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第三幕:守る意志
3-4:化身の再来
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シュトリカの朝は早い。それは雑技団で育った中で培われたものだ。だが、それでも起きたとき、横にエンファニオの姿はなかった。ディーンが言う通り迎えに来たのだろう。それとも自ら出て行ったのか。深い眠りについていたから、全く気付かなかった。
若干の寂しさを覚えながらも身支度を終え、サミーに朝食を用意してもらう中、コルが来ていないことに疑問を覚える。いつも朝一番に顔を出してくれるのだが。
「サミー、コルはどうしたんですか?」
「明朝近く、熱を出したようです。軽い風邪かと」
「心配ですね。夏風邪でしょうか……お見舞いした方がいいかな……」
「いいえ、それには及びません。うつれば大変なことになるので。本人も、すぐに治ると朝食を平らげていたくらいには元気です」
「そ、そうですか。……じゃあ、ここの見回りは誰が?」
「今までの親衛隊の方から一人、ディーン様が新しく派遣しておりますよ」
「ディーンさんが……」
どうしても、昨晩のディーンの会話が頭から離れない。誰と話していたのか、それによって二日目の今日、議会で何かが起こるのではないか、不安が胸をよぎる。
果実を甘く煮たものを食べながら、こんなことではいけないとシュトリカは自分を叱咤した。何事が起きても、エンファニオを守る。花枯らしの力が貴族たちに漏れたとしても、彼の身が最優先だ。そう決めた。例え、自分の身がどうなろうと。
だが、自分はあまりに非力だ。知識もなく、知恵もない。貴族のこと、特に反主流派の貴族たちについて知っておきたかった。そのためにコルを頼ろうとしたが、風邪を引いているというなら、無理はさせられないだろう。
ワゴンの上で茶の準備をしているサミーを、首だけで振り返る。どうにかして、サミーから情報を得られないだろうか。世間話程度でもいい。そう思うものの、会話の糸口が見つからず、無力さに食事の手を止めた。
「シュトリカ嬢、お茶が入りました……あら、少し残しておられますね」
「ご、ごめんなさい。あまり食欲がなくて……」
「熱がおありですか? コルから風邪がうつったのでは?」
「いえ……その、へ、陛下のことが心配で」
「議会のことでしょうか。それとも、お体のことを?」
「両方です……疲れているんじゃないかな、とか、き、貴族の皆さんが一気に反主流派になってしまうのかと思うと……」
「疲れてはいらっしゃるでしょう。ですが、陛下もああ見えて仕事はきちんとなさる方。そう簡単に反主流派へ流れを渡す真似はしないと、あたくしは思います」
「そう、ですよね。戦争が起きたら大変ですもんね」
ささやけば、サミーが珍しく口の端をつり上げた。
「やはり政にも興味があるのでは? ただのご令嬢としては珍しいですよ」
「れ、令嬢なんかじゃないです。もう、酷い目に遭う人がいなければいいなって」
「お優しいですね、シュトリカ嬢は」
サミーの言葉にただ、はにかんだ。優しさだけではどうにもできない、何もできないと何より自分が知っている。戦乱で荒んだ町、死んだような顔をしている人々を思い出し、胸が痛む。
今のままではいけない――せめて呪いのことを調べておこう。そう思い、顔を上げる。
「サミー、今日は本を読んでいてもいいですか?」
「そうですね、外には出ない方がよろしいかと。作法もほとんど完璧にできていますし」
「ありがとうございます。また、図書室から本を借りることになると思いますけど……」
「滅多にここから本を借りるものはいないので、よろしいですよ」
サミーの言葉に首肯し、食後の茶を飲んだ。まだ辞書などを引かねばわからない部分も多いが、今度は歴史の本も借りてみようか、とシュトリカは考える。いや、まずは先に、現在借りている加護と呪いの本を読むのが先かもしれない。
食器を片づけたサミーが、部屋から出ていく。ペクの朝食、胡桃の小皿を置いて。
ソファから立ち上がり、鳥籠の中でさえずるペクへ胡桃を与えた。窓を見ると、外は曇りだ。雨が降りそうな空模様に、いやでもため息が出る。
「今日は外に出ちゃだめよ、ペク。本を読むから、相手もできないの。ごめんなさい」
仕方ない、とばかりにペクが一際大きい声を上げた。やはり賢い鳥だと感心する。
机に向き直り、置いていた本の続きを読んでいく。この地が処女神フェレネの神殿があった場所、ということも由来しているのだろう。巫女のことについても書かれてあった。
「巫女たちはとりわけ強い加護を持ったものしかなれず、魔術にも長けていた……ただ、その中でも巫女の長となれるのは、珍しくも癒やしの術を持つものだけ……」
魔術に癒やしのものがあるとは知らなかった。魔力の量によって差異はあれど、魔術は基礎の火、水、土、風を操るものから、転移、遠見、探知など複雑なものを扱えるようになっていく。それでも人の傷を癒やす術があることは、今はじめて知った。
「それでも奇跡じゃない……そういう術もあるんだ。巫女さんたちがいたら、いろんな話、聞けたかもしれないんだけどな」
巫女と加護、呪いについて読んでいく内、思い出すのはカイルヴェン伯爵のことだった。神殿によく来ていた、とすれば、巫女との交流もあったかもしれない。ただ、話を聞くには接点が少なすぎるし、彼は反主流派。エンファニオの政敵だ。
それに、もしかしたらディーンと未だ、手を組んでいる可能性だってある。昨夜の会話、あれは誰と話していたのだろう。時間がなかったことを悔やんだ。
「でも……下手をすればわたしがいるってこと、気付かれてたかもしれないし……」
あれが限界だった、とシュトリカはまたため息をつく。気もそぞろで、なんとなく落ち着かない。集中力が途切れ、栞を挟んで本を閉じた。それでも大分読めた方だろう。気付けば窓を雨が叩いていた。
いやな予感や不安ばかり膨らむ。雷は鳴ってはいないが、雨粒は大きく、かなりの豪雨だ。窓から時計に視線を戻すと、結構な時間が経っている。
サミーに頼んでお茶をもらおう――そう思って椅子から立った、その瞬間。
「シュトリカ嬢、無礼を許せ」
「ディ、ディーンさん?」
転移の術を使ったディーンが、唐突にソファ近くへ現れた。その厳しい面は白い。
「緊急の用だ。すくに来てもらおう」
「緊急……まさか、陛下の身に何か?」
「そのまさかだ。休憩の途中、苦しみだした。幸い他の貴族に気付かれてはいないが」
「わ、わかりました。すぐに向かいます」
「転移を使う。マントに掴まれ」
やはり不安は的中した。自分の顔が青ざめていくのがわかる。駆け寄り、彼のマントを掴んだ刹那、ディーンの呟きによって魔術が発動した。
ちょっとした悪酔いのような感覚がした後、瞬時に風景が入れ替わる。目に飛びこんできたのは、見慣れたエンファニオの寝室だった。中央にある寝台の上、そこでエンファニオが胸を掻きむしり、脂汗を垂らしながらうずくまっている。
「これ……別の呪い?」
アーベのときとは違う呪いの匂い、波動のようなものを察した。どういったものかまではわからない。だが、アーベが出る様子はなく、ただ苦しむエンファニオの姿に胸が痛む。
「これはどういうことか。呪いは解かれたのではなかったのか?」
「あ、新しい呪いをかけられているのだと思います……外に人はいませんよね?」
「人払いはしてある。すぐに花枯(はなが)らしを使ってもらいたい」
「はい。そのつもりです」
ディーンへうなずき、まなじりを決して寝台へと近づいた。気配を感じたのか、エンファニオが薄く目を開ける。苦悶に揺らぐその瞳は、それでもアーベのものではない。
寝台に腰かけ、震えるエンファニオの頭に触れた。あまり高らかに歌ってしまえば、他の誰かに気付かれる恐れもある。昨晩の子守歌程度が丁度いいかもしれない。
「……エンファニオ=アーベ=ベルカスター」
ささやき、歌う。直後、呪いの波動が大きい波となって、こちらへと押し寄せてくる。
けれど負けはしない。エンファニオを救う、その一心で、シュトリカは呪いを壊そうと試みる。堅牢な扉を少しずつ押し開いていく感覚を捉え、逃がさない。
アーベを抑えるときとは違い、すぐに呪いは解けた。今度こそ完全な手応えがあった。扉が壊れた感覚がしたのだ。三曲目で破壊できたということは、今、エンファニオにかかっている呪いよりも弱い類いのものだったのかもしれない。
「陛下……大丈夫ですか、陛下」
しわがれた声でエンファニオを呼び、様子を確かめる。
「……大丈夫だ」
エンファニオは少しの間、肩で息をしていたが、しばらくして返事をした。けれど、とつい眉間に皺が寄る。この物言いは、エンファニオのものではない。アーベだ。
「あなた……」
「あいつは眠りについている。……安心しろ、約束は守ってやるから」
「陛下、ご無事か」
「ああ……すまないディーン。もう大丈夫だよ。シュトリカが守ってくれたからね」
呆然としてしまうシュトリカとは違い、咄嗟にエンファニオの真似をするアーベに隙はない。しかし、やはり先程まで呪いに蝕まれていたためか、疲れた様子で寝台に横たわる。慌てて立ち上がった自分の横へ、耳を塞いでいたディーンが並んだ。
「医者を呼んでも構いませんな、陛下。議会も今日は中止した方がよろしいかと」
「そうだね、目くらましのための医者は必要だ。議会の中断は考えていない。それこそ呪い師が誰だかわからないのだし、今伏せれば、噂が真実味を帯びることになる」
「ふむ……陛下がそう仰るなら。ところでシュトリカ嬢。誰が、どこで呪いを使ったのか、それは判別できないか」
シュトリカは鋭い眼光を向けられて縮こまり、首を横に振った。
「ご、ごめんなさい、それはできません……呪いの波動は、濃ければ濃いほど上書きされてしまいますし。ただ……」
「ただ?」
「近くにいるほど、強い呪いをかけることはできると……本に書いてありました。い、今の呪いはあまり強くなかったんですけど……でも、苦しめるものには違いないはずです」
「花枯らしがいることを知るもの。もしくは、シュトリカが花枯らしではないか、と疑うものがかけたのだと考えるのが筋だろうね。シュトリカ、カイルヴェン伯爵以外に会った貴族はいるかな」
「い、いえ、いません……伯爵様には名前も告げませんでしたし」
そう言うと、重たい沈黙が降りる。アーベのため息が長く響いた。
「身内が怪しいと考えてもいいかな、これは。けれど……」
「サミーは家庭教師も兼ねた、王室付きの侍女。コルはリーバ男爵家の嫡男、主流派側の人間。怪しいものを探るとなると、親衛隊のものも含め、洗い直すことが必須でしょうな」
「そうだね。ここでシュトリカが呪いを打ち消したと知れ渡れば、シュトリカの身も危ない。誰にも知られないよう、彼女を部屋まで送ってあげてほしい」
「承知。では戻るぞ、シュトリカ嬢。今日は館から出ぬように」
「は、はい。あの……どうか体、お大事にして下さい」
あえて陛下、とは言わなかった。今、表に出ているのがアーベだとわかっているから。こちらを振り返ったディーンの奥で、アーベが意地悪そうに笑っているのが見える。それでも約束は守ると言ってくれた。その言葉を信じるしかないだろう。
一番、とディーンのマントを握りながら思った。一番怪しいのはディーンなのだけれど、それを誰にも言い出せそうにはなくて、ただ一人、無力感を募らせた。
若干の寂しさを覚えながらも身支度を終え、サミーに朝食を用意してもらう中、コルが来ていないことに疑問を覚える。いつも朝一番に顔を出してくれるのだが。
「サミー、コルはどうしたんですか?」
「明朝近く、熱を出したようです。軽い風邪かと」
「心配ですね。夏風邪でしょうか……お見舞いした方がいいかな……」
「いいえ、それには及びません。うつれば大変なことになるので。本人も、すぐに治ると朝食を平らげていたくらいには元気です」
「そ、そうですか。……じゃあ、ここの見回りは誰が?」
「今までの親衛隊の方から一人、ディーン様が新しく派遣しておりますよ」
「ディーンさんが……」
どうしても、昨晩のディーンの会話が頭から離れない。誰と話していたのか、それによって二日目の今日、議会で何かが起こるのではないか、不安が胸をよぎる。
果実を甘く煮たものを食べながら、こんなことではいけないとシュトリカは自分を叱咤した。何事が起きても、エンファニオを守る。花枯らしの力が貴族たちに漏れたとしても、彼の身が最優先だ。そう決めた。例え、自分の身がどうなろうと。
だが、自分はあまりに非力だ。知識もなく、知恵もない。貴族のこと、特に反主流派の貴族たちについて知っておきたかった。そのためにコルを頼ろうとしたが、風邪を引いているというなら、無理はさせられないだろう。
ワゴンの上で茶の準備をしているサミーを、首だけで振り返る。どうにかして、サミーから情報を得られないだろうか。世間話程度でもいい。そう思うものの、会話の糸口が見つからず、無力さに食事の手を止めた。
「シュトリカ嬢、お茶が入りました……あら、少し残しておられますね」
「ご、ごめんなさい。あまり食欲がなくて……」
「熱がおありですか? コルから風邪がうつったのでは?」
「いえ……その、へ、陛下のことが心配で」
「議会のことでしょうか。それとも、お体のことを?」
「両方です……疲れているんじゃないかな、とか、き、貴族の皆さんが一気に反主流派になってしまうのかと思うと……」
「疲れてはいらっしゃるでしょう。ですが、陛下もああ見えて仕事はきちんとなさる方。そう簡単に反主流派へ流れを渡す真似はしないと、あたくしは思います」
「そう、ですよね。戦争が起きたら大変ですもんね」
ささやけば、サミーが珍しく口の端をつり上げた。
「やはり政にも興味があるのでは? ただのご令嬢としては珍しいですよ」
「れ、令嬢なんかじゃないです。もう、酷い目に遭う人がいなければいいなって」
「お優しいですね、シュトリカ嬢は」
サミーの言葉にただ、はにかんだ。優しさだけではどうにもできない、何もできないと何より自分が知っている。戦乱で荒んだ町、死んだような顔をしている人々を思い出し、胸が痛む。
今のままではいけない――せめて呪いのことを調べておこう。そう思い、顔を上げる。
「サミー、今日は本を読んでいてもいいですか?」
「そうですね、外には出ない方がよろしいかと。作法もほとんど完璧にできていますし」
「ありがとうございます。また、図書室から本を借りることになると思いますけど……」
「滅多にここから本を借りるものはいないので、よろしいですよ」
サミーの言葉に首肯し、食後の茶を飲んだ。まだ辞書などを引かねばわからない部分も多いが、今度は歴史の本も借りてみようか、とシュトリカは考える。いや、まずは先に、現在借りている加護と呪いの本を読むのが先かもしれない。
食器を片づけたサミーが、部屋から出ていく。ペクの朝食、胡桃の小皿を置いて。
ソファから立ち上がり、鳥籠の中でさえずるペクへ胡桃を与えた。窓を見ると、外は曇りだ。雨が降りそうな空模様に、いやでもため息が出る。
「今日は外に出ちゃだめよ、ペク。本を読むから、相手もできないの。ごめんなさい」
仕方ない、とばかりにペクが一際大きい声を上げた。やはり賢い鳥だと感心する。
机に向き直り、置いていた本の続きを読んでいく。この地が処女神フェレネの神殿があった場所、ということも由来しているのだろう。巫女のことについても書かれてあった。
「巫女たちはとりわけ強い加護を持ったものしかなれず、魔術にも長けていた……ただ、その中でも巫女の長となれるのは、珍しくも癒やしの術を持つものだけ……」
魔術に癒やしのものがあるとは知らなかった。魔力の量によって差異はあれど、魔術は基礎の火、水、土、風を操るものから、転移、遠見、探知など複雑なものを扱えるようになっていく。それでも人の傷を癒やす術があることは、今はじめて知った。
「それでも奇跡じゃない……そういう術もあるんだ。巫女さんたちがいたら、いろんな話、聞けたかもしれないんだけどな」
巫女と加護、呪いについて読んでいく内、思い出すのはカイルヴェン伯爵のことだった。神殿によく来ていた、とすれば、巫女との交流もあったかもしれない。ただ、話を聞くには接点が少なすぎるし、彼は反主流派。エンファニオの政敵だ。
それに、もしかしたらディーンと未だ、手を組んでいる可能性だってある。昨夜の会話、あれは誰と話していたのだろう。時間がなかったことを悔やんだ。
「でも……下手をすればわたしがいるってこと、気付かれてたかもしれないし……」
あれが限界だった、とシュトリカはまたため息をつく。気もそぞろで、なんとなく落ち着かない。集中力が途切れ、栞を挟んで本を閉じた。それでも大分読めた方だろう。気付けば窓を雨が叩いていた。
いやな予感や不安ばかり膨らむ。雷は鳴ってはいないが、雨粒は大きく、かなりの豪雨だ。窓から時計に視線を戻すと、結構な時間が経っている。
サミーに頼んでお茶をもらおう――そう思って椅子から立った、その瞬間。
「シュトリカ嬢、無礼を許せ」
「ディ、ディーンさん?」
転移の術を使ったディーンが、唐突にソファ近くへ現れた。その厳しい面は白い。
「緊急の用だ。すくに来てもらおう」
「緊急……まさか、陛下の身に何か?」
「そのまさかだ。休憩の途中、苦しみだした。幸い他の貴族に気付かれてはいないが」
「わ、わかりました。すぐに向かいます」
「転移を使う。マントに掴まれ」
やはり不安は的中した。自分の顔が青ざめていくのがわかる。駆け寄り、彼のマントを掴んだ刹那、ディーンの呟きによって魔術が発動した。
ちょっとした悪酔いのような感覚がした後、瞬時に風景が入れ替わる。目に飛びこんできたのは、見慣れたエンファニオの寝室だった。中央にある寝台の上、そこでエンファニオが胸を掻きむしり、脂汗を垂らしながらうずくまっている。
「これ……別の呪い?」
アーベのときとは違う呪いの匂い、波動のようなものを察した。どういったものかまではわからない。だが、アーベが出る様子はなく、ただ苦しむエンファニオの姿に胸が痛む。
「これはどういうことか。呪いは解かれたのではなかったのか?」
「あ、新しい呪いをかけられているのだと思います……外に人はいませんよね?」
「人払いはしてある。すぐに花枯(はなが)らしを使ってもらいたい」
「はい。そのつもりです」
ディーンへうなずき、まなじりを決して寝台へと近づいた。気配を感じたのか、エンファニオが薄く目を開ける。苦悶に揺らぐその瞳は、それでもアーベのものではない。
寝台に腰かけ、震えるエンファニオの頭に触れた。あまり高らかに歌ってしまえば、他の誰かに気付かれる恐れもある。昨晩の子守歌程度が丁度いいかもしれない。
「……エンファニオ=アーベ=ベルカスター」
ささやき、歌う。直後、呪いの波動が大きい波となって、こちらへと押し寄せてくる。
けれど負けはしない。エンファニオを救う、その一心で、シュトリカは呪いを壊そうと試みる。堅牢な扉を少しずつ押し開いていく感覚を捉え、逃がさない。
アーベを抑えるときとは違い、すぐに呪いは解けた。今度こそ完全な手応えがあった。扉が壊れた感覚がしたのだ。三曲目で破壊できたということは、今、エンファニオにかかっている呪いよりも弱い類いのものだったのかもしれない。
「陛下……大丈夫ですか、陛下」
しわがれた声でエンファニオを呼び、様子を確かめる。
「……大丈夫だ」
エンファニオは少しの間、肩で息をしていたが、しばらくして返事をした。けれど、とつい眉間に皺が寄る。この物言いは、エンファニオのものではない。アーベだ。
「あなた……」
「あいつは眠りについている。……安心しろ、約束は守ってやるから」
「陛下、ご無事か」
「ああ……すまないディーン。もう大丈夫だよ。シュトリカが守ってくれたからね」
呆然としてしまうシュトリカとは違い、咄嗟にエンファニオの真似をするアーベに隙はない。しかし、やはり先程まで呪いに蝕まれていたためか、疲れた様子で寝台に横たわる。慌てて立ち上がった自分の横へ、耳を塞いでいたディーンが並んだ。
「医者を呼んでも構いませんな、陛下。議会も今日は中止した方がよろしいかと」
「そうだね、目くらましのための医者は必要だ。議会の中断は考えていない。それこそ呪い師が誰だかわからないのだし、今伏せれば、噂が真実味を帯びることになる」
「ふむ……陛下がそう仰るなら。ところでシュトリカ嬢。誰が、どこで呪いを使ったのか、それは判別できないか」
シュトリカは鋭い眼光を向けられて縮こまり、首を横に振った。
「ご、ごめんなさい、それはできません……呪いの波動は、濃ければ濃いほど上書きされてしまいますし。ただ……」
「ただ?」
「近くにいるほど、強い呪いをかけることはできると……本に書いてありました。い、今の呪いはあまり強くなかったんですけど……でも、苦しめるものには違いないはずです」
「花枯らしがいることを知るもの。もしくは、シュトリカが花枯らしではないか、と疑うものがかけたのだと考えるのが筋だろうね。シュトリカ、カイルヴェン伯爵以外に会った貴族はいるかな」
「い、いえ、いません……伯爵様には名前も告げませんでしたし」
そう言うと、重たい沈黙が降りる。アーベのため息が長く響いた。
「身内が怪しいと考えてもいいかな、これは。けれど……」
「サミーは家庭教師も兼ねた、王室付きの侍女。コルはリーバ男爵家の嫡男、主流派側の人間。怪しいものを探るとなると、親衛隊のものも含め、洗い直すことが必須でしょうな」
「そうだね。ここでシュトリカが呪いを打ち消したと知れ渡れば、シュトリカの身も危ない。誰にも知られないよう、彼女を部屋まで送ってあげてほしい」
「承知。では戻るぞ、シュトリカ嬢。今日は館から出ぬように」
「は、はい。あの……どうか体、お大事にして下さい」
あえて陛下、とは言わなかった。今、表に出ているのがアーベだとわかっているから。こちらを振り返ったディーンの奥で、アーベが意地悪そうに笑っているのが見える。それでも約束は守ると言ってくれた。その言葉を信じるしかないだろう。
一番、とディーンのマントを握りながら思った。一番怪しいのはディーンなのだけれど、それを誰にも言い出せそうにはなくて、ただ一人、無力感を募らせた。
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