悪役令嬢の矜持 婚約破棄、構いません

リコピン

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2巻

2-2

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「……ソフィア様、お捜ししました」
「カトリナ!」

 淑女科の面々――テレーゼを中心とする令嬢たちに囲まれていたソフィアが、ホッとした顔を見せる。
 彼女の隣にアレクシス殿下の姿がないのは、テレーゼたちに引き離されたのか、あるいは、ソフィアが勝手に離れてしまったのか。
 どちらにしろ、かつとしか言いようがない。

(……クリスティーナ様なら、絶対にこんなことはなさらない)

 その身が高貴であればあるほど、未婚の令嬢は周囲を固めるもの。悪意ある者を近づけないための「取り巻き」は、決して無意味なものではない。
 けれど、そうした関係を嫌うソフィアは、自分以外の同性を遠ざける傾向があった。
 一番の問題は、殿下がそれを許してしまうことだが――

「……ソフィア様、アレクシス殿下がお呼びです。ご案内いたしますので、こちらへ」

 この場を逃げ出すための口実。それに、「うん!」と元気良く返事をするソフィアの手を引いて、令嬢たちの囲いを抜け出す。
 抜け出す直前、正面に立つテレーゼが視界に映った。広げたせんの下で、唇が愉悦にゆがんでいる。虫けらでも見るような彼女の視線を避け、うつむきがちにその隣をすり抜けた。
 足早にホールを横切り、宿泊棟へ向かう。背後から、ソフィアの声が聞こえた。

「ありがとう、カトリナ! 人混みのせいでアレクシスとはぐれちゃって。すごく助かったわ」

 礼の言葉に小さく「いえ」と返す。その後に続く彼女の言葉を聞き流して進む内、不意に強い視線を感じて、背後を振り返る。

(えっ?)

 あおい瞳――クリスティーナと目が合った気がして、とっさに下を向く。
 ドクドクと心臓が鳴るのを感じつつ、「そんなはずはない」と言い聞かせる。
 私は彼女を裏切った。彼女が私を気に掛けるはずがない。
 浅ましい期待を持たぬよう、下を向いたままホールを抜け出し、灯りのとぼしい宿泊棟へ入った。
 薄明りの廊下に、ソフィアのため息が零れ落ちる。

「……それにしても、テレーゼさんたちって意地悪だよね。嫌になっちゃう」

 暗がりでようやく気持ちが落ち着き、彼女の愚痴にあいまいうなずいて返した。

「さっきも色々、腹が立つことばっかり言われて。でも、逃げられないし、あんなところで怒れないから、カトリナが来てくれて本当に良かった」

 あんするソフィアに、返す言葉はない。彼女の、じんも疑心を持たない笑みにも心はいでいた。

(もっと不安だったり、罪悪感を覚えたりするかと思ったけれど……)

 感情がしているのか、何の感慨も持たずに、ソフィアを宿泊棟にいざなう。

「……奥に、部屋をご用意しています」
「部屋? そこでアレクシスが待ってるの?」
「いえ。殿下のことは、あの場を抜け出すための方便です。ですが、すぐに殿下を呼んでまいります。ソフィア様はテレーゼ様たちに捕まらぬよう、部屋でお待ちください」

 さとすと、彼女は「そういうことね」と素直にうなずく。
 その信頼はどこから来るのか。彼女にゆうを求められた時からの疑問ではあるが、今はもう、その答えも必要ない。

(……本当に、みんな愚かだわ)

 人の悪意を疑わない彼女も、彼女を一人にしたしゃたちも。それから、人の精一杯の告発を拒絶した男も、いまだ王太子殿下の婚約者の地位を望む女も。
 だけど、最も愚かなのは――

(……今度こそおしまいね。私も、ヘリングの家も)

 これから自分が成すことは、ソフィアの王太子妃への道を閉ざすだろう。私が罪から逃れるすべはない。
 だが、きっとそれでいいのだ。
 私は一度、選択を間違えた。
 裏切り、逃げた先で得られた現実がこれなら、もう、終わりにしよう。せいぜい、愚か者を道連れにしてみせる。この国の王太子妃に相応ふさわしいのは、今も昔も変わらず、あの方しかいないのだから。
 ああ、だけど、あの方はどう思うだろうか――?
 先ほど、ホールで交差した視線を思い出す。孤立無援の中、変わらず顔を上げ続けるかたは、私の行いを認めてくれるだろうか。

(……分からない。以前なら、『絶対に、あの方は喜んでくださる』、そう思えたのに……)

 自分の行おうとしていることに、何一つ、自信が持てない。
 うつむいていると、隣に並んだソフィアに顔を覗き込まれた。

「カトリナ、どうしたの? 気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。申し訳ありません。ご心配をお掛けして……」
「ううん! 私が勝手に心配しただけ。謝ってもらうようなことじゃないよ」

 そう言ってニコニコと笑うソフィアが、「あ、そうだ!」と声を上げる。

「アレクシスを呼びに行く時に、イェルクも一緒に呼んだらどうかな?」
「……イェルク様、ですか?」

 その名に、わずかに胸が痛んだ。何も気付かぬ彼女は、嬉々ききとして言葉を続ける。

「聖夜祭ってとっても長いでしょ? 年明けまで続くんだから、ちょっとくらい、四人でおしゃべりしても良いと思わない?」
「いえ、私は……」

 反射的に口をいた拒絶に、彼女は「どうして?」と首をかしげる。

「カトリナにはいい機会じゃない? せっかくだから、イェルクといっぱい話して、仲良くなろうよ」

 くったくのない言葉に、イェルクの冷たく見下ろす瞳がよみがえる。

「……恐れ多いことです。私は、すでにイェルク様に婚約を解消されております」
「うーん。確かにそうなんだけど、でも、前の婚約は政略が前提だったんでしょう?」

 彼女が何を言いたいのかが分からず、沈黙を返す。

「えっと、だから、今度はちゃんとイェルクと恋愛して、もう一度、婚約を結び直せばいいんじゃないかなって。二人が結ばれたら私も嬉しいし、応援するよ!」
「それは……、できません」

 胸を刺す痛みに耐え、かろうじて言葉を返す。下を向く私に、彼女は「でも」と更に顔を覗き込んだ。

「でも、カトリナはイェルクのこと、まだ好きだよね? 隠しててもバレバレだよ? 目がいつも彼を追ってるんだもん!」

 そう言って、揶揄からかうような笑みを向けられ、彼女を直視できなくなる。その笑顔がゆがんで見えた。
 ――一体、何がおかしいというの……?
 自身のれん――イェルクへのしゅうちゃくは、それほどこっけいだっただろうか。「ざわりだ」と、「視界から消えろ」と言われるほど嫌悪された私が、彼を想うのは――
 眩暈めまいがするほどの感情のたかぶりを覚え、息が上手うまく吸えなくなる。怒りとしゅうが込み上げたが、すぐにみじめさに取って代わる。
 結局、彼にとって私の好意など、いっだにする価値さえない。彼は別の女性を選んだのだ。

「……ソフィア様、まずはお部屋へ入りませんと。ご案内いたします」
「あ、そっか。そうだよね。イェルクとおしゃべりするのも久しぶりだから、気持ちがあせっちゃった。うん、すごく楽しみ!」

 実らなかった想いも、届かなかった勇気ももうらない。イェルクに背を向けられた時に、想いは全て砕けて消えた。これ以上、痛い思いもつらい思いもしたくない。
 押し黙って歩き続け、目的の部屋の前で立ち止まる。
 取り出した鍵で部屋を開けると、ソフィアがなんの警戒もせず、足を踏み入れた。その姿に、もう失望することはない。

「ソフィア様、しばらくここでお待ちください。すぐに殿下を呼んでまいります」
「ありがとう。よろしくね」

 礼の言葉にうなずいて返し、彼女の眼前で扉を閉める。そのままゆっくりと鍵を回し、扉に鍵を掛けた。

(……気付いた、かしら?)

 今なら、まだ間に合う。彼女が部屋の内鍵が壊されていることに気付けば。閉じ込められたことに気付いて、「ここから出して」と大騒ぎすれば――
 けれど、閉ざされた扉の向こうからはなんの音も聞こえてこない。
 あんと諦め半々のため息が口から零れ落ちる。不意に、背後から肩を叩かれた。

上手うまくやったじゃない」

 そう言ってこちらにしゅうあくな笑みを向けるのは、テレーゼの取り巻きの一人。

「テレーゼ様もご満足されるでしょう。これで、貴女も彼女のおそばはべることが許されるわ」

 そんなことは望んでいない。
 黙ったままの私に、取り巻きの伯爵令嬢は片方の口角を釣り上げる。

「良かったわね、落ち目のヘリングも、リッケルト家に拾っていただけて。テレーゼ様は自分に従う者にはかんようよ」

 なおも応えずにいると、令嬢の顔に険が浮かぶ。

「……いいこと? くれぐれも裏切ろうだなんて思わないで。テレーゼ様は決してお許しにならないわ。リッケルトに逆らえば、貴女一人が全ての罪を被ることになるのよ」

 そう言って、令嬢は廊下の先の階段に視線を向ける。
 テレーゼが間もなくこちらへやってくるのだろう。先んじて現れた彼女は、私と目の前の扉の見張り役といったところか。
 手の内、自身の体温でぬるくなった金属を私はギュッと握り締めた。

(……やはり、私は変われない。どこまで行っても、私は私のまま……)

 理不尽に抗えず、声を上げることもできず─―
 ふと、階段付近の暗がりで何かが動いた気がして視線を向ける。

(? 誰か、いるの……?)

 凝視しても、暗闇には何も見えない。
 張り詰めた神経が見せたまぼろしだったかと、目を閉じた。
 もうすぐ、全てが終わる。
 その時を待ち、足音一つしない廊下に静かに立ち続けた。


   ◇ ◇ ◇


(どういうこと? どうしてカトリナがゲルデと……)

 暗闇にまぎれるあおいドレスの裾を押さえて、階段の端から覗いた光景をはんすうし、今の状況を見定める。
 カトリナと共にホールを出たソフィアの姿が見当たらず、そのカトリナはテレーゼの取り巻きであるゲルデ・ヘルツベルグと一緒にいる。しかも、二人は宿泊室の前に二人並んで立っていた。まるで、扉を守る門番のように。

(もしかしなくても、最悪な状況、というわけね)

 嫌な予感はしたのだ。
 夜会場で壁の花となって数刻、暇にかせて周囲を観察していたが、気付くと、ソフィアが野放しになっていた。あっさりとテレーゼに捕まった彼女の周囲に味方はおらず、殿下方は何をしているのかとあきれていたところに、カトリナが現れる。
 現れたカトリナはさっそうとソフィアを助け出したのだが、その姿には違和感しかなかった。
 ここ最近、彼女とソフィアの距離が近しいことには気付いていたが、カトリナの性格的に、ああした場面でおもてに立つことはないだろうと思っていたのだ。
 好意的に見れば、「彼女も成長した」、「ソフィアので強くなった」、とも考えられるが、カトリナはいまだに淑女科でテレーザたちのしつような嫌がらせにあっている。
 声を上げればいいものを、彼女はそれをせず、常に「察して」もらうだけ。自分から助けを求めることをしないカトリナのきゅうじょうを、ソフィアが気付く様子もない。
 そんなカトリナが突然、テレーゼに反旗をひるがえすなどあり得るだろうか。
 ソフィアを連れてホールを出ていくカトリナを観察していると、一瞬だけ、彼女と目が合った気がした。が、すぐに視線がらされる。
 そこにあせりのようなものを感じ、嫌な予感は膨らんだ。
 結局、ソフィアの護衛らしき女性騎士がテレーゼの取り巻きの一人に足止めされるのを見て、二人の跡を追うことを決めた。
 距離があったため、ホールを出たところで一度完全に二人を見失ったが、今こうして、カトリナを見つけられたのは、運に助けられたと言える。

(問題はこれからどう動くか。殿下に知らせるのが一番だけれど……)

 おそらく、ソフィアはあの扉の向こうにいる。
 男女の密事のために用意された部屋に、一人きりで閉じ込められるということはないだろう。今すぐにでも飛び込むべきだが、あの二人が扉の前にいる以上、騒ぎになることは避けられない。ソフィアが男と密室にいたというしゅうぶんが広がれば、彼女が殿下の妃となるのは絶望的だ。

(それがどうした。関係ない。……と言ってやりたいところだけれど)

 腐っても、ソフィアはハブリスタント。自らの愛する者に幸福をもたらす「花の王家」のまつえい
 国と北の辺境のあんねいを思えば、彼女が王太子であるアレクシスと結ばれることが最善で、少なくとも、こんなお粗末な罠で馬鹿らしい結末を迎えるなんてあり得ない。

(とにかく、あの扉は開けずに、中の状況を確認しないと)

 仮に、今はソフィア一人だとしても、離れた隙に男が入っていく可能性もある。殿下に知らせる暇はない。
「最悪だ」と内心で零しつつ、周囲を見回す。背後の階段を見下ろした際に、大きな窓が視界に映った。
 一階と二階の間の踊り場にある大きな腰高窓。

(……やるしかない、か)

 足音を立てぬよう踊り場まで階段を駆け下り、窓を開け放つ。
 幸いにして、周囲に警護の騎士は見当たらない。
 いつもより慎重に身体強化の術を掛け、窓枠に立った。そこから大きく腕を伸ばし、外壁の装飾に張り付く。わずかな装飾、壁の出っ張りを伝って、二階の窓枠へなんとか辿り着いた。

(まったく、なんで私がこんなことを……っ!)

 カトリナたちが見張っていた部屋までは、バルコニーを二部屋分、横切らねばならない。いずれの部屋もカーテンが閉じているが、万が一、こんな奇行を見られでもしたら、己の社会的地位は完全に失われる。元より地に落ちた名だが、その比ではない。
 ソフィアのいる部屋、その窓辺に到達して、ようやく一息をつく。同じバルコニーに繋がる窓が二つあるため、どうやら、二間続きの造りとなっているらしい。
 手前の部屋――カトリナたちが立っていた扉のある部屋は重厚なカーテンが掛かっており、その中をうかがることはできない。
 その前を通り過ぎて、続きの部屋の窓辺に立つ。こちらも同じくカーテンが閉じられているが、細く開いた隙間からどうにか中の様子がかいえた。
 灯りのとぼしい室内、部屋の中央に寝台が置かれているのが見える。ベッドサイドの灯りを頼りに懸命に目をこらすと、寝台の上に全裸で転がる男の姿があった。
 あれは、見間違いでなければ─―


(ああ、もう、本っ当に、最低……!)

 救いは、部屋の中にソフィアの姿がないことか。最悪、薬を盛られて同じ寝台の上という可能性もあった。どうにかそれは避けられたようだが、では、そのソフィアはどこにいるのだろう。隣の部屋にいるのだとしたら、早々に連れ出さねばならない。
 一つ手前、相変わらず中の様子のうかがえない窓へ戻り、思案する。バルコニーの窓には内側から鍵が掛けられており、無理に壊せば魔術の警報が鳴るだろう。
 仕方なしに、こちらの部屋にはソフィアしかいないという可能性に賭け、窓ガラスを叩いて中に呼びかけた。

「……ソフィア様、いらっしゃいますか? いらっしゃるのなら、ここを開けてください」

 呼びかけに返事はない。
 警戒されているのか、それとも、彼女はこの場にいないのか。
 周囲を警戒しつつ二度、三度と繰り返すと、不意に窓の向こうのカーテンが揺れ、光が漏れた。

「え? クリスティーナさん?」

 ガラス越しのくぐもった声。カーテンの間から、驚きに目を見開いたソフィアが顔を覗かせる。その緊張感のない姿に、「まだ猶予はありそうだ」とあんし、肩の力が抜けた。
 ひそめた声のまま、ソフィアに迫る危機を伝える。

「ソフィア様、すぐにこの部屋から出てください。隣の部屋にイェルク様がいらっしゃるのはご存知ですか? このままでは、お二人の関係がしゅうぶんとなってしまいます」
「ちょ、ちょっと待って、いきなりなんの話? 私はアレクシスを待ってるんだよ? イェルクはアレクシスと一緒に来るはずだから……」

 状況を理解しない彼女にいらつ。
 時間がない。もう、いつテレーゼが乗り込んできてもおかしくないというのに。
 感情を押し殺し、努めて冷静に口を開いた。

「では、私を部屋の中に入れてください。それで、密室に男女二人きりという状況は避けられます」

 だが、こちらの言葉を信用できないのだろう。ソフィアは窓を開けることはせず、隣の部屋に視線を向けた。

「あの、あっちの部屋にイェルクがいる、んだよね? だったら、私、確かめてくる」
めてくださいっ!」

 ただでさえあやうい状況。二人で寝室にいるタイミングで踏み込まれたら、のがれのしようもない。

「イェルク様は服を着ていらっしゃいません」
「えっ!?」
「彼に何があったのかは不明ですが、決して近づかないでください。それよりも、早くここを……」

「開けてください」という前に、ソフィアは後ずさり、窓際から離れた。

「じゃ、じゃあ、私、外に出ますね。外で待っていればいいでしょう?」
「待って!」

 部屋の奥、カトリナたちのいる扉に駆け寄ったソフィアが、ドアノブを掴む。けれど、掴んだドアノブが回らないのか、彼女はあせったようにノブを押したり引いたりし始めた。
 冷静さを欠いた行動に「マズい」と思うが、大声で呼び戻すわけにもいかない。こちらを振り返らないソフィアにみしていると、不意に彼女がよろめいた。
 一歩、後退した彼女の目の前で扉が開く。
 と同時に、こちらまで届く悲鳴が響いた。

「ソフィア様! こんなところで、一体、何をなさっているのっ!?」

 扉を開け放ち、ズカズカと踏み込んできたのは、案の定、テレーゼだ。取り巻きを引き連れた彼女に対し、ソフィアはまどうばかりで反応が鈍い。
 その間にも、テレーゼの一方的なきゅうだんが続く。

「アレクシス殿下のご婚約者ともあろうお方が、なんておぞましい真似をなさったの! 信じられませんわ、殿下を裏切るだなんて!」
「ま、待って。ちょっと待ってください。一体、なんの話をしているんですか? 私は何も……」
「まぁっ!? この期に及んで言い逃れをなさるおつもり? 殿下がお可哀想ですわ。こんな裏切りにわれるなんてっ……!」

 辺りをはばからぬテレーゼの叫び声に、取り巻きの追従が続く。ソフィアの声をかき消すそれに、彼女の抵抗は全く意味をなしていない。

「ねぇ、ソフィア様。私たち、知っておりますのよ。この部屋で、ソフィア様とイェルク様が何をなされていたのか」
「イェルク? どうしてイェルクなの? ……本当に、彼がここにいるの?」

 テレーゼの勢いに押され、ソフィアがチラリと背後、隣室に繋がる扉を振り返る。その顔にあせりが見えた。

(ああ、もう、どんどん面倒なことになる……!)

 何度目か分からない愚痴を胸中で吐き捨て、覗いていた窓から離れる。隣の部屋の窓へ移動した。
 テレーゼのあの騒ぎようは、まず間違いなく、この場に人を集めようとしている。ソフィアの不貞を証言する第三者を作ろうとしているのだ。おそらくもう、第三者の目撃は避けられない。
 だとしたら、いっそのこと――
 意識を集中する。フゥと小さく息を吐き出し、目の前の窓ガラスにこぶしを当てた。身体強化を掛けているとは言え、油断すれば怪我を負う。
 少しだけ腕を引いて、ガラスにこぶしを突き出した。破壊音と共に、けたたましい音量の警報が鳴り響く。

(急がないと……!)

 引かれたままのカーテンをかき分ける。割れたガラスを踏み越え、部屋の中に滑り込んだ。
 寝台の上には、変わらぬ男の姿。この騒音の中でも目を覚ます様子はない。
 周囲を見回し、使えそうなものを探す。目についたのは、窓の側に置かれた木製のスタンドだ。その上に、大振りの花瓶が置かれている。
 迷ったのは一瞬。
 スタンドに駆け寄り、窓の横に移動する。花瓶を抱え下ろし、床の上に転がした。側面にこぶしを当てて圧を加えると、陶器の表面にヒビが入り、次の瞬間、花瓶が砕け散る。

(ハァ……、細工はなんとか間に合った。後は上手うまく言い逃れできれば……)

 破片に触れぬよう身を起こすのと同時に、警報音が止まる。どこかで音が切られたらしい。警備の騎士が駆け付けるのも時間の問題だろう。
 しかし、騎士よりも先に、部屋の扉を勢い良く開け放つ者がいた。魔道具の灯りがともり、部屋が明るくなる。

「ほぉら、やっぱり! イェルク様がいらっしゃるじゃない! まぁ、なんてあられもないお姿! ソフィア様の品性を疑いますわ!」

 嬉々ききとした大声で部屋に押し入ってきたテレーゼが、イェルクの姿に満足そうに笑う。背後にいるソフィアを振り返ろうとした彼女の視線が、こちらを向いた。

「……え?」

 信じられないと言わんばかりの表情。口をポカンと開けたテレーゼに、困ったように笑う。

「テレーゼ様、どうぞお静かに願います。ご覧の通り、イェルク様はお加減が悪くていらっしゃいます。あまり、大きな声で騒ぎ立てるのは……」
「な、何故なぜ、貴女がここにいるの! クリスティーナ・ウィンクラー!」

 テレーゼの大声に釣られるように、彼女の背後から取り巻きとソフィアが部屋に入ってくる。こちらを見て、皆が一様に驚きの表情を浮かべた。

「……『何故なぜ』と聞かれましても、私はソフィア様とご一緒に、イェルク様のかいほうをしていただけとしか……」
「嘘よ、嘘! そんなはずないわ! 貴女がここにいるはずないじゃない!」

 ふんの表情でわめてる彼女に、「そう言われても」と肩をすくめる。
 ますますいきり立ったテレーゼが何かを叫ぼうとした時、彼女の背後から、令嬢たちをかき分けるようにして、騎士たちが雪崩なだんできた。

「ご令嬢方、失礼する。警報を受けて来たのだが、……どういう状況か、ご説明願えますか?」

 リーダーらしき壮年の騎士の視線が、部屋の中を油断なく見回す。寝台の上の裸の男、それから、割れた窓ガラスというさんじょうに片眉を上げた彼は、己とテレーゼの交互に視線を向けた。
 一歩前に出たテレーゼが、胸の前で両手を組んで騎士を見上げる。

「騎士様! どうかこの場をあらためてください! これは王家への反逆です! 王太子殿下のご婚約者であるソフィア様が、あちらの……」

 そう言って、テレーゼは寝台の上のイェルクを指差す。

「ミューレン伯爵令息のイェルク様と不義密通を! 王太子殿下を裏切るなど、到底、許されるものではありません! どうか、お二人を捕らえてくださいませ!」

 彼女の主張に、騎士が「それは……」と困惑の声を上げる。
 当然の反応に、思わず彼に同情の念を抱いた。
 仮に二人の不貞が真実であろうと、犯罪ではないのだ。騎士団に彼らを捕縛する権利はない。
 騎士の困り切った顔がこちらを向いた。もの言いたげな彼を無視して、その背後にいるソフィアに視線を向ける。
 本来であれば、この場を収めるのは彼女の役目。この先、こんなことは何度だって起こる。それを、誰かの後ろでやり過ごすだけでは、王太子妃にはなり得ない。
 しかし、唇を噛んで下を向く彼女に、顔を上げる様子はなかった。
 小さく息を吐いて、私は騎士に視線を戻す。
 三文芝居の幕が上がる――

「……騎士様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。テレーゼ様のおっしゃっていることは、ちょっとした勘違いなのです。騎士団の手をわずらわせるようなことではありません」

 その言葉に、横からテレーゼが噛みついた。

「クリスティーナ! なんなの貴女、さっきから! 貴女には関係ないでしょう! さっさとここから出ていきなさいよ!」
「いいえ。この場の状況を正しくお伝えするまで、出ていくわけにはまいりません。……少しでも、妙な誤解があっては困りますから」


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