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第一幕 淡い夢の日
1-3.三色菫
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アレグリアは、妖精郷の中心にある木の根元に座っていた。さわさわと梢を揺らす大樹――長老の木を見上げる。幹に蔦を張り巡らせ、妖精たちの頭よりも大きいコブをいくつもつけている長老は、未だ自分の思念に答えてはくれない。
「うーん……何が足りないんだろう。普通の植物とはやっぱり違うし……」
この四日間で、なんとか他の植物と意思の疎通はできるようになったが、長老の木を操るまでには至っておらず、焦りばかりが募る。
幼いとき、まだ父が存命だった頃、フィロンは外見をとどめるより早く長老と意志を交わしていた。自らの手足のように、長老の蔦や枝を操るすべを身につけていたのだ。
姉へ同調させるやり方を聞いたとき、守るという意志が強ければ強いほど、長老はその心に答えてくれると言っていた。昔から、妖精郷を守護したいという気持ちがフィロンにはあったのだろう。まさに、生まれながらに女王としてふさわしい人だ、と感心する。
「私だって守りたいよ。うん……故郷に何かあったら悲しい」
そうは思うが、結果がついてきてくれない。気持ちばかりが空回りして、諦め半分で、根っこに背中を預けた。寝っ転がり、木漏れ日を全身で浴びる。ドレス姿なのにみっともない、ネスやフィロンが見たらそう叱るだろう。
だが、ここは洞の中。しかも長老の木が崇められているという場所で、入れるのは今はフィロンと自分だけだ。姉は今頃、まつりごとや、生まれてきた妖精たちに祝福を与えることに勤しんでいるだろう。少し休んでも注意するものは誰もいない。
「姉様に悪いし、いけない、ってわかってはいるんだけど……さすがに疲れたな」
四日間、外にも出ず連日で、長老や植物たちと意思の疎通を試していた。剣を振るうこともなく、馬で駆けることもなく、ただひたすら。
一度頭を冷やそう――そう思って立ち上がったときだった。
『リア、聞こえる? お客様が来てるわよ』
近くに群生している白詰草から、思念が飛んできた。ネスの声だ。
『お客様? 誰だ?』
慌ててドレスについた木の屑を払って、同じく返答を飛ばす。
『エルテ王子。なんか疲れてるみたい、凄く。会ってあげたら?』
『いいのか? 私、今……』
『四日も頑張ったんだから、いいんじゃない? 少しくらいは大目に見てあげる。広場で待たせてあるから、すぐに来て』
『わかった。ありがとう、ネス』
どういたしまして、と返ったところで思念は切れた。アレグリアは長老へ頭を下げ、ドレスを翻して洞から出る。
エルテが妖精郷に来るのは珍しいことではない。頻繁というほどではないが。ちょうどいい気晴らしになるな、と心が躍った。剣や馬を使うことはできないが、話し相手になってもらえるならありがたい。
石造りの小さな城の横を通り、薔薇が咲き乱れる庭園の中を行く。広場はすぐそこだ。
まだ外見が定まらない、幼い妖精たちとエルテがはしゃいでいる姿が見えた。楽しそうに笑い合い、木でできた人形を渡しているエルテは確かに少し、疲れているように思える。
「あっ、姫様だー」
「姫様こんにちはっ!」
目ざとい数人が、こちらを捉えた。幼い妖精たちは、羽はあるものの飛ぶことはままならない。エルテからもらった玩具を手に、頬を紅潮させて駆け足で寄ってくる。
「こんにちは。皆、お土産をもらったのか」
「うん、エルテ兄ちゃんから。姫様も一緒に遊ぼー」
「ごめん、エルテと少し話があるんだ。遊ぶのはまた今度」
「仕方ないなー。エルテ兄ちゃん、姫様、またねー。お土産ありがと!」
「ちゃんと皆で仲良く遊ぶんだぞ。怪我をしないようにな。妖精の血は人間を酔わせる」
「わかってるー」
子供たちはそれぞれエルテに礼を述べ、花畑の方へと走っていく。こうして見ると、人間の子供も妖精の子供も変わりない。エルテが町に下りれば、子供たちはこぞって寄ってくる。意外と慕われやすい気質なのだ。本人も子供が好きらしい。
目線を合わせるためにしゃがんでいたエルテに、アレグリアは屈みながら声をかける。
「やあ、エルテ。四日ぶりだな。疲れた顔をしてるぞ」
「久しぶり。そりゃもう、兄上にあれこれ叩きこまれたからな。アンタも疲れてない?」
「こっちも色々あって。植物との意思疎通を試してたんだ。お茶にしないか? 私、喉が渇いてどうしようもない」
「そりゃいいや。オレも喉がカラカラ」
「じゃあ別館に行こう。そこならゆっくり話せるし」
うなずくエルテと共に、専用の小さな館へと向かう。菫の花畑が目印の、こぢんまりとした館だ。一階しかなく、使用人すらいないが、ネスが定期的に掃除をしてくれているため小綺麗ではある。
部屋数もそう多くはない。居間にある木の椅子をエルテに勧め、彼が座ったところでカモミールの茶を入れた。
「私に土産はないのか?」
「言うと思った。クッキー、持ってきた」
「バタークッキーは美味しいからな。好きだ。少し塩辛いけど」
「アンタ、すっかり人間に属してない? ま、いいけどさ」
ほとんど使っていない皿をエルテに渡す。懐から袋を取り出したエルテは、無造作にリボンを解き、皿の上にクッキーを全部載せた。
「……今日は化粧、してないんだな」
「え」
ティーポットを持つアレグリアの手が、一瞬止まる。お茶会のとき、ソルタオはネスが施した化粧に、全く気付いてくれなかった。エルテはわかっていたというのだろうか。
内心の動揺を知らないように、エルテは声を大きくして笑う。
「アンタは素の方がいいさ。けばけばしくないから」
「私に対する宣戦布告と取った。あれでも薄い方なんだぞ」
「そりゃまあ、フィロン妖精王と比べたらだろ。妖精王はいつでもめかし込んでるし」
「姉様に対する侮辱か、それは。似合ってるからいいじゃないか」
「だから……別に一緒じゃなくてもいいんじゃないか、ってことだよ。アンタが香水とかの匂い、撒き散らしてたら鼻摘まんで逃げるね、オレ」
「よし、それじゃあ君の誕生祭には思い切りめかし込んで、香水もつけてやる」
「うわ……勘弁してくれよ。せっかくの祝いだってのに」
ふん、と鼻を鳴らし、アレグリアはティーカップを乱暴に置いた。自分の分も用意し、エルテの向かい側に腰かける。
「それで? ソルタオ様に何を叩きこまれていたんだ、君は」
「あー、今回は成人の儀も一緒にするから。式典の作法とか、他には補佐役としての心構えとか? もの凄く疲れた。今日はちゃんと休みの時間をもらってきたわけ」
「今までのつけが回ってきた、と言うことだな。それは私も同じだけど」
「アンタは何してたんだよ。植物との意志疎通だっけ。辛いのか」
「妖精郷を守る長老の木があるだろう? それと交信しているんだ。でも、向こうはほとんど応えてくれなくて。精神的に辛い、って言った方がいいかな」
「思念を飛ばせるようになれば、王族の証しだっけか、確か。お互い大変だな」
全くだ、と笑い合ってクッキーを口にする。バターの風味が濃いが、それが癖になる。
「こっちもビドゥーリに嫌味言われたりさ、やる気なくすっての。まあ、それでも最近、ようやく兄上の手伝いできるようになったけど」
「よかったじゃあないか。ソルタオ様も一安心できるし」
ビドゥーリの名前が出て、ふと、エルテにそのことを聞くかで迷う。『ビドゥーリには気をつけろ』と、ソルタオが言っていたというフィロンの言葉を思い出して。
「どうしたよ?」
「あ……いや。ビドゥーリは一般人だったんだろう? それがどうして、ソルタオ様の補佐役にまでなれたんだ?」
「詳しくは知らないけど……アイツは小さな村から出て、王都一の学校を首席で卒業したんだ。それを父上が認めて、兄上の補佐に回した、って感じだったと思う」
「努力を買われたのか。凄いな、ビドゥーリも」
「まあな。教え方も上手いったら上手いし。兄上よりかはわかりやすい」
茶を飲んでクッキーを頬張るエルテの瞳には、ビドゥーリに対する疑念はひとかけらもなかった。だとすると、まだソルタオから何も聞かされていない線が濃厚だ。
――下手なことを言って、エルテの関心を引いたら厄介かも。
クッキーを豪快に咀嚼したエルテが、考えるアレグリアを見た。
「何? アンタ、ビドゥーリに興味あるわけ?」
「ちょっと気になっただけだよ。ソルタオ様と一歳しか違わないのに、あれだけちゃんと仕事ができてるのは感心する」
「確かにな。天才の兄上と肩を並べられるだけのことはある」
エルテの快活だった目が少し曇った気がして、アレグリアは微苦笑を浮かべた。
性は違えど共に、天才と呼ばれるきょうだいを持つ身だ。比較されたり自分に嫌気が差す気持ちは、痛いほどわかる。茶を注いでやり、少しうつむくエルテへ口を開いた。
「素でいい、と言ってくれたのは君だぞ、エルテ。私たちは私たちのやり方で、慌てずに励んでいけばいい」
「……そういうもんかね。あー、帰ったらまた勉強だ。式典前日まで部屋詰め……」
明らかに肩を落とすエルテに小さく笑い、それからいいことを思いついた。
「ちょっとここで待っててくれないか。君に渡したいものがあるんだ」
「ん、わかった」
ドレスの裾を持って立ち上がり、居間から自室へと向かう。部屋にはエルテからせしめた――というより、剣の稽古で勝ち取った小物や絵画が並んでいる。だが、それを返すのではなく、手にしたのは窓際で風に揺れる三色菫の鉢植えだ。
紫、黄色、白。名の通り愛らしい色をした花弁に触れ、念を込めた。
『エルテ、君ならできる。私も頑張るから、できるところまでやっていこう』
思いと励ましを一心に注ぎ、鉢植えを抱えて居間へと戻る。エルテはあくびを噛みしめているようだった。
「お待たせ。これを君にあげる。私の思念がこもった花だから、簡単には枯れない」
「いいのかよ? 大事に育ててたんじゃないのか」
「こないだ、剣の稽古で負けたからな。声も飛ばせるぞ。淡く光って教えてくれるんだ」
「へえ。便利だな、そういうの。そんじゃ、ありがたくもらうか」
「辛いときは声をかけてくれ。私と繋がっているから、内緒話もできたりするぞ」
「わかった。一度、夜にでも使ってみる」
立ち上がったエルテに、鉢植えを渡す。まじまじとそれを見て、エルテは首を傾げた。
「普通に声をかければいいのか……?」
「花弁に触れて声を紡ぐんだ。あ、今はだめだぞ。私の思念が入っているからな。その、部屋に戻ったときに試してみてくれ」
「了解。じゃあ、オレ、そろそろ戻るわ。これ、ありがとうな」
「わかった。気をつけて帰るんだぞ」
「子供じゃないって……じゃあまた、誕生祭のときに」
「うん、祭り、楽しみにしてる」
エルテを見送るためアレグリアも外に出ると、すでに空は黄昏がかっていた。茜色の陽射しは柔らかい。手を振るエルテにうなずきながら、遠ざかる背中を見守った。
――あと三日か。ドレスは何を着ていこう。前日にネスへ相談してみてもいいかもな。
自然と微笑みながら、あれこれ思案を巡らす。エルテのおかげでいい気晴らしができた。彼も頑張っているというのなら、自分だって負けるわけにはいかない。
もう一度と気合いを入れ、長老と思念を交わすために洞の方へと向かった。
「うーん……何が足りないんだろう。普通の植物とはやっぱり違うし……」
この四日間で、なんとか他の植物と意思の疎通はできるようになったが、長老の木を操るまでには至っておらず、焦りばかりが募る。
幼いとき、まだ父が存命だった頃、フィロンは外見をとどめるより早く長老と意志を交わしていた。自らの手足のように、長老の蔦や枝を操るすべを身につけていたのだ。
姉へ同調させるやり方を聞いたとき、守るという意志が強ければ強いほど、長老はその心に答えてくれると言っていた。昔から、妖精郷を守護したいという気持ちがフィロンにはあったのだろう。まさに、生まれながらに女王としてふさわしい人だ、と感心する。
「私だって守りたいよ。うん……故郷に何かあったら悲しい」
そうは思うが、結果がついてきてくれない。気持ちばかりが空回りして、諦め半分で、根っこに背中を預けた。寝っ転がり、木漏れ日を全身で浴びる。ドレス姿なのにみっともない、ネスやフィロンが見たらそう叱るだろう。
だが、ここは洞の中。しかも長老の木が崇められているという場所で、入れるのは今はフィロンと自分だけだ。姉は今頃、まつりごとや、生まれてきた妖精たちに祝福を与えることに勤しんでいるだろう。少し休んでも注意するものは誰もいない。
「姉様に悪いし、いけない、ってわかってはいるんだけど……さすがに疲れたな」
四日間、外にも出ず連日で、長老や植物たちと意思の疎通を試していた。剣を振るうこともなく、馬で駆けることもなく、ただひたすら。
一度頭を冷やそう――そう思って立ち上がったときだった。
『リア、聞こえる? お客様が来てるわよ』
近くに群生している白詰草から、思念が飛んできた。ネスの声だ。
『お客様? 誰だ?』
慌ててドレスについた木の屑を払って、同じく返答を飛ばす。
『エルテ王子。なんか疲れてるみたい、凄く。会ってあげたら?』
『いいのか? 私、今……』
『四日も頑張ったんだから、いいんじゃない? 少しくらいは大目に見てあげる。広場で待たせてあるから、すぐに来て』
『わかった。ありがとう、ネス』
どういたしまして、と返ったところで思念は切れた。アレグリアは長老へ頭を下げ、ドレスを翻して洞から出る。
エルテが妖精郷に来るのは珍しいことではない。頻繁というほどではないが。ちょうどいい気晴らしになるな、と心が躍った。剣や馬を使うことはできないが、話し相手になってもらえるならありがたい。
石造りの小さな城の横を通り、薔薇が咲き乱れる庭園の中を行く。広場はすぐそこだ。
まだ外見が定まらない、幼い妖精たちとエルテがはしゃいでいる姿が見えた。楽しそうに笑い合い、木でできた人形を渡しているエルテは確かに少し、疲れているように思える。
「あっ、姫様だー」
「姫様こんにちはっ!」
目ざとい数人が、こちらを捉えた。幼い妖精たちは、羽はあるものの飛ぶことはままならない。エルテからもらった玩具を手に、頬を紅潮させて駆け足で寄ってくる。
「こんにちは。皆、お土産をもらったのか」
「うん、エルテ兄ちゃんから。姫様も一緒に遊ぼー」
「ごめん、エルテと少し話があるんだ。遊ぶのはまた今度」
「仕方ないなー。エルテ兄ちゃん、姫様、またねー。お土産ありがと!」
「ちゃんと皆で仲良く遊ぶんだぞ。怪我をしないようにな。妖精の血は人間を酔わせる」
「わかってるー」
子供たちはそれぞれエルテに礼を述べ、花畑の方へと走っていく。こうして見ると、人間の子供も妖精の子供も変わりない。エルテが町に下りれば、子供たちはこぞって寄ってくる。意外と慕われやすい気質なのだ。本人も子供が好きらしい。
目線を合わせるためにしゃがんでいたエルテに、アレグリアは屈みながら声をかける。
「やあ、エルテ。四日ぶりだな。疲れた顔をしてるぞ」
「久しぶり。そりゃもう、兄上にあれこれ叩きこまれたからな。アンタも疲れてない?」
「こっちも色々あって。植物との意思疎通を試してたんだ。お茶にしないか? 私、喉が渇いてどうしようもない」
「そりゃいいや。オレも喉がカラカラ」
「じゃあ別館に行こう。そこならゆっくり話せるし」
うなずくエルテと共に、専用の小さな館へと向かう。菫の花畑が目印の、こぢんまりとした館だ。一階しかなく、使用人すらいないが、ネスが定期的に掃除をしてくれているため小綺麗ではある。
部屋数もそう多くはない。居間にある木の椅子をエルテに勧め、彼が座ったところでカモミールの茶を入れた。
「私に土産はないのか?」
「言うと思った。クッキー、持ってきた」
「バタークッキーは美味しいからな。好きだ。少し塩辛いけど」
「アンタ、すっかり人間に属してない? ま、いいけどさ」
ほとんど使っていない皿をエルテに渡す。懐から袋を取り出したエルテは、無造作にリボンを解き、皿の上にクッキーを全部載せた。
「……今日は化粧、してないんだな」
「え」
ティーポットを持つアレグリアの手が、一瞬止まる。お茶会のとき、ソルタオはネスが施した化粧に、全く気付いてくれなかった。エルテはわかっていたというのだろうか。
内心の動揺を知らないように、エルテは声を大きくして笑う。
「アンタは素の方がいいさ。けばけばしくないから」
「私に対する宣戦布告と取った。あれでも薄い方なんだぞ」
「そりゃまあ、フィロン妖精王と比べたらだろ。妖精王はいつでもめかし込んでるし」
「姉様に対する侮辱か、それは。似合ってるからいいじゃないか」
「だから……別に一緒じゃなくてもいいんじゃないか、ってことだよ。アンタが香水とかの匂い、撒き散らしてたら鼻摘まんで逃げるね、オレ」
「よし、それじゃあ君の誕生祭には思い切りめかし込んで、香水もつけてやる」
「うわ……勘弁してくれよ。せっかくの祝いだってのに」
ふん、と鼻を鳴らし、アレグリアはティーカップを乱暴に置いた。自分の分も用意し、エルテの向かい側に腰かける。
「それで? ソルタオ様に何を叩きこまれていたんだ、君は」
「あー、今回は成人の儀も一緒にするから。式典の作法とか、他には補佐役としての心構えとか? もの凄く疲れた。今日はちゃんと休みの時間をもらってきたわけ」
「今までのつけが回ってきた、と言うことだな。それは私も同じだけど」
「アンタは何してたんだよ。植物との意志疎通だっけ。辛いのか」
「妖精郷を守る長老の木があるだろう? それと交信しているんだ。でも、向こうはほとんど応えてくれなくて。精神的に辛い、って言った方がいいかな」
「思念を飛ばせるようになれば、王族の証しだっけか、確か。お互い大変だな」
全くだ、と笑い合ってクッキーを口にする。バターの風味が濃いが、それが癖になる。
「こっちもビドゥーリに嫌味言われたりさ、やる気なくすっての。まあ、それでも最近、ようやく兄上の手伝いできるようになったけど」
「よかったじゃあないか。ソルタオ様も一安心できるし」
ビドゥーリの名前が出て、ふと、エルテにそのことを聞くかで迷う。『ビドゥーリには気をつけろ』と、ソルタオが言っていたというフィロンの言葉を思い出して。
「どうしたよ?」
「あ……いや。ビドゥーリは一般人だったんだろう? それがどうして、ソルタオ様の補佐役にまでなれたんだ?」
「詳しくは知らないけど……アイツは小さな村から出て、王都一の学校を首席で卒業したんだ。それを父上が認めて、兄上の補佐に回した、って感じだったと思う」
「努力を買われたのか。凄いな、ビドゥーリも」
「まあな。教え方も上手いったら上手いし。兄上よりかはわかりやすい」
茶を飲んでクッキーを頬張るエルテの瞳には、ビドゥーリに対する疑念はひとかけらもなかった。だとすると、まだソルタオから何も聞かされていない線が濃厚だ。
――下手なことを言って、エルテの関心を引いたら厄介かも。
クッキーを豪快に咀嚼したエルテが、考えるアレグリアを見た。
「何? アンタ、ビドゥーリに興味あるわけ?」
「ちょっと気になっただけだよ。ソルタオ様と一歳しか違わないのに、あれだけちゃんと仕事ができてるのは感心する」
「確かにな。天才の兄上と肩を並べられるだけのことはある」
エルテの快活だった目が少し曇った気がして、アレグリアは微苦笑を浮かべた。
性は違えど共に、天才と呼ばれるきょうだいを持つ身だ。比較されたり自分に嫌気が差す気持ちは、痛いほどわかる。茶を注いでやり、少しうつむくエルテへ口を開いた。
「素でいい、と言ってくれたのは君だぞ、エルテ。私たちは私たちのやり方で、慌てずに励んでいけばいい」
「……そういうもんかね。あー、帰ったらまた勉強だ。式典前日まで部屋詰め……」
明らかに肩を落とすエルテに小さく笑い、それからいいことを思いついた。
「ちょっとここで待っててくれないか。君に渡したいものがあるんだ」
「ん、わかった」
ドレスの裾を持って立ち上がり、居間から自室へと向かう。部屋にはエルテからせしめた――というより、剣の稽古で勝ち取った小物や絵画が並んでいる。だが、それを返すのではなく、手にしたのは窓際で風に揺れる三色菫の鉢植えだ。
紫、黄色、白。名の通り愛らしい色をした花弁に触れ、念を込めた。
『エルテ、君ならできる。私も頑張るから、できるところまでやっていこう』
思いと励ましを一心に注ぎ、鉢植えを抱えて居間へと戻る。エルテはあくびを噛みしめているようだった。
「お待たせ。これを君にあげる。私の思念がこもった花だから、簡単には枯れない」
「いいのかよ? 大事に育ててたんじゃないのか」
「こないだ、剣の稽古で負けたからな。声も飛ばせるぞ。淡く光って教えてくれるんだ」
「へえ。便利だな、そういうの。そんじゃ、ありがたくもらうか」
「辛いときは声をかけてくれ。私と繋がっているから、内緒話もできたりするぞ」
「わかった。一度、夜にでも使ってみる」
立ち上がったエルテに、鉢植えを渡す。まじまじとそれを見て、エルテは首を傾げた。
「普通に声をかければいいのか……?」
「花弁に触れて声を紡ぐんだ。あ、今はだめだぞ。私の思念が入っているからな。その、部屋に戻ったときに試してみてくれ」
「了解。じゃあ、オレ、そろそろ戻るわ。これ、ありがとうな」
「わかった。気をつけて帰るんだぞ」
「子供じゃないって……じゃあまた、誕生祭のときに」
「うん、祭り、楽しみにしてる」
エルテを見送るためアレグリアも外に出ると、すでに空は黄昏がかっていた。茜色の陽射しは柔らかい。手を振るエルテにうなずきながら、遠ざかる背中を見守った。
――あと三日か。ドレスは何を着ていこう。前日にネスへ相談してみてもいいかもな。
自然と微笑みながら、あれこれ思案を巡らす。エルテのおかげでいい気晴らしができた。彼も頑張っているというのなら、自分だって負けるわけにはいかない。
もう一度と気合いを入れ、長老と思念を交わすために洞の方へと向かった。
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