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第三幕:守る意志

3-2:危機

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 ――カイルヴェン伯爵、とシュトリカが顔が青ざめさせる中、彼は騎士すらつけないで一人、こちらに向かってくる。帯刀している細剣が少し抜かれており、刃が陽光に眩しい。

 きっと転移の術を使ってここに来たのだろう。魔力の波動は多分、その残滓だ。だが、なぜこんな場所に、と混乱し、戸惑う自分を睨みつけるかのような黄色い目は鋭かった。

「どこぞの子女かは知らぬが、その花畑、今はなき巫女たちが植えたことを存ぜぬと?」
「あ……」

 確実に殺気をこめた口調で言われた。殺意を感じるのはこれがはじめてで、足が竦んで動けない。コルやサミーが来る気配はなく、今、自分の身分を保障するものは誰もいない。

「し、知りませんでした……ごめんなさい……」

 自らのことをどう告げればいいのか迷い、ただ謝ることしかできなかった。影が頭上を覆う。見下ろされている、とわかった瞬間、顔を背けてうつむいた。

「謝罪は受け取った。しかし、一体どこのご令嬢か。証しを立てよ」
「わ、わたしは……」

 なんと言えばいいのだろう。花枯はながらしだとは到底言えず、かといって、適当な嘘をつくにはあまりにも、上流階級のことを知らなさすぎる。状況を打破する突破口が見当たらず、シュトリカが考えあぐねていたそのとき。

 ペクの声が聞こえた。怖々と顔を上げれば、離れの自室から、こちらに滑空してくるのが見える。ペクはもう一つ大きく鳴くと、まるで自分を護るかのように肩に止まった。

「ペク……」
「陛下の鳥? なぜここに。ご令嬢、そなたは何者か」

 答えられないことばかりを聞かれ、うなだれる。名前くらいは言ってもいいのかもしれない。だが、そこから花枯らしだとわかってしまえば、全てが水の泡だ。特にカイルヴェンは反主流派。エンファニオの敵と言っても過言ではないのだから。

 何も言えぬまま、少しの間が過ぎ去った。むっ、と一つ零したカイルヴェンが、細剣を鞘から完全に取り出す。

「証しをも立てられぬ、とは実に怪しいやつ。今ここで、このカイルヴェンが切り捨ててくれる」
「待つんだ、カイルヴェン伯爵」

 剣が来る――死を覚悟した直後、今ここで、一番聞きたい声が届いた。コルのものでもサミーのものでもない。誰であろう、エンファニオの声が。聞きたかった声に顔を上げた。自分の横に、転移の術を使ったと思しきエンファニオが立っている。

「陛下……」

 エンファニオのいわおのような横顔に、それでも心の底から安堵した。多分、ペクがこの状況を主人に知らせたのだろう。来てくれた、それだけでまた力が抜ける。

「カイルヴェン伯爵、剣を納めよ。血で自らの思い出を汚す気か」
「……これは失礼致した、陛下。しかし、そこのご令嬢は何者であるか」
「彼女は私の客人。無聊ぶりょうを慰めるために呼んだ歌い手だ」
「歌い手、とは……陛下が歌に興味がおありとは思いもしなかったゆえ、無礼を働いた」

 そう言い、カイルヴェンはようやく剣を鞘に戻す。それからカイルヴェンはこちらを見て、軽く眉をつり上げた。黄色の瞳の力は強い。とても初老とは思えないほどだ。

「そなたは……」

 一瞬、目付きがまるで、懐かしいものを見るかのようになる。先程とは違い、どこか悲しげな光を瞳にたたえながら。だが、それもほんの僅かのことだった。

「許せ、娘。ここは特別な地なのでな。無闇に花を摘むことは遠慮してもらいたい」
「は、はい……わたしの方こそ、ごめんなさい」
「……それでは陛下。また後ほど。失礼した」

 カイルヴェンは一礼した後、術を使わずに徒歩で本館の方へと戻っていく。二度ほどこちらを振り返ったが、何も言わず去って行くその背中は、なぜかどこか寂しげに見えた。

「シュトリカ、怖かっただろう。大丈夫だったかい?」
「陛下、あの、ありがとうございます……まさかこっちに来る人がいるとは思わなくて」
「カイルヴェン伯爵が来るとわかっていながら、ここを封鎖しておかなかったこちらの落ち度さ。気にすることはないよ」

 エンファニオは微笑み、手を差し伸べてくれた。未だ震える手を重ね、なんとか立ち上がる。ペクが頭を擦りつけてくるものだから、労いにそのくちばしを撫でてやった。

「陛下、術が使えるようになったんですね。よかった……」
「いや、まだ本調子ではないかな。普段、二日かかる距離くらいなら一度で移動できるはずなんだけれど、本館からここに来るまでが精一杯だ」
「そうなんですね。今日は歌を歌うこともできないですし……で、でも、いつもの陛下で本当によかったです」
「うん、君のおかげだ、シュトリカ。礼を言っても言い切れないよ」

 ペクがエンファニオの肩に移動し、小さく鳴く。アーベではない、それを賢い鳥は理解しているらしい。

「そう言えばカイルヴェン伯爵……様は、ここが特別だって言ってましたけど……」
「ああ、この避暑地は元々、処女神フェレネの神殿があった土地だ、ということは知っているだろう? ここは、フェレネに仕えていた巫女たちが作った花畑なんだよ。カイルヴェン伯爵は昔、よく神殿に訪れていたらしい。詳しいことは話してくれないけれどね」
「そうだったんですか……わたし、悪いことをしてしまいました」
「気に病む必要はないよ。それより、肝心の護衛。コルはどうしたんだい」
「あ、え、っと。お茶をサミーにお願いしに行きました……わ、わたしが頼んだんです、本当ですよ」

 一瞬、エンファニオの端正な眉が歪んだものだから、慌てて取り繕った。これでコルと一緒に議会を覗いていた、なんて言ったら、余計怒られてしまうかもしれない。

 コルを庇ったことを察したのか、エンファニオが苦笑を作り、頭を撫でてくる。

「もう、こちら側に来るような貴族はいないと思うけれど。念のため、出かけるときはちゃんとコルと一緒にいること。わかったね?」
「は、はい……なるべく離れないようにしますね」
「本当なら、私自身が守ってあげたいんだけれど。すまない」
「そ、そんなこと……ペクもコルもいますし、こうして陛下が来てくれたから、平気です」

 微笑んだ瞬間、額に口付けを落とされて、顔が熱くなる。慌てて距離を作ろうとしたが、片手で腰を引き寄せられてしまった。

「窮屈な思いをさせていて、本当に申し訳ないと思っている。三日だけ我慢してほしい。そのあとちゃんと責任は……とるから」

 責任、と言われて胸の奥が痛んだ。そんなもの、望んじゃいない。エンファニオに迷惑はかけたくないという気持ちだけが膨らんで、棘という形で心の奥を苛む。

 この身は忌まれるべき花枯らし。王たるエンファニオとは、不釣り合いにもほどがある。けれど、抱き留めてくれる手が、額から伝わる唇の温もりが、強欲にもエンファニオから離れたくないという感情を抱かせて止まない。

「……陛下、そろそろ本館に戻って下さい……わたしはもう、大丈夫です」
「……うん」

 それでも胸の内を秘め、静かに胸板を押した。エンファニオの体が離れていく。ペクがエンファニオからこちらの肩に乗り、一つ、小さく鳴いた。

「じゃあ、私は戻るよ。カイルヴェン伯爵のことは、悪く思わないでほしい。ああ見えて、無骨ながらも正々堂々としている男なんだ」
「はい。なんとなくわかります。怖かったですけど……でも気をつけて下さいね、陛下」
「ありがとう、シュトリカ」

 彼の微笑みに、少しばかりの寂しさがあるのは、自分の思いこみではないと信じたい。

 目を閉じたエンファニオが転移の術を唱えれば、姿がかき消え、魔力の残滓だけが残る。今、触れ合ったことが嘘みたいに。エンファニオの体温だけが体に残って、切ない気持ちになった。

 術を少しでも使えるのはよい兆候だ。花枯らしの歌が効いているという証拠だろう。少しでもエンファニオの役に立っているだけでいい。そう思う反面、と自らの体を抱く。

 風が強まり、温もりを消し去っていくことが辛かった。いつの間にこんな欲深くなってしまったのか、自分でもわからない。たった数日、いや、思えばみすぼらしい手を取ってくれたあのはじまりの日から、優しい手のひらに惹かれてしまった。

 だめよ――また、自制の声が聞こえる。わかってる、と呟いて、ニゲラの花を見下ろす。

 例えアーベがどうしようと、自分の身を汚そうと、責任はエンファニオにはない。全てが呪いのせいなのだから。

 天を仰げば、雲が空を覆いはじめていることに気付いた。慌てた様子でコルが離れの館からこちらに向かってくるのが見えて、ペクを肩に歩き出す。

 結局その日は、離れの中の談話室で茶をすることになった。

「外は寒くありませんでしたか、シュトリカ嬢」
「はい、花も見ました。勝手に外に出てごめんなさい」

 暖かい香草茶を入れてくれたサミーへ謝罪し、立ち上る甘い香りにようやく一息つく。

「あの、コルは? どうしたんですか」
「見回りに行かせました。つまみ食いばかりしていましたので、罰です」

 コルらしい、と苦笑し、クリーム入りのパイを少しずつ口に含んでいく。通りで自分を呼ぶのが遅くなったわけだ。そのおかげでエンファニオと会えたのだが。

 それから、コルから聞いたことが少し気になり、横に立つサミーを見上げた。

「あの……サミー。ディーンさんのことなんですけど……昔、陛下と王位を巡って競っていた、というのは本当ですか?」
「……どこでその話を?」
「あ、コ、コルが教えてくれたんです……。内緒の話なんでしょうか」
「全く、ろくなことを話しませんね。ですが、隠す必要もないでしょう。その通りです」
「じゃあ、やっぱり? ディーンさんが元反主流派だったってことも……」
「はい、とだけ。まつりごとに興味がおありですか?」
「い、いえ、そんな大それたことじゃないんです。ただ……」

 呪い師を使ったのは誰か、ということがどうしても言い出せず、口ごもる。怪しい人間がポラート側だけではなく、反主流派の貴族にもいるという事実が頭を悩ませた。

「ディーン様は確かに反主流派で、陛下と王位を競いあっておりました。ですが、あの方は不器用ながら、陛下を支えることに今は熱中してらっしゃいますよ」
「そ、そうですよね。いつも陛下を助けてらっしゃいますもんね」

 疑念を打ち砕くように穏やかに諭され、うなずく。気難しいが、ちゃんと自分のことも考えてくれているディーンを疑うなんて、と若干気恥ずかしくなった。

 だが、ディーンの内心を、どこまでサミーは察しているのだろう。サミーの観察眼を信用してはいる。それでも人の心は、そう容易く読めるものではない。

 小さなパイを一つだけ食べて、食欲がすっかり満たされた。茶を啜り、考える。

 答えなど、どの疑問にも出そうになくて、結局息を吐き出すだけしかできなかった。
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