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第一章 城郭都市マナスル
十九夜 門を啓きし者
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幻想のごとく現れたバジリスクが、その体を4分の1も伸ばせば18メートル。
3階の屋根を優に超えていた。
『――突如方向が変わる可能性もあります!』
「そんな推測当たらなくとも……っ」
自分の考えを苦々しく思い出す。
鈍く光る巨大な牙に「何」かを引っ掛けている。それを「人」と認識するには、あまりにも「形」が違い過ぎた。
バジリスクはそれを吐き捨てると、次の獲物を探すべく首を揺らす。
「食べるために殺しているのではない、殺すのが目的……?」
赤い舌がチロチロとうごめく。蛇と同じならヤコブソン器官――匂いの微粒子、フェロモンを感知する行動。
探しているのは「誰」を? 「何」を?
バジリスクが疑問に答えてくれるはずもない。巨大クレーンのブームのように、体ごと奥へスライドしていく。
音もなく、視界から消えた。
「いっ……痛いところはない? 驚いたよねえ、ごめんね」
抱っこしていた女の子は無事だびっくりしている。幸いぼくの影になっていて、バジリスクも見えていない。
「危ないから、早く皆のところへ――…えっ!?」
あらためて抱きしめ、笑って立ち上がろうとして……動けなかった。
右足ふくらはぎが想像しうる方向に向いてなかったのだ。脳内麻薬が出てるのか痛みはない、全身がしびれて感覚が鈍っている。
ただ、立てない。
どうする――路地裏に痩身の、フードをかぶった女性の影が浮き出た。
一瞬身構えたが「人」の形に安堵する。でもこのままでは通り過ぎてしまう……瓦礫だらけのなかで、倒れているぼくらが分かろうはずもない。
だけど声を出せば、またバジリスクが来るか!?
「――そこの方、どうかっ!」
低い声で、絞るように叫んだ。
フードの女性は思いついた仕草で振り向き、こちらに向かってくる。
「お願いします、この子を!」
「――、――っ! ――…!?」
彼女はなにかを叫んでいた。ぼくの右足に気がつき、肩に手を回して起こそうとするけど難しいだろう。
ぼくだけでも50キロ強、女の子をふくめれば80キロ。
「っこの子を頼みます! どうかこの子だけでも、助けてください!」
声は出ているのか? 伝わっているのか? 必死に頼んだ。
「家族の元へ……どうか、お願いします!」
「――~…」
その時ぼくがどんな表情をしていたのか分からない。
ただその痩身のフードは、驚いたように頷き子供を預かってくれる。
「あっありがとうございます!!」
女の子が不安そうに見つめてきて、精いっぱい笑い返した。
手が、離れる。
慌てて逃げていたのか、フードの女性は裸足。けれど女の子を抱き歩いていく、その背に希望が持てた。
「大丈夫、あの子は助かる。ぼくはM属性だ、そんな予感がする!」
今度も当たってくれ――。
この騒動のなかで託せる方に出会えた、運がいいんだ。
自分を励まし瓦礫の中から頑丈そうな棒を拾う。バジリスクの巨大な牙に比べ、なんて貧相な武器だろう。
剣は倒れた時に革紐ごと千切れ、見回せる範囲には見当たらない。
「まあ剣があっても訓練していない素人では、役に立つとは言いにくいけど」
いやあの魔獣が相手では、軍隊でも厳しいかな……。
少しささくれていたので、持ち手部分に手袋を2枚ともはめる。船の櫂みたいに漕いで体を引きずる、上手くいった。
側溝にはまだお湯が流れている、向こうへ渡っておきたい。
熱を感知できるピット器官があっても、ごまかせるかもしれない。バジリスクの狙いが分からない以上、ぼくもターゲットだと仮定して行動すべき。
這いつくばって動く……たった2メートルに、膨大な汗と体力を消耗した。
――影が、誘うように揺れる。
貴族の屋敷と違い、平民の住居は木造建築である。レンガや石壁に漆喰を塗って強化し、1階部分だけ申し訳程度に暖房性を高めていた。
いつしか日が傾き、夕日がぼくの影を石壁に映していたのだ。
「影供の丘……」
一瞬我を忘れて見つめ、思わずも呟いてしまう。
「この影を通って……ぼくは、異世界に来た」
来てからまだ1ヵ月ほど、現代の生活が鮮明によみがえった。
――影が、誘うように揺れる。
「……違うっ! 全身のダルさで、視界が混濁してるんだ!」
考えろ思考を止めるな、急いで隠れなければならない。だが周囲の音が拾えず、頭を打ったのか耳鳴りがしていた。
影を見ると心がざわつく、何かが繋がりそうな……想い出しそうな予感。
『アユムをアラヤシキへ、帰せるかも――』
ナイショ話をする姉がささやく、かわいい方だと思った。
「そうだ向こうの世界へ帰れば、魔獣なんかいない。パンだって手軽に買えるし、汗水たらして側溝を掘る必要も……常識違いに翻弄されることもない!」
ウールドが皮肉っぽく口の端を上げ、子供たちが興味深そうに目を輝かせる。
通りの皆さんが、笑いながら手伝ってくれた。
「国の命運なんか背負わず、好きな本を読んで暮らせるんだ!」
空虚な日常なんて思ったりもしたけど、それがどれだけ平和な日々だったのか。
どうにか側溝を渡り、喘ぐ肺が痛い。壁に射すぼくの影が目の前にきた……手を伸ばせば、触れる距離。
アカーシャが自分の口を押え、真っ青な顔をしている――。
「っ!」
自分の影に、背を叩きつけた。
弾かれたのはむしろぼくの方で、軽く咳きこんでしまう。
「だけどゲホッ……ヴィーラ殿下に! 踏んでいただく世界が、我が御国っ!!」
異世界で生きると決めたのだ、挑むように笑ってみる。
そうしたら本当に面白くなって、喉が震え少し笑えた。差し迫った状況も忘れて壁に頭をつける。
影に触れると、向こうの世界を感じられたから。
視界にいくつもの風景が重なる、どうせ視るなら知ってる場所――桜のつぼみがふくらむ学校に、「元図書委員長」がいた……ああもうすぐ卒業式か。
1年半に渡る攻防戦がフラッシュバックする。
生徒の志向を調べるのだと息まいて、2人で校舎を歩きましたよね。バカにされたりからかわれたり、辛そうな横顔に何度止めようとしたか。
だけどあなたの瞳は、それでも真っ直ぐに前を向いていたから……。
『当たり前でしょ、あんた図書委員じゃない!』
ここにいてもいいのだと怒鳴ってくれた、一つ年上の先輩。
図書室に桜が散って光に溶け、いつからか繋いでいた手が離れる。
ありえた未来? それとも、誰かの夢?
「ご卒業、おめでとうございます」
ちゃんとお別れができた、嬉しい誤算だった。
「これも一種の、走馬燈なのかな……」
独り言ちると、誰かが走ってくる振動を地面から感じる。
逃げてる? バジリスクが来たか!? 身を伏せようとした矢先、フードを目深にかぶった影が路地から飛び出した。
一瞬女の子を託した女性かと思ったけど、雰囲気が違う。
体格は男性で、ボロボロに汚れたローブ姿は行商人に見えない。だけどひと抱えはする籠をタスキに掛け必死に抱いている。
中には大きな……あれは、まさか卵?
「――っ!」
男が飛び出してきた路地を振りあおぐ、視線はかなり上空。
「バジリスクに狙われてる!?」
聞こえない耳がもどかしい、だが状況から緊迫した空気が伝わった。
側溝に伏せるよう忠告すべきか、助けようと右手を壁につき起きあがって――。
『――…っ』!
男の口元に「タラーク」に酷似した文様が浮かび、淡く発光する。空気が歪んで波紋が身体を叩き、色さえも息をひそめ停滞した世界。
探究部屋でアカーシャが掛けられた「綺人」……この男は因果伯!?
「ぎゃあああああ――――…っっ!!」
聞こえぬ耳が大気をとらえ、男の絶叫が木霊した。両目を押さえて膝をつくと、そのまま倒れてうめく。
瞬間的に「力」が解け、世界は再び動きだす。
「なぜ『カルマ』を啓いた男の方が、倒れたんだ!?」
度重なる疑問に思わず叫ぶが、答えてくれる者は誰もいない。
向いの屋根の上からバジリスクが追いすがって現れる。
何があったのか、顎の下が深く抉れ巨大な牙が1本砕けていた。致命傷に思える傷を気にもしていない。
左目の光がなく、感情の読めない右目で男を凝視していた。
連動するウロコがぬらりと光り、ぼくの半面を不規則に照らし出す。
身を隠す? 逃げる? そうだ生物なら火を怖がるはず、どうにかして――。
選択肢が脳内を駆け巡ったけど、現れただけで分かっていた。全てを不可能だと知らしめる、圧倒的な存在。
その絶対的な、死の告知――。
「――我のために生き! 我のために死ね!!」
バジリスクの口内が淡く発光し、黒に近い緑の煙をくゆらせる。
血だらけの顎を開く、たゆたう煙が充満していた。
タスキ掛けした男の籠から卵が転げ落ちる。
「――黒に近い緑のブレスを「引火性の危険「生死は不「っかい蛇だ」
卵はぼくとバジリスクの真ん中に転げ落ちた。
バジリスクが顎を開けたまま、卵を見る。
全てがコマ送りに感じられた。
「――炎の蛇「原因を……結果に「アラヤシキより召喚「運命と呼びます」
「しかし唯一、拘束から返還に至る道……」
右手を壁につき、持っていた棒がぼくの影に触れている。
我知らず呟く。
『カルマ』――。
――その老人は困っていた。
木を伐りにきたのに、手斧の柄を折ってしまったのだ。
背負いには拾った細い薪が数本乗っているだけ……。
ヨレヨレの着物、履きつぶしかけの草履が、惨めな気持ちを増幅させてしまう。
ふと道端に淡い光を感じ、白い布が目に入る。
何気なく雑草のなかから――白い手袋を2枚はめた、頑丈そうな棒を拾う。
少しささくれていたが、大変持ちやすかった。
老人は閃いて先を手刀で削り、折れた手斧の柄を外して代わりにつけてみる。
具合がよかった。
いやむしろ折れる前より、この白い手袋のおかげで使いやすいではないか。
老人は喜び、もう一度木を伐りに山に向かう。
……樫の木が切り倒される。
若い男性は祖父が生前使っていた古い手斧をいたく気に入り、愛用していた。
炭焼き小屋に薪の大きさになった樫が運ばれ、並べられていく。
木炭には1500度ほどの高温を必要とする――。
――『門を啓きし者』
呟いたぼくの影に、10センチほどの見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
識者ならば梵字の「キリーク」に酷似していたと、指摘しただろう。触れた棒が影に包まれ、棒の形を保ったまま崩れて消えた。
文様から大気を焦がし、身を焼き尽くす炎が召喚される。
炎は今まさにブレスを吐こうとした、バジリスクに直撃して誘爆した。世界が、オレンジの閃光に覆われる。
全身の感覚を失い、停止したかに思える光景。
炎に炙られ孵化が早まったのだろうか。転がり落ちた卵の上部が伸びて変形し、押し破って1匹の「魔獣」が産まれていた。
逆光にもそれは蛇に酷似しており、頭部には王冠に似た突起が認められる。
小さな「魔獣」は、じっとぼくを見ていた。
静かで、深い緑の瞳。
爆炎をまき散らし、吹き飛んだバジリスクの頭部が再び屋根に落ちてくる。
その重い衝撃を受け止めた建物を褒めるべきか。波打ち絶え間なく続く振動が、ぼくの体を小刻みに揺する。
そろり……と小さな「魔獣」が滑り寄り、ぼくのお腹の辺りに頬を摺り寄せた。
「シ――…」
顔を傾け、訴えるような目を向けてくる。
先ほどの女の子への気持ちが残っていたのだろうか。ぼくはなぜか「魔獣」を、優しく抱きしめた。
バジリスクはそれを――見たのだろうか、それともすでに事切れていたのか。
その目が身動ぎしたように悶えると、建物が悲鳴をあげ倒壊した。
ぼくの意識は、闇に落ちる……。
3階の屋根を優に超えていた。
『――突如方向が変わる可能性もあります!』
「そんな推測当たらなくとも……っ」
自分の考えを苦々しく思い出す。
鈍く光る巨大な牙に「何」かを引っ掛けている。それを「人」と認識するには、あまりにも「形」が違い過ぎた。
バジリスクはそれを吐き捨てると、次の獲物を探すべく首を揺らす。
「食べるために殺しているのではない、殺すのが目的……?」
赤い舌がチロチロとうごめく。蛇と同じならヤコブソン器官――匂いの微粒子、フェロモンを感知する行動。
探しているのは「誰」を? 「何」を?
バジリスクが疑問に答えてくれるはずもない。巨大クレーンのブームのように、体ごと奥へスライドしていく。
音もなく、視界から消えた。
「いっ……痛いところはない? 驚いたよねえ、ごめんね」
抱っこしていた女の子は無事だびっくりしている。幸いぼくの影になっていて、バジリスクも見えていない。
「危ないから、早く皆のところへ――…えっ!?」
あらためて抱きしめ、笑って立ち上がろうとして……動けなかった。
右足ふくらはぎが想像しうる方向に向いてなかったのだ。脳内麻薬が出てるのか痛みはない、全身がしびれて感覚が鈍っている。
ただ、立てない。
どうする――路地裏に痩身の、フードをかぶった女性の影が浮き出た。
一瞬身構えたが「人」の形に安堵する。でもこのままでは通り過ぎてしまう……瓦礫だらけのなかで、倒れているぼくらが分かろうはずもない。
だけど声を出せば、またバジリスクが来るか!?
「――そこの方、どうかっ!」
低い声で、絞るように叫んだ。
フードの女性は思いついた仕草で振り向き、こちらに向かってくる。
「お願いします、この子を!」
「――、――っ! ――…!?」
彼女はなにかを叫んでいた。ぼくの右足に気がつき、肩に手を回して起こそうとするけど難しいだろう。
ぼくだけでも50キロ強、女の子をふくめれば80キロ。
「っこの子を頼みます! どうかこの子だけでも、助けてください!」
声は出ているのか? 伝わっているのか? 必死に頼んだ。
「家族の元へ……どうか、お願いします!」
「――~…」
その時ぼくがどんな表情をしていたのか分からない。
ただその痩身のフードは、驚いたように頷き子供を預かってくれる。
「あっありがとうございます!!」
女の子が不安そうに見つめてきて、精いっぱい笑い返した。
手が、離れる。
慌てて逃げていたのか、フードの女性は裸足。けれど女の子を抱き歩いていく、その背に希望が持てた。
「大丈夫、あの子は助かる。ぼくはM属性だ、そんな予感がする!」
今度も当たってくれ――。
この騒動のなかで託せる方に出会えた、運がいいんだ。
自分を励まし瓦礫の中から頑丈そうな棒を拾う。バジリスクの巨大な牙に比べ、なんて貧相な武器だろう。
剣は倒れた時に革紐ごと千切れ、見回せる範囲には見当たらない。
「まあ剣があっても訓練していない素人では、役に立つとは言いにくいけど」
いやあの魔獣が相手では、軍隊でも厳しいかな……。
少しささくれていたので、持ち手部分に手袋を2枚ともはめる。船の櫂みたいに漕いで体を引きずる、上手くいった。
側溝にはまだお湯が流れている、向こうへ渡っておきたい。
熱を感知できるピット器官があっても、ごまかせるかもしれない。バジリスクの狙いが分からない以上、ぼくもターゲットだと仮定して行動すべき。
這いつくばって動く……たった2メートルに、膨大な汗と体力を消耗した。
――影が、誘うように揺れる。
貴族の屋敷と違い、平民の住居は木造建築である。レンガや石壁に漆喰を塗って強化し、1階部分だけ申し訳程度に暖房性を高めていた。
いつしか日が傾き、夕日がぼくの影を石壁に映していたのだ。
「影供の丘……」
一瞬我を忘れて見つめ、思わずも呟いてしまう。
「この影を通って……ぼくは、異世界に来た」
来てからまだ1ヵ月ほど、現代の生活が鮮明によみがえった。
――影が、誘うように揺れる。
「……違うっ! 全身のダルさで、視界が混濁してるんだ!」
考えろ思考を止めるな、急いで隠れなければならない。だが周囲の音が拾えず、頭を打ったのか耳鳴りがしていた。
影を見ると心がざわつく、何かが繋がりそうな……想い出しそうな予感。
『アユムをアラヤシキへ、帰せるかも――』
ナイショ話をする姉がささやく、かわいい方だと思った。
「そうだ向こうの世界へ帰れば、魔獣なんかいない。パンだって手軽に買えるし、汗水たらして側溝を掘る必要も……常識違いに翻弄されることもない!」
ウールドが皮肉っぽく口の端を上げ、子供たちが興味深そうに目を輝かせる。
通りの皆さんが、笑いながら手伝ってくれた。
「国の命運なんか背負わず、好きな本を読んで暮らせるんだ!」
空虚な日常なんて思ったりもしたけど、それがどれだけ平和な日々だったのか。
どうにか側溝を渡り、喘ぐ肺が痛い。壁に射すぼくの影が目の前にきた……手を伸ばせば、触れる距離。
アカーシャが自分の口を押え、真っ青な顔をしている――。
「っ!」
自分の影に、背を叩きつけた。
弾かれたのはむしろぼくの方で、軽く咳きこんでしまう。
「だけどゲホッ……ヴィーラ殿下に! 踏んでいただく世界が、我が御国っ!!」
異世界で生きると決めたのだ、挑むように笑ってみる。
そうしたら本当に面白くなって、喉が震え少し笑えた。差し迫った状況も忘れて壁に頭をつける。
影に触れると、向こうの世界を感じられたから。
視界にいくつもの風景が重なる、どうせ視るなら知ってる場所――桜のつぼみがふくらむ学校に、「元図書委員長」がいた……ああもうすぐ卒業式か。
1年半に渡る攻防戦がフラッシュバックする。
生徒の志向を調べるのだと息まいて、2人で校舎を歩きましたよね。バカにされたりからかわれたり、辛そうな横顔に何度止めようとしたか。
だけどあなたの瞳は、それでも真っ直ぐに前を向いていたから……。
『当たり前でしょ、あんた図書委員じゃない!』
ここにいてもいいのだと怒鳴ってくれた、一つ年上の先輩。
図書室に桜が散って光に溶け、いつからか繋いでいた手が離れる。
ありえた未来? それとも、誰かの夢?
「ご卒業、おめでとうございます」
ちゃんとお別れができた、嬉しい誤算だった。
「これも一種の、走馬燈なのかな……」
独り言ちると、誰かが走ってくる振動を地面から感じる。
逃げてる? バジリスクが来たか!? 身を伏せようとした矢先、フードを目深にかぶった影が路地から飛び出した。
一瞬女の子を託した女性かと思ったけど、雰囲気が違う。
体格は男性で、ボロボロに汚れたローブ姿は行商人に見えない。だけどひと抱えはする籠をタスキに掛け必死に抱いている。
中には大きな……あれは、まさか卵?
「――っ!」
男が飛び出してきた路地を振りあおぐ、視線はかなり上空。
「バジリスクに狙われてる!?」
聞こえない耳がもどかしい、だが状況から緊迫した空気が伝わった。
側溝に伏せるよう忠告すべきか、助けようと右手を壁につき起きあがって――。
『――…っ』!
男の口元に「タラーク」に酷似した文様が浮かび、淡く発光する。空気が歪んで波紋が身体を叩き、色さえも息をひそめ停滞した世界。
探究部屋でアカーシャが掛けられた「綺人」……この男は因果伯!?
「ぎゃあああああ――――…っっ!!」
聞こえぬ耳が大気をとらえ、男の絶叫が木霊した。両目を押さえて膝をつくと、そのまま倒れてうめく。
瞬間的に「力」が解け、世界は再び動きだす。
「なぜ『カルマ』を啓いた男の方が、倒れたんだ!?」
度重なる疑問に思わず叫ぶが、答えてくれる者は誰もいない。
向いの屋根の上からバジリスクが追いすがって現れる。
何があったのか、顎の下が深く抉れ巨大な牙が1本砕けていた。致命傷に思える傷を気にもしていない。
左目の光がなく、感情の読めない右目で男を凝視していた。
連動するウロコがぬらりと光り、ぼくの半面を不規則に照らし出す。
身を隠す? 逃げる? そうだ生物なら火を怖がるはず、どうにかして――。
選択肢が脳内を駆け巡ったけど、現れただけで分かっていた。全てを不可能だと知らしめる、圧倒的な存在。
その絶対的な、死の告知――。
「――我のために生き! 我のために死ね!!」
バジリスクの口内が淡く発光し、黒に近い緑の煙をくゆらせる。
血だらけの顎を開く、たゆたう煙が充満していた。
タスキ掛けした男の籠から卵が転げ落ちる。
「――黒に近い緑のブレスを「引火性の危険「生死は不「っかい蛇だ」
卵はぼくとバジリスクの真ん中に転げ落ちた。
バジリスクが顎を開けたまま、卵を見る。
全てがコマ送りに感じられた。
「――炎の蛇「原因を……結果に「アラヤシキより召喚「運命と呼びます」
「しかし唯一、拘束から返還に至る道……」
右手を壁につき、持っていた棒がぼくの影に触れている。
我知らず呟く。
『カルマ』――。
――その老人は困っていた。
木を伐りにきたのに、手斧の柄を折ってしまったのだ。
背負いには拾った細い薪が数本乗っているだけ……。
ヨレヨレの着物、履きつぶしかけの草履が、惨めな気持ちを増幅させてしまう。
ふと道端に淡い光を感じ、白い布が目に入る。
何気なく雑草のなかから――白い手袋を2枚はめた、頑丈そうな棒を拾う。
少しささくれていたが、大変持ちやすかった。
老人は閃いて先を手刀で削り、折れた手斧の柄を外して代わりにつけてみる。
具合がよかった。
いやむしろ折れる前より、この白い手袋のおかげで使いやすいではないか。
老人は喜び、もう一度木を伐りに山に向かう。
……樫の木が切り倒される。
若い男性は祖父が生前使っていた古い手斧をいたく気に入り、愛用していた。
炭焼き小屋に薪の大きさになった樫が運ばれ、並べられていく。
木炭には1500度ほどの高温を必要とする――。
――『門を啓きし者』
呟いたぼくの影に、10センチほどの見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
識者ならば梵字の「キリーク」に酷似していたと、指摘しただろう。触れた棒が影に包まれ、棒の形を保ったまま崩れて消えた。
文様から大気を焦がし、身を焼き尽くす炎が召喚される。
炎は今まさにブレスを吐こうとした、バジリスクに直撃して誘爆した。世界が、オレンジの閃光に覆われる。
全身の感覚を失い、停止したかに思える光景。
炎に炙られ孵化が早まったのだろうか。転がり落ちた卵の上部が伸びて変形し、押し破って1匹の「魔獣」が産まれていた。
逆光にもそれは蛇に酷似しており、頭部には王冠に似た突起が認められる。
小さな「魔獣」は、じっとぼくを見ていた。
静かで、深い緑の瞳。
爆炎をまき散らし、吹き飛んだバジリスクの頭部が再び屋根に落ちてくる。
その重い衝撃を受け止めた建物を褒めるべきか。波打ち絶え間なく続く振動が、ぼくの体を小刻みに揺する。
そろり……と小さな「魔獣」が滑り寄り、ぼくのお腹の辺りに頬を摺り寄せた。
「シ――…」
顔を傾け、訴えるような目を向けてくる。
先ほどの女の子への気持ちが残っていたのだろうか。ぼくはなぜか「魔獣」を、優しく抱きしめた。
バジリスクはそれを――見たのだろうか、それともすでに事切れていたのか。
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ぼくの意識は、闇に落ちる……。
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