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第二幕
6.とてもきれいですごくかわいそう①
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生命の色は赤だ。
まばゆくきらきらと、光を反射する赤。
あの生ぬるい空気を、鼻を突く排泄物の匂いを、今もありありと思い出せる。
母親が死に、児童養護施設でしばらく暮らし、事実上の天涯孤独になった俺を迎えに来たのは、後見人となった親父、矢野耀司だった。
その親父に連れられて引っ越した先の新しい学校で、親しい友人を作らなかった俺は、孤立していたのだと思う。
別に誰かと対立したいわけじゃなかった……などと、言い訳することすら面倒だった。
新しい場所で前向きな人間関係を作ろうと思えるような子供ではなかったし、そもそも当時は何もかもに疲れていた。考えることも、希望を持つことも。
俺のことを気に入らないクラスメイトがいるのはなんとなくわかっていて、だからといって何をするわけでもなく、変わらず過ごしていた。
その態度がまた誰かの逆鱗に触れるのだとしたら、俺は一体どう振る舞えばよかったのだろうか。
小6の秋。その日は朝からずっと陽が強く、まるで夏の始まりみたいに蒸し暑かった。
学校からの帰り道、クラスの悪ガキと先輩の中学生、合わせて数人が俺に犬をけしかけてきた。
「リク、噛み殺しちゃえ! そいつ、ヤクザの子だから。将来ヤクザにならないうちに殺しちゃえ!」
そう言った生徒の名前を、俺は思い出せない。なんなら、その場にいたそいつら全員のことも知らなかった。同じクラスにいるやつにも、先生にも上級生にも、等しく興味がなかった。
律儀に主人の言いつけを守り、俺を追いかけてきたのは、ボサボサの毛並みのアフガンハウンドだった。もう少しこまめに手入れすれば、金色の長毛は輝くようなツヤを持つはずなのに、勿体ないと思った。
午後の通学路を、背の高い流線型の犬に追われ必死に走る俺を見て、追ってきた同級生たちが笑っていた。冗談では済まされない悪意と嘲りを感じて、反吐が出そうになった。
俺は足が速かったが、獣には敵わない。
脇目も振らず駆けるうち、どんどん退路を断たれ山手まで来てしまい、ついに誰かの私有地の林の中に迷い込んだ。
クヌギの木に背をつけて、肩で息をする。昼間なのに薄暗く、生い茂った木の枝の隙間から差す光がぽつぽつと足元に溢れて、こんなときなのに美しかった。
乱れた息を整える間もなく、四つ足の先の爪が軽やかに、湿った土を蹴る音がする。
顔を上げると、もう数メートルの距離から、犬は俺の喉首に噛みつこうとこちらを伺っていた。
牙の間からくるると喉を鳴らして、右に左に八の字を描くように歩き回る。粘度の高い透明な涎を振り回し、ギラついた目で俺のことを見ていた。
犬の顎の力は、小型犬でも100キログラムを超えるという。眼前の犬に本気で食らいつかれれば、子供の俺の骨など一瞬で砕けてしまうに違いなかった。飼いならされた犬とはいえど、獣の前に人は無力だ。
首を伝う汗に、数匹の藪蚊がまとわりつく。小さな羽音を伴って、細い虫の肢が肌にくっつくのが、ものすごく気持ち悪くて不愉快だった。
せめて何か武器になるものをと、足元にあった長めの木の枝を拾おうとした時、破裂音のような咆哮と地を蹴る音が聞こえた。
砲弾みたいにまっすぐ、身体を低くした俺の喉仏に向かって、そいつは牙を剥いた。
死ぬかもしれないと思った瞬間、突然世界がスローモーションみたいになって、どうどうと自分の血の巡る音が耳元で鳴った。
俺はきっと犬と同じように、あるいはそれ以上に興奮していたが、頭の中は驚くほど冷静だった。
血液が沸き立つ。視界が異常にクリアで、制御できないほどの万能感が、一気に末端まで巡った。
まばゆくきらきらと、光を反射する赤。
あの生ぬるい空気を、鼻を突く排泄物の匂いを、今もありありと思い出せる。
母親が死に、児童養護施設でしばらく暮らし、事実上の天涯孤独になった俺を迎えに来たのは、後見人となった親父、矢野耀司だった。
その親父に連れられて引っ越した先の新しい学校で、親しい友人を作らなかった俺は、孤立していたのだと思う。
別に誰かと対立したいわけじゃなかった……などと、言い訳することすら面倒だった。
新しい場所で前向きな人間関係を作ろうと思えるような子供ではなかったし、そもそも当時は何もかもに疲れていた。考えることも、希望を持つことも。
俺のことを気に入らないクラスメイトがいるのはなんとなくわかっていて、だからといって何をするわけでもなく、変わらず過ごしていた。
その態度がまた誰かの逆鱗に触れるのだとしたら、俺は一体どう振る舞えばよかったのだろうか。
小6の秋。その日は朝からずっと陽が強く、まるで夏の始まりみたいに蒸し暑かった。
学校からの帰り道、クラスの悪ガキと先輩の中学生、合わせて数人が俺に犬をけしかけてきた。
「リク、噛み殺しちゃえ! そいつ、ヤクザの子だから。将来ヤクザにならないうちに殺しちゃえ!」
そう言った生徒の名前を、俺は思い出せない。なんなら、その場にいたそいつら全員のことも知らなかった。同じクラスにいるやつにも、先生にも上級生にも、等しく興味がなかった。
律儀に主人の言いつけを守り、俺を追いかけてきたのは、ボサボサの毛並みのアフガンハウンドだった。もう少しこまめに手入れすれば、金色の長毛は輝くようなツヤを持つはずなのに、勿体ないと思った。
午後の通学路を、背の高い流線型の犬に追われ必死に走る俺を見て、追ってきた同級生たちが笑っていた。冗談では済まされない悪意と嘲りを感じて、反吐が出そうになった。
俺は足が速かったが、獣には敵わない。
脇目も振らず駆けるうち、どんどん退路を断たれ山手まで来てしまい、ついに誰かの私有地の林の中に迷い込んだ。
クヌギの木に背をつけて、肩で息をする。昼間なのに薄暗く、生い茂った木の枝の隙間から差す光がぽつぽつと足元に溢れて、こんなときなのに美しかった。
乱れた息を整える間もなく、四つ足の先の爪が軽やかに、湿った土を蹴る音がする。
顔を上げると、もう数メートルの距離から、犬は俺の喉首に噛みつこうとこちらを伺っていた。
牙の間からくるると喉を鳴らして、右に左に八の字を描くように歩き回る。粘度の高い透明な涎を振り回し、ギラついた目で俺のことを見ていた。
犬の顎の力は、小型犬でも100キログラムを超えるという。眼前の犬に本気で食らいつかれれば、子供の俺の骨など一瞬で砕けてしまうに違いなかった。飼いならされた犬とはいえど、獣の前に人は無力だ。
首を伝う汗に、数匹の藪蚊がまとわりつく。小さな羽音を伴って、細い虫の肢が肌にくっつくのが、ものすごく気持ち悪くて不愉快だった。
せめて何か武器になるものをと、足元にあった長めの木の枝を拾おうとした時、破裂音のような咆哮と地を蹴る音が聞こえた。
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死ぬかもしれないと思った瞬間、突然世界がスローモーションみたいになって、どうどうと自分の血の巡る音が耳元で鳴った。
俺はきっと犬と同じように、あるいはそれ以上に興奮していたが、頭の中は驚くほど冷静だった。
血液が沸き立つ。視界が異常にクリアで、制御できないほどの万能感が、一気に末端まで巡った。
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