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第一幕 千歳の世界

5.恋じゃない、愛じゃない

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 それから一ヶ月が過ぎた。すっかり冬本番になった頃合い。そこらに生えているナナカマドの木もすっかり色づき、オレンジ色の実をたらふくつけていた。

 あのちょっとした事件後、れいからはなんの連絡もない。地雷でも踏んだか、そう思ったけれど、正直自分でも何が理由で機嫌を損ねたのかわからないままだ。そのせいで、こっちからもメッセージは送れないまま、時は無情に過ぎ去っている。

 一ヶ月も連絡がないというのは、今までのセフレの間なかったことだ。少し調子を崩してしまう。でも、切れる縁ならそれまでだろう。やめようとスッパリ一言でも送ってくれればいいものの、薄情者だな、と思うだけで。

「さっきから何イライラしてるの? ちーちゃん」
「イライラなんて……あー、してるかも、少し」
「仕事上手くいってないとか? 愚痴なら聞くよー」
「うぅ……瑤子ようこ、アンタの優しさが身に染みるわ」

 さすがは我が友、と大げさに目の下を指で拭うふりをする。

 今日はオフだ。友人の瑤子とショッピングやカラオケをしたあと、ホテルで遅めのビュッフェを楽しんでいる最中。普段は入れないような立派なシティホテルだけど、ビュッフェ券を瑤子が抽選で当て、こうしてご相伴にあずかっているわけだ。

「でも、仕事の件じゃないの。ちょっとした私情」
「もしかして……あのセフレの人のこと?」

 小声で瑤子が聞いてきたものだから、素直にうなずいた。カルボナーラをフォークでつついていた瑤子は驚いた、それでいて呆れたような顔を作る。

「まだ続いてたんだ。石黒いしぐろさんだっけ、確か」
「いや、それが続いてるんだかわからないのよ、今」
「その様子だと連絡が来なくなったとか」
「それなのよね。やめるにしても一年よ、一年。一言、別れの言葉くれてもよさげじゃない?」
「そーゆー関係に別れの言葉っているのかな?」

 痛いところを突かれ、あたしは無言で白身魚のフライを食べた。

「言われてみたらそうかも……世の中のセフレってどうやって別れてんの?」
「知らないよー。でもでも、普通は音信不通だと思うけどな。お互い都合がいい関係なんだし」
「あ、やっぱり? だとしてもねぇ……」

 中途半端な終わり方、とあたしはため息をつく。結局、何が原因で玲の機嫌を損ねたのかはわからずじまい。『無自覚』という意味さえも。瑤子に聞いてもこれはわからないだろう。彼女はお酒を飲んだときのあたしを知らないからだ。

「一年も続いてたっていうのが凄いよ、ウチからして見たら。いい加減、恋人作れば?」
「面倒じゃん。瑤子だって恋人いないくせに。フったんでしょ? バーの店員」
「ウチは仕事一筋ですからー。仕事楽しいですからー」
「アンタねぇ……それなのに合コンに誘うってどういうわけ?」
「お安くご飯が食べられるってよくないかな?」

 同感です。しがないアパレルメーカー店員と、フリーライター。食費は安い方が互いにいい。

「周りの人間にも結婚しろーとか、彼氏作れーとか言われないしね」
「ああ……あたしもそうだわ。てか、父さんが怖くて彼氏が逃げ出すレベル」
「ちーちゃんのお父さん、頑固で無口だもんねー。かっこいいけど。お父さんに今のちーちゃんがやってることバレたら、大変なことになりそー」
「楽しそうにしちゃって、全く」

 笑う瑤子を尻目に、あたしは冷たいお茶を飲む。結構食べたが、デザートは別腹だ。気分と話題を変えるため、椅子から立ち上がる。

「ちょっとデザート取ってくるわ」
「りょー」

 ひらひらと手を振る瑤子を置いて、デザートコーナーに向かう。プティング、ケーキ、ゼリー、色とりどりのお菓子が輝いて見えた。中央には大きなチョコレートフォンデュが、美味しそうな甘い香りを放って食べられるのを待っていた。

 あたしの大好きなガトーショコラがあったから、それを二つ取る。あとはプティング。もう一つおまけして何か取ろうか、そう思って視線をふと、上げたとき。

 視線の先に玲がいた。

 一ヶ月で見違えるはずはない。向こうは気づいていないが、あれは紛れもなくあたしのセフレ、石黒玲だ。またもやなんでこんなところに、と思うより早く、目が隣の女性に向く。

 彼の横には、少し長めの黒髪をカールした可愛い子がいた。化粧も今風で、ガーリッシュ系のワンピースがとても似合っている。

 こちらにも気づかず笑い合う二人を見て、頭が一瞬のうちに真っ白になる。

 ――あれは、彼女。

 なぜだろうか、そう思った。思った途端、あたしはチョコレートフォンデュの影に隠れて二人をうかがう。何をしているのだろう、我ながら理解できないけれど、そうしていた。

 不遜な態度、傲慢な様子なんて微塵も感じさせないまま、玲は彼女であろう子へ紳士的に接している。今から帰るところなのか、二人はロビーへ向かう途中だった。玲の手には、彼女のものと思しき荷物がある。

 女性が玲の腕と腕を絡める。玲は抵抗しない。当たり前だ。アイツはそういうやつだ。

 でも、あたしが冗談でしようとしたとき、冷ややかな目で見られたことがある。それに比べて今はどうですか。いや、比べるべくもない。やっぱりね、彼女は別格だもんね。

 あたしはただのセフレ。彼女には遠く及ばない。きっと玲が連絡してこなくなったのは、彼女ができた、それが理由。

 小柄で可愛い、あたしとは全く正反対の彼女と玲は、お似合いだ。傍目から見ても。悔しいとか思う隙すらないほどの美男美女。そんな二人を、黙ってただ見送る。

 二人がどこかへ去ったあとも、しばらくあたしはその場に立ちつくしていた。

 これはなんだろう。脱力感にも似た何かが体中を襲う。心の中が空っぽになったみたいだ。

 いや、はっきり言えば少しむかっ腹が立っていた。彼女ができたなら、それくらい言え、と。あ、でもプライベートには踏みこまないって約束だから、それを玲は忠実に守っていたことになるのか。律儀だ。不埒だけど律儀なやつだ。

『普通は音信不通だと思うけどな』

 瑤子の言葉が頭の中で繰り返される。そりゃそうだ、セフレなんぞそんな別れ方をするに決まってる。

 あれほど体の相性が合う人間は、そういないだろうな。そう理性で思う反面、胸がなんだかむず痒い。今すぐ皿を置いて頭を掻きむしりたくなるような感覚。これに似た感覚を、あたしは知っているような気がする。

 それがなんなのかを思い出したくなくて、小さなため息を吐き出した。

 ガトーショコラの上に飾られた金箔が、吐息に小さく揺れた。

  ※ ※ ※

 夜。本当はもう少し瑤子と遊んでいたかったのだけれど、一気に気力が削がれて結局、家路についた。彼女には悪いことをした。本人はあたしを気遣ってくれていたけど。

 化粧を落とすと、真っ青な自分の顔が鏡にあってびっくりした。なんだこれ、そう思うほど。

 いつものスウェットに身を包んで、テレビをつけて気持ちを紛らわせる。だめだった。思い出すのは玲と彼女さんの姿。

 おいおい、あたしよ、どうしたって言うんだい。理性のあたしが頭の中にぽんと現れる。

 だって結局、体だけの関係だろうに。アンタが彼氏を作ろうが、アイツに彼女ができようが、それとこれとは別物だろう?

「うむ、その通り」

 だったら何も気に病む必要はないじゃないか。一年いい思いをした、それだけのことだろう。

「なるほど納得」

 次に行こう、次。合コンでもなんでも出てしまえ。男なんざ星の数ほどいる。

「そうなんだけどね……ってあたしは何をやってるんだ」

 一人芝居に飽きて、座椅子の上で伸びをする。ああ、馬鹿らしい。たかがセフレのことでいちいち落ちこんだりするなんて、本当にあたしらしくない。いや、まあ、はじめてのセフレが玲だったからというものもあるんだろうけど。

「今までありがとう、ごちになりました」

 と呟いて、一人合掌のポーズを取ったとき、不意に電話が鳴った。瑤子かな。

 思わず番号も見ずに携帯を取った。

「はいはい、瑤子? 今日はごめんね」

 無言だった。おや? 瑤子……じゃなかったりする?

『あの……千歳ちとせさん、ですか』

 しばしの間を置いて、知らない声が届いた。女性の声で、ちょっと甲高い。でも、友達ではないことは確かだ。

「はあ、千歳ですが。どなたですか」
『……奈緒なお津山つやま奈緒といいます。あのぉ、あの』
「津山さん……?」
『石黒さ、いえ、玲さんと別れて下さい』

 いきなりの要求に、へ? と吐息みたいな間抜け声が出た。

「別れ……はい?」
『玲さんの携帯見たら、千歳さんしか女性の名前なくて。あなた、玲さんの彼女なんでしょ?』
「いやっ……ちょ、待って」

 アンタ人の携帯見るとかデリカシーないな、と言いたくなったが、堪えた。それどころではない。石黒玲、恋人できたら危機感持って連絡先くらい消しとけ!

 そしてあたしは彼女でもなんでもない。セフレだ、と叫びたくなったがそれも耐える。火に油を注ぐ行為だと勘が告げている。だてに男女関係の修羅場をくぐってきたわけじゃない。

『玲さんと私ぃ、付き合ってますから。もう、連絡しないで下さい』
「えぇとね……あー……」

 あたしは頭を掻いた。それこそ本人に言ってほしい。

 だが、とあたしの経験が再び蠢く。こういう先手を打ってくる女というのは、ともかく独占欲が強い。負けを認めさせたいタイプでもある。なら、簡単なことだ。

「わかりました。連絡先は消します。連絡もしません」

 素直にあなたに負けました、と理解させることがコツ。

「ただ、石黒さんにも、こちらの連絡先を消すように言って下さい。こっちも彼氏に疑われたらいやなので」

 そしてダメ押しで『彼氏がいること』を強調しておく! これで大抵の女は納得する、はず。

 向こうの無言、あたしの無言がやけに長く感じた。どうだ、これでだめなら本人を出す他ないが。

 また少しの間が空いて、それからどこかほっとしたような声が耳に滑りこんでくる。

『わかりましたぁ。玲さんにもそう言いますね。さよなら、元カノさん』
「はあ」

 だから元カノじゃないんだっつーの。そう心の中で舌打ちした途端、通話は切れた。

 履歴を見ると、玲とあった。アイツ、IT企業に勤めておきながら携帯にロックかけてないのか? 色々疑問ではあるが、とりあえず今まで培っていた経験が役に立ってよかった。

「……だから面倒なんだってば。恋愛系の修羅場なんてもんは」

 呟いてカーペットに寝そべった。いやはや全く、怖い女性を恋人にしたもんだね、玲は。

 携帯を操作し、玲に送ろうとしていたメッセージ、『あたし、なんかした?』の簡潔な文字を消す。連絡先も、と思ってタップしようとした指が、なぜか震えていた。

 これで本当に終わり。あたしと石黒さんは赤の他人です。

 アイツの言っていた『無自覚』の意味も結局わからない。それでいい、セフレが言ったことを真に受けていたら切りがない。

 でも、どうしてだろう。連絡先を消そうと思っても、ためらうように手が動かない。理性と感情がバラバラで、どうしていいのかわからなくなって縮こまる。

 こんな感情、思い出したくもない。昔捨てたはずの痛みに似ている。それこそ、恋とか愛とかそういった類いの。泣いて、泣いて、泣きはらした夜。自己嫌悪で頭を悩ませた日々。

「……一年は長すぎたんだわ、きっと」

 次に出会う男とは、短いスパンでの付き合いにしよう。

 さよならとささやいて、あたしはついに、理性のままに玲の連絡先を消去した。

 こんなのは、恋でもなく愛でもない。ただの情だ。
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