20 / 48
2巻
2-2
しおりを挟む「……ソフィア様、お捜ししました」
「カトリナ!」
淑女科の面々――テレーゼを中心とする令嬢たちに囲まれていたソフィアが、ホッとした顔を見せる。
彼女の隣にアレクシス殿下の姿がないのは、テレーゼたちに引き離されたのか、あるいは、ソフィアが勝手に離れてしまったのか。
どちらにしろ、迂闊としか言いようがない。
(……クリスティーナ様なら、絶対にこんなことはなさらない)
その身が高貴であればあるほど、未婚の令嬢は周囲を固めるもの。悪意ある者を近づけないための「取り巻き」は、決して無意味なものではない。
けれど、そうした関係を嫌うソフィアは、自分以外の同性を遠ざける傾向があった。
一番の問題は、殿下がそれを許してしまうことだが――
「……ソフィア様、アレクシス殿下がお呼びです。ご案内いたしますので、こちらへ」
この場を逃げ出すための口実。それに、「うん!」と元気良く返事をするソフィアの手を引いて、令嬢たちの囲いを抜け出す。
抜け出す直前、正面に立つテレーゼが視界に映った。広げた扇子の下で、唇が愉悦に歪んでいる。虫けらでも見るような彼女の視線を避け、俯きがちにその隣をすり抜けた。
足早にホールを横切り、宿泊棟へ向かう。背後から、ソフィアの声が聞こえた。
「ありがとう、カトリナ! 人混みのせいでアレクシスとはぐれちゃって。すごく助かったわ」
礼の言葉に小さく「いえ」と返す。その後に続く彼女の言葉を聞き流して進む内、不意に強い視線を感じて、背後を振り返る。
(えっ?)
碧い瞳――クリスティーナと目が合った気がして、とっさに下を向く。
ドクドクと心臓が鳴るのを感じつつ、「そんなはずはない」と言い聞かせる。
私は彼女を裏切った。彼女が私を気に掛けるはずがない。
浅ましい期待を持たぬよう、下を向いたままホールを抜け出し、灯りの乏しい宿泊棟へ入った。
薄明りの廊下に、ソフィアのため息が零れ落ちる。
「……それにしても、テレーゼさんたちって意地悪だよね。嫌になっちゃう」
暗がりで漸く気持ちが落ち着き、彼女の愚痴に曖昧に頷いて返した。
「さっきも色々、腹が立つことばっかり言われて。でも、逃げられないし、あんなところで怒れないから、カトリナが来てくれて本当に良かった」
安堵するソフィアに、返す言葉はない。彼女の、微塵も疑心を持たない笑みにも心は凪いでいた。
(もっと不安だったり、罪悪感を覚えたりするかと思ったけれど……)
感情が麻痺しているのか、何の感慨も持たずに、ソフィアを宿泊棟に誘う。
「……奥に、部屋をご用意しています」
「部屋? そこでアレクシスが待ってるの?」
「いえ。殿下のことは、あの場を抜け出すための方便です。ですが、すぐに殿下を呼んでまいります。ソフィア様はテレーゼ様たちに捕まらぬよう、部屋でお待ちください」
諭すと、彼女は「そういうことね」と素直に頷く。
その信頼はどこから来るのか。彼女に友誼を求められた時からの疑問ではあるが、今はもう、その答えも必要ない。
(……本当に、みんな愚かだわ)
人の悪意を疑わない彼女も、彼女を一人にした庇護者たちも。それから、人の精一杯の告発を拒絶した男も、いまだ王太子殿下の婚約者の地位を望む女も。
だけど、最も愚かなのは――
(……今度こそおしまいね。私も、ヘリングの家も)
これから自分が成すことは、ソフィアの王太子妃への道を閉ざすだろう。私が罪から逃れる術はない。
だが、きっとそれでいいのだ。
私は一度、選択を間違えた。
裏切り、逃げた先で得られた現実がこれなら、もう、終わりにしよう。精々、愚か者を道連れにしてみせる。この国の王太子妃に相応しいのは、今も昔も変わらず、あの方しかいないのだから。
ああ、だけど、あの方はどう思うだろうか――?
先ほど、ホールで交差した視線を思い出す。孤立無援の中、変わらず顔を上げ続ける彼の方は、私の行いを認めてくれるだろうか。
(……分からない。以前なら、『絶対に、あの方は喜んでくださる』、そう思えたのに……)
自分の行おうとしていることに、何一つ、自信が持てない。
俯いていると、隣に並んだソフィアに顔を覗き込まれた。
「カトリナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません。ご心配をお掛けして……」
「ううん! 私が勝手に心配しただけ。謝ってもらうようなことじゃないよ」
そう言ってニコニコと笑うソフィアが、「あ、そうだ!」と声を上げる。
「アレクシスを呼びに行く時に、イェルクも一緒に呼んだらどうかな?」
「……イェルク様、ですか?」
その名に、わずかに胸が痛んだ。何も気付かぬ彼女は、嬉々として言葉を続ける。
「聖夜祭ってとっても長いでしょ? 年明けまで続くんだから、ちょっとくらい、四人でおしゃべりしても良いと思わない?」
「いえ、私は……」
反射的に口を衝いた拒絶に、彼女は「どうして?」と首を傾げる。
「カトリナにはいい機会じゃない? 折角だから、イェルクといっぱい話して、仲良くなろうよ」
屈託のない言葉に、イェルクの冷たく見下ろす瞳が蘇る。
「……恐れ多いことです。私は、既にイェルク様に婚約を解消されております」
「うーん。確かにそうなんだけど、でも、前の婚約は政略が前提だったんでしょう?」
彼女が何を言いたいのかが分からず、沈黙を返す。
「えっと、だから、今度はちゃんとイェルクと恋愛して、もう一度、婚約を結び直せばいいんじゃないかなって。二人が結ばれたら私も嬉しいし、応援するよ!」
「それは……、できません」
胸を刺す痛みに耐え、辛うじて言葉を返す。下を向く私に、彼女は「でも」と更に顔を覗き込んだ。
「でも、カトリナはイェルクのこと、まだ好きだよね? 隠しててもバレバレだよ? 目がいつも彼を追ってるんだもん!」
そう言って、揶揄うような笑みを向けられ、彼女を直視できなくなる。その笑顔が歪んで見えた。
――一体、何がおかしいというの……?
自身の恋慕――イェルクへの執着は、それほど滑稽だっただろうか。「目障りだ」と、「視界から消えろ」と言われるほど嫌悪された私が、彼を想うのは――
眩暈がするほどの感情の昂りを覚え、息が上手く吸えなくなる。怒りと羞恥が込み上げたが、すぐに惨めさに取って代わる。
結局、彼にとって私の好意など、一顧だにする価値さえない。彼は別の女性を選んだのだ。
「……ソフィア様、まずはお部屋へ入りませんと。ご案内いたします」
「あ、そっか。そうだよね。イェルクとおしゃべりするのも久しぶりだから、気持ちが焦っちゃった。うん、すごく楽しみ!」
実らなかった想いも、届かなかった勇気ももう要らない。イェルクに背を向けられた時に、想いは全て砕けて消えた。これ以上、痛い思いも辛い思いもしたくない。
押し黙って歩き続け、目的の部屋の前で立ち止まる。
取り出した鍵で部屋を開けると、ソフィアがなんの警戒もせず、足を踏み入れた。その姿に、もう失望することはない。
「ソフィア様、しばらくここでお待ちください。すぐに殿下を呼んでまいります」
「ありがとう。よろしくね」
礼の言葉に頷いて返し、彼女の眼前で扉を閉める。そのままゆっくりと鍵を回し、扉に鍵を掛けた。
(……気付いた、かしら?)
今なら、まだ間に合う。彼女が部屋の内鍵が壊されていることに気付けば。閉じ込められたことに気付いて、「ここから出して」と大騒ぎすれば――
けれど、閉ざされた扉の向こうからはなんの音も聞こえてこない。
安堵と諦め半々のため息が口から零れ落ちる。不意に、背後から肩を叩かれた。
「上手くやったじゃない」
そう言ってこちらに醜悪な笑みを向けるのは、テレーゼの取り巻きの一人。
「テレーゼ様もご満足されるでしょう。これで、貴女も彼女のお傍に侍ることが許されるわ」
そんなことは望んでいない。
黙ったままの私に、取り巻きの伯爵令嬢は片方の口角を釣り上げる。
「良かったわね、落ち目のヘリングも、リッケルト家に拾っていただけて。テレーゼ様は自分に従う者には寛容よ」
なおも応えずにいると、令嬢の顔に険が浮かぶ。
「……いいこと? くれぐれも裏切ろうだなんて思わないで。テレーゼ様は決してお許しにならないわ。リッケルトに逆らえば、貴女一人が全ての罪を被ることになるのよ」
そう言って、令嬢は廊下の先の階段に視線を向ける。
テレーゼが間もなくこちらへやってくるのだろう。先んじて現れた彼女は、私と目の前の扉の見張り役といったところか。
手の内、自身の体温で温くなった金属を私はギュッと握り締めた。
(……やはり、私は変われない。どこまで行っても、私は私のまま……)
理不尽に抗えず、声を上げることもできず─―
ふと、階段付近の暗がりで何かが動いた気がして視線を向ける。
(? 誰か、いるの……?)
凝視しても、暗闇には何も見えない。
張り詰めた神経が見せた幻だったかと、目を閉じた。
もうすぐ、全てが終わる。
その時を待ち、足音一つしない廊下に静かに立ち続けた。
◇ ◇ ◇
(どういうこと? どうしてカトリナがゲルデと……)
暗闇に紛れる碧いドレスの裾を押さえて、階段の端から覗いた光景を反芻し、今の状況を見定める。
カトリナと共にホールを出たソフィアの姿が見当たらず、そのカトリナはテレーゼの取り巻きであるゲルデ・ヘルツベルグと一緒にいる。しかも、二人は宿泊室の前に二人並んで立っていた。まるで、扉を守る門番のように。
(もしかしなくても、最悪な状況、というわけね)
嫌な予感はしたのだ。
夜会場で壁の花となって数刻、暇に厭かせて周囲を観察していたが、気付くと、ソフィアが野放しになっていた。あっさりとテレーゼに捕まった彼女の周囲に味方はおらず、殿下方は何をしているのかと呆れていたところに、カトリナが現れる。
現れたカトリナは颯爽とソフィアを助け出したのだが、その姿には違和感しかなかった。
ここ最近、彼女とソフィアの距離が近しいことには気付いていたが、カトリナの性格的に、ああした場面で矢面に立つことはないだろうと思っていたのだ。
好意的に見れば、「彼女も成長した」、「ソフィアの庇護下で強くなった」、とも考えられるが、カトリナはいまだに淑女科でテレーザたちの執拗な嫌がらせにあっている。
声を上げればいいものを、彼女はそれをせず、常に「察して」もらうだけ。自分から助けを求めることをしないカトリナの窮状を、ソフィアが気付く様子もない。
そんなカトリナが突然、テレーゼに反旗を翻すなどあり得るだろうか。
ソフィアを連れてホールを出ていくカトリナを観察していると、一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。が、すぐに視線が逸らされる。
そこに焦りのようなものを感じ、嫌な予感は膨らんだ。
結局、ソフィアの護衛らしき女性騎士がテレーゼの取り巻きの一人に足止めされるのを見て、二人の跡を追うことを決めた。
距離があったため、ホールを出たところで一度完全に二人を見失ったが、今こうして、カトリナを見つけられたのは、運に助けられたと言える。
(問題はこれからどう動くか。殿下に知らせるのが一番だけれど……)
おそらく、ソフィアはあの扉の向こうにいる。
男女の密事のために用意された部屋に、一人きりで閉じ込められるということはないだろう。今すぐにでも飛び込むべきだが、あの二人が扉の前にいる以上、騒ぎになることは避けられない。ソフィアが男と密室にいたという醜聞が広がれば、彼女が殿下の妃となるのは絶望的だ。
(それがどうした。関係ない。……と言ってやりたいところだけれど)
腐っても、ソフィアはハブリスタント。自らの愛する者に幸福をもたらす「花の王家」の末裔。
国と北の辺境の安寧を思えば、彼女が王太子であるアレクシスと結ばれることが最善で、少なくとも、こんなお粗末な罠で馬鹿らしい結末を迎えるなんてあり得ない。
(とにかく、あの扉は開けずに、中の状況を確認しないと)
仮に、今はソフィア一人だとしても、離れた隙に男が入っていく可能性もある。殿下に知らせる暇はない。
「最悪だ」と内心で零しつつ、周囲を見回す。背後の階段を見下ろした際に、大きな窓が視界に映った。
一階と二階の間の踊り場にある大きな腰高窓。
(……やるしかない、か)
足音を立てぬよう踊り場まで階段を駆け下り、窓を開け放つ。
幸いにして、周囲に警護の騎士は見当たらない。
いつもより慎重に身体強化の術を掛け、窓枠に立った。そこから大きく腕を伸ばし、外壁の装飾に張り付く。わずかな装飾、壁の出っ張りを伝って、二階の窓枠へなんとか辿り着いた。
(まったく、なんで私がこんなことを……っ!)
カトリナたちが見張っていた部屋までは、バルコニーを二部屋分、横切らねばならない。いずれの部屋もカーテンが閉じているが、万が一、こんな奇行を見られでもしたら、己の社会的地位は完全に失われる。元より地に落ちた名だが、その比ではない。
ソフィアのいる部屋、その窓辺に到達して、漸く一息をつく。同じバルコニーに繋がる窓が二つあるため、どうやら、二間続きの造りとなっているらしい。
手前の部屋――カトリナたちが立っていた扉のある部屋は重厚なカーテンが掛かっており、その中を窺い知ることはできない。
その前を通り過ぎて、続きの部屋の窓辺に立つ。こちらも同じくカーテンが閉じられているが、細く開いた隙間からどうにか中の様子が垣間見えた。
灯りの乏しい室内、部屋の中央に寝台が置かれているのが見える。ベッドサイドの灯りを頼りに懸命に目をこらすと、寝台の上に全裸で転がる男の姿があった。
あれは、見間違いでなければ─―
(ああ、もう、本っ当に、最低……!)
救いは、部屋の中にソフィアの姿がないことか。最悪、薬を盛られて同じ寝台の上という可能性もあった。どうにかそれは避けられたようだが、では、そのソフィアはどこにいるのだろう。隣の部屋にいるのだとしたら、早々に連れ出さねばならない。
一つ手前、相変わらず中の様子の窺えない窓へ戻り、思案する。バルコニーの窓には内側から鍵が掛けられており、無理に壊せば魔術の警報が鳴るだろう。
仕方なしに、こちらの部屋にはソフィアしかいないという可能性に賭け、窓ガラスを叩いて中に呼びかけた。
「……ソフィア様、いらっしゃいますか? いらっしゃるのなら、ここを開けてください」
呼びかけに返事はない。
警戒されているのか、それとも、彼女はこの場にいないのか。
周囲を警戒しつつ二度、三度と繰り返すと、不意に窓の向こうのカーテンが揺れ、光が漏れた。
「え? クリスティーナさん?」
ガラス越しのくぐもった声。カーテンの間から、驚きに目を見開いたソフィアが顔を覗かせる。その緊張感のない姿に、「まだ猶予はありそうだ」と安堵し、肩の力が抜けた。
潜めた声のまま、ソフィアに迫る危機を伝える。
「ソフィア様、すぐにこの部屋から出てください。隣の部屋にイェルク様がいらっしゃるのはご存知ですか? このままでは、お二人の関係が醜聞となってしまいます」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりなんの話? 私はアレクシスを待ってるんだよ? イェルクはアレクシスと一緒に来るはずだから……」
状況を理解しない彼女に苛立つ。
時間がない。もう、いつテレーゼが乗り込んできてもおかしくないというのに。
感情を押し殺し、努めて冷静に口を開いた。
「では、私を部屋の中に入れてください。それで、密室に男女二人きりという状況は避けられます」
だが、こちらの言葉を信用できないのだろう。ソフィアは窓を開けることはせず、隣の部屋に視線を向けた。
「あの、あっちの部屋にイェルクがいる、んだよね? だったら、私、確かめてくる」
「止めてくださいっ!」
ただでさえ危うい状況。二人で寝室にいるタイミングで踏み込まれたら、言い逃れのしようもない。
「イェルク様は服を着ていらっしゃいません」
「えっ!?」
「彼に何があったのかは不明ですが、決して近づかないでください。それよりも、早くここを……」
「開けてください」という前に、ソフィアは後ずさり、窓際から離れた。
「じゃ、じゃあ、私、外に出ますね。外で待っていればいいでしょう?」
「待って!」
部屋の奥、カトリナたちのいる扉に駆け寄ったソフィアが、ドアノブを掴む。けれど、掴んだドアノブが回らないのか、彼女は焦ったようにノブを押したり引いたりし始めた。
冷静さを欠いた行動に「マズい」と思うが、大声で呼び戻すわけにもいかない。こちらを振り返らないソフィアに歯噛みしていると、不意に彼女がよろめいた。
一歩、後退した彼女の目の前で扉が開く。
と同時に、こちらまで届く悲鳴が響いた。
「ソフィア様! こんなところで、一体、何をなさっているのっ!?」
扉を開け放ち、ズカズカと踏み込んできたのは、案の定、テレーゼだ。取り巻きを引き連れた彼女に対し、ソフィアは戸惑うばかりで反応が鈍い。
その間にも、テレーゼの一方的な糾弾が続く。
「アレクシス殿下のご婚約者ともあろうお方が、なんておぞましい真似をなさったの! 信じられませんわ、殿下を裏切るだなんて!」
「ま、待って。ちょっと待ってください。一体、なんの話をしているんですか? 私は何も……」
「まぁっ!? この期に及んで言い逃れをなさるおつもり? 殿下がお可哀想ですわ。こんな裏切りに遭われるなんてっ……!」
辺りを憚らぬテレーゼの叫び声に、取り巻きの追従が続く。ソフィアの声をかき消すそれに、彼女の抵抗は全く意味をなしていない。
「ねぇ、ソフィア様。私たち、知っておりますのよ。この部屋で、ソフィア様とイェルク様が何をなされていたのか」
「イェルク? どうしてイェルクなの? ……本当に、彼がここにいるの?」
テレーゼの勢いに押され、ソフィアがチラリと背後、隣室に繋がる扉を振り返る。その顔に焦りが見えた。
(ああ、もう、どんどん面倒なことになる……!)
何度目か分からない愚痴を胸中で吐き捨て、覗いていた窓から離れる。隣の部屋の窓へ移動した。
テレーゼのあの騒ぎようは、まず間違いなく、この場に人を集めようとしている。ソフィアの不貞を証言する第三者を作ろうとしているのだ。おそらくもう、第三者の目撃は避けられない。
だとしたら、いっそのこと――
意識を集中する。フゥと小さく息を吐き出し、目の前の窓ガラスに拳を当てた。身体強化を掛けているとは言え、油断すれば怪我を負う。
少しだけ腕を引いて、ガラスに拳を突き出した。破壊音と共に、けたたましい音量の警報が鳴り響く。
(急がないと……!)
引かれたままのカーテンをかき分ける。割れたガラスを踏み越え、部屋の中に滑り込んだ。
寝台の上には、変わらぬ男の姿。この騒音の中でも目を覚ます様子はない。
周囲を見回し、使えそうなものを探す。目についたのは、窓の側に置かれた木製のスタンドだ。その上に、大振りの花瓶が置かれている。
迷ったのは一瞬。
スタンドに駆け寄り、窓の横に移動する。花瓶を抱え下ろし、床の上に転がした。側面に拳を当てて圧を加えると、陶器の表面にヒビが入り、次の瞬間、花瓶が砕け散る。
(ハァ……、細工はなんとか間に合った。後は上手く言い逃れできれば……)
破片に触れぬよう身を起こすのと同時に、警報音が止まる。どこかで音が切られたらしい。警備の騎士が駆け付けるのも時間の問題だろう。
しかし、騎士よりも先に、部屋の扉を勢い良く開け放つ者がいた。魔道具の灯りがともり、部屋が明るくなる。
「ほぉら、やっぱり! イェルク様がいらっしゃるじゃない! まぁ、なんてあられもないお姿! ソフィア様の品性を疑いますわ!」
嬉々とした大声で部屋に押し入ってきたテレーゼが、イェルクの姿に満足そうに笑う。背後にいるソフィアを振り返ろうとした彼女の視線が、こちらを向いた。
「……え?」
信じられないと言わんばかりの表情。口をポカンと開けたテレーゼに、困ったように笑う。
「テレーゼ様、どうぞお静かに願います。ご覧の通り、イェルク様はお加減が悪くていらっしゃいます。あまり、大きな声で騒ぎ立てるのは……」
「な、何故、貴女がここにいるの! クリスティーナ・ウィンクラー!」
テレーゼの大声に釣られるように、彼女の背後から取り巻きとソフィアが部屋に入ってくる。こちらを見て、皆が一様に驚きの表情を浮かべた。
「……『何故』と聞かれましても、私はソフィア様とご一緒に、イェルク様の介抱をしていただけとしか……」
「嘘よ、嘘! そんなはずないわ! 貴女がここにいるはずないじゃない!」
憤怒の表情で喚き立てる彼女に、「そう言われても」と肩を竦める。
ますますいきり立ったテレーゼが何かを叫ぼうとした時、彼女の背後から、令嬢たちをかき分けるようにして、騎士たちが雪崩れ込んできた。
「ご令嬢方、失礼する。警報を受けて来たのだが、……どういう状況か、ご説明願えますか?」
リーダーらしき壮年の騎士の視線が、部屋の中を油断なく見回す。寝台の上の裸の男、それから、割れた窓ガラスという惨状に片眉を上げた彼は、己とテレーゼの交互に視線を向けた。
一歩前に出たテレーゼが、胸の前で両手を組んで騎士を見上げる。
「騎士様! どうかこの場を検めてください! これは王家への反逆です! 王太子殿下のご婚約者であるソフィア様が、あちらの……」
そう言って、テレーゼは寝台の上のイェルクを指差す。
「ミューレン伯爵令息のイェルク様と不義密通を! 王太子殿下を裏切るなど、到底、許されるものではありません! どうか、お二人を捕らえてくださいませ!」
彼女の主張に、騎士が「それは……」と困惑の声を上げる。
当然の反応に、思わず彼に同情の念を抱いた。
仮に二人の不貞が真実であろうと、犯罪ではないのだ。騎士団に彼らを捕縛する権利はない。
騎士の困り切った顔がこちらを向いた。もの言いたげな彼を無視して、その背後にいるソフィアに視線を向ける。
本来であれば、この場を収めるのは彼女の役目。この先、こんなことは何度だって起こる。それを、誰かの後ろでやり過ごすだけでは、王太子妃にはなり得ない。
しかし、唇を噛んで下を向く彼女に、顔を上げる様子はなかった。
小さく息を吐いて、私は騎士に視線を戻す。
三文芝居の幕が上がる――
「……騎士様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。テレーゼ様の仰っていることは、ちょっとした勘違いなのです。騎士団の手を煩わせるようなことではありません」
その言葉に、横からテレーゼが噛みついた。
「クリスティーナ! なんなの貴女、さっきから! 貴女には関係ないでしょう! さっさとここから出ていきなさいよ!」
「いいえ。この場の状況を正しくお伝えするまで、出ていくわけにはまいりません。……少しでも、妙な誤解があっては困りますから」
「カトリナ!」
淑女科の面々――テレーゼを中心とする令嬢たちに囲まれていたソフィアが、ホッとした顔を見せる。
彼女の隣にアレクシス殿下の姿がないのは、テレーゼたちに引き離されたのか、あるいは、ソフィアが勝手に離れてしまったのか。
どちらにしろ、迂闊としか言いようがない。
(……クリスティーナ様なら、絶対にこんなことはなさらない)
その身が高貴であればあるほど、未婚の令嬢は周囲を固めるもの。悪意ある者を近づけないための「取り巻き」は、決して無意味なものではない。
けれど、そうした関係を嫌うソフィアは、自分以外の同性を遠ざける傾向があった。
一番の問題は、殿下がそれを許してしまうことだが――
「……ソフィア様、アレクシス殿下がお呼びです。ご案内いたしますので、こちらへ」
この場を逃げ出すための口実。それに、「うん!」と元気良く返事をするソフィアの手を引いて、令嬢たちの囲いを抜け出す。
抜け出す直前、正面に立つテレーゼが視界に映った。広げた扇子の下で、唇が愉悦に歪んでいる。虫けらでも見るような彼女の視線を避け、俯きがちにその隣をすり抜けた。
足早にホールを横切り、宿泊棟へ向かう。背後から、ソフィアの声が聞こえた。
「ありがとう、カトリナ! 人混みのせいでアレクシスとはぐれちゃって。すごく助かったわ」
礼の言葉に小さく「いえ」と返す。その後に続く彼女の言葉を聞き流して進む内、不意に強い視線を感じて、背後を振り返る。
(えっ?)
碧い瞳――クリスティーナと目が合った気がして、とっさに下を向く。
ドクドクと心臓が鳴るのを感じつつ、「そんなはずはない」と言い聞かせる。
私は彼女を裏切った。彼女が私を気に掛けるはずがない。
浅ましい期待を持たぬよう、下を向いたままホールを抜け出し、灯りの乏しい宿泊棟へ入った。
薄明りの廊下に、ソフィアのため息が零れ落ちる。
「……それにしても、テレーゼさんたちって意地悪だよね。嫌になっちゃう」
暗がりで漸く気持ちが落ち着き、彼女の愚痴に曖昧に頷いて返した。
「さっきも色々、腹が立つことばっかり言われて。でも、逃げられないし、あんなところで怒れないから、カトリナが来てくれて本当に良かった」
安堵するソフィアに、返す言葉はない。彼女の、微塵も疑心を持たない笑みにも心は凪いでいた。
(もっと不安だったり、罪悪感を覚えたりするかと思ったけれど……)
感情が麻痺しているのか、何の感慨も持たずに、ソフィアを宿泊棟に誘う。
「……奥に、部屋をご用意しています」
「部屋? そこでアレクシスが待ってるの?」
「いえ。殿下のことは、あの場を抜け出すための方便です。ですが、すぐに殿下を呼んでまいります。ソフィア様はテレーゼ様たちに捕まらぬよう、部屋でお待ちください」
諭すと、彼女は「そういうことね」と素直に頷く。
その信頼はどこから来るのか。彼女に友誼を求められた時からの疑問ではあるが、今はもう、その答えも必要ない。
(……本当に、みんな愚かだわ)
人の悪意を疑わない彼女も、彼女を一人にした庇護者たちも。それから、人の精一杯の告発を拒絶した男も、いまだ王太子殿下の婚約者の地位を望む女も。
だけど、最も愚かなのは――
(……今度こそおしまいね。私も、ヘリングの家も)
これから自分が成すことは、ソフィアの王太子妃への道を閉ざすだろう。私が罪から逃れる術はない。
だが、きっとそれでいいのだ。
私は一度、選択を間違えた。
裏切り、逃げた先で得られた現実がこれなら、もう、終わりにしよう。精々、愚か者を道連れにしてみせる。この国の王太子妃に相応しいのは、今も昔も変わらず、あの方しかいないのだから。
ああ、だけど、あの方はどう思うだろうか――?
先ほど、ホールで交差した視線を思い出す。孤立無援の中、変わらず顔を上げ続ける彼の方は、私の行いを認めてくれるだろうか。
(……分からない。以前なら、『絶対に、あの方は喜んでくださる』、そう思えたのに……)
自分の行おうとしていることに、何一つ、自信が持てない。
俯いていると、隣に並んだソフィアに顔を覗き込まれた。
「カトリナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません。ご心配をお掛けして……」
「ううん! 私が勝手に心配しただけ。謝ってもらうようなことじゃないよ」
そう言ってニコニコと笑うソフィアが、「あ、そうだ!」と声を上げる。
「アレクシスを呼びに行く時に、イェルクも一緒に呼んだらどうかな?」
「……イェルク様、ですか?」
その名に、わずかに胸が痛んだ。何も気付かぬ彼女は、嬉々として言葉を続ける。
「聖夜祭ってとっても長いでしょ? 年明けまで続くんだから、ちょっとくらい、四人でおしゃべりしても良いと思わない?」
「いえ、私は……」
反射的に口を衝いた拒絶に、彼女は「どうして?」と首を傾げる。
「カトリナにはいい機会じゃない? 折角だから、イェルクといっぱい話して、仲良くなろうよ」
屈託のない言葉に、イェルクの冷たく見下ろす瞳が蘇る。
「……恐れ多いことです。私は、既にイェルク様に婚約を解消されております」
「うーん。確かにそうなんだけど、でも、前の婚約は政略が前提だったんでしょう?」
彼女が何を言いたいのかが分からず、沈黙を返す。
「えっと、だから、今度はちゃんとイェルクと恋愛して、もう一度、婚約を結び直せばいいんじゃないかなって。二人が結ばれたら私も嬉しいし、応援するよ!」
「それは……、できません」
胸を刺す痛みに耐え、辛うじて言葉を返す。下を向く私に、彼女は「でも」と更に顔を覗き込んだ。
「でも、カトリナはイェルクのこと、まだ好きだよね? 隠しててもバレバレだよ? 目がいつも彼を追ってるんだもん!」
そう言って、揶揄うような笑みを向けられ、彼女を直視できなくなる。その笑顔が歪んで見えた。
――一体、何がおかしいというの……?
自身の恋慕――イェルクへの執着は、それほど滑稽だっただろうか。「目障りだ」と、「視界から消えろ」と言われるほど嫌悪された私が、彼を想うのは――
眩暈がするほどの感情の昂りを覚え、息が上手く吸えなくなる。怒りと羞恥が込み上げたが、すぐに惨めさに取って代わる。
結局、彼にとって私の好意など、一顧だにする価値さえない。彼は別の女性を選んだのだ。
「……ソフィア様、まずはお部屋へ入りませんと。ご案内いたします」
「あ、そっか。そうだよね。イェルクとおしゃべりするのも久しぶりだから、気持ちが焦っちゃった。うん、すごく楽しみ!」
実らなかった想いも、届かなかった勇気ももう要らない。イェルクに背を向けられた時に、想いは全て砕けて消えた。これ以上、痛い思いも辛い思いもしたくない。
押し黙って歩き続け、目的の部屋の前で立ち止まる。
取り出した鍵で部屋を開けると、ソフィアがなんの警戒もせず、足を踏み入れた。その姿に、もう失望することはない。
「ソフィア様、しばらくここでお待ちください。すぐに殿下を呼んでまいります」
「ありがとう。よろしくね」
礼の言葉に頷いて返し、彼女の眼前で扉を閉める。そのままゆっくりと鍵を回し、扉に鍵を掛けた。
(……気付いた、かしら?)
今なら、まだ間に合う。彼女が部屋の内鍵が壊されていることに気付けば。閉じ込められたことに気付いて、「ここから出して」と大騒ぎすれば――
けれど、閉ざされた扉の向こうからはなんの音も聞こえてこない。
安堵と諦め半々のため息が口から零れ落ちる。不意に、背後から肩を叩かれた。
「上手くやったじゃない」
そう言ってこちらに醜悪な笑みを向けるのは、テレーゼの取り巻きの一人。
「テレーゼ様もご満足されるでしょう。これで、貴女も彼女のお傍に侍ることが許されるわ」
そんなことは望んでいない。
黙ったままの私に、取り巻きの伯爵令嬢は片方の口角を釣り上げる。
「良かったわね、落ち目のヘリングも、リッケルト家に拾っていただけて。テレーゼ様は自分に従う者には寛容よ」
なおも応えずにいると、令嬢の顔に険が浮かぶ。
「……いいこと? くれぐれも裏切ろうだなんて思わないで。テレーゼ様は決してお許しにならないわ。リッケルトに逆らえば、貴女一人が全ての罪を被ることになるのよ」
そう言って、令嬢は廊下の先の階段に視線を向ける。
テレーゼが間もなくこちらへやってくるのだろう。先んじて現れた彼女は、私と目の前の扉の見張り役といったところか。
手の内、自身の体温で温くなった金属を私はギュッと握り締めた。
(……やはり、私は変われない。どこまで行っても、私は私のまま……)
理不尽に抗えず、声を上げることもできず─―
ふと、階段付近の暗がりで何かが動いた気がして視線を向ける。
(? 誰か、いるの……?)
凝視しても、暗闇には何も見えない。
張り詰めた神経が見せた幻だったかと、目を閉じた。
もうすぐ、全てが終わる。
その時を待ち、足音一つしない廊下に静かに立ち続けた。
◇ ◇ ◇
(どういうこと? どうしてカトリナがゲルデと……)
暗闇に紛れる碧いドレスの裾を押さえて、階段の端から覗いた光景を反芻し、今の状況を見定める。
カトリナと共にホールを出たソフィアの姿が見当たらず、そのカトリナはテレーゼの取り巻きであるゲルデ・ヘルツベルグと一緒にいる。しかも、二人は宿泊室の前に二人並んで立っていた。まるで、扉を守る門番のように。
(もしかしなくても、最悪な状況、というわけね)
嫌な予感はしたのだ。
夜会場で壁の花となって数刻、暇に厭かせて周囲を観察していたが、気付くと、ソフィアが野放しになっていた。あっさりとテレーゼに捕まった彼女の周囲に味方はおらず、殿下方は何をしているのかと呆れていたところに、カトリナが現れる。
現れたカトリナは颯爽とソフィアを助け出したのだが、その姿には違和感しかなかった。
ここ最近、彼女とソフィアの距離が近しいことには気付いていたが、カトリナの性格的に、ああした場面で矢面に立つことはないだろうと思っていたのだ。
好意的に見れば、「彼女も成長した」、「ソフィアの庇護下で強くなった」、とも考えられるが、カトリナはいまだに淑女科でテレーザたちの執拗な嫌がらせにあっている。
声を上げればいいものを、彼女はそれをせず、常に「察して」もらうだけ。自分から助けを求めることをしないカトリナの窮状を、ソフィアが気付く様子もない。
そんなカトリナが突然、テレーゼに反旗を翻すなどあり得るだろうか。
ソフィアを連れてホールを出ていくカトリナを観察していると、一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。が、すぐに視線が逸らされる。
そこに焦りのようなものを感じ、嫌な予感は膨らんだ。
結局、ソフィアの護衛らしき女性騎士がテレーゼの取り巻きの一人に足止めされるのを見て、二人の跡を追うことを決めた。
距離があったため、ホールを出たところで一度完全に二人を見失ったが、今こうして、カトリナを見つけられたのは、運に助けられたと言える。
(問題はこれからどう動くか。殿下に知らせるのが一番だけれど……)
おそらく、ソフィアはあの扉の向こうにいる。
男女の密事のために用意された部屋に、一人きりで閉じ込められるということはないだろう。今すぐにでも飛び込むべきだが、あの二人が扉の前にいる以上、騒ぎになることは避けられない。ソフィアが男と密室にいたという醜聞が広がれば、彼女が殿下の妃となるのは絶望的だ。
(それがどうした。関係ない。……と言ってやりたいところだけれど)
腐っても、ソフィアはハブリスタント。自らの愛する者に幸福をもたらす「花の王家」の末裔。
国と北の辺境の安寧を思えば、彼女が王太子であるアレクシスと結ばれることが最善で、少なくとも、こんなお粗末な罠で馬鹿らしい結末を迎えるなんてあり得ない。
(とにかく、あの扉は開けずに、中の状況を確認しないと)
仮に、今はソフィア一人だとしても、離れた隙に男が入っていく可能性もある。殿下に知らせる暇はない。
「最悪だ」と内心で零しつつ、周囲を見回す。背後の階段を見下ろした際に、大きな窓が視界に映った。
一階と二階の間の踊り場にある大きな腰高窓。
(……やるしかない、か)
足音を立てぬよう踊り場まで階段を駆け下り、窓を開け放つ。
幸いにして、周囲に警護の騎士は見当たらない。
いつもより慎重に身体強化の術を掛け、窓枠に立った。そこから大きく腕を伸ばし、外壁の装飾に張り付く。わずかな装飾、壁の出っ張りを伝って、二階の窓枠へなんとか辿り着いた。
(まったく、なんで私がこんなことを……っ!)
カトリナたちが見張っていた部屋までは、バルコニーを二部屋分、横切らねばならない。いずれの部屋もカーテンが閉じているが、万が一、こんな奇行を見られでもしたら、己の社会的地位は完全に失われる。元より地に落ちた名だが、その比ではない。
ソフィアのいる部屋、その窓辺に到達して、漸く一息をつく。同じバルコニーに繋がる窓が二つあるため、どうやら、二間続きの造りとなっているらしい。
手前の部屋――カトリナたちが立っていた扉のある部屋は重厚なカーテンが掛かっており、その中を窺い知ることはできない。
その前を通り過ぎて、続きの部屋の窓辺に立つ。こちらも同じくカーテンが閉じられているが、細く開いた隙間からどうにか中の様子が垣間見えた。
灯りの乏しい室内、部屋の中央に寝台が置かれているのが見える。ベッドサイドの灯りを頼りに懸命に目をこらすと、寝台の上に全裸で転がる男の姿があった。
あれは、見間違いでなければ─―
(ああ、もう、本っ当に、最低……!)
救いは、部屋の中にソフィアの姿がないことか。最悪、薬を盛られて同じ寝台の上という可能性もあった。どうにかそれは避けられたようだが、では、そのソフィアはどこにいるのだろう。隣の部屋にいるのだとしたら、早々に連れ出さねばならない。
一つ手前、相変わらず中の様子の窺えない窓へ戻り、思案する。バルコニーの窓には内側から鍵が掛けられており、無理に壊せば魔術の警報が鳴るだろう。
仕方なしに、こちらの部屋にはソフィアしかいないという可能性に賭け、窓ガラスを叩いて中に呼びかけた。
「……ソフィア様、いらっしゃいますか? いらっしゃるのなら、ここを開けてください」
呼びかけに返事はない。
警戒されているのか、それとも、彼女はこの場にいないのか。
周囲を警戒しつつ二度、三度と繰り返すと、不意に窓の向こうのカーテンが揺れ、光が漏れた。
「え? クリスティーナさん?」
ガラス越しのくぐもった声。カーテンの間から、驚きに目を見開いたソフィアが顔を覗かせる。その緊張感のない姿に、「まだ猶予はありそうだ」と安堵し、肩の力が抜けた。
潜めた声のまま、ソフィアに迫る危機を伝える。
「ソフィア様、すぐにこの部屋から出てください。隣の部屋にイェルク様がいらっしゃるのはご存知ですか? このままでは、お二人の関係が醜聞となってしまいます」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりなんの話? 私はアレクシスを待ってるんだよ? イェルクはアレクシスと一緒に来るはずだから……」
状況を理解しない彼女に苛立つ。
時間がない。もう、いつテレーゼが乗り込んできてもおかしくないというのに。
感情を押し殺し、努めて冷静に口を開いた。
「では、私を部屋の中に入れてください。それで、密室に男女二人きりという状況は避けられます」
だが、こちらの言葉を信用できないのだろう。ソフィアは窓を開けることはせず、隣の部屋に視線を向けた。
「あの、あっちの部屋にイェルクがいる、んだよね? だったら、私、確かめてくる」
「止めてくださいっ!」
ただでさえ危うい状況。二人で寝室にいるタイミングで踏み込まれたら、言い逃れのしようもない。
「イェルク様は服を着ていらっしゃいません」
「えっ!?」
「彼に何があったのかは不明ですが、決して近づかないでください。それよりも、早くここを……」
「開けてください」という前に、ソフィアは後ずさり、窓際から離れた。
「じゃ、じゃあ、私、外に出ますね。外で待っていればいいでしょう?」
「待って!」
部屋の奥、カトリナたちのいる扉に駆け寄ったソフィアが、ドアノブを掴む。けれど、掴んだドアノブが回らないのか、彼女は焦ったようにノブを押したり引いたりし始めた。
冷静さを欠いた行動に「マズい」と思うが、大声で呼び戻すわけにもいかない。こちらを振り返らないソフィアに歯噛みしていると、不意に彼女がよろめいた。
一歩、後退した彼女の目の前で扉が開く。
と同時に、こちらまで届く悲鳴が響いた。
「ソフィア様! こんなところで、一体、何をなさっているのっ!?」
扉を開け放ち、ズカズカと踏み込んできたのは、案の定、テレーゼだ。取り巻きを引き連れた彼女に対し、ソフィアは戸惑うばかりで反応が鈍い。
その間にも、テレーゼの一方的な糾弾が続く。
「アレクシス殿下のご婚約者ともあろうお方が、なんておぞましい真似をなさったの! 信じられませんわ、殿下を裏切るだなんて!」
「ま、待って。ちょっと待ってください。一体、なんの話をしているんですか? 私は何も……」
「まぁっ!? この期に及んで言い逃れをなさるおつもり? 殿下がお可哀想ですわ。こんな裏切りに遭われるなんてっ……!」
辺りを憚らぬテレーゼの叫び声に、取り巻きの追従が続く。ソフィアの声をかき消すそれに、彼女の抵抗は全く意味をなしていない。
「ねぇ、ソフィア様。私たち、知っておりますのよ。この部屋で、ソフィア様とイェルク様が何をなされていたのか」
「イェルク? どうしてイェルクなの? ……本当に、彼がここにいるの?」
テレーゼの勢いに押され、ソフィアがチラリと背後、隣室に繋がる扉を振り返る。その顔に焦りが見えた。
(ああ、もう、どんどん面倒なことになる……!)
何度目か分からない愚痴を胸中で吐き捨て、覗いていた窓から離れる。隣の部屋の窓へ移動した。
テレーゼのあの騒ぎようは、まず間違いなく、この場に人を集めようとしている。ソフィアの不貞を証言する第三者を作ろうとしているのだ。おそらくもう、第三者の目撃は避けられない。
だとしたら、いっそのこと――
意識を集中する。フゥと小さく息を吐き出し、目の前の窓ガラスに拳を当てた。身体強化を掛けているとは言え、油断すれば怪我を負う。
少しだけ腕を引いて、ガラスに拳を突き出した。破壊音と共に、けたたましい音量の警報が鳴り響く。
(急がないと……!)
引かれたままのカーテンをかき分ける。割れたガラスを踏み越え、部屋の中に滑り込んだ。
寝台の上には、変わらぬ男の姿。この騒音の中でも目を覚ます様子はない。
周囲を見回し、使えそうなものを探す。目についたのは、窓の側に置かれた木製のスタンドだ。その上に、大振りの花瓶が置かれている。
迷ったのは一瞬。
スタンドに駆け寄り、窓の横に移動する。花瓶を抱え下ろし、床の上に転がした。側面に拳を当てて圧を加えると、陶器の表面にヒビが入り、次の瞬間、花瓶が砕け散る。
(ハァ……、細工はなんとか間に合った。後は上手く言い逃れできれば……)
破片に触れぬよう身を起こすのと同時に、警報音が止まる。どこかで音が切られたらしい。警備の騎士が駆け付けるのも時間の問題だろう。
しかし、騎士よりも先に、部屋の扉を勢い良く開け放つ者がいた。魔道具の灯りがともり、部屋が明るくなる。
「ほぉら、やっぱり! イェルク様がいらっしゃるじゃない! まぁ、なんてあられもないお姿! ソフィア様の品性を疑いますわ!」
嬉々とした大声で部屋に押し入ってきたテレーゼが、イェルクの姿に満足そうに笑う。背後にいるソフィアを振り返ろうとした彼女の視線が、こちらを向いた。
「……え?」
信じられないと言わんばかりの表情。口をポカンと開けたテレーゼに、困ったように笑う。
「テレーゼ様、どうぞお静かに願います。ご覧の通り、イェルク様はお加減が悪くていらっしゃいます。あまり、大きな声で騒ぎ立てるのは……」
「な、何故、貴女がここにいるの! クリスティーナ・ウィンクラー!」
テレーゼの大声に釣られるように、彼女の背後から取り巻きとソフィアが部屋に入ってくる。こちらを見て、皆が一様に驚きの表情を浮かべた。
「……『何故』と聞かれましても、私はソフィア様とご一緒に、イェルク様の介抱をしていただけとしか……」
「嘘よ、嘘! そんなはずないわ! 貴女がここにいるはずないじゃない!」
憤怒の表情で喚き立てる彼女に、「そう言われても」と肩を竦める。
ますますいきり立ったテレーゼが何かを叫ぼうとした時、彼女の背後から、令嬢たちをかき分けるようにして、騎士たちが雪崩れ込んできた。
「ご令嬢方、失礼する。警報を受けて来たのだが、……どういう状況か、ご説明願えますか?」
リーダーらしき壮年の騎士の視線が、部屋の中を油断なく見回す。寝台の上の裸の男、それから、割れた窓ガラスという惨状に片眉を上げた彼は、己とテレーゼの交互に視線を向けた。
一歩前に出たテレーゼが、胸の前で両手を組んで騎士を見上げる。
「騎士様! どうかこの場を検めてください! これは王家への反逆です! 王太子殿下のご婚約者であるソフィア様が、あちらの……」
そう言って、テレーゼは寝台の上のイェルクを指差す。
「ミューレン伯爵令息のイェルク様と不義密通を! 王太子殿下を裏切るなど、到底、許されるものではありません! どうか、お二人を捕らえてくださいませ!」
彼女の主張に、騎士が「それは……」と困惑の声を上げる。
当然の反応に、思わず彼に同情の念を抱いた。
仮に二人の不貞が真実であろうと、犯罪ではないのだ。騎士団に彼らを捕縛する権利はない。
騎士の困り切った顔がこちらを向いた。もの言いたげな彼を無視して、その背後にいるソフィアに視線を向ける。
本来であれば、この場を収めるのは彼女の役目。この先、こんなことは何度だって起こる。それを、誰かの後ろでやり過ごすだけでは、王太子妃にはなり得ない。
しかし、唇を噛んで下を向く彼女に、顔を上げる様子はなかった。
小さく息を吐いて、私は騎士に視線を戻す。
三文芝居の幕が上がる――
「……騎士様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。テレーゼ様の仰っていることは、ちょっとした勘違いなのです。騎士団の手を煩わせるようなことではありません」
その言葉に、横からテレーゼが噛みついた。
「クリスティーナ! なんなの貴女、さっきから! 貴女には関係ないでしょう! さっさとここから出ていきなさいよ!」
「いいえ。この場の状況を正しくお伝えするまで、出ていくわけにはまいりません。……少しでも、妙な誤解があっては困りますから」
100
お気に入りに追加
7,947
あなたにおすすめの小説
【コミカライズ2月28日引き下げ予定】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。
氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。
私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。
「でも、白い結婚だったのよね……」
奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。
全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。
一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。
断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。
愛されない王妃は、お飾りでいたい
夕立悠理
恋愛
──私が君を愛することは、ない。
クロアには前世の記憶がある。前世の記憶によると、ここはロマンス小説の世界でクロアは悪役令嬢だった。けれど、クロアが敗戦国の王に嫁がされたことにより、物語は終わった。
そして迎えた初夜。夫はクロアを愛せず、抱くつもりもないといった。
「イエーイ、これで自由の身だわ!!!」
クロアが喜びながらスローライフを送っていると、なんだか、夫の態度が急変し──!?
「初夜にいった言葉を忘れたんですか!?」
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
【完結】結婚初夜。離縁されたらおしまいなのに、夫が来る前に寝落ちしてしまいました
Kei.S
恋愛
結婚で王宮から逃げ出すことに成功した第五王女のシーラ。もし離縁されたら腹違いのお姉様たちに虐げられる生活に逆戻り……な状況で、夫が来る前にうっかり寝落ちしてしまった結婚初夜のお話
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。


【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。