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1巻
1-3
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「あなた、名前は?」
走り出そうとしていた男の動きが止まる。恐る恐るこちらを振り返った視線は、なぜか、またすぐに逸らされた。男が地面に向かって自身の名を告げる。
「……クルトだ」
「ふーん。クルト、ね。……ねぇ、クルト。あなた、さっき、ハブウェルよりもいい設計が出来ると言った?」
確認の意味で尋ねると、小さな頷きが返ってきた。
「いや、あれは、その、まぁ、勢いというか……」
「言ったわよね?」
「い、言った! ……その、あいつより良いってのは正確じゃないかもしれんが、ただ、個人宅の設計には家主の好みがあるだろうから、もしかしたら、その、俺の設計の方があんたは気に入るかもしれんと思って……」
漸く視線が合ったクルトだったが、また微妙に視線を逸らされた。ボソボソと何を言っているのかわからなくなった話を遮る。
「わかったわ。クルト、あなたを雇ってみることにするわ」
「えっ?」
「何? 何か文句があるの?」
「な、ないないない! ……俺にはないが、あんたはいいのか? その、こんな得体の知れない人間を雇って……」
最初に話し掛けてきた勢いはどこへやら。どこまでも逃げ腰のクルトの態度に苦笑が漏れた。
「正直に言うとね? ハブウェルには断られた後なの。だから、もし、あなたに申告通りの実力があるのなら、あなたに我が家の改修を丸ごとお願いしようかと思っているわ」
「ほ、ほんとかっ!? だったら、必ず! 必ず、あんたの気に入るものを作って見せる。俺に任せてくれ!」
途端、意気込んだクルトが顔に喜色を浮かべた。まだ彼に本決まりという訳ではないが、こちらとて、他に選択肢があるわけではない。
「あなたには、今から実際に我が家を見てもらうわ」
「今から?」
訝しむ様子のクルトに頷く。
「時間がないの。今日中に見てもらった上で、あなたが我が家をどういう風に仕上げるか、本契約はそれを確認してからよ」
「わ、わかった!」
緊張気味だが、何度も頷くクルトの姿に苦笑する。
(これだけ素直に反応されちゃうと、ちょっとだけ申し訳ない気もするわね)
これから向かう我が家。それがどこにある、誰の家か。クルトは確認することをしなかったが、本当に大丈夫なのだろうか。
(まぁ、騙しているわけではないし。家名は聞かれなかったから)
少しの秘密を抱えたまま、クルトを連れて大通りへと戻り、馬車を拾った。
当初、クルトは同じ馬車に乗ることを嫌がったが、こちらにはこちらの事情がある。彼の実力を知る前に逃がすわけにはいかない。クルトの大きな背を、なかば無理矢理に馬車へと押し込んだ。
「……そこまで小さくならなくても大丈夫よ」
馬車の中、向かい合って座るクルトは決して小さくはないその体を、精一杯丸めて縮こまっている。
(変ね、つい最近、同じような反応を見た気がするわ)
それも、これから帰る場所で。
「あなた、その気の小ささって、建築家とはいえ致命的なんじゃない? それで、よく私に話しかけられたわね?」
自覚はあるのか、こちらの言葉にますます小さくなった体に苦笑する。小さくなったままのクルトが、きまり悪げに口にした。
「……俺は、以前、ハブウェルのとこで働いてたんだ。今日は、たまたま店の前を通りかかって、それで、まぁ、あんたを見かけて……、あいつは依頼を受けなかった相手を店の外まで見送らないから、ひょっとしたらと思っちまって……すまん」
「なるほど、そういうことね。ああ、だけど、別に謝る必要はないわよ?」
依頼を断られた直後の客なら、彼の下手くそな営業でも仕事を貰えるかもしれないと判断しての行動、好機を逃さなかった判断力は評価に値する。
「それに、幸運をつかんだのが、あなたなのか私なのか……まだ判断がつきかねるところでもあるしね?」
「……それは、どういう意味だ?」
クルトの問いにニッコリと微笑んだ。
「大丈夫、これからわかるわ」
微笑んだはずが、なぜかクルトはますます脅えてしまう。彼が自身の疑問に答えを見つける前に、馬車がゆっくりと停止した。
「着いたみたいね。降りましょう?」
先に馬車から降り立ち、大きな体を縮めて馬車の扉をくぐるクルトを見守る。彼の視線が目の前の建物へと吸い寄せられていった。
「……ここ、は……」
「クルト、未来の大建築家様、ようこそ、ロイスナー家へ!」
表情を失った男をとびきりの笑顔で歓迎する。腕を広げて指し示す先には、かなり陰気な建物。クルトの首がギギギギと音をたてそうな挙動でこちらを向く。
「……あんた、ひょっとして……」
「あら、そう言えば、まだ名乗っていなかったわね? 私はルアナ・ロイスナー。前騎士団長ウィリアム・ロイスナーの娘よ。ついでに言うのなら、未来のロイスナー伯爵夫人で、今はこの家の責任者でもあるわ!」
血の気の感じられない目の前の顔を見上げて笑えば、クルトの視線が逃げ道を探そうと周囲を見回す。
「あら、ダメよ、クルト。これからしばらくは、ここがあなたの職場になるんだから」
及び腰になった男を逃がすわけにはいかない。玄関の扉を素早く開け、屋敷の中へとクルトの背を押す。
「お、おい、ちょっと待ってくれ……!」
「さぁ。さっさと中に入って、仕事の話を始めるわよ。家の中も一通り見てもらわなくちゃ。時間がないのよ、急ぎましょう」
「や、止めてくれ、うわぁっ!?」
最後は問答無用、力ずくでクルトを扉の中に押し込んだ。そのまま後ろ手に扉を閉める。
たたらを踏んで振り返ったクルトがひきつった顔を見せ、ジリジリと後退りし始めた。その姿がおもしろくて、こちらも、殊更、ジリジリと歩を進めてみる。
「ヒッ!」
いつの間にか、顔が笑ってしまっていたらしい。こちらの表情に気づいたクルトが悲鳴をあげた。
男の反応を無礼だと思うものの、それでもやはり笑ってしまう。意識がこちらに集中しているクルトの背後、廊下の奥から人が近づいて来ている。
「……あのールアナ様、何をなさっているんですか?」
「わぁっ!?」
背後から現れたマリーの声に、クルトが情けない叫び声をあげた。
「マリー、ただいま。未来の大建築家様をお連れしたわよ」
「え! じゃあ、お仕事、引き受けて貰えたんですか!? 良かったぁっ!」
「いや、あの、俺はまだ……」
否定しかけたクルトだが、毒の欠片も見当たらない普通の女の子である、マリーに純粋に歓迎されて、その先の言葉を飲み込んだ。その隙をついて、さっさと話を進める。
「マリー、彼はクルト。二人とも、これから顔を合わすことも多いだろうから、仲良くしてね」
「はい!」
「……いや、あの……」
元気いっぱいに返事をしたマリーとは対照的に、クルトの返事は煮え切らない。先ほどまでの今にも逃げ出しそうな態度よりはだいぶマシになったものの、未だ決心のつかない男に声をかける。
「クルト、とりあえず、家の中を見て回るわよ。ここで、あなたに何が出来るか、もしくは出来ないか。それをはっきりさせてから判断しても遅くはないでしょう?」
こちらの言葉に、僅かに頷いた男の姿を確認して歩き出す。
「さて。まずは応接間よね。クルト、あなたのお手並み拝見するわ」
「……あのー、ルアナ様。クルトさんは……」
宣言通りに、クルトには一通り家の中を見せて回った。その後で、今は休憩がてら、テラスでマリーの淹れたお茶を口にしている。
ただし、この場にいるのは己とマリーの二人だけ。クルトの姿はここにはない。もう一口、口に含んだ苦味しか感じられない色つきの液体を飲み込んでから口を開く。
「……マリー、お湯の温度がまだ高すぎるわ。蒸らす時間も少なかったみたいね」
「も、申し訳ありません!」
萎縮するマリーに苦笑する。
「謝る必要はないの。練習を始めたばかりなんだから。これから上手になってほしいだけ。あなたには期待しているわ」
「はっ、はい!」
全身で返事をするマリーに笑いながら、彼女が気にかけている男のこと、先ほどの問いに答えを返す。
「クルトは……、あら、もう二時間も経ってるのね」
「そ、そうなんです!」
焦ったような、困ったようなマリーの声。
「……流石に長すぎるかしら。ちょっと、様子を見て来るわね」
「あ! それなら私が!」
「いいえ。彼に確認したいこともあるから、私が直接行くわ」
付き従うというマリーを連れて書斎へと向かった。かつては、父が使用していたであろうその部屋は王立騎士団長の地位に相応しく調えられていたはずだ。しかし今は、他の部屋と大差ない、ひどい有様になっている。
「クルト、入るわよ?」
ノックにも呼び掛けにも反応はない。返事を待たずに部屋の扉を開けた。
「あら、まあ……」
思わず口から溢れた言葉。
「わぁっ! すごい!」
後に続いたマリーも、部屋の中を覗いて驚きの声をあげた。
「……ますますひどいことになってるわね」
部屋の中央にある大きな人影。クルトが床に座り込み、一心不乱に紙の上にペンを走らせている。
彼が床に座っているのは、書斎と名のつくこの部屋に机と呼べるものが一つもないためだが、彼の周りどころか部屋中に、彼が描いたであろう設計図らしきものが散らばっている。
「クルト。集中しているところ悪いけれど、一度この状況を説明してくれる?」
部屋の中に踏み込めず入口から呼びかけたが、何度呼びかけても、こちらに背を向けた男に反応はない。
「……仕方ないわね」
足元に散らばった紙を拾い集めながらクルトへと近づき、床の上で丸まっている大きな背中を軽く叩いたが、それでもこちらに気付く気配のないクルト。見ているだけで身体が痛くなりそうな体勢でペンを止めないその背中に、半分呆れ、半分感心しながら、大きく息を吸った。
「クルトッ!!」
「うわぁー!?」
上げた声量と、先ほどよりやや強めに叩いた背中への衝撃に、クルトが漸く反応を示した。飛び上がった男が、慌ててこちらを振り向き、次いでキョロキョロと周囲を見回し始めた。
「クルト、あなた、自分の状況がわかっている? あなたは今、ロイスナーの屋敷にいて、『いくつか改装案が浮かんだから』って、この部屋に籠ったの」
「あ、いや、俺は……そっか、そう、だったな」
未だ心ここにあらずといった様子のクルトに、この場の状況を告げる。
「あなた、かれこれ二時間はここにいるのよ?」
「は? 二時間? そんなに経ってたのか……?」
「あなたの言ういくつかがどの程度なのか、確認しなかったのはこちらだけど……」
「っ!! すまん! つい、のめり込んじまって……!」
謝るクルトに、首を振って制止する。
「それだけ真剣に考えてくれてるってことだから、集中するのはいいの。ありがたいくらいよ。だけど、今の進捗やら今後の予定やら。こっちは何をどうすればいいのか、さっぱりわからないんだから。そう言ったことは先に教えてくれると助かるわ」
言いながら部屋を見回して、お手上げとばかりに肩をすくめた。
「……あ、ああ、悪い。つい、やり過ぎちまったが、一応いくつか見せられるもんは出来たんだ」
頭を掻いたクルトは、足元に散らばる紙から一枚を拾い上げた。彼の差し出す紙を覗き込むと、そこには、所謂設計図ではなく、部屋の中の様子を現す絵が描かれている。
「線を見せただけじゃ、わかりにくいだろう? 代わりに完成予想図を描いてみたんだが……」
説明しながら、クルトがもう一枚、別の紙を差し出す。
「これは、今、描いてた分で、応接室。……まだ完成はしてないが」
「……今とだいぶ雰囲気が変わるわね?」
「ああ。あそこは壁の損傷が激しいからな。補強して、ついでに無駄な装飾は削いでしまえばいいと思ってる。あ、いや、無駄と言うとあれだな。失くしてもいい部分というか、なんというか……」
「なるほどね。……クルト、他の部屋のもある? それも見せて」
こちらの催促に、クルトが慌てて周囲を見回した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! さっき、確か、あの辺で書斎の画を描いてたんだ!」
同じく散らばった紙の山から一枚を見つけ出し、クルトが再びこちらへと戻って来る。差し出された画に視線を落とした。
「……その、どうだ? 今ある本棚はほとんど使い物にならない。いっそ新しいものを作って――」
「いいと思うわ」
「は?」
クルトの案に賛同すると、彼は信じられないと言わんばかりの表情を浮かべた。
「すごくいいと思うわ。私、この画が気に入ったわ。クルト、改めてあなたを雇いたいのだけれど、この屋敷の改修を頼まれてくれるかしら?」
「あ、いや、でも、……俺で、いいのか? ……本当に?」
「……何か問題があるの?」
歯切れの悪いクルトに、やはりロイスナーの仕事は嫌だと、遠回しに断られるのかと不安を覚えるが、こちらよりよほど不安げな表情のクルトが呟いた。
「その、地味だろ?」
「は?」
「その、貴族の邸宅としては地味だろう? 俺の設計は……。本当は、あんたももっと華やかだったり、繊細だったりする設計の方がいいんじゃないか?」
(……全くもう、何を言い出すかと思えば)
今更すぎるクルトの発言に、思わず脱力した。
「ねぇ、クルト。ここが誰の屋敷なのか、本当に理解してるのかしら?」
「……あんたの、だろ?」
不思議そうな顔をするクルトに、彼が肝心なことを全く理解していないのだと知り、首を振った。
「違うわ。私は今の責任者というだけ。正統な持ち主は別の方よ」
「……あんたの、旦那になるやつってことか」
「そうよ! クルト、わかってるじゃないっ!」
彼の出した答えに大いに満足して、深く頷いた。
「本来このお屋敷は王立騎士団長のために用意されたものなの。だから、決して、華美になり過ぎてはいけないし、過度な装飾も必要ないわ。出来るだけ簡素に、そして、彼にとって居心地のいい空間でなければならないの」
言いながら、肝心な部分が抜けていると気付く。
「ああ! でも、だからといって、彼の騎士団長としての威厳を損なう訳にはいかないわよね? 当然、彼に相応しい、洗練された高級感は必要よっ! そして、あなたの描いたこの屋敷の未来図! これは、まさしく彼のための空間! 質実剛健な彼の本質を見事に表しているわ!」
「あ、ああ……?」
「自信をもちなさい。あなたは、とても素晴らしい提案をしてくれたんだから」
驚いた様子のクルトに力強く頷くと、彼の顔が喜びに紅潮していく。身を乗り出す勢いのクルトに、両の手をガシリと掴まれた。
「わかった! そこまで言ってくれんなら、どうか、この屋敷の改修は俺に任せてくれ。必ず! 必ず、あんたが満足するような家に仕上げてみせる!」
「ええ、期待してるわ」
「ああ!」
クルトの真っすぐな返事に満足を覚え、分厚い手をしっかりと握り返した。こちらも、ついつい熱くなってしまったが、彼が情熱をもって己の仕事を全うしてくれることは間違いなさそうだ。
「あー、えっと、じゃあ、すまん、屋敷ん中、もう少し見せてもらってもいいか? ついでに何ヵ所か、修繕出来そうなとこはしていくからさ。流石にこのまんま帰るってのも……」
そんな提案をしてくれながら、クルトが照れたように頭をかいた。
「あら、こちらはとても助かるけど。クルトって、設計だけじゃなくて、そんなことも出来るの?」
「ん? ……まぁ、俺は元々、作る側の人間だったんだよ。設計は見よう見まねというか……」
「へぇ。独学ってこと? 大したものね」
「それが生意気ってんで、ハブウェルのところはクビになったがな? ……とりあえず、玄関ホールから手をつける」
誉め言葉が照れ臭かったのか、自虐的な言葉とともに、クルトはさっさと扉を出ていく。
「……クルトさんって変わってますけど、真面目な人ですね」
ポツリと呟かれたマリーの言葉。クルトの背を見送る彼女の瞳に温かい光が宿っていた。
第三章 一方的な再会、はじめましてのご挨拶
王宮の中、騎士団長の執務室にコンコンと扉を叩く音が響いた。
「入れ」
短く告げた許可に扉が開く。そこから顔を覗かせた男の姿に、俺――ガリオンは書類仕事の手を止めた。
「アルバン、まだ残ってたのか?」
「それはこっちの台詞。ガリオン、今、何時だと思ってんの」
「……何時だ?」
言われて時計を見ると、終業時刻を大幅に過ぎた時刻を差していた。
「何? そんなに集中してたの? 夕飯は食べた?」
「あー、……すまない」
「謝るくらいなら、飯くらいまともに食ってよね」
呆れたと言わんばかりに嘆息するこの男は、己の副官。腹心の部下である前に、気心知れた、幼い頃からの友人でもある。薄茶の髪をかき上げたアルバンに胡乱な目を向けられた。
「……昼は食ったんだよね?」
ギラリと光った気がした緑の瞳に返事を返せずにいると、アルバンが気炎を吐く。
「ちょっと、冗談でしょう!? 第三と団長職の引き継ぎで忙しいのはわかるけどさぁ、根詰めすぎ! 昇進前に自滅するよっ!?」
「そんなつもりは、なかったんだけど……」
ただ、目の前に片づけなければならない仕事があり、己にはそれを処理する能力がある。
(……まぁ、出来れば、この辺の仕事は、誰かに任せた方がいいんだろうが)
誰かの仕事を増やすことも、任せる手間も面倒で、結局は自分で処理する方を選んでしまう。その結果が、目の前の執務机に積まれた書類の山。本来、何も考えずに剣を振っている方が性に合うのだが、次期団長職を拝命して以降、書類仕事に忙殺され、現場に出ることはほとんどなくなった。
背もたれに体重を預け、深く息をつく。
「……ちょっと、ガリオン。お前、思いっきり疲れてんじゃない」
「あー、うん、まぁ……」
後ろで一つに束ねた髪が鬱陶しい。緩んだ結び目を締め直すため、髪紐を解けば、黒髪が視界を邪魔する。
「……無駄な色気を振りまいてる暇があったら、適当なとこで終わらせて、さっさと帰るよ」
「そうだな。でもまだ……」
「あのね? ため息つきたいのはこっち。第三の仕事なんて、カルサックにやらせときゃいいでしょ? 次期第三隊長様のお仕事なんだから」
「いや、まあ、そうだけどさ……最初からこの量を引き継ぐってのは、流石に荷が重すぎるだろ?」
目の前の書類をもう一度眺めて言えば、アルバンが吠えた。
「いいんだよ! カルサックだって、これから隊長職に慣れてくしかないんだから!」
「あー、じゃあ、ここまで。ここまでやったら終わりにする」
いつまでも部下を甘やかすなというアルバンの意見もわかるのだが、ついつい、指し示してしまった書類の山に、アルバンがうんざりしたような視線を向ける。
それでも、己が書類に手を出すと、横からひったくるようにして書類を持っていくアルバン。自身の隣、副官用の執務机に座り、黙々とペンを走らせ始めた。
そうして、しばらく執務室に二人分のペンの音だけが聞こえる中、不意にアルバンが口を開いた。
「ガリオン、そう言えば、聞いてる? お前の婚約者様、ルアナ・ロイスナー嬢のこと」
……危ない、油断していた。婚約が決まった当初こそ、あれこれ言ってきたアルバンだったが、ここ最近は、彼女に関する話題を振ってくることはなかったのに。
動揺して危うく折れかけたペン先を誤魔化しながら、ゆっくりと顔を上げ、アルバンへと視線を向ける。
「何? その視線はどっち? 彼女のこと聞いてるの? 聞いてないの?」
「……聞いていない」
彼女の話というのが何を差すのかは不明だが、何も聞いてはいないから、嘘ではない。
視線を一瞬だけ、扱いに困って執務机の端に置きっぱなしにしている封書へと向けた。そのことに気づいた様子のないアルバンが言葉を続ける。
「ふーん。やっぱり聞いてないんだ? 彼女、数日前に王都に着いてるんだってさ」
告げられた事実に、曖昧に頷いた。
「驚かないわけ? 数日前に着いてるんだよ? それで、こっちにはなんの挨拶もないわけでしょ。腹立たないの?」
「あー……」
正確に言うならば、彼女からなんの挨拶もないわけではない。それを言おうか言うまいか。迷う内に、アルバンの語気が荒くなる。
「大体さぁ、着いたその日に挨拶なりなんなり、あって良さそうなもんじゃない。屋敷だって、ガリオンのお情けで住めてるんだってこと、ちゃんと理解してるのかな? やっぱり、彼女、噂通りの我儘高慢お嬢様ってとこなんじゃ」
「挨拶なら、手紙で受け取った」
「はっ!? 手紙? そんなもん、いつっ!?」
アルバンの怒気に、視線がツイと執務机の上を走る。それを見逃してくれない男が、机の上の業務用の書類とは明らかに異なる愛らしい封書を見つけて固まった。
「何それ。どういうこと?」
「……今日の、午後の便で受け取った。ルアナ嬢からの手紙。……今日まで、連絡が遅くなったことを詫びてある」
「ハッ! 口ではなんとでも。現実問題として、ルアナ嬢は次期ロイスナー伯であるお前を差し置いて屋敷に居座ってるわけでしょ? お前を屋敷に招くこともしないでさ!」
「いや、違う。手紙に……」
アルバンの非難に、思わず強めの否定を口にしてしまう。
「手紙に? どんな言い訳が書いてあるって言うの?」
問いつめられ、再び机の上のルアナ嬢からの手紙を瞳に映した。流麗な文字で書かれた自分の名前を見つめながら、そこに書かれた内容を思い返す。
「……ロイスナー邸は、大がかりな改修の最中らしい」
「改修ぅ? お前の家なのに? 何、勝手なことされちゃってんの」
「勝手というか、かなり荒れていて、人が住めるような状況じゃなかったらしい。ルアナ嬢からは、『屋敷に招くことが出来ず申し訳ない』って謝罪が……」
「お前、それを信じたの?」
「……疑う理由があるか?」
質問に質問で返すと、呆れたと言わんばかりに肩をすくめるアルバン。
「言い訳にしてもくだらないでしょ?」
(……まぁ、確かに)
つい先日までロイスナー伯の居宅だった屋敷が、この短期間にそこまで荒れ果てるというのも考えにくい。
(……これはやはり、避けられているのか?)
心のどこかで覚悟していた事態。アルバンの言葉に現実を突き付けられ、一人、落ち込む。
「まぁ、どっちにしろ、王都にいるんだったら、あっちから挨拶に来るくらいのことは出来るはずだしね。それをしないって時点で――」
「それは! 屋敷の使用人がほとんど辞めてしまったらしいから。残った使用人だけでは、なかなか手が回らなくて、屋敷が落ち着いたら改めて招待したいと……」
容赦ないアルバンの言葉に、なんとか反論を口にする。ルアナ嬢の手紙の内容を明かせば、アルバンは怪訝な表情を浮かべた。
走り出そうとしていた男の動きが止まる。恐る恐るこちらを振り返った視線は、なぜか、またすぐに逸らされた。男が地面に向かって自身の名を告げる。
「……クルトだ」
「ふーん。クルト、ね。……ねぇ、クルト。あなた、さっき、ハブウェルよりもいい設計が出来ると言った?」
確認の意味で尋ねると、小さな頷きが返ってきた。
「いや、あれは、その、まぁ、勢いというか……」
「言ったわよね?」
「い、言った! ……その、あいつより良いってのは正確じゃないかもしれんが、ただ、個人宅の設計には家主の好みがあるだろうから、もしかしたら、その、俺の設計の方があんたは気に入るかもしれんと思って……」
漸く視線が合ったクルトだったが、また微妙に視線を逸らされた。ボソボソと何を言っているのかわからなくなった話を遮る。
「わかったわ。クルト、あなたを雇ってみることにするわ」
「えっ?」
「何? 何か文句があるの?」
「な、ないないない! ……俺にはないが、あんたはいいのか? その、こんな得体の知れない人間を雇って……」
最初に話し掛けてきた勢いはどこへやら。どこまでも逃げ腰のクルトの態度に苦笑が漏れた。
「正直に言うとね? ハブウェルには断られた後なの。だから、もし、あなたに申告通りの実力があるのなら、あなたに我が家の改修を丸ごとお願いしようかと思っているわ」
「ほ、ほんとかっ!? だったら、必ず! 必ず、あんたの気に入るものを作って見せる。俺に任せてくれ!」
途端、意気込んだクルトが顔に喜色を浮かべた。まだ彼に本決まりという訳ではないが、こちらとて、他に選択肢があるわけではない。
「あなたには、今から実際に我が家を見てもらうわ」
「今から?」
訝しむ様子のクルトに頷く。
「時間がないの。今日中に見てもらった上で、あなたが我が家をどういう風に仕上げるか、本契約はそれを確認してからよ」
「わ、わかった!」
緊張気味だが、何度も頷くクルトの姿に苦笑する。
(これだけ素直に反応されちゃうと、ちょっとだけ申し訳ない気もするわね)
これから向かう我が家。それがどこにある、誰の家か。クルトは確認することをしなかったが、本当に大丈夫なのだろうか。
(まぁ、騙しているわけではないし。家名は聞かれなかったから)
少しの秘密を抱えたまま、クルトを連れて大通りへと戻り、馬車を拾った。
当初、クルトは同じ馬車に乗ることを嫌がったが、こちらにはこちらの事情がある。彼の実力を知る前に逃がすわけにはいかない。クルトの大きな背を、なかば無理矢理に馬車へと押し込んだ。
「……そこまで小さくならなくても大丈夫よ」
馬車の中、向かい合って座るクルトは決して小さくはないその体を、精一杯丸めて縮こまっている。
(変ね、つい最近、同じような反応を見た気がするわ)
それも、これから帰る場所で。
「あなた、その気の小ささって、建築家とはいえ致命的なんじゃない? それで、よく私に話しかけられたわね?」
自覚はあるのか、こちらの言葉にますます小さくなった体に苦笑する。小さくなったままのクルトが、きまり悪げに口にした。
「……俺は、以前、ハブウェルのとこで働いてたんだ。今日は、たまたま店の前を通りかかって、それで、まぁ、あんたを見かけて……、あいつは依頼を受けなかった相手を店の外まで見送らないから、ひょっとしたらと思っちまって……すまん」
「なるほど、そういうことね。ああ、だけど、別に謝る必要はないわよ?」
依頼を断られた直後の客なら、彼の下手くそな営業でも仕事を貰えるかもしれないと判断しての行動、好機を逃さなかった判断力は評価に値する。
「それに、幸運をつかんだのが、あなたなのか私なのか……まだ判断がつきかねるところでもあるしね?」
「……それは、どういう意味だ?」
クルトの問いにニッコリと微笑んだ。
「大丈夫、これからわかるわ」
微笑んだはずが、なぜかクルトはますます脅えてしまう。彼が自身の疑問に答えを見つける前に、馬車がゆっくりと停止した。
「着いたみたいね。降りましょう?」
先に馬車から降り立ち、大きな体を縮めて馬車の扉をくぐるクルトを見守る。彼の視線が目の前の建物へと吸い寄せられていった。
「……ここ、は……」
「クルト、未来の大建築家様、ようこそ、ロイスナー家へ!」
表情を失った男をとびきりの笑顔で歓迎する。腕を広げて指し示す先には、かなり陰気な建物。クルトの首がギギギギと音をたてそうな挙動でこちらを向く。
「……あんた、ひょっとして……」
「あら、そう言えば、まだ名乗っていなかったわね? 私はルアナ・ロイスナー。前騎士団長ウィリアム・ロイスナーの娘よ。ついでに言うのなら、未来のロイスナー伯爵夫人で、今はこの家の責任者でもあるわ!」
血の気の感じられない目の前の顔を見上げて笑えば、クルトの視線が逃げ道を探そうと周囲を見回す。
「あら、ダメよ、クルト。これからしばらくは、ここがあなたの職場になるんだから」
及び腰になった男を逃がすわけにはいかない。玄関の扉を素早く開け、屋敷の中へとクルトの背を押す。
「お、おい、ちょっと待ってくれ……!」
「さぁ。さっさと中に入って、仕事の話を始めるわよ。家の中も一通り見てもらわなくちゃ。時間がないのよ、急ぎましょう」
「や、止めてくれ、うわぁっ!?」
最後は問答無用、力ずくでクルトを扉の中に押し込んだ。そのまま後ろ手に扉を閉める。
たたらを踏んで振り返ったクルトがひきつった顔を見せ、ジリジリと後退りし始めた。その姿がおもしろくて、こちらも、殊更、ジリジリと歩を進めてみる。
「ヒッ!」
いつの間にか、顔が笑ってしまっていたらしい。こちらの表情に気づいたクルトが悲鳴をあげた。
男の反応を無礼だと思うものの、それでもやはり笑ってしまう。意識がこちらに集中しているクルトの背後、廊下の奥から人が近づいて来ている。
「……あのールアナ様、何をなさっているんですか?」
「わぁっ!?」
背後から現れたマリーの声に、クルトが情けない叫び声をあげた。
「マリー、ただいま。未来の大建築家様をお連れしたわよ」
「え! じゃあ、お仕事、引き受けて貰えたんですか!? 良かったぁっ!」
「いや、あの、俺はまだ……」
否定しかけたクルトだが、毒の欠片も見当たらない普通の女の子である、マリーに純粋に歓迎されて、その先の言葉を飲み込んだ。その隙をついて、さっさと話を進める。
「マリー、彼はクルト。二人とも、これから顔を合わすことも多いだろうから、仲良くしてね」
「はい!」
「……いや、あの……」
元気いっぱいに返事をしたマリーとは対照的に、クルトの返事は煮え切らない。先ほどまでの今にも逃げ出しそうな態度よりはだいぶマシになったものの、未だ決心のつかない男に声をかける。
「クルト、とりあえず、家の中を見て回るわよ。ここで、あなたに何が出来るか、もしくは出来ないか。それをはっきりさせてから判断しても遅くはないでしょう?」
こちらの言葉に、僅かに頷いた男の姿を確認して歩き出す。
「さて。まずは応接間よね。クルト、あなたのお手並み拝見するわ」
「……あのー、ルアナ様。クルトさんは……」
宣言通りに、クルトには一通り家の中を見せて回った。その後で、今は休憩がてら、テラスでマリーの淹れたお茶を口にしている。
ただし、この場にいるのは己とマリーの二人だけ。クルトの姿はここにはない。もう一口、口に含んだ苦味しか感じられない色つきの液体を飲み込んでから口を開く。
「……マリー、お湯の温度がまだ高すぎるわ。蒸らす時間も少なかったみたいね」
「も、申し訳ありません!」
萎縮するマリーに苦笑する。
「謝る必要はないの。練習を始めたばかりなんだから。これから上手になってほしいだけ。あなたには期待しているわ」
「はっ、はい!」
全身で返事をするマリーに笑いながら、彼女が気にかけている男のこと、先ほどの問いに答えを返す。
「クルトは……、あら、もう二時間も経ってるのね」
「そ、そうなんです!」
焦ったような、困ったようなマリーの声。
「……流石に長すぎるかしら。ちょっと、様子を見て来るわね」
「あ! それなら私が!」
「いいえ。彼に確認したいこともあるから、私が直接行くわ」
付き従うというマリーを連れて書斎へと向かった。かつては、父が使用していたであろうその部屋は王立騎士団長の地位に相応しく調えられていたはずだ。しかし今は、他の部屋と大差ない、ひどい有様になっている。
「クルト、入るわよ?」
ノックにも呼び掛けにも反応はない。返事を待たずに部屋の扉を開けた。
「あら、まあ……」
思わず口から溢れた言葉。
「わぁっ! すごい!」
後に続いたマリーも、部屋の中を覗いて驚きの声をあげた。
「……ますますひどいことになってるわね」
部屋の中央にある大きな人影。クルトが床に座り込み、一心不乱に紙の上にペンを走らせている。
彼が床に座っているのは、書斎と名のつくこの部屋に机と呼べるものが一つもないためだが、彼の周りどころか部屋中に、彼が描いたであろう設計図らしきものが散らばっている。
「クルト。集中しているところ悪いけれど、一度この状況を説明してくれる?」
部屋の中に踏み込めず入口から呼びかけたが、何度呼びかけても、こちらに背を向けた男に反応はない。
「……仕方ないわね」
足元に散らばった紙を拾い集めながらクルトへと近づき、床の上で丸まっている大きな背中を軽く叩いたが、それでもこちらに気付く気配のないクルト。見ているだけで身体が痛くなりそうな体勢でペンを止めないその背中に、半分呆れ、半分感心しながら、大きく息を吸った。
「クルトッ!!」
「うわぁー!?」
上げた声量と、先ほどよりやや強めに叩いた背中への衝撃に、クルトが漸く反応を示した。飛び上がった男が、慌ててこちらを振り向き、次いでキョロキョロと周囲を見回し始めた。
「クルト、あなた、自分の状況がわかっている? あなたは今、ロイスナーの屋敷にいて、『いくつか改装案が浮かんだから』って、この部屋に籠ったの」
「あ、いや、俺は……そっか、そう、だったな」
未だ心ここにあらずといった様子のクルトに、この場の状況を告げる。
「あなた、かれこれ二時間はここにいるのよ?」
「は? 二時間? そんなに経ってたのか……?」
「あなたの言ういくつかがどの程度なのか、確認しなかったのはこちらだけど……」
「っ!! すまん! つい、のめり込んじまって……!」
謝るクルトに、首を振って制止する。
「それだけ真剣に考えてくれてるってことだから、集中するのはいいの。ありがたいくらいよ。だけど、今の進捗やら今後の予定やら。こっちは何をどうすればいいのか、さっぱりわからないんだから。そう言ったことは先に教えてくれると助かるわ」
言いながら部屋を見回して、お手上げとばかりに肩をすくめた。
「……あ、ああ、悪い。つい、やり過ぎちまったが、一応いくつか見せられるもんは出来たんだ」
頭を掻いたクルトは、足元に散らばる紙から一枚を拾い上げた。彼の差し出す紙を覗き込むと、そこには、所謂設計図ではなく、部屋の中の様子を現す絵が描かれている。
「線を見せただけじゃ、わかりにくいだろう? 代わりに完成予想図を描いてみたんだが……」
説明しながら、クルトがもう一枚、別の紙を差し出す。
「これは、今、描いてた分で、応接室。……まだ完成はしてないが」
「……今とだいぶ雰囲気が変わるわね?」
「ああ。あそこは壁の損傷が激しいからな。補強して、ついでに無駄な装飾は削いでしまえばいいと思ってる。あ、いや、無駄と言うとあれだな。失くしてもいい部分というか、なんというか……」
「なるほどね。……クルト、他の部屋のもある? それも見せて」
こちらの催促に、クルトが慌てて周囲を見回した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! さっき、確か、あの辺で書斎の画を描いてたんだ!」
同じく散らばった紙の山から一枚を見つけ出し、クルトが再びこちらへと戻って来る。差し出された画に視線を落とした。
「……その、どうだ? 今ある本棚はほとんど使い物にならない。いっそ新しいものを作って――」
「いいと思うわ」
「は?」
クルトの案に賛同すると、彼は信じられないと言わんばかりの表情を浮かべた。
「すごくいいと思うわ。私、この画が気に入ったわ。クルト、改めてあなたを雇いたいのだけれど、この屋敷の改修を頼まれてくれるかしら?」
「あ、いや、でも、……俺で、いいのか? ……本当に?」
「……何か問題があるの?」
歯切れの悪いクルトに、やはりロイスナーの仕事は嫌だと、遠回しに断られるのかと不安を覚えるが、こちらよりよほど不安げな表情のクルトが呟いた。
「その、地味だろ?」
「は?」
「その、貴族の邸宅としては地味だろう? 俺の設計は……。本当は、あんたももっと華やかだったり、繊細だったりする設計の方がいいんじゃないか?」
(……全くもう、何を言い出すかと思えば)
今更すぎるクルトの発言に、思わず脱力した。
「ねぇ、クルト。ここが誰の屋敷なのか、本当に理解してるのかしら?」
「……あんたの、だろ?」
不思議そうな顔をするクルトに、彼が肝心なことを全く理解していないのだと知り、首を振った。
「違うわ。私は今の責任者というだけ。正統な持ち主は別の方よ」
「……あんたの、旦那になるやつってことか」
「そうよ! クルト、わかってるじゃないっ!」
彼の出した答えに大いに満足して、深く頷いた。
「本来このお屋敷は王立騎士団長のために用意されたものなの。だから、決して、華美になり過ぎてはいけないし、過度な装飾も必要ないわ。出来るだけ簡素に、そして、彼にとって居心地のいい空間でなければならないの」
言いながら、肝心な部分が抜けていると気付く。
「ああ! でも、だからといって、彼の騎士団長としての威厳を損なう訳にはいかないわよね? 当然、彼に相応しい、洗練された高級感は必要よっ! そして、あなたの描いたこの屋敷の未来図! これは、まさしく彼のための空間! 質実剛健な彼の本質を見事に表しているわ!」
「あ、ああ……?」
「自信をもちなさい。あなたは、とても素晴らしい提案をしてくれたんだから」
驚いた様子のクルトに力強く頷くと、彼の顔が喜びに紅潮していく。身を乗り出す勢いのクルトに、両の手をガシリと掴まれた。
「わかった! そこまで言ってくれんなら、どうか、この屋敷の改修は俺に任せてくれ。必ず! 必ず、あんたが満足するような家に仕上げてみせる!」
「ええ、期待してるわ」
「ああ!」
クルトの真っすぐな返事に満足を覚え、分厚い手をしっかりと握り返した。こちらも、ついつい熱くなってしまったが、彼が情熱をもって己の仕事を全うしてくれることは間違いなさそうだ。
「あー、えっと、じゃあ、すまん、屋敷ん中、もう少し見せてもらってもいいか? ついでに何ヵ所か、修繕出来そうなとこはしていくからさ。流石にこのまんま帰るってのも……」
そんな提案をしてくれながら、クルトが照れたように頭をかいた。
「あら、こちらはとても助かるけど。クルトって、設計だけじゃなくて、そんなことも出来るの?」
「ん? ……まぁ、俺は元々、作る側の人間だったんだよ。設計は見よう見まねというか……」
「へぇ。独学ってこと? 大したものね」
「それが生意気ってんで、ハブウェルのところはクビになったがな? ……とりあえず、玄関ホールから手をつける」
誉め言葉が照れ臭かったのか、自虐的な言葉とともに、クルトはさっさと扉を出ていく。
「……クルトさんって変わってますけど、真面目な人ですね」
ポツリと呟かれたマリーの言葉。クルトの背を見送る彼女の瞳に温かい光が宿っていた。
第三章 一方的な再会、はじめましてのご挨拶
王宮の中、騎士団長の執務室にコンコンと扉を叩く音が響いた。
「入れ」
短く告げた許可に扉が開く。そこから顔を覗かせた男の姿に、俺――ガリオンは書類仕事の手を止めた。
「アルバン、まだ残ってたのか?」
「それはこっちの台詞。ガリオン、今、何時だと思ってんの」
「……何時だ?」
言われて時計を見ると、終業時刻を大幅に過ぎた時刻を差していた。
「何? そんなに集中してたの? 夕飯は食べた?」
「あー、……すまない」
「謝るくらいなら、飯くらいまともに食ってよね」
呆れたと言わんばかりに嘆息するこの男は、己の副官。腹心の部下である前に、気心知れた、幼い頃からの友人でもある。薄茶の髪をかき上げたアルバンに胡乱な目を向けられた。
「……昼は食ったんだよね?」
ギラリと光った気がした緑の瞳に返事を返せずにいると、アルバンが気炎を吐く。
「ちょっと、冗談でしょう!? 第三と団長職の引き継ぎで忙しいのはわかるけどさぁ、根詰めすぎ! 昇進前に自滅するよっ!?」
「そんなつもりは、なかったんだけど……」
ただ、目の前に片づけなければならない仕事があり、己にはそれを処理する能力がある。
(……まぁ、出来れば、この辺の仕事は、誰かに任せた方がいいんだろうが)
誰かの仕事を増やすことも、任せる手間も面倒で、結局は自分で処理する方を選んでしまう。その結果が、目の前の執務机に積まれた書類の山。本来、何も考えずに剣を振っている方が性に合うのだが、次期団長職を拝命して以降、書類仕事に忙殺され、現場に出ることはほとんどなくなった。
背もたれに体重を預け、深く息をつく。
「……ちょっと、ガリオン。お前、思いっきり疲れてんじゃない」
「あー、うん、まぁ……」
後ろで一つに束ねた髪が鬱陶しい。緩んだ結び目を締め直すため、髪紐を解けば、黒髪が視界を邪魔する。
「……無駄な色気を振りまいてる暇があったら、適当なとこで終わらせて、さっさと帰るよ」
「そうだな。でもまだ……」
「あのね? ため息つきたいのはこっち。第三の仕事なんて、カルサックにやらせときゃいいでしょ? 次期第三隊長様のお仕事なんだから」
「いや、まあ、そうだけどさ……最初からこの量を引き継ぐってのは、流石に荷が重すぎるだろ?」
目の前の書類をもう一度眺めて言えば、アルバンが吠えた。
「いいんだよ! カルサックだって、これから隊長職に慣れてくしかないんだから!」
「あー、じゃあ、ここまで。ここまでやったら終わりにする」
いつまでも部下を甘やかすなというアルバンの意見もわかるのだが、ついつい、指し示してしまった書類の山に、アルバンがうんざりしたような視線を向ける。
それでも、己が書類に手を出すと、横からひったくるようにして書類を持っていくアルバン。自身の隣、副官用の執務机に座り、黙々とペンを走らせ始めた。
そうして、しばらく執務室に二人分のペンの音だけが聞こえる中、不意にアルバンが口を開いた。
「ガリオン、そう言えば、聞いてる? お前の婚約者様、ルアナ・ロイスナー嬢のこと」
……危ない、油断していた。婚約が決まった当初こそ、あれこれ言ってきたアルバンだったが、ここ最近は、彼女に関する話題を振ってくることはなかったのに。
動揺して危うく折れかけたペン先を誤魔化しながら、ゆっくりと顔を上げ、アルバンへと視線を向ける。
「何? その視線はどっち? 彼女のこと聞いてるの? 聞いてないの?」
「……聞いていない」
彼女の話というのが何を差すのかは不明だが、何も聞いてはいないから、嘘ではない。
視線を一瞬だけ、扱いに困って執務机の端に置きっぱなしにしている封書へと向けた。そのことに気づいた様子のないアルバンが言葉を続ける。
「ふーん。やっぱり聞いてないんだ? 彼女、数日前に王都に着いてるんだってさ」
告げられた事実に、曖昧に頷いた。
「驚かないわけ? 数日前に着いてるんだよ? それで、こっちにはなんの挨拶もないわけでしょ。腹立たないの?」
「あー……」
正確に言うならば、彼女からなんの挨拶もないわけではない。それを言おうか言うまいか。迷う内に、アルバンの語気が荒くなる。
「大体さぁ、着いたその日に挨拶なりなんなり、あって良さそうなもんじゃない。屋敷だって、ガリオンのお情けで住めてるんだってこと、ちゃんと理解してるのかな? やっぱり、彼女、噂通りの我儘高慢お嬢様ってとこなんじゃ」
「挨拶なら、手紙で受け取った」
「はっ!? 手紙? そんなもん、いつっ!?」
アルバンの怒気に、視線がツイと執務机の上を走る。それを見逃してくれない男が、机の上の業務用の書類とは明らかに異なる愛らしい封書を見つけて固まった。
「何それ。どういうこと?」
「……今日の、午後の便で受け取った。ルアナ嬢からの手紙。……今日まで、連絡が遅くなったことを詫びてある」
「ハッ! 口ではなんとでも。現実問題として、ルアナ嬢は次期ロイスナー伯であるお前を差し置いて屋敷に居座ってるわけでしょ? お前を屋敷に招くこともしないでさ!」
「いや、違う。手紙に……」
アルバンの非難に、思わず強めの否定を口にしてしまう。
「手紙に? どんな言い訳が書いてあるって言うの?」
問いつめられ、再び机の上のルアナ嬢からの手紙を瞳に映した。流麗な文字で書かれた自分の名前を見つめながら、そこに書かれた内容を思い返す。
「……ロイスナー邸は、大がかりな改修の最中らしい」
「改修ぅ? お前の家なのに? 何、勝手なことされちゃってんの」
「勝手というか、かなり荒れていて、人が住めるような状況じゃなかったらしい。ルアナ嬢からは、『屋敷に招くことが出来ず申し訳ない』って謝罪が……」
「お前、それを信じたの?」
「……疑う理由があるか?」
質問に質問で返すと、呆れたと言わんばかりに肩をすくめるアルバン。
「言い訳にしてもくだらないでしょ?」
(……まぁ、確かに)
つい先日までロイスナー伯の居宅だった屋敷が、この短期間にそこまで荒れ果てるというのも考えにくい。
(……これはやはり、避けられているのか?)
心のどこかで覚悟していた事態。アルバンの言葉に現実を突き付けられ、一人、落ち込む。
「まぁ、どっちにしろ、王都にいるんだったら、あっちから挨拶に来るくらいのことは出来るはずだしね。それをしないって時点で――」
「それは! 屋敷の使用人がほとんど辞めてしまったらしいから。残った使用人だけでは、なかなか手が回らなくて、屋敷が落ち着いたら改めて招待したいと……」
容赦ないアルバンの言葉に、なんとか反論を口にする。ルアナ嬢の手紙の内容を明かせば、アルバンは怪訝な表情を浮かべた。
応援ありがとうございます!
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