだ。
「ヘートース卿の怪力を、片手で受け止めた!?」
「嘘だろ……っ! 猛獣さえも両断する方だぞ!!」
 集まってきた騎士も従者も、仲間が振るう戦斧の威力を知っていた。とても現実とは思えぬ状況に、無礼者を批判もせず立ち尽くす。
 だが件のヘートース卿も、事態を見ていたミッタス卿も別の意見である。
「なぜ避けない!?」
 少しの相対で口おしいが分かったのだ、この男なら容易く避けただろうと。
 受け止めるなど正気とは思えない、自殺行為ではないか。タイミングを損ねれば頭を割られるのは自明の理。
 理解のできない行動に疑問だけが沸き、思考がまとまらず傷の男を睨みつけた。
 男は口の端を上げ、ニヤリと笑う。
「――っ!?」
 それだけで理解できた、わざと・・・避けなかったのだと。
 怒りが頂点に達した2人の血の気が引き、視界は赤く染まる。肺が空気を求め、吸い込むと同時に――全身を殺気が支配した。

「卿らなにを騒いでいる! 鍛錬は私情を交える場ではないぞっ!!」
 均整のとれた身体と、180を超える長身。少年ほどの従騎士を従えた男性が、叫び声を上げつつも冷静に割って入る。
 甲冑は着ておらずオレンジのプールポワン姿だが、真っ直ぐなグレーの瞳だけで彼が騎士であると如実に表していた。
「いっいやバクター! この男がいきなり乱入してきて……っ!」
「ミッタス卿、事の是非を問うているのではない! 常に己を律し、道理を心得てこそ騎士ではないのか!」
「――っうむ、いや……確かに、軽率であった」
「ヘートース卿、騎士の鍛錬は武力ばかりではない! 卿が流してきた血と汗は、騎士道の気高き名誉と共にあるはずだ!」
「うっ……うがぁ」
 目を合わせ言葉をかける、それだけで2人の騎士は落ちつきを取り戻した。
 深く息を吐き、苦笑するバクター卿に謝罪の笑みを返す。そんな騎士の交流に、場違いな歯ぎしりの音が重なる。
「おうおう、かっこいいねえ色男・・――~!」
「君にも事情があろう、だがまずは話を窺い――」
 男の拳が空気を割り、バクター卿を襲う。


 ――新王都より北、市民1万を誇るその中都市は、木炭の一大生産地であった。
 炭焼き職人は湿度の低い8月~10月の間、夏の暑い最中に作業を行う。
 1年分の木炭を、森を移動しながらその場で製作するのだ。
 木炭の製作には約10倍の木材が必要とされ、木の種類によって炭焼きの製法が違うなど、親方につき従わねば手を出せる仕事ではない。
 石炭は煙が立ち込めたり依然と質が低く、領民は安価な薪か泥炭を使用した。
 だが製鉄など高温を必要とする鍛冶に、木炭は必要不可欠である。欧州において降水量は日本の3分の1と言われ、必然的に木は貴重品。
 そのため「御料林」――王の管理の元、国有林を保有しているほどであった。
 樹木管理官がおかれ、違法な伐採や密猟者を取り締まっていたのだ。森を所有し継承する貴族は、それだけで富豪と呼ばれている。
「なんだガキども、こんなとこまで入り込んで……え?」
 木こりは深い森の中で、複数の子供を目撃し怪しむ。
 だが見れば醜く歪んだ顔、異様に長い手の指、風に乗る獣の匂い――噂で聞いた魔獣の姿に、止めた呼吸が喉を滑り悲鳴の一歩手前で言葉を紡ぐ。
「ゴ……ゴブリンっ!」
 駆け込んできた木こりの報告を、衛兵は見間違えと断じて取り合わなかった。
 木炭は平野部に向けた主要な輸出品であり、出荷が滞れば損失は計り知れない。
 当初は軽々しく騒ぐなと口止めしたほどである。しかし発見の報告が相次ぐと、場所が御料林なだけに放ってはおけず……。
 念のため派遣された調査兵の所在が不明となり――会議の場は、騒然となった。
「閣下このまま手をこまねいては、納税上問題になること疑いありません!」
「いやそれよりも御料林で魔獣の狼藉を許したのだ、陛下への信頼が揺らぐ」
「すでに近隣の領民に被害が出ております、先んじて対処しておけば……」
「今さら嘆いても仕方なかろう、今後どのように対応するかだ!」
「しかし樹木管理の手抜かりと断罪され、所領の没収や最悪爵位の剥奪すら!」
 虚偽の報告などもっての外だ――いやまずは魔獣の規模を見定め――。
 議論が停滞し、汗と肩を落とす宮中伯や徴税官が一通りの責務を果たした後……領主であるトゥランガリア侯爵は、お腹を震わせ立ち上がり厳かに宣言する。
「騎士団を徴集し、速やかに魔獣の討伐を遂行せよ!」


「ホッホッホッ騎士の戒律には「臣従の義務を厳格に果たすべし」とございます。主君に対する忠誠心は、けして揺るぎませぬよ叔父上」
 ワインを片手に、領主の館に甲高い笑い声が響く。
 下唇から喉にかけて伸ばし、さらに頬からはみ出すほど左右にピンと張った髭。
 インペリアル髭を整えつつ、金のプールポワン姿の男が高らかに忠義を謳う。
 セルルス騎士団総長、スヴァティシュターナ卿その人である。その背後には巨漢の騎士が、プレートメイル姿で置物のように控えていた。
 騎士には徴集に応じる義務がある。
 使者が飛び立ち数日後――街道に騎士と従者、物資を運ぶ荷馬車が連なった。
 従騎士を率いてくつわを並べ、所領から賦役として農民を志願させ兵士とする。
 領主の館そばには天幕が張られ、参集した騎士や従士の訓練で連日剣が閃く。
 たった今も激しい気合が空気を響かせて聞こえ、トゥランガリア侯爵は騎士団の頼もしさに目を細めた。
「うむうむ、頼りにしておるぞ」
「では叔父上、私は兵を整列させてまいります。そろそろお見えになるのでは?」
 立ち上がり視線を流すと、薄紫のコタルディを着た女性が瞳を伏せ応じる。
 やけに蠱惑的な女性が、先触れとして訪れていたのだ。
「おっ……おおそうであった、ご足労いただいたうえお迎えに出ねば不敬となる。此度我が領地に至った事案は心苦しいが、これだけでも存外の誉れとなろうて」
 やんごとなき御方に、我が家系・・・・の雄姿をご覧いただけるのだから――。
 焦げ茶のマントをはおる甥の背に、叔父が意味をふくむ言葉を投げかけた。
 微妙な揺るぎを感じ振り返ったスヴァティシュターナ卿に、枕元のプレゼントを発見した子供の瞳が宿っている。
「ホッホッ……叔父、上?」
「我が家はついに、嫡男を望めなんだ。此度の功績に褒美・・を与えなくてはのう……戦功叙勲式が、今から楽しみじゃよ」
 トゥランガリア侯爵が、我が子を慈しむ温かさで微笑む。
「ホォ……おおっ叔父上! いえ、いいえトゥランガリア侯爵閣下っ!」
「推定相続人」――嫡男の不在は当然知っていた。叔父上が枕元に置いた箱には、いずれ自分がと渇望した世界が入っていたのだ。
 甥は咽を鳴らし一度胸を張り、手を胸に当て優雅に会釈する。
「オホン……私としては名誉だけで十分でござります。しかし偉大なる主君の命、全霊をもって当らせていただくことこそ、この身にとりなによりの幸せ!」
 スヴァティシュターナ卿は、押さえられぬ笑みを浮かべホールを退出。
 廊下には配下の騎士10名が待機しており、すかさず姿勢をただし礼を取った。
「卿ら――っ! 此度の討伐に際し、獅子奮迅の活躍を期待する!!」
 主君の頬を染めながらの宣言に、自分たちの進退にも光りが射すのを認識する。
「はは――――っ!!!」
 側近の頼もしき返答を背にマントをひるがえし、スヴァティシュターナ卿の前に館の門が打ち開き――己が指揮する騎士団の騒ぎに、髭が跳ねた。
「なっ……なにをしておるのじゃ、貴様らあっ!!」

「……上手えな、この色男」
 剣を取り槍を向ける数十人の騎士と数百の兵士を気にもせず、傷の男は目の前の男に賞賛ともとれる呟きを落とす。
 男が繰り出す拳が衝撃となって弾け、鼓膜を振動させる。恐るべき威力を秘めた不均等な旋律が、領主の館前で奏でられていた。
 しかしそのどれもが、1人の騎士を前に空を叩かざるを得ないのだ。
「足運びだな、ダンスとからかったが見事なもんだ」
 常に俺の横へと張りつく、死角へ回り込まれ片腕しか満足に振るえない。
 剣を抜いていれば、甲冑の隙間を狙い放題だろう。ガキの喧嘩とは違う、これが技術ってやつかね……。
「だがムカツクのは――その目だっ!!」
 こちとらてめえの仲間ぶん殴ってんだぞ、なぜそんな冷めた目えしてられる?
 馴染んだ訓練みたいに感情を消しやがって、怒るまでもねえってかあ!?
「クソがっ……そのすました顔ごと、叩き潰してやる!!」
 怒りをぶつけられたバクター卿とて、余裕がある訳ではない。
 プレートメイルを着込んだ巨漢を吹き飛ばす拳。破城槌に匹敵する威力が幾度も肌をかすめ、目の前で弾けるのだ。
 プールポワンが風圧で裂け、かすった髪が焦げた匂いさえ漂う。
 尋常ではない圧力に、数秒ごと生と死が交差して感じる。
「……世にはこんな、化け物もいるのかっ!!」
 囲む騎士が数人、男の背後に回り剣を突き込もうとするのを目で制す。
 直接戦っているのはバクター卿であり、歯噛みしながらも従ってくれた。
 彼は察していたのだ、おそらく傷の男に油断はなく即座に対応すると。この拳をくらえば、ただでは済むまいと。
「戦場を前にして、騎士団の兵力を損なう訳にはいかない!」
 そして脳裏をかすめる、ある者・・・の存在と噂――。

 いつの間にか騎士たちは観客と化し、闘技場の壁よろしく立ち尽くしていた。

「オホ――ン! 止めい、即刻止めい! 貴様ら全員そこへ直れいっ!!」
 騎士同志の練習や一騎討ちジョストではない、甲冑も着ていない男を騎士団が取り囲み、その上手も足も出ない姿を晒しているのだ。
 叔父上に見られようものなら、なんと無様かと失望されてしまうのではないか。
 輝く未来に暗雲が立ち込め、赤く染まった頬が青く窪んでしまう。
「きっ騎士団総長の命令ぞっ! 止めい――っ指揮に従わぬか貴様らぁ!!」
 やけに高く響くその叫び声を、誰もが耳にとらえていた。しかし別段意地悪している訳ではなく、2人の戦いに魅入っていたのだ。
 その類い稀な力と、優雅にも見える技量に。
「おいなんで抜かねえ……そんな細っこい・・・・剣、叩き折ってやるのによ!」
 傷の男が避けるだけのバクター卿に、疑問を投げかける。
「……感情に任せての抜刀など、剣を佩く者への侮辱だっ!」
 バクター卿の感情らしき言葉は、またしても己を律する姿勢に彩られていた。
 疲労に震える全身を精神で鼓舞する。視線は傷の男に向けたまま、周囲の騎士や従騎士に整然と問う。
「卿らもそうだっ! 騎士学校で過ごした日々を――誓った決意を、忘れたか!」
 まだ幼い頃に親元を離れ、誰もが見知らぬ世界に足を踏み入れた。
 喧嘩した者が病で倒れ、仲の良かった者がケガに敗れ、夜を徹し語り合った者が家の事情で背を向ける。
 体の痛みに耐え、心の痛みに幾度眠れぬ夜を過ごしたか。
 熾烈な争いを潜り抜け騎士となり、選び抜かれた精鋭が盗賊の罠に伏した。
「一時の激情に委ねても構わぬほどの……その程度の、熱き友情だったのか!?」
 彼と同期のヘートース卿やミッタス卿ばかりではない。多くが騎士学校で学び、友と切磋琢磨し乗り越えてきた道程。
「己に克ってこそ真実の騎士、名誉ではないのかっ!!」

「バクター様申し訳ありません! 僕が未熟でしたっ!!」
 つき従っていた従騎士が感涙して剣を納め、右手を左胸に謝罪する。
 バクター卿はそちらを見る余裕はなく、しかし目を細め微笑む。
「まさしくその通りですバクター卿! わっ我らが間違うておりました……っ!」
「浅ましい考えに取りつかれ、己を見失う所でした……お許しくださいっ!!」
 他の騎士も従騎士に倣い、気がついて己を恥いた。剣を収めて構えた槍を立て、胸を張ってバクター卿に敬礼する。
 同じ志を望む、同じ騎士道を歩む者たちの精神に、温かき光が灯る――。
「戦いの本質は、怒りだっっ!!!」
 流れた空気などお構いなしに、傷の男が吼えた。
 腕を回し首を鳴らしてやっとその動きが止まり、その姿に誰もが唖然とする。
 兵士なら知っている、練習であろうと「攻撃」がどれほど体力を消耗させるか。
 回避に専念していたバクター卿ですら肩で息をしているのに、男は汗もかかずに余裕すら感じられたのだ。
 騎士と傷の男に、どれほどの差があるのか。
「大層な説教に笑いが止まらねえぜ、てめえら貴族はなんもわかっちゃいねえ! 目の前で仲間が殺されても、己を律しろ武力ばかりではないとほざくのか!?」
「――っ!」
 バクター卿の瞳が、初めて揺れる。
 傷の男は無造作ともいえる大股で距離を詰めた。
「怒りだっ!!」
「……なっ!?」
 男の姿が巨漢を越え巨人の様相で迫り、バクター卿はあおぎ見て喉を震わす。
 体の内・・・から、淡い光がうっすらと立ち上っていたのだ。
「奪われた怒りが、死を越えた怒りが――「力」だっっ!!!」
 己の背丈ほどの拳が振りかぶられる、その圧倒的な死の告知――。
「――殿下の御前である! 控えよっ!!」
 先の騎士団総長に比べて静かな叱責は、遥かに洗練された覇気がこもっていた。
 誰もがなぜか・・・無視できず、声の発信源である館の門前へと注視する。深淵を望むガーネットの瞳、薄紫のコタルディを着た女性が整然と立っていた。
 時が止まったと錯覚する中、女性はふいに片膝を立てひざまずく。
 その意味を理解できたのは、傷の男のみだったろう。

「出迎えご苦労」
 騎士と従者が作る血生臭い円陣のただ中を、場違いな白バラが通り過ぎた。
 場の雰囲気など意にも介さず、誰もその視界には映さず、孤高に輝く姿は幾度も戦場を駆けた古参兵すら唖然とさせる。
 少女はただ独り、野を往くがごとく歩を進めたのだ。
 変則した一騎討ちの様相は、白バラの顕現により露と消えた。
 見れば闘技場と化した門前には豪華な貴族用馬車が停まり、数人の護衛であろう兵士が下馬し控えている。
 誰もが騒動に紛れ、少女の到着に気がつかなかったのだ。
「こっこれはヴィーラ殿下! 遠路お越しいただいた上にお手数までおかけして、もっ申し訳もございません!」
 群衆から進み出た領主が、ただ現れただけで騒ぎを収めた少女に謝罪する。
 集った者たちはやっと理解した。
『ヴィーラ王国王太女、プラーナ・ヴィーラ・アミターユ殿下!!!』
 騎士が片膝を立てひざまずき、台風で薙ぎ倒された稲穂が盛大にこうべを垂れる。
 外周では賦役された農民兵だろう、初めて見た王族に我知らず平伏していた。
 陽光がスポットライトを放ち、その場を一枚の絵画に演出する――。
「ちっ……早えよ」
 傷の男だけは舌打ちし、ふて腐れた顔で頭をかいてはいたが。

「叔父上の謝罪……それはなんの落ち度もない、私の過失となるのでは!?」
 騎士団総長スヴァティシュターナ卿は、汗が落ち黒く変色する影を凝視した。
 騒ぎを起こしたバクター卿を、目を血走らせ睨みつける。大切なプレゼントを、取るに足らぬ輩のせいで落とした心境。
「ああ、神は私を見放したもうたか……何故このような試練をお与えになる!」
「こちらに控えし騎士が、此度の遠征でセルルス騎士団を率いる騎士団総長、甥のスヴァティシュターナ卿にございます」
 領主の勧めに、少女の視線がかたわらにひざまずくインペリアル髭に注がれた。
 叱責か嘲笑か……直接声かかかるまで、甥には永劫の時間に感じられただろう。
「うむ、陛下の代理で此度の最高指揮官を務める。軍議を開き現状を報告せよ!」
 10歳の少女が淡々と事務処理を行う姿は異様だったが、誰にとっての幸いか、意識はすでに魔獣討伐へと向けられている。
「はっはは――っ! 御意にござりまするうっっ!!」
 オッホ――~ン、やはり私は、神の栄光を一身に受けておる――。
 血色が戻ったスヴァティシュターナ卿が先に立ち、殿下を館のホールへ誘う。
 甥の自己賛美に気がつく者はいなかったが、誰もが率先してつき従った。騒動の責任問題に触れるのを、回避したかったのだろう。
 しかし件の少女は、ふと意外な視線を感じ立ち止まる。横に膨らむ領主の影に、もう一つの小さな影が重なっていたのだ。
 4歳ほどの幼女が、隠れるように張りついていた。
「……トゥランガリア卿、その娘は?」
「おおっいつの間に、娘のアカーシャでございます。これ殿下にご挨拶なさい」
 黄金色の少女と赤毛の幼女の視線が、一瞬だけ交差する。
 アカーシャ嬢は父の服を握ったまま、無言で目を伏せた。
「申し訳ございません。甘やかして育ててしまったのか、少々変わった娘でして」
「ふむ……」
 珍しくも少女の意識は、影となりほとんど見えない幼女に魅かれている。
「はははっ年齢もそう離れてないせいか、こうしていますとまるで姉妹ですなあ。これを機に、殿下と縁を紡いでいただけたら光栄でございます」
 外見だけでいっても、一方は黄金色の髪で一方は赤いくせっ毛。容姿も表情も、醸し出す雰囲気まで全く違う2人。
 余りの白々しさに戸惑いつつ、それでも従者の乾いた笑いが館に木霊した。
 緊張と追従が支配する中、赤毛の幼女がボソリと呟く。
「まじゅう……」
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