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最寄りとは言え、町からここまで馬車で十五分はかかる。その時間を、玄関前のアプローチに整列して待ち構えるという彼ら。その職業意識には敬意を表していいかもしれないが、流石にその列に参加する気にはなれない。こちらはのんびり待たせてもらうことにし、早々に奥へと引っ込む。
庭の見えるテラス、手ずから淹れたお茶を楽しみながら時間を潰すと、思ったよりは幾分早く、屋敷へ向かってくる馬車の音が聞こえてきた。
「……十年ぶりの再会か」
元より折り合いの良くない異父兄。互いに愛想の良い人間ではないし、相手への興味も薄い。同居しているわけではなかったため、今まで問題はなかったけれど。
(結局、家督は私……というか、ガリオンが継ぐことになっちゃったものねぇ)
今日の再会に何かを期待することは難しいだろう。それでも、同じ血を引く身だからこそ、彼の犯した愚行を理解出来てしまうかもしれないとは思っている。
「……本当に、厄介な血」
立ち上がり、玄関ホールへと向かう。
明るい陽射しの中、馬車から降り立つ長身が視界に飛び込んできた。がっしりとした体躯に燃えるような赤い髪、鋭さの際立つ紅蓮の瞳は真っすぐにこちらを見据えている。
「お帰りなさいませ! レナウド様!」
「「「「お帰りなさいませ!」」」」
家人の心からの歓待にも、異父兄が反応を返すことはない。無言のままに近づく巨体が、己の目の前に立ちはだかる。
「……」
交差する視線。見た目だけならば、私達はとてもよく似た兄妹なのだろう。燃える緋を纏い、人を萎縮させるほどのきつい眼差し。今、自身に向けられるそれには、はっきりと敵意が感じられる。
「お帰りなさいませ、お異父兄様」
「どけ、俺に妹などおらん」
太い腕に押し退けられ、私は後退ってしまう。空いた空間を通り過ぎる異父兄の後にボーガードが続く。外套を脱ぐ主人に手を貸す従者の姿を眺めながら、一つだけ、どうしても確認せねばならないことを口にした。
「……お異父兄様、お一人なのですか?」
「……何だと?」
「いえ、っ!?」
続きを口にする前に、気付けば目の前に迫る異父兄の手。喉元にかけられたそれに力が込められ、息が吸えなくなる。
「俺が一人なのがおかしいか? 貴様が何を聞いたかは知らんが、この俺を愚弄することは許さんっ!」
向けられる怒りの炎を見上げる。
「この地の主は俺だ。……目障りだ。俺の前からさっさと消えろ」
言い捨てた言葉と同時に、掴まれていた喉元が解放された。大きく息を吸いながら、こちらを見向きもせずに去っていく背を黙って見送る。
思い出すのは先ほどの異父兄の眼差し。私の言葉に怒り、暗い焔を燃え上がらせていた。だけど、ただ、それだけ。
(……なんだ、違うのね)
己が確かめたかったのは、愛する者を手に出来ずにもがき苦しむ地獄のような熱量、身を引き裂く悲しみと怒りに堕ちていく狂気が彼の内にあるのかということ。それが存在しない時点で、異父兄が愛したという騒動の元凶は彼の最愛ではなかった。ならば、彼の愚行には一片の同情の余地さえない。
「……ルアナ様、まだいらっしゃったのですか? レナウド様のお言葉をお聞きのはずです。ルアナ様がなさるべきことは、おわかりだと思いますが?」
異父兄に付き従ったはずの老執事がこちらへ向かってくる。
(つまり、さっさと出ていけってことね?)
こんな時だけは雄弁な執事の前を通り過ぎ、部屋へと向かう。
「荷物を取ってくるわ」
「その必要はありません」
ボーガードの言葉に振り返ると、彼の背後から現れたカーラがこちらに鞄を一つ差し出す。
「服や装飾品、荷造りしたものは他にもあったはずだけど?」
「このお屋敷の主はレナウド様です。レナウド様の許可なく、屋敷のものを持ち出すことは許されません」
渡された鞄を眺める。これ一つで王都まで行けとは、仮にも伯爵令嬢の嫁入り仕度としては何もかもが不足している。
(……けど、まあ、いいかしら?)
ここで揉める時間が惜しい。屋敷の明け渡しが済んだ今、一刻も早く王都へ飛んで行きたい。この焦燥を、これ以上は抑え切れそうにない。
「ボーガード、馬車を!」
「町までは当家の馬車を出します。町から先は、辻馬車なり何なりを拾われてください」
そう言い捨てて去っていく背中に、一応、別れの言葉を考えてみる。
(……なんにも浮かばないわね)
鞄一つを手に、近づく車輪の音の方へと足を踏み出した。
第二章 十年ぶりの王都、廃墟と化した屋敷
「……ここ、よね?」
十年前の記憶を頼りにたどり着いた、王都のロイスナー邸。閉ざされた玄関扉の前で背後を振り返る。少し荒れている気がするが、見覚えのあるアプローチ、門扉にも僅かに郷愁を感じる。
「……」
もう一度、玄関の扉を叩く。出迎えにこいとまでは言わないが、そろそろ扉くらいは開けてほしい。いや、そもそも屋敷の中に人の気配が全く感じられないのだけれど。
どうしたものかと思案に暮れていると、扉が細く開いた。
「……あの?」
開いた隙間から少女が顔をのぞかせたが、明らかに屋敷の主人を出迎える態度ではない上に、客人を迎える態度としてもいただけない。そもそも下働きのように見える彼女がなぜ?
「こんにちは、ただいま、初めまして。中に入れてくれる?」
疑問は尽きないものの、とりあえずの挨拶を口にして、扉をこじ開けた。
「え!? あの! えっと……!」
戸惑う少女を押し退けるようにして中へと足を踏み入れれば、目に入った既視感のある光景に、再び頭痛がしてくる。
「あの! お客様、困ります! 今ここには誰もいなくて、だから、その! 勝手に!」
「ああ、名乗ってなかったわね。私はルアナ・ロイスナー、今日からこの屋敷の主人よ」
「え? ロイスナー!? え!?」
名乗ったところで、困惑を増した少女に問いかける。
「混乱してるところ悪いけれど、あなた、名前は?」
「え? あ! はい、マリーです! あ、マリーと申します!」
「マリーね、よろしく。それで、早速で悪いんだけど、説明してくれるかしら? この状況を」
そう言いながら周囲を手で指し示す。玄関ホールには、調度品はおろか、カーテンさえも掛かっていない。壁にいたっては、無理矢理引き剥がされた壁紙、さらにはその下の壁板までもがなくなってしまっている。
「えっと、その、あの、これは……」
言い淀んだマリーが黙り込んでしまった。目に見えて怯えている彼女の姿に、僅かに後悔を覚える。追いつめるつもりはなかったのだが、彼女に問うたのは不味かったかもしれない。
「……他の人達は? 誰か他に、この状況を説明出来る人を呼んでもらえるかしら、マリー?」
こちらの言葉に、マリーの肩がわかりやすく跳ねた。
「申し訳ありません! ここには私と料理番のハンナさんしかいなくて……」
「執事も、家政婦長もいないの?」
天下のロイスナーの王都屋敷に使用人が二人という異常事態に戸惑う。
「はい、あの、レナウド様が出ていかれた後に、みんなお屋敷を出ていってしまって」
「みな、辞めてしまったということ? なぜ?」
「あの、それが、その、色々な噂があって、……このまま雇われていてもお給料がもらえないんじゃないかっていう噂にみんな不安になってしまって……」
そのまま俯いてしまったマリーに問いかける。
「……他には?」
「え?」
「あなた今、『色々な噂』って言ったでしょう? 他には?」
聞かなくても、なんとなく察することが出来る噂の中身。ハゼルでの家人や出入りの商人達が口にする私の評判は相当なものだったし、その悪名はどうやら王都にまで轟いているということも知っている。加えて、自身が外見からは、決して良い印象を持たれないということも。
案の定、今まで以上に挙動不審になったマリーが、盛大に視線を泳がせ始めた。
「私の噂でも流れていた? ルアナ・ロイスナーは傲慢で残虐、人を人とも思わない、そんなところかしら?」
大きく目を見開いたマリーの顔から、血の気が引いていく。流石に意地悪が過ぎたかもしれない。完全に沈黙してしまったマリーに、違う話を振った。
「……まぁ、仕方ないわね。残ったもう一人はどこ? 厨房かしら?」
「え!? あ! はい! 今、呼んで参ります!」
「いいわ。二度手間だから、私が行く。案内してちょうだい」
「えー!? あ、いえ! はい!」
慌てたようにそそくさと部屋を出ていくマリーの姿が、逃げ惑う小動物のように見えてくる。
(まぁ、間違いなく、主人を案内する態度ではないわね)
苦笑して、逃げる小動物の後を追ってたどり着いた厨房。そこにいたのは、かなり老齢の女性で、彼女が現役で料理番という重労働を担っているとはなかなかに信じがたかった。
「……あなたがハンナ?」
「はい」
こちらの姿を見た老婆は、既に曲がった腰をさらに屈めて礼をとる。
「私は、ルアナ・ロイスナー、あなた達の新しい主人よ」
返事はないが、ハンナの礼はさらに深くなった。特に反対や拒絶を示すこともなく、落ち着き払った態度を見せるハンナの横で、マリーの視線は相変わらず忙しなくあちこち彷徨っている。
「……さて、あなた達に聞きたいことがあるわ。屋敷に残ったのは、二人だけだと聞いたけれど。なぜ、あなた達は出ていかなかったの?」
給金が貰えるかもわからないような場所で、残虐非道な主人の訪れを待つなど、普通に考えればあり得ない話だ。意図して高圧的に尋ねると、マリーが小さく悲鳴をあげた。そんな彼女の態度とは対照的に、ハンナが淡々と答えを返す。
「……あたしゃ、この年です。他に行くあてがございませんから」
「ふーん。なるほど、ね……」
確かに年老いた料理番の再就職先なんて、そうそう簡単に見つかるものではない。退職金をしっかり貰えていれば、のんびりと隠居生活を送ることも出来たのだろうけれど、愚兄がその辺りをきちんと手配した形跡は見当たらない。
「それで? マリー、あなたは?」
「ヒゥ!? も、も、申し訳ありません!」
今度は、視線を向けただけで悲鳴をあげられてしまった。
「ああ、もういいから。それで? マリーは、なぜここに残ったの?」
「は、はい、あの、私は、ハンナさんを一人にするのは不安で、あの、だから、残りました」
怯えきった態度で、そんな理由を口にする彼女を見て、心の底から深々とため息をついてしまう。
(老女に小娘が加わったところで、一体どれだけ事態が好転するっていうのよ?)
「ヒッ! あの! 申し訳!」
「謝る必要はないわ」
有益性はどうあれ、ハンナのために残ったというマリーの心根自体は非常に好ましく思っている。むしろ呆れているのは、彼女らの防犯意識のなさに対してだ。
「……よく襲われなかったわね?」
貴族屋敷に非力な女二人。物騒な輩にとっては格好の獲物だったはず。
「あ、はい! あの、それは大丈夫です! お屋敷には高価なものが全然なくて、ほとんどレナウド様がお持ちになりましたし、残ったものは、えと、あの……」
途中までの勢いはどこへやら、言い淀み始めたマリーの言葉の後を引き継ぐ。
「辞めていった者達が持ち出したのね?」
再び顔色を失ったマリーの表情が、これ以上ないほど己の言葉を肯定している。しかし、これで一応、壁紙やらカーテンやらまでなくなっていたことの説明はついた。
「いいわ。家財を持ち出したのは、退職金代わりってことで不問に付しましょう」
あからさまにホッとするマリーと、黙ったままのハンナを見比べる。
「それで、これからのことだけれど、あなた達はどうするつもり?」
「……どうするつもりと言いますのは?」
「今後も、この屋敷に仕える気がある? もちろん、給金は出すけれど、それだけじゃ続けられないでしょ」
彼女達には噂に聞いたルアナ・ロイスナーではなく、今目にしている新たな主人、実際の私を見た上で、この屋敷で働き続けるかを選択してもらう。
「……さっきも申し上げた通り、あたしゃ、他に行くとこがありませんから」
先に口を開いたのはハンナだった。彼女の言葉に、おずおずとマリーが続く。
「……あの、私も、出来ればここで働かせてもらえると嬉しいです」
「そう……。ありがとう、ハンナ、マリー。助かるわ」
(正直、今すぐ辞めたいなんて言われてたら、困るとこだったわ……)
二人を交互に眺めて、言葉を続けた。
「紹介所に人を集めてもらう予定ではいるけれど、それまではこの三人で屋敷をなんとかしていくことになるわ。しばらくは大変だということは、二人とも覚悟しておいて」
己の言葉に、二人が頷くのを確かめた。そうして、前途多難の王都生活の初日は、三人で簡単な夕食を済ませた後、とりあえずなんとか眠ることが出来そうな一間をマリーに整えてもらい床に就いたのだった。
起床してすぐに、改めて屋敷全体を見て回ったが、結果は、まぁ当初の印象と然して変わらず。つまり、絶望的。
「……これは、もう、内装全部、改修するしかないわね」
家財がなくなっているのはまだいい。問題は、ボロボロの壁紙やら壁板の方だ。恐らく、辞めていった者達が、壁の中に何か――隠し金庫でも――ないかと期待し探し回った結果なのだろう。
(だとしても、彼らを責められないのが辛いところよねぇ……)
マリー達の話を聞く限り、辞めていった者達がここまでの暴挙に出た原因は、愚兄の段取りの悪さにある。そもそもする気があったのかは疑問ではあるが、彼らの生活や仕事に対して説明やら保証やらが完全に不足していたのだから。
「……あの、愚兄が」
後始末の面倒さを考えると、恨み節の一つも吐き出したくなるというもの。
(……だけど、これも考え方次第よね? 同じ改修をするのなら、後始末ではなく、いっそのこと彼のために……)
頭に浮かんだ人物、屋敷の未来を想像して口角が上がった。思い立ったがなんとやら、出来ることには早めに取りかかろう。
「マリー、着替えるわ。手伝って」
奥の部屋からドタバタと駆けてくる足音を聞きながら、仮の私室と定めた部屋へと戻る。
私が王都に出てきた目的も理由もたった一つ。その前の雑事など、素早く、だけど完璧に終わらせてしまうに限る。着替えを済ませ、「お一人で外出などとんでもない!」というマリーの悲鳴を背中で聞きながら、屋敷を飛び出した。
「……十年ですごい変化。さすがは王都」
十年前の記憶しかない身には、目にするもの何もかもが新鮮に映る。
記憶とは全く異なる王都の街並みを眺めながら、フラフラと歩く。完全なるお上りさん状態で、向かうのはマリーから聞き出した職人街。今回の目的は二つ。屋敷の改修を請け負ってくれそうな建築家を見つけることと、紹介所で新しい使用人の求人を出すことだ。
(どちらも急ぎっていうのが、困るのよねぇ)
本来なら醜聞にまみれたとはいえ、伝統あるロイスナー家の令嬢が市井に直接出向いて回るというのは非常に外聞が悪い。せめて侍女を一人雇い、それなりの体裁を整えて、というのが理想なのだが、生憎そんな悠長なことをしている時間はない。
(そもそも、今のあの屋敷の惨状で働きたいと思う侍女なんている? こんなことなら、ハゼルから誰かを……ううん、それはないわね)
ついて来てくれる者などいなかっただろうが、こちらだってお断り。いないものは仕方ないのだから、結局、自分一人で動くしかない。
(後は、まぁ、私がナメられないようにするくらいかしら?)
貴族とは言え、小娘一人、交渉相手に侮られる可能性は十分にある。あれやこれやと考えながら進む内、職人街に辿り着く。フラフラと見て回る中で一つの看板を見つけ、足を止めた。
「……ハブウェル工房って、あの?」
王都から遠く離れたハゼルにも、たまにではあるが、王都の華やかな噂話が流れてくることがある。その中で何度か耳にしたことのある名前、ハブウェル。どこそこの侯爵邸を新築しただの、大聖堂の補修工事を完璧に仕上げただのと、噂通りなら、飛ぶ鳥を落とす勢いの建築家に違いない。
「……そうね、ダメ元で」
屋敷をただ改修するだけならば、私自身に大したこだわりはない。見苦しくない程度に住めるようになればそれで十分。
(だけど、見苦しくない程度じゃだめなのよ)
そう、今はまだ私が屋敷の主のように振舞っているが、本来あの屋敷は、王立騎士団の長に与えられたもの。
「うん! 何がなんでも、完璧な状態でお渡ししなくちゃ!」
一人、決意を呟いて、扉に手をかけた。
「ごめんください」
「はい。いらっしゃいませ、ハブウェル工房へようこそ」
若い男性の出迎え、歓迎を示す言葉になんと返すべきかを迷う。
「突然ごめんなさい。実は、紹介状も何もないのだけれど、屋敷の改修をお願いしたくて……」
「ええ、問題ございませんよ」
物腰柔らかな店員が笑顔で答える。
「当工房では、新規のお客様のご注文も受け付けております。……こちらへどうぞ。店主を呼んでまいります」
店員に案内された応接間。壁一面には、建造物の絵が飾られていた。
「ここで造った建物の宣伝、てとこかしら?」
王都でも有数の建物がいくつも飾られていることから、以前、耳にした噂はそう大きく外れてはいないらしい。絵を眺めるうち、背後に近づく気配を感じて振り返った。
「……いかがですかな、当工房の作品は? お嬢様のお眼鏡には適いましたかな?」
「ええ、とても素晴らしいわ」
奥から現れた男、細身にモノクルをかけた初老の男性が、満足げに頷く。その視線が、瞬きの間、こちらを値踏みしていった。
「お褒めにあずかり光栄にございます。お客様にも必ずや、ご満足頂ける結果をお約束いたしましょう」
にこやかな笑みを浮かべた男は、大仰な仕草で礼をとる。
「申し遅れました、私、当工房の主、ハブウェルと申します」
「初めまして。ルアナ・ロイスナーよ」
「……ロイスナー? あの、もしやロイスナー家とおっしゃいますと……」
一瞬で笑顔を失った男の口元が引きつる。
「ええ。多分、そのロイスナーよ。父は前騎士団長を務めていたウィリアム・ロイスナー。父が不在の今、私が王都屋敷の一切を任されているの」
ハブウェルの反応から、答えは既に見えているようなものだが、こちらの要求を口にした。
「屋敷の内装を一新したいと考えているわ。お願い出来るかしら?」
「それは……申し訳ございません、ロイスナー様……」
言ったきり、その先を言わない男の真意を問う。
「それは、私の依頼を断るという意味ね?」
「誠に申し訳ございません。ですが、やはり今回のご依頼、当方では承りかねるかと……」
「もしかして、支払いを心配されているのかしら? 心配だというなら、支払いは先払いにするわ。それならいかが?」
屋敷に呼びつけず、家人を使いにも出さずに、伯爵令嬢自らが出向いているのだ。奇異に思われるのも、経済的安定を疑われてしまうのもいたし方ない。
「いえ、申し訳ございません、ロイスナー様。失念していたのですが、今ちょうど、多くのご依頼を頂いておりまして、大変立て込んでいる状況でございます。そのため、当工房は新規のご注文を承る余裕がなく……」
そう言って、深々と頭を下げたハブウェルを見下ろす。
(これはまた、酷く嫌われたものね)
ロイスナーの名を出したところで、彼の態度は豹変した。個人としての悪名か、家の信頼が落ちたためか。どちらにせよ、高名な建築家には忌避されてしまったらしい。
「……わかったわ」
覚悟はしていたし、ダメ元での依頼だ。これ以上、目の前の男を煩わせるつもりはない。
(時間も惜しいし、何より、渋々、改修された屋敷に住むなんて最悪だもの)
頭を下げ続ける男の前を通り過ぎる。見送りは待たずに、店を後にした。
「……さて、本格的に困ったわね」
店を出たところで零れた弱音。状況的にはかなりまずい。このままでは、至高の存在を、己の唯一を、あのとんでもないオンボロ屋敷に迎えることになってしまう。
(そんなの、絶対にいやよっ!!)
想像して血の気が引く。彼をあんな環境に置くくらいなら、例え住む場所を失うことになろうと、屋敷などいっそ燃やしてしまった方がいい。
(って、だめよね。ハンナやマリーがいるんだし)
己の配下にある人間の存在が妄想に歯止めをかける。グルグルと思考しながら歩くが、それさえ邪魔する存在があることに気づき、軽くため息をつく。ハブウェルの工房が見えなくなった頃、大通りから続く横道に入ったところで足を止めた。工房を出た直後から感じていた存在を認めて、振り返る。
「……私に、何か用?」
「お、俺は、決して怪しい者じゃ」
背後をつけてきていた男が狼狽を見せる。
「怪しいとは言っていない。何の用かと聞いているの」
「う、や、俺は、あんたが、ハブウェルの店から出てきたのをたまたま見かけて……」
「……それが、何?」
「いや、だから何ってわけじゃないんだが……」
要領を得ない男の話に苛立つ。感情を押し殺したまま見据えると、男が大きくビクついた。
「っ! すまん! だが、俺は……!」
「謝罪は要らない。さっさと用件を言いなさい」
「ひっ!? こ、個人の家の設計なら、あいつより俺の方が上手くやれる! と……お、俺はただ、そう言いたかっただけで……」
何やらもごもごと呟いているが、この男の目的は理解した。
(……つまり、これって売り込みで、ハブウェルじゃなく俺を使ってくれってことよね?)
今度は、そういう視点で男を観察してみる。容姿は平凡、よくある茶色の髪に茶色の瞳の組み合わせ。肩幅は広く、体格はいいが、先ほど会ったハブウェルと比べると明らかに精彩を欠いた中年男性。服装だって、洗練されているとはとても言い難い。
「っ!! いや、すまん。何でもないんだ、今のは忘れてくれ!」
不躾に眺めているうちに、いたたまれなくなったのか、男は視線を避けるように身を翻した。
庭の見えるテラス、手ずから淹れたお茶を楽しみながら時間を潰すと、思ったよりは幾分早く、屋敷へ向かってくる馬車の音が聞こえてきた。
「……十年ぶりの再会か」
元より折り合いの良くない異父兄。互いに愛想の良い人間ではないし、相手への興味も薄い。同居しているわけではなかったため、今まで問題はなかったけれど。
(結局、家督は私……というか、ガリオンが継ぐことになっちゃったものねぇ)
今日の再会に何かを期待することは難しいだろう。それでも、同じ血を引く身だからこそ、彼の犯した愚行を理解出来てしまうかもしれないとは思っている。
「……本当に、厄介な血」
立ち上がり、玄関ホールへと向かう。
明るい陽射しの中、馬車から降り立つ長身が視界に飛び込んできた。がっしりとした体躯に燃えるような赤い髪、鋭さの際立つ紅蓮の瞳は真っすぐにこちらを見据えている。
「お帰りなさいませ! レナウド様!」
「「「「お帰りなさいませ!」」」」
家人の心からの歓待にも、異父兄が反応を返すことはない。無言のままに近づく巨体が、己の目の前に立ちはだかる。
「……」
交差する視線。見た目だけならば、私達はとてもよく似た兄妹なのだろう。燃える緋を纏い、人を萎縮させるほどのきつい眼差し。今、自身に向けられるそれには、はっきりと敵意が感じられる。
「お帰りなさいませ、お異父兄様」
「どけ、俺に妹などおらん」
太い腕に押し退けられ、私は後退ってしまう。空いた空間を通り過ぎる異父兄の後にボーガードが続く。外套を脱ぐ主人に手を貸す従者の姿を眺めながら、一つだけ、どうしても確認せねばならないことを口にした。
「……お異父兄様、お一人なのですか?」
「……何だと?」
「いえ、っ!?」
続きを口にする前に、気付けば目の前に迫る異父兄の手。喉元にかけられたそれに力が込められ、息が吸えなくなる。
「俺が一人なのがおかしいか? 貴様が何を聞いたかは知らんが、この俺を愚弄することは許さんっ!」
向けられる怒りの炎を見上げる。
「この地の主は俺だ。……目障りだ。俺の前からさっさと消えろ」
言い捨てた言葉と同時に、掴まれていた喉元が解放された。大きく息を吸いながら、こちらを見向きもせずに去っていく背を黙って見送る。
思い出すのは先ほどの異父兄の眼差し。私の言葉に怒り、暗い焔を燃え上がらせていた。だけど、ただ、それだけ。
(……なんだ、違うのね)
己が確かめたかったのは、愛する者を手に出来ずにもがき苦しむ地獄のような熱量、身を引き裂く悲しみと怒りに堕ちていく狂気が彼の内にあるのかということ。それが存在しない時点で、異父兄が愛したという騒動の元凶は彼の最愛ではなかった。ならば、彼の愚行には一片の同情の余地さえない。
「……ルアナ様、まだいらっしゃったのですか? レナウド様のお言葉をお聞きのはずです。ルアナ様がなさるべきことは、おわかりだと思いますが?」
異父兄に付き従ったはずの老執事がこちらへ向かってくる。
(つまり、さっさと出ていけってことね?)
こんな時だけは雄弁な執事の前を通り過ぎ、部屋へと向かう。
「荷物を取ってくるわ」
「その必要はありません」
ボーガードの言葉に振り返ると、彼の背後から現れたカーラがこちらに鞄を一つ差し出す。
「服や装飾品、荷造りしたものは他にもあったはずだけど?」
「このお屋敷の主はレナウド様です。レナウド様の許可なく、屋敷のものを持ち出すことは許されません」
渡された鞄を眺める。これ一つで王都まで行けとは、仮にも伯爵令嬢の嫁入り仕度としては何もかもが不足している。
(……けど、まあ、いいかしら?)
ここで揉める時間が惜しい。屋敷の明け渡しが済んだ今、一刻も早く王都へ飛んで行きたい。この焦燥を、これ以上は抑え切れそうにない。
「ボーガード、馬車を!」
「町までは当家の馬車を出します。町から先は、辻馬車なり何なりを拾われてください」
そう言い捨てて去っていく背中に、一応、別れの言葉を考えてみる。
(……なんにも浮かばないわね)
鞄一つを手に、近づく車輪の音の方へと足を踏み出した。
第二章 十年ぶりの王都、廃墟と化した屋敷
「……ここ、よね?」
十年前の記憶を頼りにたどり着いた、王都のロイスナー邸。閉ざされた玄関扉の前で背後を振り返る。少し荒れている気がするが、見覚えのあるアプローチ、門扉にも僅かに郷愁を感じる。
「……」
もう一度、玄関の扉を叩く。出迎えにこいとまでは言わないが、そろそろ扉くらいは開けてほしい。いや、そもそも屋敷の中に人の気配が全く感じられないのだけれど。
どうしたものかと思案に暮れていると、扉が細く開いた。
「……あの?」
開いた隙間から少女が顔をのぞかせたが、明らかに屋敷の主人を出迎える態度ではない上に、客人を迎える態度としてもいただけない。そもそも下働きのように見える彼女がなぜ?
「こんにちは、ただいま、初めまして。中に入れてくれる?」
疑問は尽きないものの、とりあえずの挨拶を口にして、扉をこじ開けた。
「え!? あの! えっと……!」
戸惑う少女を押し退けるようにして中へと足を踏み入れれば、目に入った既視感のある光景に、再び頭痛がしてくる。
「あの! お客様、困ります! 今ここには誰もいなくて、だから、その! 勝手に!」
「ああ、名乗ってなかったわね。私はルアナ・ロイスナー、今日からこの屋敷の主人よ」
「え? ロイスナー!? え!?」
名乗ったところで、困惑を増した少女に問いかける。
「混乱してるところ悪いけれど、あなた、名前は?」
「え? あ! はい、マリーです! あ、マリーと申します!」
「マリーね、よろしく。それで、早速で悪いんだけど、説明してくれるかしら? この状況を」
そう言いながら周囲を手で指し示す。玄関ホールには、調度品はおろか、カーテンさえも掛かっていない。壁にいたっては、無理矢理引き剥がされた壁紙、さらにはその下の壁板までもがなくなってしまっている。
「えっと、その、あの、これは……」
言い淀んだマリーが黙り込んでしまった。目に見えて怯えている彼女の姿に、僅かに後悔を覚える。追いつめるつもりはなかったのだが、彼女に問うたのは不味かったかもしれない。
「……他の人達は? 誰か他に、この状況を説明出来る人を呼んでもらえるかしら、マリー?」
こちらの言葉に、マリーの肩がわかりやすく跳ねた。
「申し訳ありません! ここには私と料理番のハンナさんしかいなくて……」
「執事も、家政婦長もいないの?」
天下のロイスナーの王都屋敷に使用人が二人という異常事態に戸惑う。
「はい、あの、レナウド様が出ていかれた後に、みんなお屋敷を出ていってしまって」
「みな、辞めてしまったということ? なぜ?」
「あの、それが、その、色々な噂があって、……このまま雇われていてもお給料がもらえないんじゃないかっていう噂にみんな不安になってしまって……」
そのまま俯いてしまったマリーに問いかける。
「……他には?」
「え?」
「あなた今、『色々な噂』って言ったでしょう? 他には?」
聞かなくても、なんとなく察することが出来る噂の中身。ハゼルでの家人や出入りの商人達が口にする私の評判は相当なものだったし、その悪名はどうやら王都にまで轟いているということも知っている。加えて、自身が外見からは、決して良い印象を持たれないということも。
案の定、今まで以上に挙動不審になったマリーが、盛大に視線を泳がせ始めた。
「私の噂でも流れていた? ルアナ・ロイスナーは傲慢で残虐、人を人とも思わない、そんなところかしら?」
大きく目を見開いたマリーの顔から、血の気が引いていく。流石に意地悪が過ぎたかもしれない。完全に沈黙してしまったマリーに、違う話を振った。
「……まぁ、仕方ないわね。残ったもう一人はどこ? 厨房かしら?」
「え!? あ! はい! 今、呼んで参ります!」
「いいわ。二度手間だから、私が行く。案内してちょうだい」
「えー!? あ、いえ! はい!」
慌てたようにそそくさと部屋を出ていくマリーの姿が、逃げ惑う小動物のように見えてくる。
(まぁ、間違いなく、主人を案内する態度ではないわね)
苦笑して、逃げる小動物の後を追ってたどり着いた厨房。そこにいたのは、かなり老齢の女性で、彼女が現役で料理番という重労働を担っているとはなかなかに信じがたかった。
「……あなたがハンナ?」
「はい」
こちらの姿を見た老婆は、既に曲がった腰をさらに屈めて礼をとる。
「私は、ルアナ・ロイスナー、あなた達の新しい主人よ」
返事はないが、ハンナの礼はさらに深くなった。特に反対や拒絶を示すこともなく、落ち着き払った態度を見せるハンナの横で、マリーの視線は相変わらず忙しなくあちこち彷徨っている。
「……さて、あなた達に聞きたいことがあるわ。屋敷に残ったのは、二人だけだと聞いたけれど。なぜ、あなた達は出ていかなかったの?」
給金が貰えるかもわからないような場所で、残虐非道な主人の訪れを待つなど、普通に考えればあり得ない話だ。意図して高圧的に尋ねると、マリーが小さく悲鳴をあげた。そんな彼女の態度とは対照的に、ハンナが淡々と答えを返す。
「……あたしゃ、この年です。他に行くあてがございませんから」
「ふーん。なるほど、ね……」
確かに年老いた料理番の再就職先なんて、そうそう簡単に見つかるものではない。退職金をしっかり貰えていれば、のんびりと隠居生活を送ることも出来たのだろうけれど、愚兄がその辺りをきちんと手配した形跡は見当たらない。
「それで? マリー、あなたは?」
「ヒゥ!? も、も、申し訳ありません!」
今度は、視線を向けただけで悲鳴をあげられてしまった。
「ああ、もういいから。それで? マリーは、なぜここに残ったの?」
「は、はい、あの、私は、ハンナさんを一人にするのは不安で、あの、だから、残りました」
怯えきった態度で、そんな理由を口にする彼女を見て、心の底から深々とため息をついてしまう。
(老女に小娘が加わったところで、一体どれだけ事態が好転するっていうのよ?)
「ヒッ! あの! 申し訳!」
「謝る必要はないわ」
有益性はどうあれ、ハンナのために残ったというマリーの心根自体は非常に好ましく思っている。むしろ呆れているのは、彼女らの防犯意識のなさに対してだ。
「……よく襲われなかったわね?」
貴族屋敷に非力な女二人。物騒な輩にとっては格好の獲物だったはず。
「あ、はい! あの、それは大丈夫です! お屋敷には高価なものが全然なくて、ほとんどレナウド様がお持ちになりましたし、残ったものは、えと、あの……」
途中までの勢いはどこへやら、言い淀み始めたマリーの言葉の後を引き継ぐ。
「辞めていった者達が持ち出したのね?」
再び顔色を失ったマリーの表情が、これ以上ないほど己の言葉を肯定している。しかし、これで一応、壁紙やらカーテンやらまでなくなっていたことの説明はついた。
「いいわ。家財を持ち出したのは、退職金代わりってことで不問に付しましょう」
あからさまにホッとするマリーと、黙ったままのハンナを見比べる。
「それで、これからのことだけれど、あなた達はどうするつもり?」
「……どうするつもりと言いますのは?」
「今後も、この屋敷に仕える気がある? もちろん、給金は出すけれど、それだけじゃ続けられないでしょ」
彼女達には噂に聞いたルアナ・ロイスナーではなく、今目にしている新たな主人、実際の私を見た上で、この屋敷で働き続けるかを選択してもらう。
「……さっきも申し上げた通り、あたしゃ、他に行くとこがありませんから」
先に口を開いたのはハンナだった。彼女の言葉に、おずおずとマリーが続く。
「……あの、私も、出来ればここで働かせてもらえると嬉しいです」
「そう……。ありがとう、ハンナ、マリー。助かるわ」
(正直、今すぐ辞めたいなんて言われてたら、困るとこだったわ……)
二人を交互に眺めて、言葉を続けた。
「紹介所に人を集めてもらう予定ではいるけれど、それまではこの三人で屋敷をなんとかしていくことになるわ。しばらくは大変だということは、二人とも覚悟しておいて」
己の言葉に、二人が頷くのを確かめた。そうして、前途多難の王都生活の初日は、三人で簡単な夕食を済ませた後、とりあえずなんとか眠ることが出来そうな一間をマリーに整えてもらい床に就いたのだった。
起床してすぐに、改めて屋敷全体を見て回ったが、結果は、まぁ当初の印象と然して変わらず。つまり、絶望的。
「……これは、もう、内装全部、改修するしかないわね」
家財がなくなっているのはまだいい。問題は、ボロボロの壁紙やら壁板の方だ。恐らく、辞めていった者達が、壁の中に何か――隠し金庫でも――ないかと期待し探し回った結果なのだろう。
(だとしても、彼らを責められないのが辛いところよねぇ……)
マリー達の話を聞く限り、辞めていった者達がここまでの暴挙に出た原因は、愚兄の段取りの悪さにある。そもそもする気があったのかは疑問ではあるが、彼らの生活や仕事に対して説明やら保証やらが完全に不足していたのだから。
「……あの、愚兄が」
後始末の面倒さを考えると、恨み節の一つも吐き出したくなるというもの。
(……だけど、これも考え方次第よね? 同じ改修をするのなら、後始末ではなく、いっそのこと彼のために……)
頭に浮かんだ人物、屋敷の未来を想像して口角が上がった。思い立ったがなんとやら、出来ることには早めに取りかかろう。
「マリー、着替えるわ。手伝って」
奥の部屋からドタバタと駆けてくる足音を聞きながら、仮の私室と定めた部屋へと戻る。
私が王都に出てきた目的も理由もたった一つ。その前の雑事など、素早く、だけど完璧に終わらせてしまうに限る。着替えを済ませ、「お一人で外出などとんでもない!」というマリーの悲鳴を背中で聞きながら、屋敷を飛び出した。
「……十年ですごい変化。さすがは王都」
十年前の記憶しかない身には、目にするもの何もかもが新鮮に映る。
記憶とは全く異なる王都の街並みを眺めながら、フラフラと歩く。完全なるお上りさん状態で、向かうのはマリーから聞き出した職人街。今回の目的は二つ。屋敷の改修を請け負ってくれそうな建築家を見つけることと、紹介所で新しい使用人の求人を出すことだ。
(どちらも急ぎっていうのが、困るのよねぇ)
本来なら醜聞にまみれたとはいえ、伝統あるロイスナー家の令嬢が市井に直接出向いて回るというのは非常に外聞が悪い。せめて侍女を一人雇い、それなりの体裁を整えて、というのが理想なのだが、生憎そんな悠長なことをしている時間はない。
(そもそも、今のあの屋敷の惨状で働きたいと思う侍女なんている? こんなことなら、ハゼルから誰かを……ううん、それはないわね)
ついて来てくれる者などいなかっただろうが、こちらだってお断り。いないものは仕方ないのだから、結局、自分一人で動くしかない。
(後は、まぁ、私がナメられないようにするくらいかしら?)
貴族とは言え、小娘一人、交渉相手に侮られる可能性は十分にある。あれやこれやと考えながら進む内、職人街に辿り着く。フラフラと見て回る中で一つの看板を見つけ、足を止めた。
「……ハブウェル工房って、あの?」
王都から遠く離れたハゼルにも、たまにではあるが、王都の華やかな噂話が流れてくることがある。その中で何度か耳にしたことのある名前、ハブウェル。どこそこの侯爵邸を新築しただの、大聖堂の補修工事を完璧に仕上げただのと、噂通りなら、飛ぶ鳥を落とす勢いの建築家に違いない。
「……そうね、ダメ元で」
屋敷をただ改修するだけならば、私自身に大したこだわりはない。見苦しくない程度に住めるようになればそれで十分。
(だけど、見苦しくない程度じゃだめなのよ)
そう、今はまだ私が屋敷の主のように振舞っているが、本来あの屋敷は、王立騎士団の長に与えられたもの。
「うん! 何がなんでも、完璧な状態でお渡ししなくちゃ!」
一人、決意を呟いて、扉に手をかけた。
「ごめんください」
「はい。いらっしゃいませ、ハブウェル工房へようこそ」
若い男性の出迎え、歓迎を示す言葉になんと返すべきかを迷う。
「突然ごめんなさい。実は、紹介状も何もないのだけれど、屋敷の改修をお願いしたくて……」
「ええ、問題ございませんよ」
物腰柔らかな店員が笑顔で答える。
「当工房では、新規のお客様のご注文も受け付けております。……こちらへどうぞ。店主を呼んでまいります」
店員に案内された応接間。壁一面には、建造物の絵が飾られていた。
「ここで造った建物の宣伝、てとこかしら?」
王都でも有数の建物がいくつも飾られていることから、以前、耳にした噂はそう大きく外れてはいないらしい。絵を眺めるうち、背後に近づく気配を感じて振り返った。
「……いかがですかな、当工房の作品は? お嬢様のお眼鏡には適いましたかな?」
「ええ、とても素晴らしいわ」
奥から現れた男、細身にモノクルをかけた初老の男性が、満足げに頷く。その視線が、瞬きの間、こちらを値踏みしていった。
「お褒めにあずかり光栄にございます。お客様にも必ずや、ご満足頂ける結果をお約束いたしましょう」
にこやかな笑みを浮かべた男は、大仰な仕草で礼をとる。
「申し遅れました、私、当工房の主、ハブウェルと申します」
「初めまして。ルアナ・ロイスナーよ」
「……ロイスナー? あの、もしやロイスナー家とおっしゃいますと……」
一瞬で笑顔を失った男の口元が引きつる。
「ええ。多分、そのロイスナーよ。父は前騎士団長を務めていたウィリアム・ロイスナー。父が不在の今、私が王都屋敷の一切を任されているの」
ハブウェルの反応から、答えは既に見えているようなものだが、こちらの要求を口にした。
「屋敷の内装を一新したいと考えているわ。お願い出来るかしら?」
「それは……申し訳ございません、ロイスナー様……」
言ったきり、その先を言わない男の真意を問う。
「それは、私の依頼を断るという意味ね?」
「誠に申し訳ございません。ですが、やはり今回のご依頼、当方では承りかねるかと……」
「もしかして、支払いを心配されているのかしら? 心配だというなら、支払いは先払いにするわ。それならいかが?」
屋敷に呼びつけず、家人を使いにも出さずに、伯爵令嬢自らが出向いているのだ。奇異に思われるのも、経済的安定を疑われてしまうのもいたし方ない。
「いえ、申し訳ございません、ロイスナー様。失念していたのですが、今ちょうど、多くのご依頼を頂いておりまして、大変立て込んでいる状況でございます。そのため、当工房は新規のご注文を承る余裕がなく……」
そう言って、深々と頭を下げたハブウェルを見下ろす。
(これはまた、酷く嫌われたものね)
ロイスナーの名を出したところで、彼の態度は豹変した。個人としての悪名か、家の信頼が落ちたためか。どちらにせよ、高名な建築家には忌避されてしまったらしい。
「……わかったわ」
覚悟はしていたし、ダメ元での依頼だ。これ以上、目の前の男を煩わせるつもりはない。
(時間も惜しいし、何より、渋々、改修された屋敷に住むなんて最悪だもの)
頭を下げ続ける男の前を通り過ぎる。見送りは待たずに、店を後にした。
「……さて、本格的に困ったわね」
店を出たところで零れた弱音。状況的にはかなりまずい。このままでは、至高の存在を、己の唯一を、あのとんでもないオンボロ屋敷に迎えることになってしまう。
(そんなの、絶対にいやよっ!!)
想像して血の気が引く。彼をあんな環境に置くくらいなら、例え住む場所を失うことになろうと、屋敷などいっそ燃やしてしまった方がいい。
(って、だめよね。ハンナやマリーがいるんだし)
己の配下にある人間の存在が妄想に歯止めをかける。グルグルと思考しながら歩くが、それさえ邪魔する存在があることに気づき、軽くため息をつく。ハブウェルの工房が見えなくなった頃、大通りから続く横道に入ったところで足を止めた。工房を出た直後から感じていた存在を認めて、振り返る。
「……私に、何か用?」
「お、俺は、決して怪しい者じゃ」
背後をつけてきていた男が狼狽を見せる。
「怪しいとは言っていない。何の用かと聞いているの」
「う、や、俺は、あんたが、ハブウェルの店から出てきたのをたまたま見かけて……」
「……それが、何?」
「いや、だから何ってわけじゃないんだが……」
要領を得ない男の話に苛立つ。感情を押し殺したまま見据えると、男が大きくビクついた。
「っ! すまん! だが、俺は……!」
「謝罪は要らない。さっさと用件を言いなさい」
「ひっ!? こ、個人の家の設計なら、あいつより俺の方が上手くやれる! と……お、俺はただ、そう言いたかっただけで……」
何やらもごもごと呟いているが、この男の目的は理解した。
(……つまり、これって売り込みで、ハブウェルじゃなく俺を使ってくれってことよね?)
今度は、そういう視点で男を観察してみる。容姿は平凡、よくある茶色の髪に茶色の瞳の組み合わせ。肩幅は広く、体格はいいが、先ほど会ったハブウェルと比べると明らかに精彩を欠いた中年男性。服装だって、洗練されているとはとても言い難い。
「っ!! いや、すまん。何でもないんだ、今のは忘れてくれ!」
不躾に眺めているうちに、いたたまれなくなったのか、男は視線を避けるように身を翻した。
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