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第二幕:化身との契約

2-1:揺れ動く心

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 机の上に積み重なった書類の山。署名を待つ紙束を目にしながらも、エンファニオの意識は、一向に仕事へと向きはしない。羽根ペンを手にしては置き、また握り、と繰り返してため息をつく。開けられた窓の外、積雲が浮かぶ青天に目をやるも、気分は晴れない。

 昨晩のことが頭にこびりついて離れなかった。己の無力さに嫌気が差す。まだ髪で隠したままの右頬に手をやった。そこに紋様はなく、あるのは滑らかな肌だけだ。

 昨夜、眠りに落ちたシュトリカをそのままにしておくには忍びなく、サミーに事情を話し、彼女に全てを任せた。呪いのことは伏せたままで、ただ一言、シュトリカを抱いた、と。サミーは何も言わなかったが、いぶかしげな顔を一瞬作ったのが記憶にある。

 それは当然だろう、とまた嘆息し、椅子の背もたれに身を預けた。

 潔癖とまではいかないが、己は女性関係に疎い。というよりも、ほとんど関心がない。興味を惹かれていたのはまつりごとや草木、花々にだけだった。春の祝賀祭で、シュトリカを見るまで――その歌声と姿に感銘を受けるまでは。

 戦が頻繁に起こっていたという理由から、王都の治安も悪くなり、人々の顔にも翳りが差していた最中に祭りは催された。雑技団が民に笑顔にさせているのを見たとき、特に、シュトリカが嬉しそうに歌っていた姿は、暗雲を晴らす光にも似ていると感じたものだ。

 鬱蒼と茂る木々の中、まるで密やかに咲く花――そこまでの鮮烈な印象を抱いた。もちろん、そのときは花枯はながらしの歌姫だとは知らなかったけれど。

 だから彼女を買ったとき、言わば再会したとき、普段より努めて優しくあろうとした。シュトリカが怯えないように。あの微笑みが曇らないように。

「……くそ……」

 なのに、どうだ。悔しさに歯噛みして、拳を作る。

 呪いであったもう一人の己が、彼女を手折った。いとも容易く、汚れていなかった彼女の体を貪った記憶は、朧気ながらある。意識だけが離され、情交を見せつけられたのだ。あの、アーベと名乗った呪いの化身によって。屈辱と後悔だけが胸に去来する。

 シュトリカは朝食の場に現れなかった。きっとサミーが、個別に食事を運んだのだろう。それでいい、という臆病な気持ちと、一抹の不安が交錯する。

 無理やり抱かれたというのに、シュトリカは己がアーベから元に戻ったことを喜んだ。罵倒することも、責めることもなく、忌々しいこの身を案じてくれた。そのいじらしさに胸が痛む。こんなことをするために、彼女を連れてきたのではない。

 アーベは今、大人しくしている。欲を吐き出したためか、それとも歌の効果か――

  意識の奥底で眠るように、疼くことのしない感情、呪いが憎らしくて堪らなかった。

 力をこめてペンを折ったとき、執務室の扉を叩く音がして顔を上げる。

「……入ってくれて構わないよ」

 だが、臣下に弱々しさは見せられない。歪んだ顔を元に戻し、折れたペンを机の端に寄せる。入ってきたのは、相変わらず険しい顔をしたディーンだった。

「仕事中失礼する、陛下」
「全く仕事をしていなかったから、別にいいけれど」
「……それはそれで問題ですな。いや、それよりも」

 扉を閉め、机の前まで来たディーンを座ったまま見上げる。橙の目に、とがめるような光があり、言いたいことを理解した。

「シュトリカのことだね」
「左様。サミーから話は聞いております。どのようなおつもりか」
「どのようなつもりも何も、そのまま事実だよ。私は彼女を抱いた」
「ご自身の立場を理解している、とは思えない行動ですな。……たぶらかされたのでは?」
「いや、違う。私が望んで彼女を抱いた。抱きたかったんだ」

 最後のは、少し本音が入っているかもしれないな、と苦笑を漏らす。それを見て、ディーンが額に手を当て、天を仰いだ。

「問題もいいところだ。王が行きずりの女に手を出すなどと」
「シュトリカはそんな女じゃあないよ、ディーン。私の客人であり、見初めた女性だ」
「それは仮初めのこと。実際の立場はあまりにも違いすぎますぞ」
「私が王だからかな?」
「王でなくとも、御身は元々、公爵家のご嫡男。貴族のご令嬢を娶るのが筋というもの」
「じゃあ、シュトリカを本物の令嬢にしてしまおうか。男爵の地位を売りたがっている連中もいることだし」
「陛下っ」
「ああ、そんな大声を出さなくてもいい。彼女はきっと、そんなものは望まないから」
「なぜそうお思いに? 会ってまだ一日の女を、そこまで見極められるとは……」
「報奨を与えるときに、望めば地位は手に入れられたはずだ。けれど彼女はそうしなかった。清貧さ、というのかな。それが多分、シュトリカには染みついているのだと思う」

 これも本当に思っていたことだ。エンファニオは苦笑を浮かべたまま、考えを吐露する。

「そういうところなんだよ。私が彼女を気に入ったのは。花枯はながらしという特異な能力を持つ人間だということも、十分承知している。それでも私は、シュトリカがいい」
「清貧さと可憐さを兼ね備えた令嬢、などは探せばいくらでも見つかりますぞ。陛下の仰る通り、シュトリカ嬢は花枯らし。忌まれるべき存在。それを忘れることのなきように」
「忠告はそれで終わりかな? シュトリカは今、何をしているんだろうか」
「……作法の勉学を終え、今は中庭にいるはず」
「そう。じゃあ、休憩がてら行ってみる。ディーン、君は急ぎの仕事とそうじゃない書類を分けておいてくれるかな」

 何を言っても無駄と悟ったのだろう、息を吐いたディーンはただ、うなずいた。

 席を立ち、部屋から出る。足が少し震えていた。ディーンに気付かれなかっただろうか、いささか心配しながら通路を歩いていると、親衛隊の面々が近付いてくる。

「中庭に行くだけだから」

 暗に仕事に戻れ、そう告げれば、彼らはすぐに持ち場へと戻っていく。頭のいい連中だ、と満足しながらも、内心は不安に苛まれていた。

 シュトリカと顔を合わせたとき、彼女はどんな様子になるだろう。例え呪いの化身だとしても、彼女を抱いたのは己の肉体だ。拒絶されたら――いや、それが普通かもしれない。何を話せばいいのかと考えているうちに、庭に出た。

 剪定せんていがなされ、奇麗に整った木々を見ていると、心が安らぐ。草木の匂いを友として幼少期は過ごした。公爵家の跡取りとして様々なことを学んできたが、真に好奇心を抱いたのはやはり、薬草や花など自然にまつわる事柄だ。

 ベルカスターの男性貴族はある一定の歳になると、誰もが議会の議員となる。その中から王を選挙で決め、法の下で政を行うのだ。しかし、まさか先代、実父に続き、己が王として選出されるとは思ってもみなかった。

 ポラートとの和睦わぼくを進めていた父とは意見が合い、議会の方でも今は和解派が主流だ。その中で若手として担がれてしまった、としか到底思えない。聡明だとか、温和な態度が好かれやすい、だとか、そんなものは己の表層だけしか見ていない連中ばかりだと感じる。

 確かに柔和な面が目立つ、それは理解できる。だが、それは――

「ペク、どこにいるの? ペク」

 噴水近くを通り過ぎたとき、シュトリカの声が近くから聞こえて我に返った。

 上空に飛んでいた瑠璃色の小鳥が一つ鳴き、エンファニオの肩へと滑空して止まる。

「お前は本当に賢いね。私だとわかるのかい」
「ペク……あっ」

 駆けてきたのか、少し息を荒くしたシュトリカが、茂みの側から現れた。昨日と形の似た、薄藍のドレスを身にまとっている。

「……やあ、シュトリカ」

 シュトリカは返事をしなかった。ドレスの裾を持ち、こうべを垂れる。それから顔を上げ、これ以上なく儚げに、驚いたことに微笑んでみせた。

「陛下、ですね」

 うん、と小さくはにかんで、胸を撫で下ろした。シュトリカの笑顔には、翳りがない。

「ペクが突然飛んでいってしまったから……どうしたのかなって」
「私が来たことに気付いたんだろうね。ほら、今の主人の下に行っておいで」

 ペクは言葉を受け止めたように鳴き、シュトリカの方へ飛んでいく。ペクのくちばしを撫でるシュトリカに、己を拒絶する雰囲気すらないことに少し、気まずくなる。

「昨日は……すまない」
「……謝らないで下さい、陛下。いいんです」
「よくは、ないよ。償いきれないことを、私は君にした」
「ほ、本当に気にしないで下さい……いつかは誰かに、ああされる覚悟はありましたから」

 泣き笑いにも似たシュトリカの笑みに、胸が締めつけられる。同時に、どこか諦めている感情を翡翠の瞳に見つけ、思わず眉をひそめた。

「誰かに、とはどういう意味かな。そういう話が持ち上がっていた、そういうことか」
「はい。幾度となくありました。でも、花枯らしの力は儲かるからって……団長が」

 そう、と返事をしたきり、話は途切れた。近くにある噴水、その水の音だけが響く。

 シュトリカが己以外の誰かに抱かれる、その想像をした途端、こめかみが少し、疼いた。あの柔らかな胸、細腰、甘い声音――思い出すたびに苦しくなり、心臓が脈打つ。

 他の男に抱かれる姿など見たくもない。それは、ただの独占欲なのだろうか。よくわからない。全く感じたことのない感情に、エンファニオは小さく唇を噛んだ。

「陛下は、今、お休みですか?」
「……うん。仕事はディーンに押しつけてきた。気分を変えたくてね」
「よ、よければお茶、一緒にしませんか? サミー、が用意してくれてるんです」
「それはいい。少し小腹も空いたし。でも、本当にいいのかい?」
「はい、いろんなお話し、聞かせて下さい。陛下がいやでなければ、ですけど……」
「私の話は長いよ。それでいいなら、私は一向に構わない」

 冗談めかして言えば、シュトリカがまた、小さく笑った。硝子のような繊細な笑みに、胸が温かくなる。もう、この子を傷付けたくない。そう思うのに、昨日の官能的な肢体が頭の隅によぎる。

 どこまでも私は浅ましい――ほの暗い感情を隠して、シュトリカと共に歩きだした。

 手に触れたい。その甲に口付けを落としたい。欲情めいた気持ちを、振り切りながら。
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