M属性 ~嗚呼、あなたに踏まれたい~

高谷正弘

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第一章 城郭都市マナスル

二夜 プラーナ・ヴィーラ殿下

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「空気が違う」
 かつて外国へ旅行したおばさんはそう評した。
「空港を出ると風の質感が違う、肌を焼く日の強さが違う、土地の匂いが違う――空気の違いが異国なのよお!」
 リンゴから万有引力を導いた、ニュートンもかくやの勢いで語る。
 先ほどからぼくは独り納得していた。
「そうだ、空気が違うんだ」
 中学校の乾燥した空気から一転。石に冷やされた空気の冷たさ、どこか懐かしい油の匂い、生活臭も違うのだろう。
 それら全てが伝えている。
 ではここは、「異なった世界」なのだと。
「遊園地のアトラクションで、この雰囲気は出せないだろうな」

「こっこやつ、我のローブをまくろうとしおったぞ!!」
「っう!」
 それは誤解です――反論も許さずおでこが鈍い音をたて、黒い大理石の床に叩きつけられた。
 鼻が非友好的な調べと同時に歪み、生暖かい液体が吹きこぼれる。
 昆虫採集の標本となり、後頭部を中心に縫い留められた。身体が苦痛を覚悟して硬直し――そこで世界は停止する。
「なるほどこうなると、身動きが取れなくなるなあ」
 他人事のように分析していた。
 視線だけでも抗じると、ローブがまくれふくらはぎが顔を覗かせている。大理石ほど白く滑らかな左足が間近にあった。
 石床を噛む・・足指が震え、愛らしいくるぶしがしなやかなすねを引き立たせている。
 この脚が体を支えているのだ。

「嗚呼、このぼくを踏んでいるのだ――」

「裸足が悔やまれる、ハイヒールだったら後頭部を貫かれていただろうに」
 心で反論しつつも、向こう・・・ではついぞなかった刺激に身をまかせた。
 高鳴る鼓動が床を伝わり、少女に聞こえてしまわないか。悶えにも似た恍惚に、我知らず笑みがこぼれる。
「この……痴れ者がっ!!」
 少女が憤怒ふんぬの表情を隠そうともせず、脚にさらなる力をこめた。
 双方の瞳が炎を撒き散らし、太陽から突出したプロミネンスを連想する。熱波が人類滅亡の効果音をもたらす。
 あるいはギャラルホルンが相応しいか、甲乙つけがたいだろう。
「…――! ――さいっ!」
 誰かが抑制を求めていた。
 むしろぼくより、周囲の方が恐怖を感じていたのかもしれない。
「お気持ちは大変ありがたいのですが、このひと時の邪魔をしないでください」
 鼻血で呼吸がし辛く喘ぐ、苦痛が限界に達しようとしている。
 頭蓋骨が抗議の悲鳴をあげ――…。

「……っえ?」
 唐突に、ぼくは自由となった。
「空気」を読まず誰かが割って入ったのではなく、少女が足をどけたのだ。
 電気に弾かれたように。
「なぜ止めるのです? ぼくはなにか、失礼をしたでしょうか!?」
 おあずけされた無念さに心で叫び、少女を上目遣いであおぎ見る。
 硬直を強いられていた全身の筋肉がマヒしていた。手足は弛緩した肉塊となり、ダランと垂れ下がり役に立たない。
「まるで、今産まれ落ちたみたいだ……」
 苦労してあお向けになり、自分が肩で息をしていたと気がつく。
 中断された口惜しさはあれど、また踏んでいただけよう夢見心地に酔っていた。
「我はあんな……っなんだこの無礼者は!」
 少女が形の良い眉根を寄せ、ぼくを罵倒する。頬を上気させ、耳朶じだの熱さを自覚したのか隠そうとして失敗。
 どうやら地団太を耐えるだけの矜持は保てたようだ。
「何故我の足にっ! ローブを、この……っ!」
 ぼくの息がかかった足の甲を凝視し、憤懣ふんまんやる方ないと激怒していた。
 八つ当たりとばかりに――いつの間にか黒い大理石から下りうずくまっている、グラマラスフードを睨みつける。
 薄紅色の口が咆哮をあげた。
「スーリ……っ!」
 しかし少女の言葉が途切れる、なにか意思の疎通があったのだろうか。
 交差する視線が浪波を立たせ、徐々に鎮まってゆく。グラマラスフードが口元を押さえたまま、会釈の仕草をみせる。
「はぁ……っ功を許す、好きにせよ!」
 少女は苛立たしさと滴る汗を振り払い、天をあおいでひとつ息を吐く。
 最悪の事態は回避できた、そんな安堵が場を支配した。

「M属性か――その不埒者を謁見の間へ引っ立てろ、相応しい主命を与える!!」
 そのままぼくには一瞥もくれず、苦虫を噛み潰しながら足早に部屋を後にする。
 突如唯一の出入口である扉が、不満を一身に受けて吹き飛ぶ。ぼくを踏んでいた脚がひるがえり、蹴りつけたのだ。
 工事現場の重低音が石壁を揺らし、振動が天井から小石が降らす。
 ヒンジと鋲が抗弁を試みるも無視され、歴史を感じさせる扉は床板と化した。
「――っ殿下、随行をお許しください!」
 少女の予期せぬ行動に驚きつつ、即座につき従ったのは巨漢フードのみ。
「うん、そうでなくっては」
 ぼくの賛辞は、はたしてどちらに対してか。
 驚きから焦燥、衝撃から安堵。緊張と解放を短時間で繰り返した周囲の騎士に、著しい思考の低下があっても仕方がないだろう。
「はっ……で、殿下?」
「殿下は何処に――殿下、どうかお待ちをっ!!」
 少女の不在に気がついた騎士が顔を見合わせ、焦りの叫び声をあげる。
 短距離走者のように「バタバタ」と駆けだすと、フードたちも遅れて追従した。
「遅いっ!!」
 容赦のない巨漢フードの叱咤が埃っぽい空気を震わせる。騎士たちの対応から、少女は身分の高い方なのだと推測できた。
「殿下」と、つまりは「王族」に連なる御方。
「ん……っふう」
 上半身を起こすと、床に接地していた部分が湿気で体型を描いている。
 擦れた笛の音が呼吸音だと認識できなかった。肌の冷たさと吐く息の暖かさで、季節と――自分が全裸なのを思い出す。
 裸足に力を入れ、全身を鼓舞して「ガクガク」と立ち上がる。
「……本当に、産まれたての小鹿だなあ」
 先ほどの自問に自答し、石壁を支えに少女の後を追った。
「そうだぼくはあの炎に輝く瞳に、インプリンティングされたんだ」
 少女と離れたくなかった、狂おしいまでの切望が心をつかんでいる。太陽を失い氷河期と化した星で、生きる事はできないのだから。
 鼻血はすでに止まり、赤黒いシミをマーキングしていた。


 ☆


 幾度かの誰何すいかは――あったと思う。
 倒れてくる石壁に苦労し、肩と頭を擦りつけて歩いてたので定かではないが。
 少女への沸き立つ気持ちだけが、揺らぐ意識を繋いでいる。

「…――ん?」
 気がつけば漆黒のローブをはおっていた。
「そのまま進んでください、もう少しで抜け出せます」
 どうやらグラマラスフードが、自身のローブをかけてくれたようだ。
 そのせいで半裸姿が痛々しい。シニヨンできっちりまとめたハチミツ色の髪が、乱れ色っぽくなっている。簡素なリネン製のブラからはみ出るたわわなメロンを、潰れるほどぼくの胸に押しつけていた。同じくリネン製の腰で縛った紐パンから、やや育ち過ぎの大根がにょっきり・・・・・と生える。
 熟したリンゴの顔が、息も荒く露に濡れていたのだ。
 ふと頭半分は大きい彼女が、ほぼ真横で息を弾ませていて不思議に思う。
「次の角を、右に曲がりますからね」
 小さな声で方向も指示している。
 独りで歩いてるつもりが、肩を組み案内されていたと気がついた。
「ッ――ワア、モウシワケありまセん!」
 頭を振って朦朧とする意識を覚醒させる。
 遅まきながらとは思うが、しないよりましと謝罪と感謝を告げた。
「モッモう大丈夫です! ローブも着せてくださり、ありがとうございます!」
「――っっ!?」
 ……人はここまで目を見開けるのかと、賞賛したいほどの凝視。
 怒りか疑問か、彼女は口を数度開け閉めしてから視線を転じてしまう。
「正気に戻……回復されたのなら幸いです。色々と訊きたい事があると思います、召喚・・についても」
 口ごもりながら、なにかを必死に伝えようとする。
「責は私が必ず受けます、今はどうか心を静めていただけないでしょうか……」
 心を静める……ぼくはなにか、危ないセリフを発したのだろうか。
「手違い勘違いがあっては問題となる、訂正しなくては――」
 しかしそれ・・よりも、ぼくは少女の事しか頭になかった。
 状況を理解してなお、訊きたいのは少女の事ばかり。どれほどの身分なのか? お側に仕えるのは可能か? 主従の絆は構築できそうか?
 また、踏んでいただけるだろうか!?
 知りたい事、希望とする事が――…。
「あのお方は、プラーナ・ヴィーラ殿下です。ヴィーラ殿下とお呼びください」
 懇願を舌先に乗せるより先に彼女が告げる。
「あとは全て、ヴィーラ殿下がお決めになられます」
 それ以上必要のない、完璧な答えを得た。

 オレンジの光が周囲を照らしだす。見れば後ろにコロポックルフードが、蝋燭ろうそくを刺した燭台持って追従している。
 取っ手のついたアンティークな燭台が、周囲の石壁と妙にマッチしていた。
 重厚な石畳の廊下を幾度も曲がり、肩を借りながら上り下りする。記憶力の良さを自負しているぼくでも、一旦立ち止まる複雑さ。
「これもアトラクションとは思えない。これほどまで所在を不明瞭にする理由が、あったのだろうけど……」
 先の見えない複雑な経路を浮かばせる、まさに暗闇の迷宮。
 確信をもって進む彼女は、内部情報に詳しいのだろう。先ほどの立ち位置でも、重要なポストであると示唆していた。
「痛……っ!」
 その割には独創性のない石畳批判をし、裸足の裏を見てはコロポックルフードと口喧嘩コミュニケーションをしている。
 長い間放置されていたのだろう、石畳の通路には小石と埃が積もっていた。
 でもぼくには、蓮の葉の上を軽やかに舞っている心地よさである。
 肉体も、精神も。
「ヴィーラ殿下……」
 ――なんと活力と勇敢さを表すお名前だろう。
 何度も繰り返し、時に甘噛みし、新たな主の誕生を祝福すべく謳う。
「ヴィーラ殿下っ!」
 ――頬がゆみ丹田が震える最上級の高揚感。
 その様子を怪しみ、覗きこんだ完熟リンゴと目があう。
 会心の微笑を返すと、咳払いのあと何も見なかった聞かなかったと流された。
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