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第三幕 芽生えたものは何?
3-1.これっぽっちもない
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アンマーセルに雪は降らない。地理的な面もあるが、妖精郷の加護が強いからだ。それでも夏と比べれば肌寒いし、ドレスだって厚着のものを着なければならなくなる。
一方、妖精郷には四季があった。今はアンマーセルと時を同じく、秋。エルテの誕生日から、ちょうど今日で四ヶ月が経つ。窓から見えるカエデなどの葉の赤さ、他の木の黄色。夏にはない色彩がアレグリアの目に眩しい。
カエデから出る、甘い樹液を水で薄めたものを飲みながら、アレグリアは自分の館でぼうっと、ネスが掃除している様を眺めていた。
「ちょっと、リア。手伝いなさいよ、掃除」
「うん……」
「もう四ヶ月も経つのよ? そりゃ、あのときは色々辛かったかもしれないけど」
「うん……」
「エルテ王子に会ってあげてもいいんじゃない? アンマーセルに行ってないんだから」
「うん……」
「……だめね、これは」
ネスのため息にも適当な返事しかできない。彼女はどうやら自分と話すことを諦めたようだ。箒で埃を掃く作業を再開する。
――どんな顔して、会えばいいんだ。
ネスの言葉に、沈痛な面持ちでコップを見つめる。覇気のない顔が、琥珀色の液体に映っていた。
この四ヶ月、色々と考え時は過ぎていった。思い人であるソルタオと、姉の恋。失恋したのだと感じたが、それよりも、友と思っていたエルテに体を貪られたことが衝撃だった。
フィロンは何事もなかったように振る舞っている。アンマーセルへ行くことはなかったけれど。多分、アレグリアが抱いていた仄かな慕情にも、あの夜、二人が体を重ねていたのを見ていたことにすら気付いていないのだろう。
ネスに言わせれば、恋をすればその相手のことしか考えられなくなる、らしい。だから、フィロンとソルタオを責める気にもなれない。抱いていた儚い思いが散ったとしても。
「どうすればいいのかな……」
ぽつりと、呟く。液体の表面が僅かに吐息で揺れた。ネスが囁きに気付く。
「だから、会って話しなさいってば。最近、フィロン様とも顔を合わせてないんでしょう? 心配してたわよ」
「だって……二人にどんな顔して会えばいいのか、私にはわからないんだ」
「エルテ王子は殴ればいいじゃない。いやだったんでしょ。無理やり抱かれて」
「いや……だった、のかな」
「何それ。あんなに泣いてたくせに。それともエルテ王子にされて、気持ちよかったの?」
「ば、ば、馬鹿! 気持ちよくなんて……」
顔が熱くなるのがわかる。ネスが意地悪そうにこちらを見ていた。
「まあ、妖精には人間と違って純潔なんてないし。この際、別の男にも抱かれてみる?」
「なんでそうなるんだ……わ、私はあんな真似、他としたくない」
「あら? なら、エルテ王子だったらいいの?」
アレグリアは魚みたく口を開け閉めした。いや、とか、でも、と口ごもりながら。
他の男と交わるなんて、想像しただけでも吐き気がする。だが、エルテとなら? 逞しい体、自分を見つめる赤い瞳。少し太い声音。想像して、とくんと心臓が脈打つ。
あのとき、エルテはいつもの様子じゃなかった。興奮し、情欲に溺れた獣だった。もし、側に自分がいなかったらどうなったのだろう。他の女性を抱いていた可能性も捨てきれない。
――それは……いやかも。
ネスと、フィロンと、エルテが交わることを想像してしまった。なぜかむかむかした。
「もう、さっきから顔赤くしたり青くしたり。いい加減、自分に素直になってみたら?」
「素直に……って言われても……」
複雑な心境だ。快楽に溺れる自分を思い起こし、あんなはしたない声を上げたことを悔やむ。でも、気持ちよかったかと問われれば、答えははい、だった。
実はネスにも内緒にしていることだが、あの淫悦が忘れられず、一人慰めることもあった。姫と呼ばれる自分がすることじゃない、そんなことも考えながら、体の火照りを鎮めたくて。でも、エルテと体を重ねたときのような法悦は、ほとんど得られていない。
淫乱な自分を振り切るように、頭を振ってなんとか笑みを浮かべた。
「姉様とは今度ちゃんと話すよ……。エルテとは、今から会いに行ってくる」
「殴る決意固めたのね、いいわ。ドレス、準備してあげる」
そうじゃないけど、と内心苦笑しつつもうなずく。
三色菫に残っていた『オレは、後悔なんてしてない』という言葉。その意味が知りたくて。震える両足に、何度も繰り返す。落ち着け、と。
ネスの行動は素早かった。今日は山吹色のドレスを選んでくれた。これもいつものように前が短く、後ろにかけて長い。化粧を施す気はないようで、ちょっとだけ安心した。
「それじゃ、エルテ王子によろしく。思い切りぶん殴ってきなさいな」
「う、うん……」
やっぱり勘違いしているネスに、着替えたアレグリアは手を振った。館から出て、羽を広げる。蝶のように飛べば、あっという間に妖精郷を出ることができた。
見慣れている王城の庭、そこに到着する。久しぶりすぎる庭の隅には薪や藁が置かれていて、秋の到来を告げていることがわかった。
今は夕暮れ時。庭に兵士や親衛隊の姿はない。決意を固め、エルテの部屋に行こうと羽を震わせた瞬間だ。
ひゅん、と聞き覚えのある音がした。それは、木刀を振る音。庭の奥、いつも茶会を開く側から聞こえてきていて、そちらの方に向かって飛んでみる。
角を曲がる直前で止まり、そっと音のする方角を覗いた。
――エルテだ……。
彼はいつものように簡単な普段着で、真面目な顔つきを作り一人、稽古をしている。力強く空を打ち、払い、回転しては止まる。型に沿った美しくも豪胆なその姿に、アレグリアは思わず惚けた。
黄昏の茜に輝く汗、それを拭う姿すら、今までとは違うように思える。いや、成人の儀、そこで見せたしゃんとした正装。それにも間違いなく見惚れてしまった自分がいたのだ。
「そこに誰かいるのか」
木刀を降ろしたエルテが、静かに顔を上げた。引っこもうとしたが、遅い。
「……アレグリア?」
こっそり覗いていたのが見つかって、アレグリアはびくりと体を震わせてしまう。だが生来の勝ち気な気質が、逃げることを許しはしない。ままよ、とばかりに羽をしまい、角から静かにエルテの元へ姿を現す。
「げ、元気、だったか。エルテ」
「……ああ。リアは?」
「う、うん。元気だ。稽古、してたんだな」
「もらった剣に、釣り合う男になりたくてさ。あれ、銀だろ?」
エルテが微笑んでくる。細められた赤い瞳は優しく、あの夜とは大違いだ。穏やかで、それでいて力強い視線にアレグリアは、なぜかうつむいた。胸の動悸が激しい。
「……リア。久しぶりに顔が見られて嬉しい」
「そう……か? ひ、久しぶりだもんな」
リア、とエルテに呼ばれるたび、どうしても鼓動が高鳴る。今まではアンタ呼びだったのに、と不思議に思いながらも。
「あの剣、凄いな。手になじむんだ。体の一部みたいに使える」
「柄に、長老の木を使ってるから。波長が合うのかもしれないな、エルテとは」
「選んでくれたのはリア? それとも妖精王?」
「わ、私が姉様にお願いして、皆に作ってもらった。誕生日の贈り物としては少し、その、無骨すぎるかもしれなかったけど」
「凄く嬉しかった。リア、ありがとう」
「どういたしまして……」
顔をちょっとだけ上げ、エルテを見る。不躾な態度に、それでもエルテの笑みは変わることがない。
「わ、私も久しぶりに稽古、しようかな」
「だめだ」
努めて明るく振る舞えば、無愛想な声で止められた。え、としっかり面を見つめてしまう。エルテの顔から笑みが消えていた。その顔は、成人の儀のときの姿を連想させた。
「いつもやってたじゃないか。どうして止めるんだ?」
「リアに怪我をさせたくないから」
エルテが近付いてくる。アレグリアの体はどうしてか動かない。そんなこと、今更言われても困る。でも、愛称を呼ばれるつど喉が乾き、心臓は早鐘を打つ。
エルテが目の前に立った。身長が伸びたようで、上を向かなければいけないくらいだ。
「あの日のこと、オレは謝らない」
「……え?」
「リアを抱いたこと、後悔してないから、オレ」
「それは……思念で聞いたけど。わ、私の気持ちも考えてくれないか……?」
「リアがどう思っててもいい。誰を思っててもいい。相手が兄上でも」
「……君も気付いてたんだな」
「いや、多分誰もが知ってる。兄上の前だけではしおらしいし」
エルテの苦笑に、アレグリアの心が軋んだ。そうなると、ソルタオもフィロンも、気付かぬふりをしてくれていたのだろう。一人で空回りして馬鹿みたいな自分に、嫌気がさす。しかし、それは思い合う二人の、残酷なまでの優しさだ。
「……抱いたことは謝らないけどさ」
と、胸元を押さえる自分の前で、エルテが突然跪いた。垂らしていた片手をとられ、その甲に優しく口付けを落とされる。
「エ、エルテ……?」
「苦しくさせて、ごめん」
伝わる唇の熱が、あの日の夜を想起させた。顔が一瞬にして熱くなり、紅潮してしまう。こんなことをされたのははじめてで、どうすればいいのかわからない。振り払うには胸の高鳴りが酷いし、それに何より、唇の感触が心地よかった。
エルテが跪いたまま、手の甲に何度も口付けしてくる。壊れ物を扱うような所作に、アレグリアは真っ赤になりながらゆっくり頭を振った。
「い、いいんだ。気にしないでくれ。それより、あの、手を……ビドゥーリが来たら……」
「……妖精王から聞いてない?」
エルテが手の甲へのキスをやめ、顔を上げた。真剣な顔つきで。
「何を? ビドゥーリに何か、あったのか?」
「アイツはもう、いない」
「いない……って、そんな、どうして突然」
「兄上が任を解いた。理由は……多分、妖精王の方が知ってると思う」
「エルテも、知ってる?」
「軽くは。今の補佐はオレだから。妖精王から話を聞いた方がいい」
これ以上ない真剣な眼差しに、アレグリアは軽くうなずくことしかできなかった。それを見て、ようやくエルテが手を離してくれる。
「リア、何かあったら絶対に、オレが助けに行くから」
「ぶ、物騒な物言いだな。心配しすぎだよ、エルテ」
一体、この数ヶ月で何があったのだろう。フィロンと顔を合わせなかった自分を恨む。だが、それより今はエルテの変貌ぶりに戸惑った。立ち上がった彼をただ、見つめる。
「……リアは、オレを許してくれるか」
「ゆ、許すとか、許さないとかじゃないと思う。だって、私……」
――私でよかったと思ってるから。
思い浮かんだ言葉を飲みこんで、無理やり笑顔を作った。
「私、姉様と話してくる。ビドゥーリのことが気になるし」
「そうだな。それがいい……なあ、リア」
「何?」
「また、来てくれるか」
「……うん。エルテも、忙しくなかったら。遊びに来て」
「ああ、そうする」
精悍な笑みに、不思議と心が穏やかになった。未だ口付けされた手の甲は、熱を帯びているけれど。微笑みを返し、それじゃあ、と踵を返す。
背後に視線を感じる。情熱的な、それでいて優しい、相反する視線を。唇の熱を逃がさないよう、片手を片手で握りしめながら、アレグリアはその場を後にした。
あの唇で体中を愛撫されたことを思い出せば、頬が勝手にまた、熱くなる。そして気付く。エルテを恨む気持ちも、憎む気持ちも、これっぽっちもないことを。
一方、妖精郷には四季があった。今はアンマーセルと時を同じく、秋。エルテの誕生日から、ちょうど今日で四ヶ月が経つ。窓から見えるカエデなどの葉の赤さ、他の木の黄色。夏にはない色彩がアレグリアの目に眩しい。
カエデから出る、甘い樹液を水で薄めたものを飲みながら、アレグリアは自分の館でぼうっと、ネスが掃除している様を眺めていた。
「ちょっと、リア。手伝いなさいよ、掃除」
「うん……」
「もう四ヶ月も経つのよ? そりゃ、あのときは色々辛かったかもしれないけど」
「うん……」
「エルテ王子に会ってあげてもいいんじゃない? アンマーセルに行ってないんだから」
「うん……」
「……だめね、これは」
ネスのため息にも適当な返事しかできない。彼女はどうやら自分と話すことを諦めたようだ。箒で埃を掃く作業を再開する。
――どんな顔して、会えばいいんだ。
ネスの言葉に、沈痛な面持ちでコップを見つめる。覇気のない顔が、琥珀色の液体に映っていた。
この四ヶ月、色々と考え時は過ぎていった。思い人であるソルタオと、姉の恋。失恋したのだと感じたが、それよりも、友と思っていたエルテに体を貪られたことが衝撃だった。
フィロンは何事もなかったように振る舞っている。アンマーセルへ行くことはなかったけれど。多分、アレグリアが抱いていた仄かな慕情にも、あの夜、二人が体を重ねていたのを見ていたことにすら気付いていないのだろう。
ネスに言わせれば、恋をすればその相手のことしか考えられなくなる、らしい。だから、フィロンとソルタオを責める気にもなれない。抱いていた儚い思いが散ったとしても。
「どうすればいいのかな……」
ぽつりと、呟く。液体の表面が僅かに吐息で揺れた。ネスが囁きに気付く。
「だから、会って話しなさいってば。最近、フィロン様とも顔を合わせてないんでしょう? 心配してたわよ」
「だって……二人にどんな顔して会えばいいのか、私にはわからないんだ」
「エルテ王子は殴ればいいじゃない。いやだったんでしょ。無理やり抱かれて」
「いや……だった、のかな」
「何それ。あんなに泣いてたくせに。それともエルテ王子にされて、気持ちよかったの?」
「ば、ば、馬鹿! 気持ちよくなんて……」
顔が熱くなるのがわかる。ネスが意地悪そうにこちらを見ていた。
「まあ、妖精には人間と違って純潔なんてないし。この際、別の男にも抱かれてみる?」
「なんでそうなるんだ……わ、私はあんな真似、他としたくない」
「あら? なら、エルテ王子だったらいいの?」
アレグリアは魚みたく口を開け閉めした。いや、とか、でも、と口ごもりながら。
他の男と交わるなんて、想像しただけでも吐き気がする。だが、エルテとなら? 逞しい体、自分を見つめる赤い瞳。少し太い声音。想像して、とくんと心臓が脈打つ。
あのとき、エルテはいつもの様子じゃなかった。興奮し、情欲に溺れた獣だった。もし、側に自分がいなかったらどうなったのだろう。他の女性を抱いていた可能性も捨てきれない。
――それは……いやかも。
ネスと、フィロンと、エルテが交わることを想像してしまった。なぜかむかむかした。
「もう、さっきから顔赤くしたり青くしたり。いい加減、自分に素直になってみたら?」
「素直に……って言われても……」
複雑な心境だ。快楽に溺れる自分を思い起こし、あんなはしたない声を上げたことを悔やむ。でも、気持ちよかったかと問われれば、答えははい、だった。
実はネスにも内緒にしていることだが、あの淫悦が忘れられず、一人慰めることもあった。姫と呼ばれる自分がすることじゃない、そんなことも考えながら、体の火照りを鎮めたくて。でも、エルテと体を重ねたときのような法悦は、ほとんど得られていない。
淫乱な自分を振り切るように、頭を振ってなんとか笑みを浮かべた。
「姉様とは今度ちゃんと話すよ……。エルテとは、今から会いに行ってくる」
「殴る決意固めたのね、いいわ。ドレス、準備してあげる」
そうじゃないけど、と内心苦笑しつつもうなずく。
三色菫に残っていた『オレは、後悔なんてしてない』という言葉。その意味が知りたくて。震える両足に、何度も繰り返す。落ち着け、と。
ネスの行動は素早かった。今日は山吹色のドレスを選んでくれた。これもいつものように前が短く、後ろにかけて長い。化粧を施す気はないようで、ちょっとだけ安心した。
「それじゃ、エルテ王子によろしく。思い切りぶん殴ってきなさいな」
「う、うん……」
やっぱり勘違いしているネスに、着替えたアレグリアは手を振った。館から出て、羽を広げる。蝶のように飛べば、あっという間に妖精郷を出ることができた。
見慣れている王城の庭、そこに到着する。久しぶりすぎる庭の隅には薪や藁が置かれていて、秋の到来を告げていることがわかった。
今は夕暮れ時。庭に兵士や親衛隊の姿はない。決意を固め、エルテの部屋に行こうと羽を震わせた瞬間だ。
ひゅん、と聞き覚えのある音がした。それは、木刀を振る音。庭の奥、いつも茶会を開く側から聞こえてきていて、そちらの方に向かって飛んでみる。
角を曲がる直前で止まり、そっと音のする方角を覗いた。
――エルテだ……。
彼はいつものように簡単な普段着で、真面目な顔つきを作り一人、稽古をしている。力強く空を打ち、払い、回転しては止まる。型に沿った美しくも豪胆なその姿に、アレグリアは思わず惚けた。
黄昏の茜に輝く汗、それを拭う姿すら、今までとは違うように思える。いや、成人の儀、そこで見せたしゃんとした正装。それにも間違いなく見惚れてしまった自分がいたのだ。
「そこに誰かいるのか」
木刀を降ろしたエルテが、静かに顔を上げた。引っこもうとしたが、遅い。
「……アレグリア?」
こっそり覗いていたのが見つかって、アレグリアはびくりと体を震わせてしまう。だが生来の勝ち気な気質が、逃げることを許しはしない。ままよ、とばかりに羽をしまい、角から静かにエルテの元へ姿を現す。
「げ、元気、だったか。エルテ」
「……ああ。リアは?」
「う、うん。元気だ。稽古、してたんだな」
「もらった剣に、釣り合う男になりたくてさ。あれ、銀だろ?」
エルテが微笑んでくる。細められた赤い瞳は優しく、あの夜とは大違いだ。穏やかで、それでいて力強い視線にアレグリアは、なぜかうつむいた。胸の動悸が激しい。
「……リア。久しぶりに顔が見られて嬉しい」
「そう……か? ひ、久しぶりだもんな」
リア、とエルテに呼ばれるたび、どうしても鼓動が高鳴る。今まではアンタ呼びだったのに、と不思議に思いながらも。
「あの剣、凄いな。手になじむんだ。体の一部みたいに使える」
「柄に、長老の木を使ってるから。波長が合うのかもしれないな、エルテとは」
「選んでくれたのはリア? それとも妖精王?」
「わ、私が姉様にお願いして、皆に作ってもらった。誕生日の贈り物としては少し、その、無骨すぎるかもしれなかったけど」
「凄く嬉しかった。リア、ありがとう」
「どういたしまして……」
顔をちょっとだけ上げ、エルテを見る。不躾な態度に、それでもエルテの笑みは変わることがない。
「わ、私も久しぶりに稽古、しようかな」
「だめだ」
努めて明るく振る舞えば、無愛想な声で止められた。え、としっかり面を見つめてしまう。エルテの顔から笑みが消えていた。その顔は、成人の儀のときの姿を連想させた。
「いつもやってたじゃないか。どうして止めるんだ?」
「リアに怪我をさせたくないから」
エルテが近付いてくる。アレグリアの体はどうしてか動かない。そんなこと、今更言われても困る。でも、愛称を呼ばれるつど喉が乾き、心臓は早鐘を打つ。
エルテが目の前に立った。身長が伸びたようで、上を向かなければいけないくらいだ。
「あの日のこと、オレは謝らない」
「……え?」
「リアを抱いたこと、後悔してないから、オレ」
「それは……思念で聞いたけど。わ、私の気持ちも考えてくれないか……?」
「リアがどう思っててもいい。誰を思っててもいい。相手が兄上でも」
「……君も気付いてたんだな」
「いや、多分誰もが知ってる。兄上の前だけではしおらしいし」
エルテの苦笑に、アレグリアの心が軋んだ。そうなると、ソルタオもフィロンも、気付かぬふりをしてくれていたのだろう。一人で空回りして馬鹿みたいな自分に、嫌気がさす。しかし、それは思い合う二人の、残酷なまでの優しさだ。
「……抱いたことは謝らないけどさ」
と、胸元を押さえる自分の前で、エルテが突然跪いた。垂らしていた片手をとられ、その甲に優しく口付けを落とされる。
「エ、エルテ……?」
「苦しくさせて、ごめん」
伝わる唇の熱が、あの日の夜を想起させた。顔が一瞬にして熱くなり、紅潮してしまう。こんなことをされたのははじめてで、どうすればいいのかわからない。振り払うには胸の高鳴りが酷いし、それに何より、唇の感触が心地よかった。
エルテが跪いたまま、手の甲に何度も口付けしてくる。壊れ物を扱うような所作に、アレグリアは真っ赤になりながらゆっくり頭を振った。
「い、いいんだ。気にしないでくれ。それより、あの、手を……ビドゥーリが来たら……」
「……妖精王から聞いてない?」
エルテが手の甲へのキスをやめ、顔を上げた。真剣な顔つきで。
「何を? ビドゥーリに何か、あったのか?」
「アイツはもう、いない」
「いない……って、そんな、どうして突然」
「兄上が任を解いた。理由は……多分、妖精王の方が知ってると思う」
「エルテも、知ってる?」
「軽くは。今の補佐はオレだから。妖精王から話を聞いた方がいい」
これ以上ない真剣な眼差しに、アレグリアは軽くうなずくことしかできなかった。それを見て、ようやくエルテが手を離してくれる。
「リア、何かあったら絶対に、オレが助けに行くから」
「ぶ、物騒な物言いだな。心配しすぎだよ、エルテ」
一体、この数ヶ月で何があったのだろう。フィロンと顔を合わせなかった自分を恨む。だが、それより今はエルテの変貌ぶりに戸惑った。立ち上がった彼をただ、見つめる。
「……リアは、オレを許してくれるか」
「ゆ、許すとか、許さないとかじゃないと思う。だって、私……」
――私でよかったと思ってるから。
思い浮かんだ言葉を飲みこんで、無理やり笑顔を作った。
「私、姉様と話してくる。ビドゥーリのことが気になるし」
「そうだな。それがいい……なあ、リア」
「何?」
「また、来てくれるか」
「……うん。エルテも、忙しくなかったら。遊びに来て」
「ああ、そうする」
精悍な笑みに、不思議と心が穏やかになった。未だ口付けされた手の甲は、熱を帯びているけれど。微笑みを返し、それじゃあ、と踵を返す。
背後に視線を感じる。情熱的な、それでいて優しい、相反する視線を。唇の熱を逃がさないよう、片手を片手で握りしめながら、アレグリアはその場を後にした。
あの唇で体中を愛撫されたことを思い出せば、頬が勝手にまた、熱くなる。そして気付く。エルテを恨む気持ちも、憎む気持ちも、これっぽっちもないことを。
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