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第五幕:呪いと奇跡
5-4:残酷なる歌
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真紅の輝きが自分の体にまとわりついている――シュトリカは朦朧とした意識の中、それだけを理解した。
「なんだ……?」
「シュトリカ……っ」
自分から離れ、後退るコル、苦しげなエンファニオの声がぼやけて聞こえる。
(歌いなさい、加護の子よ)
「……歌、う」
知らない誰か、尊い声を持った女性の声がはっきり、頭の中で繰り返された。シュトリカはすっと立ち上がる。怖さも、悔しさもない。まるで全てが虚無に吸いこまれてしまったかのように、平坦な心のまま、コルを指さした。
「花枯らしかっ、くそ!」
毒づき、コルは両手を解いて振りかざす。炎の魔術。蛇のようにのたくる熱が、嵐となってシュトリカに襲いかかる。
だが、真紅の輝きがそれを吸いこんだ。平然とした足取りで、また一歩、コルを追い詰めるようにシュトリカは歩を進める。
「花枯らしじゃない……なんだ、これは、なんだ!」
水、風、土――様々な魔術を駆使し、コルが小屋の大半を吹き飛ばしても、シュトリカにはなんの影響も与えない。むしろ清々しかった。絶対的な力で『敵』を屠れることに、今、自分は高揚している。
「コル=リーバ」
両手を広げた。赤いきらめきが天に立ち上り、紅の光を夜空に舞わせる。
喉の痛みがない。いがらっぽさもない。自分が今まで感じたことのない嗜虐的な高揚感で、心がどこまでも満たされていく。
そして高らかに、歌う。フェレネが死んだときの歌を。まだ彼女が人として生きていた頃、磔になったときの悲しみと憎しみ、恨みをこめた歌を。
旋律はおどろおどろしく、歌詞は勝手に頭の中に浮かんだ。怨嗟と憎悪、それに満ちた歌は、花枯らしの力、その域を超えてコルへと襲いかかる。
「ぎっ……」
見えない手に掴まれるように、コルの体が宙づりになる。喉笛を潰されたと思しきコルは口から泡を吹き、苦悶で顔が歪んでいた。それが楽しくて仕方ない。シュトリカの声はますます大きくなり、湖畔全体に響く。
楽しくて、面白くてならない。歌は恐ろしく低く単調で、恨み辛みの句を何度も繰り返すばかりなのだが、そんな歌を口が奏でることに喜びしかなかった。
ああ、これは――とぼんやりとした頭の中で、感じる。
これは、処女神フェレネの加護だ。フェレネが今、自分の中に形となって現れている。巫女であった母の力を越えた、花枯らしという名の加護。それが本当の意味での奇跡。
シュトリカは知らずのうちに微笑んでいた。
これから『こいつ』を、どうやって処理してやろう。呪い師風情が、偉そうに――浮かぶのは自分のものではない。フェレネの思考だ。頭の声に導かれるように、また一歩近付くと、コルの体がより痙攣する。
「シュトリカ、だめだ! 殺してはいけない!」
うるさい声がした。青い髪を持った『男』が、こちらを見て叫んでいる。
誰だろう。誰だっけ。とても、何よりも大切な人だった気がする――頭が酷く痛い。
「君が手を汚す必要はない! 君の歌は、優しい歌のはずだ。子守歌、春の歌。もう、悲しい歌もそんな恐ろしい歌も歌わなくていいんだ、シュトリカ!」
男が声を荒げるたび、頭痛は酷くなっていく。紫の目。差し出された手。必死の形相。それらを見つめ続ければ、こめかみが心臓のように脈打った。
シュトリカ――シュトリカ――シュトリカ。
何度も繰り返される単語が、自分から何かを剥がしていく。自分とは何か。誰なのか。思い出せず、声が震えた。呪い師が落ちる。でも、頭の中で声がする。歌えと言い続けている。なんのために歌うのか、もう何もわからない。
金切り声みたいな裏声を出すと、体中が楽になる。その都度、紅の光が膨張しては弾け、旋風のように周囲を吹き飛ばす。
「シュト、リカ……っ!」
うるさくて堪らない。男の声が煩わしい。風が舞う。光が刃となって、男の体に無数の切り傷を負わせる。それでも男はこちらに近付いてくる。怖がることもなく、ただただ両手を差し出して、その肌に切り傷と血を刻みながら。
「……おいで、シュトリカ」
細波のような優しい声音が、今度ははっきりと耳に滑りこんできた。家屋を破壊し続け、椅子や机が吹き飛ぶ強風の中、それでも男はしかとそこに立ち、自分を待ちわびている。
その手を知っている。その声も、台詞も、温もりでさえも全部、知っている。
そこから全てがはじまったのだ。おいでと呼ばれ、手を握ったあの日から。
「シュトリカ……こっちへおいで」
シュトリカ。そうだ、それは、わたしの名前――そう認識した瞬間、頭の中で閃光が弾けた。同時に形見の鉱石に罅が入り、音を立てて割れる。
紅の光が消えた。体中が気怠くて堪らない。思わず倒れそうになった刹那、男――いや、エンファニオが全身で体を受け止めてくれた。あちこちに傷を作りながら。
「エンファニオ……様」
「シュトリカ……よかった……」
抱きしめてくれるエンファニオの顔に、手にある無数の傷跡。そこから鮮血が滴り、頬にかかるものだから、シュトリカは思わず泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……わたし、エンファニオ様、を」
傷付けた――フェレネに意識を乗っ取られていたとはいえ、自らの手で愛する人を傷付けてしまった。それだけでなく、コルまで。そのことが怖くて、恐ろしくて堪らない。自分の歌声を恨んだのは、これがはじめてだ。
「大丈夫だよ、シュトリカ。もう怖いものなんてないのだから」
「わたし、自分が怖いです……こんな歌、もういらない……」
「君の歌がなければ、私は死んでいた。君の歌があったからこそ、こうして今ここにいる」
強くきつく抱きしめられ、温もりにまた、涙が溢れる。こんな人間が、恐ろしい歌声を持つ女が、優しい彼の側にいていいのだろうか。そう思うも、どうしても体を振り切れない脆い自分が顔を出す。
「シュトリカ、陛下! ご無事かっ!」
もはや家の形をなさない廃墟に、カイルヴェンが飛びこんでくる。抱きしめられたままのシュトリカが視線を向けると、倒れているディーンも見えた。
「今の光と歌は……いや陛下、それよりもそのご様子は……」
「この程度なんともないよ。そちらはどうなっている?」
「シュトリカの歌が聞こえると共に、ディーン殿が倒れられましてな。息はしております、ご安心を」
「そう……伯爵、コルの様子を見てくれないか。できれば、捕縛も」
エンファニオの言葉に、カイルヴェンは剣を鞘へと納めた。すでに老人と化したコルの姿に、若干驚いた様子を見せつつも、手をとり、脈を測っていた。こちらにうなずいて、それからコルへ、体を拘束する捕縛の術をかけていく。
シュトリカは涙を拭い、コルを見つめる。未だ気絶しているままの彼を。
仄かに、喉笛を潰したいやな感触がまだ残っていた。喉が潰れたとするなら、呪いはもう、かけることはできないだろう。しかしそれは、エンファニオの呪いを解くことも叶わないと同じ意味だ。
「アーベ様……まだ、います、か」
「いるよ、ここに」
「……アーベ様を消すことができないかもしれません……コ、コルの喉を潰したから」
「ああ、そうじゃないよ、シュトリカ」
エンファニオに頬を撫でられた。慈悲に満ちた笑みを浮かべられ、胸が苦しくなる。
「アーベは私だ。私もまた、アーベ。君の言う通り、私たちは表裏一体。同じ人間なんだ。それがようやくわかった。アーベは呪いの化身ではないということがね」
「で、でも……魔術も使えないままじゃ……」
「己だと認めたら、あっさり主導権を明け渡してくれたよ。魔術の方も大丈夫。たまに出ることはあると思うけれど、多分、君の前にしか姿を見せないのではないかな」
「どうして、わたしの前だけなんですか?」
「君しか愛していないから」
エンファニオは笑みを深め、優しく額に口付けをしてくれる。
そのとき、こほん、と咳払いの音が聞こえた。我に返る。父がなんとも言えない顔でこちらを見ていた。
「お、お父様。来て下さって、ありがとうございます」
「……いや、お主が無事で何よりだ、シュトリカや」
「伯爵、力添え感謝する。もうじき親衛隊がこちらに来るだろう。ディーンとサミーを連れて戻ろう。……シュトリカ、辛いと思うけれど、コルと話したことを聞かせてほしい」
「……はい」
シュトリカはうなずいた。ペクがどこかで見ているだろうが、彼との会話は聞こえなかったはずだ。全てを明るみに晒すためにも、自分の証言が必要なことはわかっている。
幸いにも、近くで見た限りエンファニオに深い傷はなさそうで、それには安堵した。傷付けてしまったのが自分だとわかっているから、後悔と罪悪感が胸を苛むが。
しばらくして、親衛隊の面々が馬車を伴って姿を見せた。エンファニオに手当てを施した彼らは、眠り続けるディーンを運んでいく。父の馬車に乗っていたサミーはすぐに目を覚まし、無事を喜んでくれた。
捕縛の術だけでなく、猿轡と革で拘束され、連れて行かれるコルを見て思う。
(僕らはどうせ、忌まれる身分なんだ)
コルの言葉が何度も、何度も頭の中で繰り返される。境遇が似ている、とも言っていた。もしかすれば、自分も一歩間違えれば彼のように誰かを恨み、憎み、戦のために力を使っていたのかもしれない。そう考えれば、やるせなかった。
でも、と同時に感じる。コルが見せてくれた笑顔は、全部演技だとは思えなかった。誰もが別の顔を持つ、それはきっと、コルも同じだったのではないだろうか。呪い師としてのコルと、親衛隊で護衛をしてくれたコルの顔。
それはエンファニオとアーベにも当てはまるように思える。表裏一体。同じ人間。ただ、思考が少し、道が少し違うだけで。
馬車に乗ったシュトリカは、陰鬱な気持ちを振り払うようにエンファニオを見た。すぐ隣にいるのに、呪いの波動が全く感じられない。
「どうかしたかな」
「あ、いえ……呪いの波動がわからなくて」
「私がアーベを認めたから消えた、というのではなく?」
「違う、と思います……どうしてだろう……」
「……もしかして、花枯らしの力が消えた……とかかな?」
エンファニオの言葉に、思わず喉を押さえた。
あれだけの力を行使したのだ、その線もある。事実は歌ってみなければわからない。しかし、試すことをためらう。もう一度歌い、またフェレネが現れたらと思うと、恐ろしさの方が勝った。
「……歌ってごらん、シュトリカ」
「で、でも、陛下。またあんなことになったら……わたし」
「大丈夫だよ。そうなったときはまた、君を引き戻してみせる。別に悲しい歌でなくとも、花枯らしは使えるのだろう?」
「はい……それはできます。けど……怖くて……」
「私を信じて。君の歌を聞かせてほしい」
微笑むエンファニオの言葉に悩みあぐねる。静寂が重い。考えた末、シュトリカは口を開いた。できるだけ明るい歌、夏の祭りを詩にした歌を思い出し、怖々と歌ってみる。
アーベを想像して歌ったけれど、扉を押すような感覚、押し戻してくるはずの抵抗の波動、それらの欠片は微塵も感じ取れない。
「……ど、どうですか? アーベ様に何か変化はありますか?」
「寝ているね。君の歌を聞いて、安心して眠っているよ。変わらないかな」
「じゃあ、やっぱり……?」
「花枯らしの力は消えた。そう考えるのが妥当だろうね」
力が抜ける。魔術は元々使えず、唯一の取り柄である花枯らしすらもなくなった。それはフェレネからの加護を、使い果たしたからなのかもしれない。
「わたし、何もなくなってしまいました……」
「そんなことはないよ、シュトリカ。私とアーベがいる。二人の祝福では、不満かな?」
祝福、その言葉に不思議と胸が安らいだ。微笑み、頭を振る。
愛した人に愛される、それが何よりも幸せだった。何もない自分への新しい祝福。エンファニオがいる、父がいる、サミーたちも。彼らからの思いが、新しい道を照らしてくれているように感じた。
「幸せです、わたし。凄く今……」
「これからはもっと幸せになろう。一緒にね。愛しているよ、シュトリカ」
肩を引き寄せられ、エンファニオの胸元に顔をうずめたシュトリカはうなずく。
優しさと愛情に満ちた馬車内を、柔らかな月明かりが温かく照らしていた。
「なんだ……?」
「シュトリカ……っ」
自分から離れ、後退るコル、苦しげなエンファニオの声がぼやけて聞こえる。
(歌いなさい、加護の子よ)
「……歌、う」
知らない誰か、尊い声を持った女性の声がはっきり、頭の中で繰り返された。シュトリカはすっと立ち上がる。怖さも、悔しさもない。まるで全てが虚無に吸いこまれてしまったかのように、平坦な心のまま、コルを指さした。
「花枯らしかっ、くそ!」
毒づき、コルは両手を解いて振りかざす。炎の魔術。蛇のようにのたくる熱が、嵐となってシュトリカに襲いかかる。
だが、真紅の輝きがそれを吸いこんだ。平然とした足取りで、また一歩、コルを追い詰めるようにシュトリカは歩を進める。
「花枯らしじゃない……なんだ、これは、なんだ!」
水、風、土――様々な魔術を駆使し、コルが小屋の大半を吹き飛ばしても、シュトリカにはなんの影響も与えない。むしろ清々しかった。絶対的な力で『敵』を屠れることに、今、自分は高揚している。
「コル=リーバ」
両手を広げた。赤いきらめきが天に立ち上り、紅の光を夜空に舞わせる。
喉の痛みがない。いがらっぽさもない。自分が今まで感じたことのない嗜虐的な高揚感で、心がどこまでも満たされていく。
そして高らかに、歌う。フェレネが死んだときの歌を。まだ彼女が人として生きていた頃、磔になったときの悲しみと憎しみ、恨みをこめた歌を。
旋律はおどろおどろしく、歌詞は勝手に頭の中に浮かんだ。怨嗟と憎悪、それに満ちた歌は、花枯らしの力、その域を超えてコルへと襲いかかる。
「ぎっ……」
見えない手に掴まれるように、コルの体が宙づりになる。喉笛を潰されたと思しきコルは口から泡を吹き、苦悶で顔が歪んでいた。それが楽しくて仕方ない。シュトリカの声はますます大きくなり、湖畔全体に響く。
楽しくて、面白くてならない。歌は恐ろしく低く単調で、恨み辛みの句を何度も繰り返すばかりなのだが、そんな歌を口が奏でることに喜びしかなかった。
ああ、これは――とぼんやりとした頭の中で、感じる。
これは、処女神フェレネの加護だ。フェレネが今、自分の中に形となって現れている。巫女であった母の力を越えた、花枯らしという名の加護。それが本当の意味での奇跡。
シュトリカは知らずのうちに微笑んでいた。
これから『こいつ』を、どうやって処理してやろう。呪い師風情が、偉そうに――浮かぶのは自分のものではない。フェレネの思考だ。頭の声に導かれるように、また一歩近付くと、コルの体がより痙攣する。
「シュトリカ、だめだ! 殺してはいけない!」
うるさい声がした。青い髪を持った『男』が、こちらを見て叫んでいる。
誰だろう。誰だっけ。とても、何よりも大切な人だった気がする――頭が酷く痛い。
「君が手を汚す必要はない! 君の歌は、優しい歌のはずだ。子守歌、春の歌。もう、悲しい歌もそんな恐ろしい歌も歌わなくていいんだ、シュトリカ!」
男が声を荒げるたび、頭痛は酷くなっていく。紫の目。差し出された手。必死の形相。それらを見つめ続ければ、こめかみが心臓のように脈打った。
シュトリカ――シュトリカ――シュトリカ。
何度も繰り返される単語が、自分から何かを剥がしていく。自分とは何か。誰なのか。思い出せず、声が震えた。呪い師が落ちる。でも、頭の中で声がする。歌えと言い続けている。なんのために歌うのか、もう何もわからない。
金切り声みたいな裏声を出すと、体中が楽になる。その都度、紅の光が膨張しては弾け、旋風のように周囲を吹き飛ばす。
「シュト、リカ……っ!」
うるさくて堪らない。男の声が煩わしい。風が舞う。光が刃となって、男の体に無数の切り傷を負わせる。それでも男はこちらに近付いてくる。怖がることもなく、ただただ両手を差し出して、その肌に切り傷と血を刻みながら。
「……おいで、シュトリカ」
細波のような優しい声音が、今度ははっきりと耳に滑りこんできた。家屋を破壊し続け、椅子や机が吹き飛ぶ強風の中、それでも男はしかとそこに立ち、自分を待ちわびている。
その手を知っている。その声も、台詞も、温もりでさえも全部、知っている。
そこから全てがはじまったのだ。おいでと呼ばれ、手を握ったあの日から。
「シュトリカ……こっちへおいで」
シュトリカ。そうだ、それは、わたしの名前――そう認識した瞬間、頭の中で閃光が弾けた。同時に形見の鉱石に罅が入り、音を立てて割れる。
紅の光が消えた。体中が気怠くて堪らない。思わず倒れそうになった刹那、男――いや、エンファニオが全身で体を受け止めてくれた。あちこちに傷を作りながら。
「エンファニオ……様」
「シュトリカ……よかった……」
抱きしめてくれるエンファニオの顔に、手にある無数の傷跡。そこから鮮血が滴り、頬にかかるものだから、シュトリカは思わず泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……わたし、エンファニオ様、を」
傷付けた――フェレネに意識を乗っ取られていたとはいえ、自らの手で愛する人を傷付けてしまった。それだけでなく、コルまで。そのことが怖くて、恐ろしくて堪らない。自分の歌声を恨んだのは、これがはじめてだ。
「大丈夫だよ、シュトリカ。もう怖いものなんてないのだから」
「わたし、自分が怖いです……こんな歌、もういらない……」
「君の歌がなければ、私は死んでいた。君の歌があったからこそ、こうして今ここにいる」
強くきつく抱きしめられ、温もりにまた、涙が溢れる。こんな人間が、恐ろしい歌声を持つ女が、優しい彼の側にいていいのだろうか。そう思うも、どうしても体を振り切れない脆い自分が顔を出す。
「シュトリカ、陛下! ご無事かっ!」
もはや家の形をなさない廃墟に、カイルヴェンが飛びこんでくる。抱きしめられたままのシュトリカが視線を向けると、倒れているディーンも見えた。
「今の光と歌は……いや陛下、それよりもそのご様子は……」
「この程度なんともないよ。そちらはどうなっている?」
「シュトリカの歌が聞こえると共に、ディーン殿が倒れられましてな。息はしております、ご安心を」
「そう……伯爵、コルの様子を見てくれないか。できれば、捕縛も」
エンファニオの言葉に、カイルヴェンは剣を鞘へと納めた。すでに老人と化したコルの姿に、若干驚いた様子を見せつつも、手をとり、脈を測っていた。こちらにうなずいて、それからコルへ、体を拘束する捕縛の術をかけていく。
シュトリカは涙を拭い、コルを見つめる。未だ気絶しているままの彼を。
仄かに、喉笛を潰したいやな感触がまだ残っていた。喉が潰れたとするなら、呪いはもう、かけることはできないだろう。しかしそれは、エンファニオの呪いを解くことも叶わないと同じ意味だ。
「アーベ様……まだ、います、か」
「いるよ、ここに」
「……アーベ様を消すことができないかもしれません……コ、コルの喉を潰したから」
「ああ、そうじゃないよ、シュトリカ」
エンファニオに頬を撫でられた。慈悲に満ちた笑みを浮かべられ、胸が苦しくなる。
「アーベは私だ。私もまた、アーベ。君の言う通り、私たちは表裏一体。同じ人間なんだ。それがようやくわかった。アーベは呪いの化身ではないということがね」
「で、でも……魔術も使えないままじゃ……」
「己だと認めたら、あっさり主導権を明け渡してくれたよ。魔術の方も大丈夫。たまに出ることはあると思うけれど、多分、君の前にしか姿を見せないのではないかな」
「どうして、わたしの前だけなんですか?」
「君しか愛していないから」
エンファニオは笑みを深め、優しく額に口付けをしてくれる。
そのとき、こほん、と咳払いの音が聞こえた。我に返る。父がなんとも言えない顔でこちらを見ていた。
「お、お父様。来て下さって、ありがとうございます」
「……いや、お主が無事で何よりだ、シュトリカや」
「伯爵、力添え感謝する。もうじき親衛隊がこちらに来るだろう。ディーンとサミーを連れて戻ろう。……シュトリカ、辛いと思うけれど、コルと話したことを聞かせてほしい」
「……はい」
シュトリカはうなずいた。ペクがどこかで見ているだろうが、彼との会話は聞こえなかったはずだ。全てを明るみに晒すためにも、自分の証言が必要なことはわかっている。
幸いにも、近くで見た限りエンファニオに深い傷はなさそうで、それには安堵した。傷付けてしまったのが自分だとわかっているから、後悔と罪悪感が胸を苛むが。
しばらくして、親衛隊の面々が馬車を伴って姿を見せた。エンファニオに手当てを施した彼らは、眠り続けるディーンを運んでいく。父の馬車に乗っていたサミーはすぐに目を覚まし、無事を喜んでくれた。
捕縛の術だけでなく、猿轡と革で拘束され、連れて行かれるコルを見て思う。
(僕らはどうせ、忌まれる身分なんだ)
コルの言葉が何度も、何度も頭の中で繰り返される。境遇が似ている、とも言っていた。もしかすれば、自分も一歩間違えれば彼のように誰かを恨み、憎み、戦のために力を使っていたのかもしれない。そう考えれば、やるせなかった。
でも、と同時に感じる。コルが見せてくれた笑顔は、全部演技だとは思えなかった。誰もが別の顔を持つ、それはきっと、コルも同じだったのではないだろうか。呪い師としてのコルと、親衛隊で護衛をしてくれたコルの顔。
それはエンファニオとアーベにも当てはまるように思える。表裏一体。同じ人間。ただ、思考が少し、道が少し違うだけで。
馬車に乗ったシュトリカは、陰鬱な気持ちを振り払うようにエンファニオを見た。すぐ隣にいるのに、呪いの波動が全く感じられない。
「どうかしたかな」
「あ、いえ……呪いの波動がわからなくて」
「私がアーベを認めたから消えた、というのではなく?」
「違う、と思います……どうしてだろう……」
「……もしかして、花枯らしの力が消えた……とかかな?」
エンファニオの言葉に、思わず喉を押さえた。
あれだけの力を行使したのだ、その線もある。事実は歌ってみなければわからない。しかし、試すことをためらう。もう一度歌い、またフェレネが現れたらと思うと、恐ろしさの方が勝った。
「……歌ってごらん、シュトリカ」
「で、でも、陛下。またあんなことになったら……わたし」
「大丈夫だよ。そうなったときはまた、君を引き戻してみせる。別に悲しい歌でなくとも、花枯らしは使えるのだろう?」
「はい……それはできます。けど……怖くて……」
「私を信じて。君の歌を聞かせてほしい」
微笑むエンファニオの言葉に悩みあぐねる。静寂が重い。考えた末、シュトリカは口を開いた。できるだけ明るい歌、夏の祭りを詩にした歌を思い出し、怖々と歌ってみる。
アーベを想像して歌ったけれど、扉を押すような感覚、押し戻してくるはずの抵抗の波動、それらの欠片は微塵も感じ取れない。
「……ど、どうですか? アーベ様に何か変化はありますか?」
「寝ているね。君の歌を聞いて、安心して眠っているよ。変わらないかな」
「じゃあ、やっぱり……?」
「花枯らしの力は消えた。そう考えるのが妥当だろうね」
力が抜ける。魔術は元々使えず、唯一の取り柄である花枯らしすらもなくなった。それはフェレネからの加護を、使い果たしたからなのかもしれない。
「わたし、何もなくなってしまいました……」
「そんなことはないよ、シュトリカ。私とアーベがいる。二人の祝福では、不満かな?」
祝福、その言葉に不思議と胸が安らいだ。微笑み、頭を振る。
愛した人に愛される、それが何よりも幸せだった。何もない自分への新しい祝福。エンファニオがいる、父がいる、サミーたちも。彼らからの思いが、新しい道を照らしてくれているように感じた。
「幸せです、わたし。凄く今……」
「これからはもっと幸せになろう。一緒にね。愛しているよ、シュトリカ」
肩を引き寄せられ、エンファニオの胸元に顔をうずめたシュトリカはうなずく。
優しさと愛情に満ちた馬車内を、柔らかな月明かりが温かく照らしていた。
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