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序幕
買われた歌姫
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「花枯らしの歌姫、シュトリカ。その身を買わせて頂く」
目の前の男が放ったそんな言葉を、珍しく着飾らせてもらったシュトリカは惚けたままで聞いていた。返事をすることは許されない。声を出すのは歌うときと食事のときだけ。それが、雑技団の中で定められていた彼女への掟だったから。
「準備はできてるわよ。で、いくらでこの娘を買う気なのかしらね、お客様」
シュトリカの代わりに答えたのは、雑技団の団長だった。孤児たちを拾い育て、技を覚えさせて雑技団を大きくしていった女は、シュトリカの育ての母でもある。だがそこに愛はない。あるのは打算だけ。シュトリカの特殊な力に目をつけ、別口で商売をもしていた。
「ここに宝石と金、銀の類いが入っている。周辺三国の国境を通過するための通行証も。金品は一年ほど遊んで暮らせる額を用意した。好きに使うがいい」
「中身を確かめさせてもらうわ。……へえ、こりゃまた随分と値打ちものを揃えたわね」
今夜もまた、内密で行われる特別な商売に借り出されるのだろう――そう思っていたシュトリカは、話に全くついて行けなかった。混乱と不安が怯えとなって、かがり火の側で立ちすくむことしかできない。
売られるもの――買われるものは、自分だ。
少しの間を置いて理解した途端、諦めにも似た感情がシュトリカを支配した。森の中、梢が風に揺れて、空虚な胸にその音が染み渡る。
目の前にいる男は、シュトリカを睨むように、見定めるように橙の瞳を向けてきていた。フードから覗く剣呑な眼光が怖くて、思わず視線を逸らそうとしたそのとき、男の横にもう一つの人影が現れる。
「話は済んだだろうか。できれば早く、出立したいのだけれど」
また、男の声だ。しかし、橙の瞳を持つ男の声音が鋼のようなものに聞こえるに対し、現れた男の声は穏やかで、細波を思わせる柔和さを帯びている。聞くものの心を安らがせるような声音に、シュトリカはそっと、もう一人の男の方を見た。
目が合う。紫水晶をそのまま嵌めたような、濃い紫の瞳。フードより飛び出た前髪は、とりわけ右側が長く、頬を隠すまでに至るのだが、澄み渡る青空の色をしていた。背丈は橙の瞳を持つ男より少し低い。それでも長躯には違いなかった。
紫の瞳を不意にすがめられ、シュトリカは自分の格好を思い出し、恥じた。
軽く弧を描いた金髪は一般の娘と違い首下までと短く、艶なんて一つもない。翡翠色の瞳は多分、虚ろに満ちていることだろう。肩を大幅に出したドレスも生地が薄く、丈も短かった。唯一の装飾品、硝子玉がついた蝶の胸飾りも、男の瞳の前では色褪せるばかりだ。
自分の身なりが恥ずかしくて、男から目を逸らし、ただうつむく。
多分、彼らはどこかの貴族やお偉い様だ。そういう人間を相手にしていたから、彼女にはわかった。ちょっとした仕草、ピンと張った背筋、醸し出される雰囲気――それでも、今まで会ったどんな貴族たちより高貴な感じがする。
「……偽物はなさそうね。交渉成立だわ。この子は好きにしてちょうだい。ただし、わかってるでしょうけど」
「歌のことなら重々承知。それ以上の詮索は身を滅ぼすぞ」
「そう。じゃあ、さよならシュトリカ。せいぜいお客様に気に入られることね」
大きな袋に乗り、足を組む団長はなんてこともないように言う。十数年育ててくれた義理の母に、さようならと返すべきかどうかで悩み、結局うなずくことしかできなかった。
男二人はシュトリカを見ていて、側に来るのを待っている。
「おいで、シュトリカ」
未だためらう彼女に手を差し伸べたのは、紫の目を持つ男だった。シュトリカ、と呼ぶ声は、とても優しい。
男たちは誰なのか。自分はこれからどうなるのか――そんな不安を抱きながらも、草を踏み、男たちへ怖々と近づく。
「この先に馬車がある。急ぐぞ」
シュトリカが差し伸べられた手を取ると、片割れの男が言い、森の奥へと足を速めた。一方、シュトリカの手を取った男は、歩みを揃えてくれるようにゆったりと歩いている。強引さの欠片もなく、そこにある優しさを汲み取った彼女は面映ゆくなった。
手を振りほどくのも失礼な気がして、結局シュトリカは男と手を繋いだまま、森を出る。
街道沿いには馬車が用意されていたが、とても貴族が乗るようなものとは思えぬ幌馬車で、爵位を示す紋章すら入っていない。
「乗れ。出立する」
疑問に思うことはあれど、すでに買われた身だ。下手に疑問を口にしない方がいいだろう。そう思ったシュトリカは、男に手を取られたまま幌馬車に乗った。
義母と別れるのに、涙すら出ないのは冷たいことなのだろうか。そんなことを考えつつ。
目の前の男が放ったそんな言葉を、珍しく着飾らせてもらったシュトリカは惚けたままで聞いていた。返事をすることは許されない。声を出すのは歌うときと食事のときだけ。それが、雑技団の中で定められていた彼女への掟だったから。
「準備はできてるわよ。で、いくらでこの娘を買う気なのかしらね、お客様」
シュトリカの代わりに答えたのは、雑技団の団長だった。孤児たちを拾い育て、技を覚えさせて雑技団を大きくしていった女は、シュトリカの育ての母でもある。だがそこに愛はない。あるのは打算だけ。シュトリカの特殊な力に目をつけ、別口で商売をもしていた。
「ここに宝石と金、銀の類いが入っている。周辺三国の国境を通過するための通行証も。金品は一年ほど遊んで暮らせる額を用意した。好きに使うがいい」
「中身を確かめさせてもらうわ。……へえ、こりゃまた随分と値打ちものを揃えたわね」
今夜もまた、内密で行われる特別な商売に借り出されるのだろう――そう思っていたシュトリカは、話に全くついて行けなかった。混乱と不安が怯えとなって、かがり火の側で立ちすくむことしかできない。
売られるもの――買われるものは、自分だ。
少しの間を置いて理解した途端、諦めにも似た感情がシュトリカを支配した。森の中、梢が風に揺れて、空虚な胸にその音が染み渡る。
目の前にいる男は、シュトリカを睨むように、見定めるように橙の瞳を向けてきていた。フードから覗く剣呑な眼光が怖くて、思わず視線を逸らそうとしたそのとき、男の横にもう一つの人影が現れる。
「話は済んだだろうか。できれば早く、出立したいのだけれど」
また、男の声だ。しかし、橙の瞳を持つ男の声音が鋼のようなものに聞こえるに対し、現れた男の声は穏やかで、細波を思わせる柔和さを帯びている。聞くものの心を安らがせるような声音に、シュトリカはそっと、もう一人の男の方を見た。
目が合う。紫水晶をそのまま嵌めたような、濃い紫の瞳。フードより飛び出た前髪は、とりわけ右側が長く、頬を隠すまでに至るのだが、澄み渡る青空の色をしていた。背丈は橙の瞳を持つ男より少し低い。それでも長躯には違いなかった。
紫の瞳を不意にすがめられ、シュトリカは自分の格好を思い出し、恥じた。
軽く弧を描いた金髪は一般の娘と違い首下までと短く、艶なんて一つもない。翡翠色の瞳は多分、虚ろに満ちていることだろう。肩を大幅に出したドレスも生地が薄く、丈も短かった。唯一の装飾品、硝子玉がついた蝶の胸飾りも、男の瞳の前では色褪せるばかりだ。
自分の身なりが恥ずかしくて、男から目を逸らし、ただうつむく。
多分、彼らはどこかの貴族やお偉い様だ。そういう人間を相手にしていたから、彼女にはわかった。ちょっとした仕草、ピンと張った背筋、醸し出される雰囲気――それでも、今まで会ったどんな貴族たちより高貴な感じがする。
「……偽物はなさそうね。交渉成立だわ。この子は好きにしてちょうだい。ただし、わかってるでしょうけど」
「歌のことなら重々承知。それ以上の詮索は身を滅ぼすぞ」
「そう。じゃあ、さよならシュトリカ。せいぜいお客様に気に入られることね」
大きな袋に乗り、足を組む団長はなんてこともないように言う。十数年育ててくれた義理の母に、さようならと返すべきかどうかで悩み、結局うなずくことしかできなかった。
男二人はシュトリカを見ていて、側に来るのを待っている。
「おいで、シュトリカ」
未だためらう彼女に手を差し伸べたのは、紫の目を持つ男だった。シュトリカ、と呼ぶ声は、とても優しい。
男たちは誰なのか。自分はこれからどうなるのか――そんな不安を抱きながらも、草を踏み、男たちへ怖々と近づく。
「この先に馬車がある。急ぐぞ」
シュトリカが差し伸べられた手を取ると、片割れの男が言い、森の奥へと足を速めた。一方、シュトリカの手を取った男は、歩みを揃えてくれるようにゆったりと歩いている。強引さの欠片もなく、そこにある優しさを汲み取った彼女は面映ゆくなった。
手を振りほどくのも失礼な気がして、結局シュトリカは男と手を繋いだまま、森を出る。
街道沿いには馬車が用意されていたが、とても貴族が乗るようなものとは思えぬ幌馬車で、爵位を示す紋章すら入っていない。
「乗れ。出立する」
疑問に思うことはあれど、すでに買われた身だ。下手に疑問を口にしない方がいいだろう。そう思ったシュトリカは、男に手を取られたまま幌馬車に乗った。
義母と別れるのに、涙すら出ないのは冷たいことなのだろうか。そんなことを考えつつ。
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