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1巻
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殿下と私の婚約が破棄されようとも、ウィンクラーは王家と共にある。内外にそう示すために、ユリウスは積極的に殿下の傍に侍るようになった。必然、ソフィアと兄の距離も近しくなったはずだが、それが今の私の助けになることはない。
壁際を離れ、華やかな集団に向かって歩を進める。
最初にこちらの姿に気付いたのはギレスだった。以前と変わらずに鋭い視線を向けてくる。次いで、ソフィア以外の全員の意識がこちらを向いた。
似たり寄ったりの反応に、私という存在がまったく歓迎されていないことが分かる。それでも彼らの前に立った。男たちが何かを言う前に、ソフィアに向かって礼を取る。
「ソフィア様。直接お声がけする無礼をお許しください」
「え、私?」
碧い瞳が困ったように隣の殿下を見上げる。殿下の視線はこちらに向けられたまま、「下手な真似はするな」と警告してきた。その鋭さを無視して、ソフィアに話しかけ続ける。
「ソフィア様に謝罪させていただきたく、お声がけいたしました」
「謝罪、ですか?」
「はい。先日の話し合いの場では機会を与えられませんでしたので、改めてこの場にて謝罪を」
周囲の誰かが制止する前に、膝を折って頭を垂れる。
「ソフィア様に対する浅はかな行いの数々、誠に申し訳ありませんでした」
言い切って頭を下げた状態で待つが、ソフィアからの返事はない。彼女に代わり、聞こえてきたのは殿下の声だ。
「ソフィア、許す必要はない。この女の行いは、頭を下げたところで許されるものではないからな」
「うん、でも……」
殿下の言葉にソフィアが躊躇いを見せる。その反応に、勝機を見た。
「ソフィア様」
顔を上げて名を呼ぶと、小さく首を傾げるソフィア。その瞳を真っすぐに見据えて、一歩、足を引く。そのまま床に両膝をついた。
「え!? あの、クリスティーナさん!?」
ソフィアの驚きの声を無視し、両手を揃えて床につく。額を床に押し付けた。
「なっ!? クリスティーナッ!」
「止めろ! 立て、クリスティーナ! 何を考えている!?」
「……誠に、申し訳ありませんでした」
床に額ずいたまま、もう一度謝罪の言葉を口にする。
頭上で響く男たちの怒声。周囲からは悲鳴のような声が上がった。屈辱だと、そう感じる公爵令嬢の心を押し殺す。チャンスは今しかない。
「どうか、愚かなこの身をお許しください。ソフィア様の寛大な御心を持って、何卒、慈悲を……」
「止めて! 止めてください、クリスティーナさん! 頭を上げてください!」
「お許しいただけるまでは……」
ソフィアの出自、その身に流れる血が明かされてからでは遅い。前王家の血筋を害した罪が確定する、その前に許しを得なければならなかった。自身の未来を繋げられるのなら、こんな頭くらい、いくらでも下げてみせる。
慌てふためく様子のソフィアの横から、冷たい怒りを乗せた声が降ってきた。
「よせ、クリスティーナ。形ばかりの謝罪など不快なだけだ。即刻止めろ」
「……ソフィア様、どうか、お許しを」
アレクシス殿下の制止を無視してソフィアへの慈悲を請うと、殿下の声が苛立ちを帯びる。
「ソフィア、この女が何を言おうとお前が気にかけてやる必要はない。ギレス、立たせろ」
殿下の命に近づく気配、視界の隅に男の足が映った。と思う間もなく、大きな手に腕を掴まれる。痛みに思わず漏れた呻き声は黙殺された。
目の前にギレスの怒りの相貌がある。必死に抵抗してみるが、彼の手が弛むことはない。無様に引き上げられた身体が床から浮き上がりそうになる。髪を留めていたバレッタが床に落ちる音がした。それでも、ソフィアに向かって頭を下げることだけは止めない。
「ソフィア様、本当に、申し訳ありませんでした」
「クリスティーナ、貴様! ギレス、もういい! さっさと連れていけ!」
殿下の言葉に顔を上げ、私はソフィアの瞳を捉える。精一杯、哀れを誘うつもりで縋る視線を向け続けていると、とうとうソフィアが折れた。
「待って! 待って、ギレス!」
「駄目だ、ソフィア。その女を庇う必要はない」
「でも、アレクシス! これじゃあ、いくらなんでもクリスティーナさんが可哀想だよ! ここまでする必要はないでしょう?」
必死に訴える彼女に、殿下の口から大きなため息がこぼれる。殿下の視線がこちらを向く。
「ギレス、離していい」
その一言に、ねじ上げられていた腕が解放され、身体が床に崩れ落ちた。見上げると、憎しみに燃える殿下の視線に見下ろされている。隣に立つソフィアが彼の手を取った。
「ごめんなさい、アレクシス。貴方が私の心配をしてくれてるのは分かってるの。でも……」
言って、彼女の視線がこちらを向く。
「クリスティーナさん、私、どれだけ謝られても、貴女にされたことは忘れられません」
決意を漲らせて見下ろす瞳に、黙って頭を下げた。
「……でも、それでも、私は貴女を許そうと思います」
「ソフィア、無駄だ。この女はお前を謀っている。謝罪など口先だけ、殊勝な態度を演じているだけだ。許しを与える必要などない」
制止しようとする殿下の言葉に、ソフィアはユルユルと首を横に振る。
「そうかもしれない。でも、だとしても、私はクリスティーナさんを許すよ。騙されているんだとしても、これだけ一生懸命謝ってくれたクリスティーナさんのこと、私は信じたいの」
「ソフィア……」
「だって、誰だって間違うことや失敗することってあるでしょう? それを全部、許さないっていうのは違うんじゃないかなって思うから」
彼女の真っすぐな瞳に、殿下が黙り込んだ。その隙に、再び頭を下げる。
「ソフィア様、お許しいただきありがとうございます」
「うん。……もう、気にしないでください。正直に言うと、これからも、クリスティーナさんと仲良くなれる気はしないんですけど、でも、こんなふうに謝るのはこれっきりにしてほしいんです」
「はい。ソフィア様の寛大な御心に感謝申し上げます」
下げた頭の上で、殿下の吐き捨てるような声が聞こえた。
「女狐が。これ以上、貴様の顔など見たくもない。不愉快だ、うせろ」
「御前、失礼いたします」
その言葉を受け、最後に深く頭を垂れてから彼らに背を向けた。
いつの間にか周囲の騒めきが消えている。向けられる奇異なものを見る眼差し、異様な光景に引いている彼らの姿は不快ではあるが、私は満たされていた。注目の中を出口に向かう。
(……殿下の言葉は正しい)
謝罪そのものがパフォーマンスだったとは言わないが、この場を選んだのは故意、自分のためだった。ただ謝罪するだけなら、態々この場で行う必要などない。敢えてこの場を選んだのは、衆人の目を欲したからだ。
彼らには、「私がソフィアに許される」瞬間を目撃してもらう必要があった。
(これで、貴き血を害した罪は免れる)
今後、ソフィアの血筋が明かされようと、一度許された罪をもって、私が裁かれる心配はない。ソフィアの血が明かされた後なら尚更、彼女が一度口にした言葉を反故にすることは難しい。それは、アレクシス殿下も同じだ。
(やっぱり、二人が一緒の時に動いて良かった)
殿下は、衆人の前でソフィアの意思を無視できなかった。説得する間も懐柔する間もなく、状況的に彼女の寛大さを否定できずに、結局、許しを認めてしまう。
(おかげで、だいぶ、怒らせたみたいだけれど……)
上位者である殿下の怒りを買うのは得策ではない。
それでも、この場で成すべきことを成せたのは自分だという思いが込み上げる。その結果に安堵と、それから、誤魔化しようのない愉悦を感じていた。
◆ ◆ ◆
食堂で食事を終えた後、ソフィアを教室に送り届け、信の置ける三人を伴って学園内の執務室を訪れた。在学中の王族のために用意されたその個室で、心情のまま、置かれた座椅子に乱暴に腰を下ろす。
「クソッ、忌々しい!」
「残念ながら、後手に回ってしまいましたね」
先ほどの一幕を思い返して腹立ちを口にすると、ギレスとユリウスは沈黙したまま、イェルクの声だけが返る。確かに、認めるのは癪に障るが、あの女にしてやられた感は否めない。
「あの自尊心の塊が、ああいう行動に出るとは……」
「ええ。クリスティーナ嬢らしからぬ態度でした。殿下に婚約を破棄されたことで、自暴自棄にでもなったのでしょうか?」
イェルクの言葉に考える。
本来なら、卒業式典の場で行うはずだった宣言。クリスティーナの悪行を白日のもとに晒し、それをもって、あの女に婚約の破棄をつきつける計画だった。
だが、ソフィア自身がその計画に反対した。自身を虐げた相手の立場さえ思い遣る心根の美しさに、結局、計画は変更せざるを得なかったのだ。
「あの女に時間を与えたのは失敗だった」
「式典での婚約破棄であれば、間を置かずにクリスティーナ嬢の罪を問えましたからね」
式典での婚約破棄こそ実行しなかったものの、式典後の祝賀会でソフィアの出自を明らかにし、同時に己とソフィアの婚約を発表する。その後に改めて、あの女の「花の王家を害した罪を問う」という筋書き。罪を問うための仕込みは完璧で、女を追い詰めるだけの材料は揃っていた。
(それで、少なくとも、学園を追い出すことはできたはずだったが)
その後の女の身の振りようについては、ウィンクラー公爵の判断による。だが、おそらくは、こちらの望む結果になっていただろう。ハブリスタントの血を害した罪はそれだけ重い。
(本当に、後は機を待つだけ、それだけだったものを……)
「ソフィアが許した以上、これ以上の追及は難しい、か」
「はい。公表すること自体は可能でしょうが、罪に問えるかとなると、難しいでしょうね」
「クソッ!」
これが、ソフィアの血筋が明らかになった後の謝罪であれば、話は違った。王家の血に頭を下げる女を糾弾するのは容易い。しかし、あの女が頭を下げたのは、男爵令嬢でしかないソフィアだ。そして、ソフィア自身がクリスティーナを許した。その事実は変えようがない。
ソフィアの無垢さに付け込んだ女と、女に謝罪の隙を与えてしまった自分自身に腹が立つ。
(だが、そもそも、クリスティーナがソフィアに頭を下げるというのが不自然すぎる)
あの女が自らの罪を悔いるなどという殊勝さを持ち合わせていないことは、己が一番よく知っている。生じた疑念を、ここまでずっと黙ったままの男に問うた。
「ユリウス、クリスティーナがソフィアに頭を下げた動機は分かるか?」
その問いに一瞬考え込む様子を見せたユリウスだが、すぐに口を開く。
「……ソフィアが花の王家の血筋だというのは、真の話なのでしょうか?」
「なっ!?」
ユリウスが、彼の預かり知らぬはずの事実を口にしたことに動揺する。
まさか、という思い。イェルクとギレス以外には国王である父にしか明かしていないソフィアの秘密を口にされ、返す言葉に詰まった。
「……殿下のそのご様子ですと、真実で間違いないようですね」
「その話をどこで知った?」
ユリウスを、真実、信ずるに値する男だと評価しているが、彼はウィンクラーの人間だ。事が成るまでは伝えるつもりのなかった情報を、何故彼が知っているのか。
「父より聞かされました」
ユリウスの返答に呻きそうになった。国の守護、ハンネス・ウィンクラー――王家に並び立つ公爵家の当主は、相も変わらず食えない男らしい。最早、空恐ろしさすら感じる。
「ウィンクラー公か。公はいったい、どこでその情報を得たと?」
「聞かされておりません。ですが、クリスティーナも父よりソフィアの血筋を聞かされていた可能性はあるかと」
「ああ、なるほどな」
そういうことかと漸く合点がいった。確かに、そうであれば、あの場であれだけの醜態を晒してまでクリスティーナがソフィアの許しを乞うた意味が分かる。
「やはりただの保身か。まったく、面倒な女だ。公爵も余計なことをしてくれる」
国の守護でありながら自身の娘の頭に冠を乗せることに拘り続ける男は、娘が生まれると同時にその娘を己の婚約者にねじ込んできた。今、この国で最も権勢を誇るウィンクラー家、その当主である男の目を掻い潜ってクリスティーナとの婚約破棄が成立したのは、同じくウィンクラーであるユリウスの功が大きい。そのユリウスが自身の妹の排斥に動いた動機に、国の将来を憂える以外の想いが存在することにも、薄々は気付いている。気付いていて、口にする。
「ソフィアのために……」
己の言葉に、ユリウスが僅かに反応した。
「彼女のために、せめて、クリスティーナを退学させておきたかったが」
後顧の憂いは断っておきたかったと告げると、間髪容れずにユリウスの返答がある。
「その点に関しては、あまり心配される必要はないでしょう。父はクリスティーナを退学させるつもりでいます」
その言葉に片眉を上げて見せた。
「だが、あの女は、今日ものうのうと私の前に姿を現していたが?」
「はい。どうやら、クリスティーナが抵抗したことで、父が猶予を与えたようです。ですが、来年度の前期試験の結果をもって退学となるでしょう」
確定でないユリウスのあやふやな言葉に、どういうことかと目線で問う。
「考査にて首位を取ることを、クリスティーナは父に厳命されています。それが猶予の条件、満たさねば、即退学となります」
「前期考査か。正直、それでは遅すぎるとも思うが……」
卒業まで居座り続けられるよりは幾らかマシだ。ただ、気になる点がある。
「あれでも、クリスティーナは王太子妃としての教育を受けている。成果も、それなりに出していたはずだ。公爵の条件を満たす可能性があるのではないか?」
「いえ。それはあり得ません。父は、クリスティーナに見切りをつけております。家にも学園にも手を貸す者がいない状況で、万一にも、クリスティーナが首位を取ることはないでしょう」
「ふん、なるほどな」
満足いく答えに一つ頷いて、その先を尋ねた。
「学園を辞めさせた後は? 公爵はクリスティーナをどうするつもりでいる?」
「順当にいけば、他家へ嫁ぐことになるかと。具体的な縁組まではまだ決まっておりません」
「……ならば、ミュラー侯爵にでも引き取ってもらえばいい」
脳裏に、何度か顔を合わせたことのある老侯爵の顔が浮かぶ。クリスティーナと出席した数少ない夜会の内で、常に彼女に下卑た視線を向けていた男。あの男ならば、喜んでクリスティーナを娶るだろう。酷く残忍な気分で笑うと、ある程度、溜飲が下がった。
己の卒業まであと三日。
全ては成就せずとも、まずまずの成果で巣立つことができそうだ――
◆ ◆ ◆
(ああ、どうしよう。緊張してきちゃった)
アレクシスの卒業の日。ついさっきまで、昼間に行われた卒業式の余韻にどっぷり浸っていたけれど、今は、ガチガチに緊張しながら鏡台の前に座っている。
侍女たちに世話をされながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。
ピンクがかった金色の髪は結い上げられ、人の手によって施された化粧は凄く満足のいく出来映えになっている。文句なしに綺麗だと思うのに、これから自分が向かう場所のことを考えると、途端に自信がなくなる。
前王家の末裔のお披露目と婚約式――
これから先の未来、アレクシスと一緒にいるためにはどちらも必要なことだ。そう分かっていても、大勢の人前に立つと考えただけで、心臓が壊れそうなくらいドキドキしている。
(アレクシスは、『数をこなす内に慣れる』って言ってくれたけれど、でも、緊張する)
深呼吸して目を閉じた。勇気を貰うために、先ほどのアレクシスの姿を思い描く。
当然のように首席での卒業を決め、式で答辞を読み上げたアレクシス。読まれた答辞は式典用の古語だったため、その全てを聞き取ることはできなかったけれど、彼の凛々しい立ち姿と紡がれる美しい言葉の響きには、涙が出るほど感動した。
それと同時に、「卒業式で断罪をしなくて良かった」と改めて実感する。
(あの厳粛な雰囲気の中で断罪なんてしていたら、感動的な場面が全部台なしになっていたもの)
それに、他国から訪れていた来賓の中には、クリスティーナに繋がりのある人物がいた可能性もある。断罪の場から悪役令嬢を救い出す救世主にこちらが追い詰められる、なんて結末になっていたら、目も当てられない。
(クリスティーナ本人も、思っていた以上に引き際が悪かったしなぁ)
先日の食堂での出来事を思い出す。ゲームでは描かれなかったそれ。突如、奇行に走ったクリスティーナの姿は予想外すぎて、恐怖を感じた。
婚約破棄の時期がズレたせいでストーリーに狂いが出たのかもしれない。もし、卒業式であんなことをされていたらと考えただけでゾッとする。
本当は、あの場でクリスティーナのことを許したくはなかったし、今でも、内心ではまったく許せていない。でも、あの状況で、「許す」以外の選択肢なんて取りようがなかった。
そのことを少し後悔しているけれど、今後は彼女と関わり合うこともないだろう。だったら、このまま流してしまったほうが楽に決まっている。
つらつらと考えている内に、気付けばかなりの時間が経ってしまっていたらしい。
「……ソフィア様、お時間でございます」
「あ! はい、分かりました」
支度を手伝ってくれていた侍女にタイムリミットを告げられ、立ち上がった。
彼女の開けてくれた扉から部屋を出る。部屋から一歩出たところに、騎士科の正装を纏ったギレスが立っていた。
これから、アレクシスの部屋にエスコートしてくれるギレス。彼に手を差し出され、その手を取った。ギレスのゴツゴツした手に少しだけ力が込められる。
「……美しいな」
「本当? お世辞でも嬉しい」
「世辞ではない」
ギレスの言葉に嘘がないのは、彼の目を見れば分かる。こちらを見つめる称賛の眼差しに「ありがとう」と返すと、黒の瞳に称賛以外の熱がこもった。不自然でないように、そっと視線を外す。
(ちょっとマズいかな。気を付けないと)
アレクシスとの関係を深める中で、常にアレクシスの傍にいるギレスとは完全に接触を断つことができなかった。そのせいでギレスの好感度を上げてしまったのは故意ではなかったし、望んでもいない。彼に恋愛感情を持たれたいなんて、考えたこともなかった。
(二股やハーレムエンドなんて、地雷でしかないもの)
だからといって、態とギレスに嫌われる選択をできなかった。大勢から敵意を向けられる中で、自分を守ってくれる味方を一人でも失うわけにはいかなかったのだ。
(うん。でも、きっと大丈夫。ギレスのイベントは一つも進めていない。多少、仲が良いくらいでは、問題にならないはず)
アレクシスの忠実な騎士であるギレスが、主を裏切ってまで私に想いを伝えることはない。彼が私に想いを告げるのは、彼がアレクシスより私を選んだ時――トゥルーエンドの時だけ。
だから、私は気付かない振りをするだけでいい。
「よろしくね、ギレス。アレクシスのところに連れていってくれる?」
「……ああ」
ギレスの表情が少し曇る。そのことに微かに心が痛んだけれど、彼に導かれた先、アレクシスの控え室の扉を開けた瞬間に、全てが吹き飛んだ。
「うわぁっ、凄い! アレクシス、凄く素敵!」
目の前に、本物の王子様が立っていた。儀式用の盛装を纏ったアレクシスの、トゥルーエンドスチルをそのまま三次元にしたような完璧な姿に、さっきまでとは違う意味でドキドキが止まらない。
「ソフィア。お前のほうこそ綺麗だ」
その王子様が、キラキラしたアレクシスが、私だけに微笑んでいる。
「行こうか、ソフィア? 皆がお前を待っている」
彼の言葉に頷いて、差し出された手を取った。見下ろす優しい眼差しと見つめ合う。
(私、本当に、この人の、アレクシスの隣に立てるんだ……)
その奇跡がまだ上手く実感できない。ただ、この手を離したくないから、彼と並んで歩き出す。
近づく大広間の扉、押し開かれていく扉の向こうにたくさんの人の視線が見えた。怖い、逃げ出したい。だけど、何でもない振りをして笑う。
大好きな人と一緒にいられる未来のために――
第二章 あがく日々
殿下たちが学園を卒業し、最終学年に上がった新学期。
持ち上がりの淑女科クラスには、代わり映えのしない顔ばかりが並ぶ。そんな中で、彼女たちの私に対する態度だけは大きく変化した。こちらに阿るでも、嫌がらせをするでもなく、今はただひたすら遠巻きにされている。
どうやら、ソフィアとの一件で、「何をしでかすか分からない危ない奴」との評価を受けているらしい。いない者として扱われはするが、テレーゼたちからの嫌がらせもなくなった。寮や教室での日常は随分と改善している。
ただ、全ての厄介事がなくなったわけではない。
「……おや? クリスティーナ嬢じゃないか。随分と貧相にお成りだ」
勉強のため図書館へ移動する途中、男たち数名に囲まれた。全身を舐めるような視線で見るのは、ソフィアと同じクラスの魔術科の三年生だ。
魔術科の生徒はその殆どが貴族階級に属し、総じて階級意識が強い。そのせいで、かつては、殿下の傍に侍るソフィアを疎んじる者が大半だった。
そして、今の彼らの攻撃の矛先は私に向いている。
「服も化粧も、とても貴族令嬢のものとは思えませんね。しおらしい女でも演じているつもりでしょうか?」
「そうしておけば、貴女がソフィア様に行った非道が帳消しになるとでも?」
「ソフィア様がお許しになったとしても、真実、お前の罪が許されたことにはならんからな」
ソフィアの血筋が卒業式典後の祝賀会で公表されたことによって、彼らの態度はガラリと変わった。それは殿下との婚約が同時に発表されたからでもある。
発表直後から、ソフィアの周囲には人が増え、今までソフィアを害していた立場の人間たちが、必死に彼女にすり寄ろうとしている。そうした輩の中にはソフィアへのご機嫌取り代わりに私に絡んでくる者がいて、非常に鬱陶しい。
(この人たちの場合は、彼女の名前を使って弱者を虐げたいだけかもしれないけれど)
絡んでくる男たちには見覚えがあった。嫌でも顔を覚えてしまうくらいには、嫌がらせを受けている。
男たちを観察しながら沈黙を守っていると、立腹したらしい男たちに肩を小突かれた。
「すかした女だな。いけ好かない」
「弁解くらいしてみせたらどうなんです?」
身体がふらつくくらいに強く押されて痛みを感じる。暴力に発展しそうな気配に口を開いた。
「貴方方がソフィア様のために動いているつもりなら、まったくのお門違いよ。私がアレクシス殿下の婚約者を下ろされた理由をご存じないの?」
こちらの言葉に顔を見合わせた男たちの内、一番背が高く、口の悪い男が答える。
「お前が殿下の不興を買い、愛想をつかされたからだろう?」
「どんな不興を買ったかはご存じないの?」
「はっ、そんなもの! ソフィア様を虐げたからだろうが!」
「ええ、まあ、簡単に言えば、そうね」
壁際を離れ、華やかな集団に向かって歩を進める。
最初にこちらの姿に気付いたのはギレスだった。以前と変わらずに鋭い視線を向けてくる。次いで、ソフィア以外の全員の意識がこちらを向いた。
似たり寄ったりの反応に、私という存在がまったく歓迎されていないことが分かる。それでも彼らの前に立った。男たちが何かを言う前に、ソフィアに向かって礼を取る。
「ソフィア様。直接お声がけする無礼をお許しください」
「え、私?」
碧い瞳が困ったように隣の殿下を見上げる。殿下の視線はこちらに向けられたまま、「下手な真似はするな」と警告してきた。その鋭さを無視して、ソフィアに話しかけ続ける。
「ソフィア様に謝罪させていただきたく、お声がけいたしました」
「謝罪、ですか?」
「はい。先日の話し合いの場では機会を与えられませんでしたので、改めてこの場にて謝罪を」
周囲の誰かが制止する前に、膝を折って頭を垂れる。
「ソフィア様に対する浅はかな行いの数々、誠に申し訳ありませんでした」
言い切って頭を下げた状態で待つが、ソフィアからの返事はない。彼女に代わり、聞こえてきたのは殿下の声だ。
「ソフィア、許す必要はない。この女の行いは、頭を下げたところで許されるものではないからな」
「うん、でも……」
殿下の言葉にソフィアが躊躇いを見せる。その反応に、勝機を見た。
「ソフィア様」
顔を上げて名を呼ぶと、小さく首を傾げるソフィア。その瞳を真っすぐに見据えて、一歩、足を引く。そのまま床に両膝をついた。
「え!? あの、クリスティーナさん!?」
ソフィアの驚きの声を無視し、両手を揃えて床につく。額を床に押し付けた。
「なっ!? クリスティーナッ!」
「止めろ! 立て、クリスティーナ! 何を考えている!?」
「……誠に、申し訳ありませんでした」
床に額ずいたまま、もう一度謝罪の言葉を口にする。
頭上で響く男たちの怒声。周囲からは悲鳴のような声が上がった。屈辱だと、そう感じる公爵令嬢の心を押し殺す。チャンスは今しかない。
「どうか、愚かなこの身をお許しください。ソフィア様の寛大な御心を持って、何卒、慈悲を……」
「止めて! 止めてください、クリスティーナさん! 頭を上げてください!」
「お許しいただけるまでは……」
ソフィアの出自、その身に流れる血が明かされてからでは遅い。前王家の血筋を害した罪が確定する、その前に許しを得なければならなかった。自身の未来を繋げられるのなら、こんな頭くらい、いくらでも下げてみせる。
慌てふためく様子のソフィアの横から、冷たい怒りを乗せた声が降ってきた。
「よせ、クリスティーナ。形ばかりの謝罪など不快なだけだ。即刻止めろ」
「……ソフィア様、どうか、お許しを」
アレクシス殿下の制止を無視してソフィアへの慈悲を請うと、殿下の声が苛立ちを帯びる。
「ソフィア、この女が何を言おうとお前が気にかけてやる必要はない。ギレス、立たせろ」
殿下の命に近づく気配、視界の隅に男の足が映った。と思う間もなく、大きな手に腕を掴まれる。痛みに思わず漏れた呻き声は黙殺された。
目の前にギレスの怒りの相貌がある。必死に抵抗してみるが、彼の手が弛むことはない。無様に引き上げられた身体が床から浮き上がりそうになる。髪を留めていたバレッタが床に落ちる音がした。それでも、ソフィアに向かって頭を下げることだけは止めない。
「ソフィア様、本当に、申し訳ありませんでした」
「クリスティーナ、貴様! ギレス、もういい! さっさと連れていけ!」
殿下の言葉に顔を上げ、私はソフィアの瞳を捉える。精一杯、哀れを誘うつもりで縋る視線を向け続けていると、とうとうソフィアが折れた。
「待って! 待って、ギレス!」
「駄目だ、ソフィア。その女を庇う必要はない」
「でも、アレクシス! これじゃあ、いくらなんでもクリスティーナさんが可哀想だよ! ここまでする必要はないでしょう?」
必死に訴える彼女に、殿下の口から大きなため息がこぼれる。殿下の視線がこちらを向く。
「ギレス、離していい」
その一言に、ねじ上げられていた腕が解放され、身体が床に崩れ落ちた。見上げると、憎しみに燃える殿下の視線に見下ろされている。隣に立つソフィアが彼の手を取った。
「ごめんなさい、アレクシス。貴方が私の心配をしてくれてるのは分かってるの。でも……」
言って、彼女の視線がこちらを向く。
「クリスティーナさん、私、どれだけ謝られても、貴女にされたことは忘れられません」
決意を漲らせて見下ろす瞳に、黙って頭を下げた。
「……でも、それでも、私は貴女を許そうと思います」
「ソフィア、無駄だ。この女はお前を謀っている。謝罪など口先だけ、殊勝な態度を演じているだけだ。許しを与える必要などない」
制止しようとする殿下の言葉に、ソフィアはユルユルと首を横に振る。
「そうかもしれない。でも、だとしても、私はクリスティーナさんを許すよ。騙されているんだとしても、これだけ一生懸命謝ってくれたクリスティーナさんのこと、私は信じたいの」
「ソフィア……」
「だって、誰だって間違うことや失敗することってあるでしょう? それを全部、許さないっていうのは違うんじゃないかなって思うから」
彼女の真っすぐな瞳に、殿下が黙り込んだ。その隙に、再び頭を下げる。
「ソフィア様、お許しいただきありがとうございます」
「うん。……もう、気にしないでください。正直に言うと、これからも、クリスティーナさんと仲良くなれる気はしないんですけど、でも、こんなふうに謝るのはこれっきりにしてほしいんです」
「はい。ソフィア様の寛大な御心に感謝申し上げます」
下げた頭の上で、殿下の吐き捨てるような声が聞こえた。
「女狐が。これ以上、貴様の顔など見たくもない。不愉快だ、うせろ」
「御前、失礼いたします」
その言葉を受け、最後に深く頭を垂れてから彼らに背を向けた。
いつの間にか周囲の騒めきが消えている。向けられる奇異なものを見る眼差し、異様な光景に引いている彼らの姿は不快ではあるが、私は満たされていた。注目の中を出口に向かう。
(……殿下の言葉は正しい)
謝罪そのものがパフォーマンスだったとは言わないが、この場を選んだのは故意、自分のためだった。ただ謝罪するだけなら、態々この場で行う必要などない。敢えてこの場を選んだのは、衆人の目を欲したからだ。
彼らには、「私がソフィアに許される」瞬間を目撃してもらう必要があった。
(これで、貴き血を害した罪は免れる)
今後、ソフィアの血筋が明かされようと、一度許された罪をもって、私が裁かれる心配はない。ソフィアの血が明かされた後なら尚更、彼女が一度口にした言葉を反故にすることは難しい。それは、アレクシス殿下も同じだ。
(やっぱり、二人が一緒の時に動いて良かった)
殿下は、衆人の前でソフィアの意思を無視できなかった。説得する間も懐柔する間もなく、状況的に彼女の寛大さを否定できずに、結局、許しを認めてしまう。
(おかげで、だいぶ、怒らせたみたいだけれど……)
上位者である殿下の怒りを買うのは得策ではない。
それでも、この場で成すべきことを成せたのは自分だという思いが込み上げる。その結果に安堵と、それから、誤魔化しようのない愉悦を感じていた。
◆ ◆ ◆
食堂で食事を終えた後、ソフィアを教室に送り届け、信の置ける三人を伴って学園内の執務室を訪れた。在学中の王族のために用意されたその個室で、心情のまま、置かれた座椅子に乱暴に腰を下ろす。
「クソッ、忌々しい!」
「残念ながら、後手に回ってしまいましたね」
先ほどの一幕を思い返して腹立ちを口にすると、ギレスとユリウスは沈黙したまま、イェルクの声だけが返る。確かに、認めるのは癪に障るが、あの女にしてやられた感は否めない。
「あの自尊心の塊が、ああいう行動に出るとは……」
「ええ。クリスティーナ嬢らしからぬ態度でした。殿下に婚約を破棄されたことで、自暴自棄にでもなったのでしょうか?」
イェルクの言葉に考える。
本来なら、卒業式典の場で行うはずだった宣言。クリスティーナの悪行を白日のもとに晒し、それをもって、あの女に婚約の破棄をつきつける計画だった。
だが、ソフィア自身がその計画に反対した。自身を虐げた相手の立場さえ思い遣る心根の美しさに、結局、計画は変更せざるを得なかったのだ。
「あの女に時間を与えたのは失敗だった」
「式典での婚約破棄であれば、間を置かずにクリスティーナ嬢の罪を問えましたからね」
式典での婚約破棄こそ実行しなかったものの、式典後の祝賀会でソフィアの出自を明らかにし、同時に己とソフィアの婚約を発表する。その後に改めて、あの女の「花の王家を害した罪を問う」という筋書き。罪を問うための仕込みは完璧で、女を追い詰めるだけの材料は揃っていた。
(それで、少なくとも、学園を追い出すことはできたはずだったが)
その後の女の身の振りようについては、ウィンクラー公爵の判断による。だが、おそらくは、こちらの望む結果になっていただろう。ハブリスタントの血を害した罪はそれだけ重い。
(本当に、後は機を待つだけ、それだけだったものを……)
「ソフィアが許した以上、これ以上の追及は難しい、か」
「はい。公表すること自体は可能でしょうが、罪に問えるかとなると、難しいでしょうね」
「クソッ!」
これが、ソフィアの血筋が明らかになった後の謝罪であれば、話は違った。王家の血に頭を下げる女を糾弾するのは容易い。しかし、あの女が頭を下げたのは、男爵令嬢でしかないソフィアだ。そして、ソフィア自身がクリスティーナを許した。その事実は変えようがない。
ソフィアの無垢さに付け込んだ女と、女に謝罪の隙を与えてしまった自分自身に腹が立つ。
(だが、そもそも、クリスティーナがソフィアに頭を下げるというのが不自然すぎる)
あの女が自らの罪を悔いるなどという殊勝さを持ち合わせていないことは、己が一番よく知っている。生じた疑念を、ここまでずっと黙ったままの男に問うた。
「ユリウス、クリスティーナがソフィアに頭を下げた動機は分かるか?」
その問いに一瞬考え込む様子を見せたユリウスだが、すぐに口を開く。
「……ソフィアが花の王家の血筋だというのは、真の話なのでしょうか?」
「なっ!?」
ユリウスが、彼の預かり知らぬはずの事実を口にしたことに動揺する。
まさか、という思い。イェルクとギレス以外には国王である父にしか明かしていないソフィアの秘密を口にされ、返す言葉に詰まった。
「……殿下のそのご様子ですと、真実で間違いないようですね」
「その話をどこで知った?」
ユリウスを、真実、信ずるに値する男だと評価しているが、彼はウィンクラーの人間だ。事が成るまでは伝えるつもりのなかった情報を、何故彼が知っているのか。
「父より聞かされました」
ユリウスの返答に呻きそうになった。国の守護、ハンネス・ウィンクラー――王家に並び立つ公爵家の当主は、相も変わらず食えない男らしい。最早、空恐ろしさすら感じる。
「ウィンクラー公か。公はいったい、どこでその情報を得たと?」
「聞かされておりません。ですが、クリスティーナも父よりソフィアの血筋を聞かされていた可能性はあるかと」
「ああ、なるほどな」
そういうことかと漸く合点がいった。確かに、そうであれば、あの場であれだけの醜態を晒してまでクリスティーナがソフィアの許しを乞うた意味が分かる。
「やはりただの保身か。まったく、面倒な女だ。公爵も余計なことをしてくれる」
国の守護でありながら自身の娘の頭に冠を乗せることに拘り続ける男は、娘が生まれると同時にその娘を己の婚約者にねじ込んできた。今、この国で最も権勢を誇るウィンクラー家、その当主である男の目を掻い潜ってクリスティーナとの婚約破棄が成立したのは、同じくウィンクラーであるユリウスの功が大きい。そのユリウスが自身の妹の排斥に動いた動機に、国の将来を憂える以外の想いが存在することにも、薄々は気付いている。気付いていて、口にする。
「ソフィアのために……」
己の言葉に、ユリウスが僅かに反応した。
「彼女のために、せめて、クリスティーナを退学させておきたかったが」
後顧の憂いは断っておきたかったと告げると、間髪容れずにユリウスの返答がある。
「その点に関しては、あまり心配される必要はないでしょう。父はクリスティーナを退学させるつもりでいます」
その言葉に片眉を上げて見せた。
「だが、あの女は、今日ものうのうと私の前に姿を現していたが?」
「はい。どうやら、クリスティーナが抵抗したことで、父が猶予を与えたようです。ですが、来年度の前期試験の結果をもって退学となるでしょう」
確定でないユリウスのあやふやな言葉に、どういうことかと目線で問う。
「考査にて首位を取ることを、クリスティーナは父に厳命されています。それが猶予の条件、満たさねば、即退学となります」
「前期考査か。正直、それでは遅すぎるとも思うが……」
卒業まで居座り続けられるよりは幾らかマシだ。ただ、気になる点がある。
「あれでも、クリスティーナは王太子妃としての教育を受けている。成果も、それなりに出していたはずだ。公爵の条件を満たす可能性があるのではないか?」
「いえ。それはあり得ません。父は、クリスティーナに見切りをつけております。家にも学園にも手を貸す者がいない状況で、万一にも、クリスティーナが首位を取ることはないでしょう」
「ふん、なるほどな」
満足いく答えに一つ頷いて、その先を尋ねた。
「学園を辞めさせた後は? 公爵はクリスティーナをどうするつもりでいる?」
「順当にいけば、他家へ嫁ぐことになるかと。具体的な縁組まではまだ決まっておりません」
「……ならば、ミュラー侯爵にでも引き取ってもらえばいい」
脳裏に、何度か顔を合わせたことのある老侯爵の顔が浮かぶ。クリスティーナと出席した数少ない夜会の内で、常に彼女に下卑た視線を向けていた男。あの男ならば、喜んでクリスティーナを娶るだろう。酷く残忍な気分で笑うと、ある程度、溜飲が下がった。
己の卒業まであと三日。
全ては成就せずとも、まずまずの成果で巣立つことができそうだ――
◆ ◆ ◆
(ああ、どうしよう。緊張してきちゃった)
アレクシスの卒業の日。ついさっきまで、昼間に行われた卒業式の余韻にどっぷり浸っていたけれど、今は、ガチガチに緊張しながら鏡台の前に座っている。
侍女たちに世話をされながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。
ピンクがかった金色の髪は結い上げられ、人の手によって施された化粧は凄く満足のいく出来映えになっている。文句なしに綺麗だと思うのに、これから自分が向かう場所のことを考えると、途端に自信がなくなる。
前王家の末裔のお披露目と婚約式――
これから先の未来、アレクシスと一緒にいるためにはどちらも必要なことだ。そう分かっていても、大勢の人前に立つと考えただけで、心臓が壊れそうなくらいドキドキしている。
(アレクシスは、『数をこなす内に慣れる』って言ってくれたけれど、でも、緊張する)
深呼吸して目を閉じた。勇気を貰うために、先ほどのアレクシスの姿を思い描く。
当然のように首席での卒業を決め、式で答辞を読み上げたアレクシス。読まれた答辞は式典用の古語だったため、その全てを聞き取ることはできなかったけれど、彼の凛々しい立ち姿と紡がれる美しい言葉の響きには、涙が出るほど感動した。
それと同時に、「卒業式で断罪をしなくて良かった」と改めて実感する。
(あの厳粛な雰囲気の中で断罪なんてしていたら、感動的な場面が全部台なしになっていたもの)
それに、他国から訪れていた来賓の中には、クリスティーナに繋がりのある人物がいた可能性もある。断罪の場から悪役令嬢を救い出す救世主にこちらが追い詰められる、なんて結末になっていたら、目も当てられない。
(クリスティーナ本人も、思っていた以上に引き際が悪かったしなぁ)
先日の食堂での出来事を思い出す。ゲームでは描かれなかったそれ。突如、奇行に走ったクリスティーナの姿は予想外すぎて、恐怖を感じた。
婚約破棄の時期がズレたせいでストーリーに狂いが出たのかもしれない。もし、卒業式であんなことをされていたらと考えただけでゾッとする。
本当は、あの場でクリスティーナのことを許したくはなかったし、今でも、内心ではまったく許せていない。でも、あの状況で、「許す」以外の選択肢なんて取りようがなかった。
そのことを少し後悔しているけれど、今後は彼女と関わり合うこともないだろう。だったら、このまま流してしまったほうが楽に決まっている。
つらつらと考えている内に、気付けばかなりの時間が経ってしまっていたらしい。
「……ソフィア様、お時間でございます」
「あ! はい、分かりました」
支度を手伝ってくれていた侍女にタイムリミットを告げられ、立ち上がった。
彼女の開けてくれた扉から部屋を出る。部屋から一歩出たところに、騎士科の正装を纏ったギレスが立っていた。
これから、アレクシスの部屋にエスコートしてくれるギレス。彼に手を差し出され、その手を取った。ギレスのゴツゴツした手に少しだけ力が込められる。
「……美しいな」
「本当? お世辞でも嬉しい」
「世辞ではない」
ギレスの言葉に嘘がないのは、彼の目を見れば分かる。こちらを見つめる称賛の眼差しに「ありがとう」と返すと、黒の瞳に称賛以外の熱がこもった。不自然でないように、そっと視線を外す。
(ちょっとマズいかな。気を付けないと)
アレクシスとの関係を深める中で、常にアレクシスの傍にいるギレスとは完全に接触を断つことができなかった。そのせいでギレスの好感度を上げてしまったのは故意ではなかったし、望んでもいない。彼に恋愛感情を持たれたいなんて、考えたこともなかった。
(二股やハーレムエンドなんて、地雷でしかないもの)
だからといって、態とギレスに嫌われる選択をできなかった。大勢から敵意を向けられる中で、自分を守ってくれる味方を一人でも失うわけにはいかなかったのだ。
(うん。でも、きっと大丈夫。ギレスのイベントは一つも進めていない。多少、仲が良いくらいでは、問題にならないはず)
アレクシスの忠実な騎士であるギレスが、主を裏切ってまで私に想いを伝えることはない。彼が私に想いを告げるのは、彼がアレクシスより私を選んだ時――トゥルーエンドの時だけ。
だから、私は気付かない振りをするだけでいい。
「よろしくね、ギレス。アレクシスのところに連れていってくれる?」
「……ああ」
ギレスの表情が少し曇る。そのことに微かに心が痛んだけれど、彼に導かれた先、アレクシスの控え室の扉を開けた瞬間に、全てが吹き飛んだ。
「うわぁっ、凄い! アレクシス、凄く素敵!」
目の前に、本物の王子様が立っていた。儀式用の盛装を纏ったアレクシスの、トゥルーエンドスチルをそのまま三次元にしたような完璧な姿に、さっきまでとは違う意味でドキドキが止まらない。
「ソフィア。お前のほうこそ綺麗だ」
その王子様が、キラキラしたアレクシスが、私だけに微笑んでいる。
「行こうか、ソフィア? 皆がお前を待っている」
彼の言葉に頷いて、差し出された手を取った。見下ろす優しい眼差しと見つめ合う。
(私、本当に、この人の、アレクシスの隣に立てるんだ……)
その奇跡がまだ上手く実感できない。ただ、この手を離したくないから、彼と並んで歩き出す。
近づく大広間の扉、押し開かれていく扉の向こうにたくさんの人の視線が見えた。怖い、逃げ出したい。だけど、何でもない振りをして笑う。
大好きな人と一緒にいられる未来のために――
第二章 あがく日々
殿下たちが学園を卒業し、最終学年に上がった新学期。
持ち上がりの淑女科クラスには、代わり映えのしない顔ばかりが並ぶ。そんな中で、彼女たちの私に対する態度だけは大きく変化した。こちらに阿るでも、嫌がらせをするでもなく、今はただひたすら遠巻きにされている。
どうやら、ソフィアとの一件で、「何をしでかすか分からない危ない奴」との評価を受けているらしい。いない者として扱われはするが、テレーゼたちからの嫌がらせもなくなった。寮や教室での日常は随分と改善している。
ただ、全ての厄介事がなくなったわけではない。
「……おや? クリスティーナ嬢じゃないか。随分と貧相にお成りだ」
勉強のため図書館へ移動する途中、男たち数名に囲まれた。全身を舐めるような視線で見るのは、ソフィアと同じクラスの魔術科の三年生だ。
魔術科の生徒はその殆どが貴族階級に属し、総じて階級意識が強い。そのせいで、かつては、殿下の傍に侍るソフィアを疎んじる者が大半だった。
そして、今の彼らの攻撃の矛先は私に向いている。
「服も化粧も、とても貴族令嬢のものとは思えませんね。しおらしい女でも演じているつもりでしょうか?」
「そうしておけば、貴女がソフィア様に行った非道が帳消しになるとでも?」
「ソフィア様がお許しになったとしても、真実、お前の罪が許されたことにはならんからな」
ソフィアの血筋が卒業式典後の祝賀会で公表されたことによって、彼らの態度はガラリと変わった。それは殿下との婚約が同時に発表されたからでもある。
発表直後から、ソフィアの周囲には人が増え、今までソフィアを害していた立場の人間たちが、必死に彼女にすり寄ろうとしている。そうした輩の中にはソフィアへのご機嫌取り代わりに私に絡んでくる者がいて、非常に鬱陶しい。
(この人たちの場合は、彼女の名前を使って弱者を虐げたいだけかもしれないけれど)
絡んでくる男たちには見覚えがあった。嫌でも顔を覚えてしまうくらいには、嫌がらせを受けている。
男たちを観察しながら沈黙を守っていると、立腹したらしい男たちに肩を小突かれた。
「すかした女だな。いけ好かない」
「弁解くらいしてみせたらどうなんです?」
身体がふらつくくらいに強く押されて痛みを感じる。暴力に発展しそうな気配に口を開いた。
「貴方方がソフィア様のために動いているつもりなら、まったくのお門違いよ。私がアレクシス殿下の婚約者を下ろされた理由をご存じないの?」
こちらの言葉に顔を見合わせた男たちの内、一番背が高く、口の悪い男が答える。
「お前が殿下の不興を買い、愛想をつかされたからだろう?」
「どんな不興を買ったかはご存じないの?」
「はっ、そんなもの! ソフィア様を虐げたからだろうが!」
「ええ、まあ、簡単に言えば、そうね」
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