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1巻
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その答えに、やはりと思う。ある程度、覚悟していたこと。父ならば、そう判断してもおかしくない。王家の不興を買った娘など、最早、公爵家に益のある家に縁付ける程度にしか使い道がなく、自身のこれからの行く末がバラ色に輝いているとは到底思えなかった。
それでも、あがいてみせる。
「お待ちください、お父様。私は、学園を辞めません」
このまま何もせずに終わらせるつもりはない。
父への抗命に、目の前のアイスブルーの眼差しが鋭くなる。
「私の決定に逆らうつもりか?」
父に対する、初めての抵抗かもしれない。今や、父の瞳に見えるのは冷たい怒りだ。
父にとってはただの道具、思い通りに配置できるはずの駒が、駒であることを放棄した。その怒りは如何ほどのものか。その冷たさに、心臓の音が速くなる。
「私の命に従わぬなら、今すぐ出ていけ。金輪際、ウィンクラーの名を名乗るな。その覚悟もなしに逆らったというのなら、お前は愚かだ。思考などせず、私の命にだけ従っていればいい」
「お父様、私は『お待ちください』と申し上げました」
私の言葉に父の瞳は胡乱なまま。先を促されて、答えを口にする。
「お父様の命に従えないのは半分だけ、学園を辞めるという点に関してだけです。私とてウィンクラーの娘。殿下との婚約が破棄された今、いずれは家のための婚姻を結ぶことに否やはありません」
実際、今まで結ばれていた王太子との婚約もそうだった。王太子の後ろ盾を欲した王家と、国の護りを第一義に王家との繋がりを欲したウィンクラーとの間で成された契約。そこに、当人である私たちの意思は存在しない。
それでも、共に過ごす時間の内で確かな敬意と親愛が育っていたはずだったが――
(多分、私と殿下では、根源的に求めるものが違った……)
同じく政略で結ばれた国王夫妻は、そうとは思えぬほどに仲睦まじく、アレクシス殿下はそんな両親の姿を見て育っている。
一方、前世の記憶を取り戻すまで、私には「夫婦」というものの在り様がよく分かっていなかった。王太子妃という「役目」なら分かる。何をするべきなのかも。けれど、殿下の「妻」としての自身を思い描くことはできなかった。だから、当然のように、ソフィアを排除するべきものだと見なしたのだ。彼女はこの国の治世に必要ない。
(今なら、単に、愛する人と結ばれたいだけという気持ちも理解できるけれど)
それは、今の私にとっては望めない未来。ただ、望めなくとも、諦められないこともある。
「お父様、私、学園を首席で卒業いたします」
「何だと?」
父の不審の声に、私は胸を張った。
「だって、馬鹿らしいではありませんか。殿下に婚約を破棄された私は傷物、言ってしまえば、今が底値です。貴族令嬢として最低の価値しかない。その状態で市場に売り出すなど、あり得ません」
口にするのは自身の価値。父には、情ではなく計算で決定を覆してもらうしかない。
「私自身の意地としてもそうですが、ウィンクラーとしても許せるものではありません。こちらの足元を見て集る輩に嫁ぐなど。嫁ぐなら己の価値を高めてから、ウィンクラーとしての誇りを取り戻してからと考えています」
「……それが学園の首席卒業だというのか?」
「はい。最も分かりやすい指標の一つですから」
こちらの提案に考え込む様子を見せた父の判断を待つ。
(絵空事、と言うほど遠くはないはずよ)
幸いなことに、学園卒業時の首席は三年時の成績だけで決まる。卒業までの一年間に行われる二度の試験に加えて、卒業演習である御前試合で好成績を残せれば、首席を取れる可能性は十分にあった。
暫くの沈黙の後、父が口を開く。
「分かった、やってみろ」
「っ! ありがとうございます」
サラリと告げられた言葉に身体中の血が沸騰した。
大きな賭けに勝った。緊張から解き放たれた身体が息を吹き返す。同時に、自身が口にした「首席卒業」という高い壁に挑むことへの高揚、自身の努力次第で未来が変わる可能性に、心臓が痛いくらいの鼓動を刻み始める。
「ただし、条件をいくつかつける」
「条件、ですか?」
ドクドクと耳元でうるさい自身の脈を感じながら、父の言葉を聞き返した。
「期末の考査に関しては、必ず首位を取れ。前期で首位をとれなければ、その時点で退学させる」
「分かりました」
「これ以上、お前に無駄な金をかけるつもりはない。侍女は引き上げさせる。家庭教師もなしだ。やるというなら、己一人の力で成し遂げてみせろ」
「はい」
元よりそのつもりではあった。日常生活の補助をしてくれる侍女を取り上げられるのは痛いが、前世を思い出した今なら、やってやれないことはない。
了承の返事に、父が頷き返す。
「ウィンクラーは、殿下の不興を買ったお前を切り捨てる。最後の情として学園は卒業させてやるが、貴族令嬢としての扱いはしない。……そういうことだ」
「承知、しました」
「身を慎め。これ以上、殿下の不興を買うような真似はするな」
頷いて、最後にもう一度、礼を口にした。
辛うじて閉ざされることのなかった未来、それを切り開いていくのはここから。これから先の道を、自分一人の力で進まなければならない。
父の書斎を出た頃には日が暮れかけていた。そのまま公爵邸に泊まることが許されたのは、それも「最後の情」ということなのだろう。
入れ替わるようにして父の書斎に呼ばれた兄とは夕食の席で顔を合わせることもなく、その後は就寝のため自室へ引っ込んだので言葉を交わすことはなかった。
私の処遇について父から聞かされるのだろうが、彼がどう反応するか。それが気にならないと言ったら嘘になる。
(……大丈夫、絶対、大丈夫)
寝支度を済ませて倒れ込んだ寝台。今日一日の疲労がどっと押し寄せてきた。
目をつぶると、脳裏を巡る場面、複数から向けられる敵意、怒り、こちらを害そうとする明確な意思。向けられた鉄の刃の鈍い輝きを思い出して、今更ながら自分の身体を抱き締める。
(ソフィアは、こんなものをずっと向けられてたのか)
それは確かにキツかっただろう。だけど、同情はしないし、罪悪感も抱きたくはない。
殿下の傍にいることを選んだのは彼女自身。辛いなら、嫌なら、殿下から離れれば良かっただけのこと。
そう思うのは公爵令嬢としての私の意識。その一方で、僅かな罪悪感と共に、それほどまでに殿下を想えるソフィアを凄いと感じた。
(この感情は、きっと前世の私の意識のせいね)
婚約破棄を告げられたショックで思い出したのは、乙女ゲーム『蒼穹の輪舞』を中心とするものばかりで、はっきり「私」というものを思い出したわけではない。日本という国やゲームといった存在、転生という概念や、『蒼穹の輪舞』をプレイしたという記憶はあるものの、肝心の自分自身に関する記憶が見当たらなかった。
(乙女ゲームをプレイしていた時点で、多分、女だった、ということは分かるのに)
では、歳は? 仕事は? 家族は? そんな記憶は、まったく蘇らない。
(でも、今はそんなことは重要じゃないから、いい)
今、情報として必要なのは『蒼穹の輪舞』に関することだけ。ただそれも、婚約破棄が成された後では無用の長物かもしれなかった。
(ゲーム通りなら卒業式典で婚約破棄、式典後のパーティでソフィアの正体が明かされ、殿下との婚約が発表されて、ゲーム終了。最後に、二人の結婚式のシーンがあった気もするけれど……)
実際の婚約破棄は式の一週間前だった。
時期がズレた理由として、ここがゲームとは違う世界だという可能性や、ヒロインであるソフィアもまた転生者なのではないかという推測が浮かぶ。
「……まあ、だとしても、もう関係ない、か」
暗い部屋に、自身の呟きがこぼれる。
本来なら、王太子の婚約者として式典に参加し、式典後のパーティに彼と出席するのは私のはずだった。既にドレスは仕立て済みだが、この先、殿下の色味に合わせて作られたそれが日の目を見ることはない。
不意に、涙が込み上げてくる。
涙の理由は自分でも分からない。王太子妃になれなかった悔しさだろうか。殿下を愛していたわけではないけれど、王太子妃になるために積み上げた努力は嘘ではない。それらが無駄になったことは心の底から悔しい。
(……馬鹿みたい)
愛していたわけでもない人を失って泣いている自分がおかしかった。
私はただ、王太子妃、将来の王妃としてこの国のトップに立ちたかっただけ。ただ、その夢が潰えただけなのに――
(大体、私、王太子妃になって、その後は何をしたかったんだろう)
前世の記憶が蘇るまでの私、クリスティーナ・ウィンクラーには、そこから先の「何か」がなかった。ただ、この国の女性のトップに立つ。それが、最終目標になってしまっていた。
(昔、子どもの頃はどうだったっけ?)
殿下の婚約者に選ばれた時、「将来、殿下の隣に立つのはお前だ」と言われた私は、殿下の隣で何をするつもりだった――?
「忘れちゃった……」
横になったまま、閉じた瞼に拳を押し付ける。忘れてしまった過去に別れを告げた。
(もう忘れた。もう思い出さない。今考えないといけないのは、これからのことだから)
父に誓った新たな目標は実現可能ではあるが、決して容易いものではない。幸いにも、自分は殿下の婚約者を降ろされた身、今まで王太子妃教育に当てていた時間を自由に使える。
皮肉な思いに、口元が歪んだ。こんな歪な笑みを浮かべる女は、到底、王太子妃に相応しくない。けれど、それが今の私、クリスティーナ・ウィンクラーなのだ。
◇ ◇ ◇
公爵邸から学園の寮に戻ったその日から、私の生活は一変した。
「あら? どなたかと思えば、クリスティーナ様? ごめんなさい。あまりにみすぼらしかったので気付きませんでした」
寮内の食堂、登校前の朝食の時間に一人食事を終えたところで、悪意ある言葉を投げつけられる。顔を上げた先には、昂然と胸を張るリッケルト侯爵令嬢テレーゼとその友人たちが立っていた。
「嫌だ。公爵令嬢ともなると、殿下に婚約を破棄されても平気な顔をしていられるのね。私なら、恥ずかしくてこの場になんていられないわ」
「あら、でも、確かクリスティーナ様はウィンクラー家を放逐されたのじゃなかったかしら? 公爵令嬢とお呼びするのも障りがあるわね」
私が寮に戻った日から始まったテレーゼたちの嫌がらせは、ただ、毎回、同じような言葉をネチネチと繰り返すだけのもの。三日も続けば、いい加減、付き合うのも馬鹿らしくなる。自身の味方がまったくいない状況では、黙ってやり過ごすのが最も面倒が少ない。
(まぁおかげで、学園の噂については大体、把握できたわね)
彼女たちによると、私が殿下に婚約を破棄されたこと、その理由が殿下の不興を買ったからであること、そして、私が公爵家からも見放されていること、この三点に関しては、確定事項として噂になっているらしい。
「ユリウス様もお可哀想に。こんな女が血を分けた妹だなんて」
「本当に。ユリウス様は妹の不始末を殿下に謝罪なさったそうよ」
「まぁ! 家にここまで迷惑をかけて平然としていられるなんて、本当に、なんて浅ましい」
私と殿下の婚約破棄について、正式な発表は未だされていない。それにもかかわらず、これほど早く「確度の高い情報」として噂が出回ったのは、殿下側がそう動いたからだろう。
態々、破棄の原因が「殿下の不興」と付加されているのは、ソフィアを守るため。彼がソフィアを寵愛していることも私がソフィアを排斥しようとしていたことも周知の事実なので、誰もが、それが婚約破棄の原因だと考える。ソフィアの血筋が明かされぬ中にあって、その噂は彼女の盾となるだろう。
現に、今の学園でソフィアに手を出そうとするものはいない。自身の派閥にあった者たちだけでなくテレーゼたちも、ソフィアに関しては表立った行動を起こせずにいた。
「私、以前より、クリスティーナ様がアレクシス殿下に相応しいとは思えませんでした」
「ええ。私も。殿下に相応しい方は、家柄、血筋は当然のこと、誰よりも美しく、教養に優れた方、やはり、テレーゼ様のような方でなくては」
「まぁ! 貴女たちったら」
分かりやすい世辞にテレーゼが笑みを浮かべる。
彼女たちがこうして私にちょっかいをかけるのは、手の出せないソフィアの代わりに私を利用し、殿下の傍にいるソフィアを牽制するという目的もあるのだろう。
(それはそれで、下策だと思うけれど)
言わせてもらえば、彼女たちは私にかかずらっている場合ではない。彼女たちが今とるべき行動は、ソフィアに阿ることだ。
それをしない、できないのは、彼女たちのプライドの高さ故か、もしくは本気で王太子妃の座を諦めていないからなのか。かつては、殿下の婚約者としてテレーゼからのやっかみを受け続けた身だ。彼女の殿下への執着は私が誰よりも知っている。
(それも、もう私には関係ない話だけど……)
目の前で続く益体もない会話に見切りをつけて立ち上がろうとしたところで、背後から冷たい衝撃に襲われた。
(っ!? いったい、何が……?)
「あら、まぁ、大変! クリスティーナ様ったら、水浸しね」
「そのようなお姿もお似合いではありますが、この場には相応しくありませんね。さっさと退出なさったらいかが?」
頭の上に感じる濡れた気配。額や首筋を流れ落ちていったものが服を濡らす。咄嗟に動けずにいると、髪から垂れた水滴がテーブルの上にシミを作っていく。
背後から悲鳴のような声が上がった。
「も、申し訳ありません、クリスティーナ様、私、私!」
振り返った先、見慣れた顔があったことに驚く。カトリナ・ヘリング――顔面を蒼白にし、手にした空のグラスを取り落としたのは、かつて自身の「友」であったはずの少女だった。
彼女の視線が、私とテレーゼたちの間で行き来する。その怯えた眼差しに事態を呑み込み、私は無言で立ち上がった。
「ク、クリスティーナ様……」
「あら? 野良犬は野良犬らしく、場を弁えることにしたのかしら?」
カトリナの小さな声とテレーゼの揶揄を背に、手にしたトレーを持って歩き出す。頬に張り付く髪と濡れた服が不快だ。いくつもの嘲りと侮蔑の視線の間を縫って進む。その時、視界の先、目に映った人物の姿にふと好奇心が浮かんだ。
今の私の状況に、彼女はどう反応するのだろうか――?
通りすぎる途中で、歩みを止めてみる。
「え、クリスティーナさんっ!?」
見下ろす先には、驚きに見開かれた蒼穹の瞳があった。けれど、視線が合ったのは一瞬のこと。すぐに視線を逸らし俯いた彼女を観察する。
その横顔に浮かんでいるのは後ろめたさだろうか。何も言わない彼女の姿を認めて、私は再び歩き出す。
(……良かった)
私の窮状にソフィアは動かなかった。見ない振りをした。
そのことに、言い表せないほどの安堵を感じて、知らず口角が上がった。
食堂を出た後、濡れ鼠の状態で、私は自室への廊下を急いだ。
始業まで時間がない。辿り着いた部屋で、脱ぎ着の厄介な服から何とか一人で抜け出し、新しい服に袖を通す。とは言っても、手持ちの服は公爵令嬢に相応しいようにと仕立てられたものばかり。どれだけシンプルなものを選ぼうと、自力で着脱できるようには作られていない。
「ああ、もう!」
迫る始業時間に気持ちが焦る。背中の留め具をいくつか先に留めてから必死で身体を押し込んだ。残りの留め具に精一杯手を伸ばしても、なかなか上手くいかない。
視線を横に向ける。そこにある鏡を見ながら留め具を嵌めようとして、目にしたものに手が止まった。
(……なんて、見苦しい)
鏡に映るのは、生気のない顔をした女。化粧の取れかけた顔に濡れて崩れた髪を張り付かせ、不恰好に服を纏っている。
惨めで情けない姿、そう判ずるのは公爵令嬢である私。
その惨めさに目の奥が熱くなるのは、前世の私に引っ張られているせいで、クリスティーナ・ウィンクラーが、この程度のことで涙するなどあり得ない。
(大丈夫よ。授業にはまだ間に合う。落ち着いて)
そう自身に言い聞かせて、先に髪を纏める。数日前までは常に侍女の手によって複雑に結い上げられていた髪だが、今は大ぶりのバレッタで留めるだけにしていた。留めた髪の下で背中に手を伸ばす。今度は上手く嵌った留め具にほっとして、正面から鏡に向く。
(酷い顔)
婚約破棄以来、食欲が落ち、眠りも浅い。血色の悪さを隠すための厚い化粧も、水を浴びたせいで殆ど剥げ落ちていた。手早く修正を加えながら、自身をこんな目に遭わせたカトリナを思う。
(さっきの状況からすると、カトリナはテレーゼについたということね)
私が貴族令嬢としての価値を失った今、彼女が新たな拠りどころを得ようと動くのは正しい判断だ。ウィンクラーと敵対するリッケルトについたことは予想外だったが、そこはおそらく、ヘリング伯の判断によるもの。家として、ウィンクラーを捨ててリッケルトにつくことを選んだのだろう。
(或いは、切り捨てたのは父のほうなのかも)
カトリナは殿下の側近候補であるイェルク・ミューレンと政略上の婚約を結んでいた。その婚約も、私の婚約破棄と同時に解消されている。彼女がソフィアに行った嫌がらせの数々をイェルク自身の手で暴かれてしまったので、避けようがなかった。ただ、彼女が学園を去らずに済み、婚約が破棄でなく「解消」となった裏には、イェルク側と取引があったのではと考えている。
(たとえば、『嫌がらせは私の指示で行った』と証言するとか……?)
殿下の思考とイェルクの手腕があれば、その程度の偽証はあり得る。実際、カトリナに証言されれば、偽証だと証明するのは難しく、状況的にあり得ると判断される可能性が高い。
ただ、それは明らかなウィンクラーへの裏切り。父が知ったら、決してヘリングを許さないだろう。
鏡に映る自分をもう一度眺める。全体的に貧相であることは否めないが、厚く化粧を重ねたことで顔色を誤魔化すことはできた。
(これからは、なるべく化粧品も節約しないと)
家からの援助が絶えた今、私には自由になるお金がない。今までのように化粧品に湯水のようにお金をかけることはできなくなった。顔色が戻れば、化粧の仕方を変える必要がある。
前世の感覚なら、十七という歳でそこまで化粧に拘る必要もないと思えるが、見栄と体裁を気にする世界では侮られる要因となることもまた事実。
(それこそ、主人公くらいの美しさがなければね)
化粧の類いを一切せずに、それでも愛らしい美しさを保つ少女を思いながら立ち上がる。時計を確認してから部屋を出た。
既に人気のない廊下を見て、少々気持ちが急く。
(本当に時間の無駄ね……)
今の自分が置かれた状況、周囲の煩わしさに気分が落ち込む。けれどそれも、食堂で見たソフィアの姿を思い起こすと、僅に前向きになれた。
今や強者の立場であるソフィア。彼女の言葉は誰も無視できないことを彼女も周囲も理解している。あの場で彼女が少しでも私を庇えば、場の空気は変わっていただろう。けれど、ソフィアは何も言わなかった。
口元に満足の笑みが浮かぶ。
(本当に良かった。もし、あそこで彼女に助けられでもしていたら……)
私は負けを認めずにはいられなかった――
もしも彼女が、自身を害した相手さえ庇うような「正しい選択」をする相手だったら、私は諦めるしかない。彼女は一生越えられない壁、遥か高みの存在だと認め、自分の犯した罪を一生悔いて生きるだけだっただろう。
けれど、彼女は自分と同じ「人間」だった。見たくないものには目を閉じ、敵対する相手は切り捨てる。そういう普通の感情を持った、普通の選択をするただの人――
(だったら、まだ戦える……)
まだ手が届く、同じ土俵に立てる。彼女は、決して、「正しい選択」をするだけの天上人ではない。
私の所属する淑女科の授業は座学が中心で、演習は殆ど行われない。魔術などの科目も一応は存在するが、実技があるのは裁縫などの家政くらいのもの。つまり、授業が始まれば、直接的な嫌がらせを受ける心配はなかった。
一時間目の始業にも何とか間に合い――入室の際に、同級であるテレーゼたちからの嘲笑は受けたものの、私は午前の授業を無事に終える。
授業が終わると同時に淑女科の教室を出た。テレーゼたちの干渉が煩わしかったのもあるが、一つの目的があって食堂に向かう。
以前は、昼食はサロンで友人たちととるのが常で、時間や周囲を気にすることなくゆったりと過ごしていた。だが、それは殿下の婚約者だからこそ許されていた特権。公爵家の財力を用いた贅沢な時間は、最早過去のものでしかない。
(今では食費にも事欠く有様だもの。食堂が無料で助かった)
でなければ、昼食抜きの毎日に、いずれは身体を壊していただろう。食堂に着き、周囲を見回す。
(……今日もいないみたい)
ここ数日、毎日食堂に通い続けているのは、会いたい人物がいるからだ。
正確に言えば、彼女とは寮で毎日顔を合わせており、現に今朝も顔を合わせたばかりだった。それでも、彼女とはこの場で会うことに意味がある。
目的の人物が見つからない代わりに、周囲からはいくつもの好奇の視線を向けられていた。嘲笑も投げつけられる侮蔑の言葉も、気付かぬ振りで前を向く。
食堂を出ていこうとしていた男子生徒を避けようとして、すれ違いざまに肩をぶつけられる。
「おっと、申し訳ない、クリスティーナ嬢。まさか、貴女がこんなところにいらっしゃるとは思わなかったもので」
おそらく騎士科の生徒だろう。貴族階級ではない男の揶揄に、男と一緒にいた友人たちが笑い声を上げた。それを黙ってやり過ごす。こちらが何の反応もしないので、男たちは肩をすくめて去っていった。
部屋の隅に身を寄せ、ジリジリと焦る気持ちを押し込めて待ち人が現れるのをひたすら待つ。
(もし、明日までに現れなかったら……)
その時は次善策、女子寮での決行を余儀なくされる。だが、できればこの場、衆人環視の中で行いたい。彼女の隣に彼らがいる時に――
突如、食堂の空気が騒めいた。こちらに向けられていた突き刺さるような視線が離れていく。彼らの視線が向かうのは、いくつも並んだテーブルを挟んだ反対側、魔術科棟に続く出入り口だ。
(来た……!)
視界にストロベリーブロンドの髪が映る。アレクシス殿下と並んだソフィアが食堂に入ってきた。彼らの背後に付き従うのはイェルクとギレス。加えて、今はそこに兄ユリウスの姿もある。
(ウィンクラーと王家の蜜月を示すため、か)
それでも、あがいてみせる。
「お待ちください、お父様。私は、学園を辞めません」
このまま何もせずに終わらせるつもりはない。
父への抗命に、目の前のアイスブルーの眼差しが鋭くなる。
「私の決定に逆らうつもりか?」
父に対する、初めての抵抗かもしれない。今や、父の瞳に見えるのは冷たい怒りだ。
父にとってはただの道具、思い通りに配置できるはずの駒が、駒であることを放棄した。その怒りは如何ほどのものか。その冷たさに、心臓の音が速くなる。
「私の命に従わぬなら、今すぐ出ていけ。金輪際、ウィンクラーの名を名乗るな。その覚悟もなしに逆らったというのなら、お前は愚かだ。思考などせず、私の命にだけ従っていればいい」
「お父様、私は『お待ちください』と申し上げました」
私の言葉に父の瞳は胡乱なまま。先を促されて、答えを口にする。
「お父様の命に従えないのは半分だけ、学園を辞めるという点に関してだけです。私とてウィンクラーの娘。殿下との婚約が破棄された今、いずれは家のための婚姻を結ぶことに否やはありません」
実際、今まで結ばれていた王太子との婚約もそうだった。王太子の後ろ盾を欲した王家と、国の護りを第一義に王家との繋がりを欲したウィンクラーとの間で成された契約。そこに、当人である私たちの意思は存在しない。
それでも、共に過ごす時間の内で確かな敬意と親愛が育っていたはずだったが――
(多分、私と殿下では、根源的に求めるものが違った……)
同じく政略で結ばれた国王夫妻は、そうとは思えぬほどに仲睦まじく、アレクシス殿下はそんな両親の姿を見て育っている。
一方、前世の記憶を取り戻すまで、私には「夫婦」というものの在り様がよく分かっていなかった。王太子妃という「役目」なら分かる。何をするべきなのかも。けれど、殿下の「妻」としての自身を思い描くことはできなかった。だから、当然のように、ソフィアを排除するべきものだと見なしたのだ。彼女はこの国の治世に必要ない。
(今なら、単に、愛する人と結ばれたいだけという気持ちも理解できるけれど)
それは、今の私にとっては望めない未来。ただ、望めなくとも、諦められないこともある。
「お父様、私、学園を首席で卒業いたします」
「何だと?」
父の不審の声に、私は胸を張った。
「だって、馬鹿らしいではありませんか。殿下に婚約を破棄された私は傷物、言ってしまえば、今が底値です。貴族令嬢として最低の価値しかない。その状態で市場に売り出すなど、あり得ません」
口にするのは自身の価値。父には、情ではなく計算で決定を覆してもらうしかない。
「私自身の意地としてもそうですが、ウィンクラーとしても許せるものではありません。こちらの足元を見て集る輩に嫁ぐなど。嫁ぐなら己の価値を高めてから、ウィンクラーとしての誇りを取り戻してからと考えています」
「……それが学園の首席卒業だというのか?」
「はい。最も分かりやすい指標の一つですから」
こちらの提案に考え込む様子を見せた父の判断を待つ。
(絵空事、と言うほど遠くはないはずよ)
幸いなことに、学園卒業時の首席は三年時の成績だけで決まる。卒業までの一年間に行われる二度の試験に加えて、卒業演習である御前試合で好成績を残せれば、首席を取れる可能性は十分にあった。
暫くの沈黙の後、父が口を開く。
「分かった、やってみろ」
「っ! ありがとうございます」
サラリと告げられた言葉に身体中の血が沸騰した。
大きな賭けに勝った。緊張から解き放たれた身体が息を吹き返す。同時に、自身が口にした「首席卒業」という高い壁に挑むことへの高揚、自身の努力次第で未来が変わる可能性に、心臓が痛いくらいの鼓動を刻み始める。
「ただし、条件をいくつかつける」
「条件、ですか?」
ドクドクと耳元でうるさい自身の脈を感じながら、父の言葉を聞き返した。
「期末の考査に関しては、必ず首位を取れ。前期で首位をとれなければ、その時点で退学させる」
「分かりました」
「これ以上、お前に無駄な金をかけるつもりはない。侍女は引き上げさせる。家庭教師もなしだ。やるというなら、己一人の力で成し遂げてみせろ」
「はい」
元よりそのつもりではあった。日常生活の補助をしてくれる侍女を取り上げられるのは痛いが、前世を思い出した今なら、やってやれないことはない。
了承の返事に、父が頷き返す。
「ウィンクラーは、殿下の不興を買ったお前を切り捨てる。最後の情として学園は卒業させてやるが、貴族令嬢としての扱いはしない。……そういうことだ」
「承知、しました」
「身を慎め。これ以上、殿下の不興を買うような真似はするな」
頷いて、最後にもう一度、礼を口にした。
辛うじて閉ざされることのなかった未来、それを切り開いていくのはここから。これから先の道を、自分一人の力で進まなければならない。
父の書斎を出た頃には日が暮れかけていた。そのまま公爵邸に泊まることが許されたのは、それも「最後の情」ということなのだろう。
入れ替わるようにして父の書斎に呼ばれた兄とは夕食の席で顔を合わせることもなく、その後は就寝のため自室へ引っ込んだので言葉を交わすことはなかった。
私の処遇について父から聞かされるのだろうが、彼がどう反応するか。それが気にならないと言ったら嘘になる。
(……大丈夫、絶対、大丈夫)
寝支度を済ませて倒れ込んだ寝台。今日一日の疲労がどっと押し寄せてきた。
目をつぶると、脳裏を巡る場面、複数から向けられる敵意、怒り、こちらを害そうとする明確な意思。向けられた鉄の刃の鈍い輝きを思い出して、今更ながら自分の身体を抱き締める。
(ソフィアは、こんなものをずっと向けられてたのか)
それは確かにキツかっただろう。だけど、同情はしないし、罪悪感も抱きたくはない。
殿下の傍にいることを選んだのは彼女自身。辛いなら、嫌なら、殿下から離れれば良かっただけのこと。
そう思うのは公爵令嬢としての私の意識。その一方で、僅かな罪悪感と共に、それほどまでに殿下を想えるソフィアを凄いと感じた。
(この感情は、きっと前世の私の意識のせいね)
婚約破棄を告げられたショックで思い出したのは、乙女ゲーム『蒼穹の輪舞』を中心とするものばかりで、はっきり「私」というものを思い出したわけではない。日本という国やゲームといった存在、転生という概念や、『蒼穹の輪舞』をプレイしたという記憶はあるものの、肝心の自分自身に関する記憶が見当たらなかった。
(乙女ゲームをプレイしていた時点で、多分、女だった、ということは分かるのに)
では、歳は? 仕事は? 家族は? そんな記憶は、まったく蘇らない。
(でも、今はそんなことは重要じゃないから、いい)
今、情報として必要なのは『蒼穹の輪舞』に関することだけ。ただそれも、婚約破棄が成された後では無用の長物かもしれなかった。
(ゲーム通りなら卒業式典で婚約破棄、式典後のパーティでソフィアの正体が明かされ、殿下との婚約が発表されて、ゲーム終了。最後に、二人の結婚式のシーンがあった気もするけれど……)
実際の婚約破棄は式の一週間前だった。
時期がズレた理由として、ここがゲームとは違う世界だという可能性や、ヒロインであるソフィアもまた転生者なのではないかという推測が浮かぶ。
「……まあ、だとしても、もう関係ない、か」
暗い部屋に、自身の呟きがこぼれる。
本来なら、王太子の婚約者として式典に参加し、式典後のパーティに彼と出席するのは私のはずだった。既にドレスは仕立て済みだが、この先、殿下の色味に合わせて作られたそれが日の目を見ることはない。
不意に、涙が込み上げてくる。
涙の理由は自分でも分からない。王太子妃になれなかった悔しさだろうか。殿下を愛していたわけではないけれど、王太子妃になるために積み上げた努力は嘘ではない。それらが無駄になったことは心の底から悔しい。
(……馬鹿みたい)
愛していたわけでもない人を失って泣いている自分がおかしかった。
私はただ、王太子妃、将来の王妃としてこの国のトップに立ちたかっただけ。ただ、その夢が潰えただけなのに――
(大体、私、王太子妃になって、その後は何をしたかったんだろう)
前世の記憶が蘇るまでの私、クリスティーナ・ウィンクラーには、そこから先の「何か」がなかった。ただ、この国の女性のトップに立つ。それが、最終目標になってしまっていた。
(昔、子どもの頃はどうだったっけ?)
殿下の婚約者に選ばれた時、「将来、殿下の隣に立つのはお前だ」と言われた私は、殿下の隣で何をするつもりだった――?
「忘れちゃった……」
横になったまま、閉じた瞼に拳を押し付ける。忘れてしまった過去に別れを告げた。
(もう忘れた。もう思い出さない。今考えないといけないのは、これからのことだから)
父に誓った新たな目標は実現可能ではあるが、決して容易いものではない。幸いにも、自分は殿下の婚約者を降ろされた身、今まで王太子妃教育に当てていた時間を自由に使える。
皮肉な思いに、口元が歪んだ。こんな歪な笑みを浮かべる女は、到底、王太子妃に相応しくない。けれど、それが今の私、クリスティーナ・ウィンクラーなのだ。
◇ ◇ ◇
公爵邸から学園の寮に戻ったその日から、私の生活は一変した。
「あら? どなたかと思えば、クリスティーナ様? ごめんなさい。あまりにみすぼらしかったので気付きませんでした」
寮内の食堂、登校前の朝食の時間に一人食事を終えたところで、悪意ある言葉を投げつけられる。顔を上げた先には、昂然と胸を張るリッケルト侯爵令嬢テレーゼとその友人たちが立っていた。
「嫌だ。公爵令嬢ともなると、殿下に婚約を破棄されても平気な顔をしていられるのね。私なら、恥ずかしくてこの場になんていられないわ」
「あら、でも、確かクリスティーナ様はウィンクラー家を放逐されたのじゃなかったかしら? 公爵令嬢とお呼びするのも障りがあるわね」
私が寮に戻った日から始まったテレーゼたちの嫌がらせは、ただ、毎回、同じような言葉をネチネチと繰り返すだけのもの。三日も続けば、いい加減、付き合うのも馬鹿らしくなる。自身の味方がまったくいない状況では、黙ってやり過ごすのが最も面倒が少ない。
(まぁおかげで、学園の噂については大体、把握できたわね)
彼女たちによると、私が殿下に婚約を破棄されたこと、その理由が殿下の不興を買ったからであること、そして、私が公爵家からも見放されていること、この三点に関しては、確定事項として噂になっているらしい。
「ユリウス様もお可哀想に。こんな女が血を分けた妹だなんて」
「本当に。ユリウス様は妹の不始末を殿下に謝罪なさったそうよ」
「まぁ! 家にここまで迷惑をかけて平然としていられるなんて、本当に、なんて浅ましい」
私と殿下の婚約破棄について、正式な発表は未だされていない。それにもかかわらず、これほど早く「確度の高い情報」として噂が出回ったのは、殿下側がそう動いたからだろう。
態々、破棄の原因が「殿下の不興」と付加されているのは、ソフィアを守るため。彼がソフィアを寵愛していることも私がソフィアを排斥しようとしていたことも周知の事実なので、誰もが、それが婚約破棄の原因だと考える。ソフィアの血筋が明かされぬ中にあって、その噂は彼女の盾となるだろう。
現に、今の学園でソフィアに手を出そうとするものはいない。自身の派閥にあった者たちだけでなくテレーゼたちも、ソフィアに関しては表立った行動を起こせずにいた。
「私、以前より、クリスティーナ様がアレクシス殿下に相応しいとは思えませんでした」
「ええ。私も。殿下に相応しい方は、家柄、血筋は当然のこと、誰よりも美しく、教養に優れた方、やはり、テレーゼ様のような方でなくては」
「まぁ! 貴女たちったら」
分かりやすい世辞にテレーゼが笑みを浮かべる。
彼女たちがこうして私にちょっかいをかけるのは、手の出せないソフィアの代わりに私を利用し、殿下の傍にいるソフィアを牽制するという目的もあるのだろう。
(それはそれで、下策だと思うけれど)
言わせてもらえば、彼女たちは私にかかずらっている場合ではない。彼女たちが今とるべき行動は、ソフィアに阿ることだ。
それをしない、できないのは、彼女たちのプライドの高さ故か、もしくは本気で王太子妃の座を諦めていないからなのか。かつては、殿下の婚約者としてテレーゼからのやっかみを受け続けた身だ。彼女の殿下への執着は私が誰よりも知っている。
(それも、もう私には関係ない話だけど……)
目の前で続く益体もない会話に見切りをつけて立ち上がろうとしたところで、背後から冷たい衝撃に襲われた。
(っ!? いったい、何が……?)
「あら、まぁ、大変! クリスティーナ様ったら、水浸しね」
「そのようなお姿もお似合いではありますが、この場には相応しくありませんね。さっさと退出なさったらいかが?」
頭の上に感じる濡れた気配。額や首筋を流れ落ちていったものが服を濡らす。咄嗟に動けずにいると、髪から垂れた水滴がテーブルの上にシミを作っていく。
背後から悲鳴のような声が上がった。
「も、申し訳ありません、クリスティーナ様、私、私!」
振り返った先、見慣れた顔があったことに驚く。カトリナ・ヘリング――顔面を蒼白にし、手にした空のグラスを取り落としたのは、かつて自身の「友」であったはずの少女だった。
彼女の視線が、私とテレーゼたちの間で行き来する。その怯えた眼差しに事態を呑み込み、私は無言で立ち上がった。
「ク、クリスティーナ様……」
「あら? 野良犬は野良犬らしく、場を弁えることにしたのかしら?」
カトリナの小さな声とテレーゼの揶揄を背に、手にしたトレーを持って歩き出す。頬に張り付く髪と濡れた服が不快だ。いくつもの嘲りと侮蔑の視線の間を縫って進む。その時、視界の先、目に映った人物の姿にふと好奇心が浮かんだ。
今の私の状況に、彼女はどう反応するのだろうか――?
通りすぎる途中で、歩みを止めてみる。
「え、クリスティーナさんっ!?」
見下ろす先には、驚きに見開かれた蒼穹の瞳があった。けれど、視線が合ったのは一瞬のこと。すぐに視線を逸らし俯いた彼女を観察する。
その横顔に浮かんでいるのは後ろめたさだろうか。何も言わない彼女の姿を認めて、私は再び歩き出す。
(……良かった)
私の窮状にソフィアは動かなかった。見ない振りをした。
そのことに、言い表せないほどの安堵を感じて、知らず口角が上がった。
食堂を出た後、濡れ鼠の状態で、私は自室への廊下を急いだ。
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「ああ、もう!」
迫る始業時間に気持ちが焦る。背中の留め具をいくつか先に留めてから必死で身体を押し込んだ。残りの留め具に精一杯手を伸ばしても、なかなか上手くいかない。
視線を横に向ける。そこにある鏡を見ながら留め具を嵌めようとして、目にしたものに手が止まった。
(……なんて、見苦しい)
鏡に映るのは、生気のない顔をした女。化粧の取れかけた顔に濡れて崩れた髪を張り付かせ、不恰好に服を纏っている。
惨めで情けない姿、そう判ずるのは公爵令嬢である私。
その惨めさに目の奥が熱くなるのは、前世の私に引っ張られているせいで、クリスティーナ・ウィンクラーが、この程度のことで涙するなどあり得ない。
(大丈夫よ。授業にはまだ間に合う。落ち着いて)
そう自身に言い聞かせて、先に髪を纏める。数日前までは常に侍女の手によって複雑に結い上げられていた髪だが、今は大ぶりのバレッタで留めるだけにしていた。留めた髪の下で背中に手を伸ばす。今度は上手く嵌った留め具にほっとして、正面から鏡に向く。
(酷い顔)
婚約破棄以来、食欲が落ち、眠りも浅い。血色の悪さを隠すための厚い化粧も、水を浴びたせいで殆ど剥げ落ちていた。手早く修正を加えながら、自身をこんな目に遭わせたカトリナを思う。
(さっきの状況からすると、カトリナはテレーゼについたということね)
私が貴族令嬢としての価値を失った今、彼女が新たな拠りどころを得ようと動くのは正しい判断だ。ウィンクラーと敵対するリッケルトについたことは予想外だったが、そこはおそらく、ヘリング伯の判断によるもの。家として、ウィンクラーを捨ててリッケルトにつくことを選んだのだろう。
(或いは、切り捨てたのは父のほうなのかも)
カトリナは殿下の側近候補であるイェルク・ミューレンと政略上の婚約を結んでいた。その婚約も、私の婚約破棄と同時に解消されている。彼女がソフィアに行った嫌がらせの数々をイェルク自身の手で暴かれてしまったので、避けようがなかった。ただ、彼女が学園を去らずに済み、婚約が破棄でなく「解消」となった裏には、イェルク側と取引があったのではと考えている。
(たとえば、『嫌がらせは私の指示で行った』と証言するとか……?)
殿下の思考とイェルクの手腕があれば、その程度の偽証はあり得る。実際、カトリナに証言されれば、偽証だと証明するのは難しく、状況的にあり得ると判断される可能性が高い。
ただ、それは明らかなウィンクラーへの裏切り。父が知ったら、決してヘリングを許さないだろう。
鏡に映る自分をもう一度眺める。全体的に貧相であることは否めないが、厚く化粧を重ねたことで顔色を誤魔化すことはできた。
(これからは、なるべく化粧品も節約しないと)
家からの援助が絶えた今、私には自由になるお金がない。今までのように化粧品に湯水のようにお金をかけることはできなくなった。顔色が戻れば、化粧の仕方を変える必要がある。
前世の感覚なら、十七という歳でそこまで化粧に拘る必要もないと思えるが、見栄と体裁を気にする世界では侮られる要因となることもまた事実。
(それこそ、主人公くらいの美しさがなければね)
化粧の類いを一切せずに、それでも愛らしい美しさを保つ少女を思いながら立ち上がる。時計を確認してから部屋を出た。
既に人気のない廊下を見て、少々気持ちが急く。
(本当に時間の無駄ね……)
今の自分が置かれた状況、周囲の煩わしさに気分が落ち込む。けれどそれも、食堂で見たソフィアの姿を思い起こすと、僅に前向きになれた。
今や強者の立場であるソフィア。彼女の言葉は誰も無視できないことを彼女も周囲も理解している。あの場で彼女が少しでも私を庇えば、場の空気は変わっていただろう。けれど、ソフィアは何も言わなかった。
口元に満足の笑みが浮かぶ。
(本当に良かった。もし、あそこで彼女に助けられでもしていたら……)
私は負けを認めずにはいられなかった――
もしも彼女が、自身を害した相手さえ庇うような「正しい選択」をする相手だったら、私は諦めるしかない。彼女は一生越えられない壁、遥か高みの存在だと認め、自分の犯した罪を一生悔いて生きるだけだっただろう。
けれど、彼女は自分と同じ「人間」だった。見たくないものには目を閉じ、敵対する相手は切り捨てる。そういう普通の感情を持った、普通の選択をするただの人――
(だったら、まだ戦える……)
まだ手が届く、同じ土俵に立てる。彼女は、決して、「正しい選択」をするだけの天上人ではない。
私の所属する淑女科の授業は座学が中心で、演習は殆ど行われない。魔術などの科目も一応は存在するが、実技があるのは裁縫などの家政くらいのもの。つまり、授業が始まれば、直接的な嫌がらせを受ける心配はなかった。
一時間目の始業にも何とか間に合い――入室の際に、同級であるテレーゼたちからの嘲笑は受けたものの、私は午前の授業を無事に終える。
授業が終わると同時に淑女科の教室を出た。テレーゼたちの干渉が煩わしかったのもあるが、一つの目的があって食堂に向かう。
以前は、昼食はサロンで友人たちととるのが常で、時間や周囲を気にすることなくゆったりと過ごしていた。だが、それは殿下の婚約者だからこそ許されていた特権。公爵家の財力を用いた贅沢な時間は、最早過去のものでしかない。
(今では食費にも事欠く有様だもの。食堂が無料で助かった)
でなければ、昼食抜きの毎日に、いずれは身体を壊していただろう。食堂に着き、周囲を見回す。
(……今日もいないみたい)
ここ数日、毎日食堂に通い続けているのは、会いたい人物がいるからだ。
正確に言えば、彼女とは寮で毎日顔を合わせており、現に今朝も顔を合わせたばかりだった。それでも、彼女とはこの場で会うことに意味がある。
目的の人物が見つからない代わりに、周囲からはいくつもの好奇の視線を向けられていた。嘲笑も投げつけられる侮蔑の言葉も、気付かぬ振りで前を向く。
食堂を出ていこうとしていた男子生徒を避けようとして、すれ違いざまに肩をぶつけられる。
「おっと、申し訳ない、クリスティーナ嬢。まさか、貴女がこんなところにいらっしゃるとは思わなかったもので」
おそらく騎士科の生徒だろう。貴族階級ではない男の揶揄に、男と一緒にいた友人たちが笑い声を上げた。それを黙ってやり過ごす。こちらが何の反応もしないので、男たちは肩をすくめて去っていった。
部屋の隅に身を寄せ、ジリジリと焦る気持ちを押し込めて待ち人が現れるのをひたすら待つ。
(もし、明日までに現れなかったら……)
その時は次善策、女子寮での決行を余儀なくされる。だが、できればこの場、衆人環視の中で行いたい。彼女の隣に彼らがいる時に――
突如、食堂の空気が騒めいた。こちらに向けられていた突き刺さるような視線が離れていく。彼らの視線が向かうのは、いくつも並んだテーブルを挟んだ反対側、魔術科棟に続く出入り口だ。
(来た……!)
視界にストロベリーブロンドの髪が映る。アレクシス殿下と並んだソフィアが食堂に入ってきた。彼らの背後に付き従うのはイェルクとギレス。加えて、今はそこに兄ユリウスの姿もある。
(ウィンクラーと王家の蜜月を示すため、か)
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