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第一章 突然始まった非現実
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何も言わずに歩き続ける男の後を、必死に追う。
多分、だけど、かなりゆっくり歩いてくれていると思う。完全に着崩れてしまっている振袖も、歩く度に鼻緒が痛む草履も、こんな森の中を歩くのには全く向いていない。体格差もこれだけあって、それでも何とかついていけているんだから―
川のそば、少し開けた場所で男が立ち止まった。常に薄暗かった森を抜けたことで初めて、今が日暮れ時なのだと知る。
不慣れな道を歩き通しで、一度止まってしまえばもう歩き出すのは無理だと思えるほどに疲労困憊していた。男が焚き火を作り始めた時には、やっと休めるのだという安堵から地面に崩れ落ち、男が食事を作り始めるのを、何もせずに黙って眺めていることしか出来なかった。
へたりこんで放心していると、男が何かの肉を炙った串と、硬そうなパンのようなものを黙って差し出してくれた。
厳つい見た目に、無精髭の下でもわかる無愛想な表情。こちらは見ず知らずの、勝手についてきているだけの女で。そんな相手に、正直、ここまでしてくれるとは思っていなかったから。
躊躇いながらも手を伸ばす。
『…ありがとう』
まだ混乱しているし、疲れすぎていて食欲は全く無いけれど、男の優しさに、少しだけ気持ちが柔いだ。
体力を回復しないといけない。味を全く感じられない食事を、何度も咀嚼することで何とか喉に流し込んだ。男に手渡された筒に入っていた水を飲み終えたところで、男の視線がこちらに向いていることに気づく。
「…何故、俺についてくる?仲間はどうした?」
言われた言葉の響きには、やはり全く聞き覚えが無い。
「…お前のその格好は、贄か?仲間から、逃げ出したか?」
『…ごめんなさい、わかりません』
淡々と紡がれる理解できない言葉に、首を振ることで答える。男が、深くため息をついた。
「…森を出るまで、まだしばらくはかかる。その格好では、森を進めん」
『?』
呟いた男が、腰のポーチから布を取りだし、こちらへと差し出す。意味がわからずに首を傾げれば、男がこちらとその布を交互に指差し、最後に木々の繁る藪の方を指差した。
「…着替えてこい。あまり奥には入るな」
渡された布は、男が着ているのと同じような服だった。私には大きすぎるけれど、着替えろということなんだろう。確かに、今の格好で森を歩くのはきつすぎる。
ヨロヨロと立ち上がって歩き出す。男の示した木々の陰へと入り、完全に弛みきってしまっていた帯をゆるゆると解いていった。
木々の間で服を替えながらも、男から離れたことで、また不安が強くなってきた。背後、森の奥の暗闇が恐い。茂みから顔だけ覗かせて、男の存在を確かめた。見えたのは、男の大きな背中。それだけで、自分でもびっくりするくらいに安心してしまった。初めてあったばかりの、名前も知らないような人を相手に―
そこまで考えて、本当に彼の名前さえも知らないことに気づく。命の恩人で、ここまで親切にしてくれている人なのに。
脱いだ振袖と帯を手早くまとめて、男の元へと急いで戻った。
『洋服、ありがとうございます。あの、』
「…着れたか」
お礼の言葉に振り向いてこちらを確かめた男に、分かりやすいように自分を指差す。
『私、芦原澄子、トウコって言います。トウコ』
名だけを繰り返した後、自分を差していた指先を、男に向ける。
『あなたの名前は?』
首をかしげることで疑問を伝えたけれど、果たしてこれで伝わっただろうか。男の反応が返らないことに、もう一度口を開こうとしたところで、低い、聞き逃しそうな声が聞こえた。
「…ヴォルフ」
『ヴォルフ?』
彼を指し示して、確かめるように単語を繰り返せば、男、ヴォルフが頷いた。
『…ありがとう、ヴォルフ』
名前を教えてくれたこと。返してくれた反応が嬉しくて、言葉がこぼれた。じっとこちらを見つめる視線に居心地が悪くなってきたところで、ヴォルフが手を差し出した。
「…それを」
『これ?振袖のこと?あ、預かってくれるってことですか?』
私が持っている振袖と、腰のポーチを交互に指差すヴォルフに、手の中のものを渡そうとして、躊躇した。これを自分で持ったまま、森を歩くのは無理だとわかっているけれど。でも、これは、
―私と家族を繋ぐ、大切な
思わず、腕の中の振袖を胸元でギュッと抱き締めた。覗き込んで確かめる。泥汚れはあちこちについているし、熊から逃げる時に引っ掻けたほつれもたくさん出来ている。
この汚れは、クリーニングで落とせるんだろうか?いくつも開けてしまった穴は修繕出来る?修繕が無理なら、子ども用に仕立て直してもらって、もうすぐ産まれる姉の赤ちゃんに譲ればいいのかな?ああ、でも、その前に、
―私は家に帰れるんだろうか?
異常な状況ばかりが続くここが、自分の知る世界ではない可能性。言葉が通じないから、ヴォルフに確かめることも出来ないけれど、その可能性が高いことを、心の中では既に認めてしまっている。
込み上げてくる涙。振袖の柄が滲む。これを譲ってくれた時の姉の優しい顔も、これを着付けて、似合う似合うと嬉しそうに笑ってくれた母の顔も、もう二度と見られない?
体から力が抜けて、膝から崩れ落ちた。地面に座り込んで、わき上がる悲しみと恐怖に声を出して泣いた。
何で?どうしてこんなことに?嫌だ!家に帰りたい!帰してよ!…お母さん、お姉ちゃん。会いたい。恐い。お願い助けて。会いたいよ。
考えないように、感じないようにしていた思い。抑えきれずに溢れてしまったそれに、あっという間に飲み込まれてしまった。腕の中の振袖を強く抱き締める。自分ではもうどうしようもなくて、丸くなって子どもみたいに泣き続けた。
何も言わずに歩き続ける男の後を、必死に追う。
多分、だけど、かなりゆっくり歩いてくれていると思う。完全に着崩れてしまっている振袖も、歩く度に鼻緒が痛む草履も、こんな森の中を歩くのには全く向いていない。体格差もこれだけあって、それでも何とかついていけているんだから―
川のそば、少し開けた場所で男が立ち止まった。常に薄暗かった森を抜けたことで初めて、今が日暮れ時なのだと知る。
不慣れな道を歩き通しで、一度止まってしまえばもう歩き出すのは無理だと思えるほどに疲労困憊していた。男が焚き火を作り始めた時には、やっと休めるのだという安堵から地面に崩れ落ち、男が食事を作り始めるのを、何もせずに黙って眺めていることしか出来なかった。
へたりこんで放心していると、男が何かの肉を炙った串と、硬そうなパンのようなものを黙って差し出してくれた。
厳つい見た目に、無精髭の下でもわかる無愛想な表情。こちらは見ず知らずの、勝手についてきているだけの女で。そんな相手に、正直、ここまでしてくれるとは思っていなかったから。
躊躇いながらも手を伸ばす。
『…ありがとう』
まだ混乱しているし、疲れすぎていて食欲は全く無いけれど、男の優しさに、少しだけ気持ちが柔いだ。
体力を回復しないといけない。味を全く感じられない食事を、何度も咀嚼することで何とか喉に流し込んだ。男に手渡された筒に入っていた水を飲み終えたところで、男の視線がこちらに向いていることに気づく。
「…何故、俺についてくる?仲間はどうした?」
言われた言葉の響きには、やはり全く聞き覚えが無い。
「…お前のその格好は、贄か?仲間から、逃げ出したか?」
『…ごめんなさい、わかりません』
淡々と紡がれる理解できない言葉に、首を振ることで答える。男が、深くため息をついた。
「…森を出るまで、まだしばらくはかかる。その格好では、森を進めん」
『?』
呟いた男が、腰のポーチから布を取りだし、こちらへと差し出す。意味がわからずに首を傾げれば、男がこちらとその布を交互に指差し、最後に木々の繁る藪の方を指差した。
「…着替えてこい。あまり奥には入るな」
渡された布は、男が着ているのと同じような服だった。私には大きすぎるけれど、着替えろということなんだろう。確かに、今の格好で森を歩くのはきつすぎる。
ヨロヨロと立ち上がって歩き出す。男の示した木々の陰へと入り、完全に弛みきってしまっていた帯をゆるゆると解いていった。
木々の間で服を替えながらも、男から離れたことで、また不安が強くなってきた。背後、森の奥の暗闇が恐い。茂みから顔だけ覗かせて、男の存在を確かめた。見えたのは、男の大きな背中。それだけで、自分でもびっくりするくらいに安心してしまった。初めてあったばかりの、名前も知らないような人を相手に―
そこまで考えて、本当に彼の名前さえも知らないことに気づく。命の恩人で、ここまで親切にしてくれている人なのに。
脱いだ振袖と帯を手早くまとめて、男の元へと急いで戻った。
『洋服、ありがとうございます。あの、』
「…着れたか」
お礼の言葉に振り向いてこちらを確かめた男に、分かりやすいように自分を指差す。
『私、芦原澄子、トウコって言います。トウコ』
名だけを繰り返した後、自分を差していた指先を、男に向ける。
『あなたの名前は?』
首をかしげることで疑問を伝えたけれど、果たしてこれで伝わっただろうか。男の反応が返らないことに、もう一度口を開こうとしたところで、低い、聞き逃しそうな声が聞こえた。
「…ヴォルフ」
『ヴォルフ?』
彼を指し示して、確かめるように単語を繰り返せば、男、ヴォルフが頷いた。
『…ありがとう、ヴォルフ』
名前を教えてくれたこと。返してくれた反応が嬉しくて、言葉がこぼれた。じっとこちらを見つめる視線に居心地が悪くなってきたところで、ヴォルフが手を差し出した。
「…それを」
『これ?振袖のこと?あ、預かってくれるってことですか?』
私が持っている振袖と、腰のポーチを交互に指差すヴォルフに、手の中のものを渡そうとして、躊躇した。これを自分で持ったまま、森を歩くのは無理だとわかっているけれど。でも、これは、
―私と家族を繋ぐ、大切な
思わず、腕の中の振袖を胸元でギュッと抱き締めた。覗き込んで確かめる。泥汚れはあちこちについているし、熊から逃げる時に引っ掻けたほつれもたくさん出来ている。
この汚れは、クリーニングで落とせるんだろうか?いくつも開けてしまった穴は修繕出来る?修繕が無理なら、子ども用に仕立て直してもらって、もうすぐ産まれる姉の赤ちゃんに譲ればいいのかな?ああ、でも、その前に、
―私は家に帰れるんだろうか?
異常な状況ばかりが続くここが、自分の知る世界ではない可能性。言葉が通じないから、ヴォルフに確かめることも出来ないけれど、その可能性が高いことを、心の中では既に認めてしまっている。
込み上げてくる涙。振袖の柄が滲む。これを譲ってくれた時の姉の優しい顔も、これを着付けて、似合う似合うと嬉しそうに笑ってくれた母の顔も、もう二度と見られない?
体から力が抜けて、膝から崩れ落ちた。地面に座り込んで、わき上がる悲しみと恐怖に声を出して泣いた。
何で?どうしてこんなことに?嫌だ!家に帰りたい!帰してよ!…お母さん、お姉ちゃん。会いたい。恐い。お願い助けて。会いたいよ。
考えないように、感じないようにしていた思い。抑えきれずに溢れてしまったそれに、あっという間に飲み込まれてしまった。腕の中の振袖を強く抱き締める。自分ではもうどうしようもなくて、丸くなって子どもみたいに泣き続けた。
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