4 / 78
第一章 突然始まった非現実
3.
しおりを挟む
3.
『グギャァアア!』
覚悟した痛みはなく、代わりに響いた恐ろしい獣の雄叫び。そっと目を開くと、ズシンという地響きをたてて巨体が倒れこむところだった。その巨体に、頭部がない。血を噴き出す体から離れたところに、白目を剥き、口から舌を垂らした熊の頭が転がっている。
「っ!?」
差し迫った命の危機は去ったのだろうが、その異様すぎる光景に腰がぬけて立ち上がれない。何が起きたのかを確かめたいのに。震えたまま動けずに居れば、熊の巨体の向こう、大きすぎるそれの死角になっていた場所に男が立ち上がった。
「…」
一瞬だけ、男と目が合った気がした。けれど気づいているはずの男は、こちらを気にかける様子もなく熊にナイフを立て、器用にその皮を剥いでいく。
立ち上がれずに、上手く回らない頭で男の行動を唖然と眺める。状況から、熊を殺したのはこの男。男が背中に背負っている大きな剣、あれで熊の首を切り落としたのだろうか。背筋がブルリと震えた。
淡々と作業を続ける男は、180はありそうな長身で、体格がいい。ナイフを立てる度に、腕の筋肉がぐっと盛り上がっている。力はありそうだから、あんなに大きな剣を使えるのだろうが、それでもあんなに太い熊の首を切り落とすなんて信じられない。
髪も目も、それに顔を覆う伸び放題の髭も黒いけれど、顔立ちが日本人とは丸っきり違う。彼に声をかけるタイミングを見計らってはいるけれど、言葉が通じるか、自信がない。それでも、このままこうしているわけにもいかないから。作業を終えたらしい男に話しかけようとして、出かけた言葉を寸でで飲み込んだ。
あの巨大な熊の、それに見合うだけの体積があった毛皮が、男の腰に下げられた小さなポーチに入ってしまったのだ。するすると、吸い込まれるように。
『…うそ。何、今の』
唖然としてこぼれた言葉に、男がこちらを振り向いた。
何も言わずに、じっとこちらを見つめる男の眼光は鋭い。髭に覆われているから、表情がよみにくいけれど、友好的な雰囲気でないのは確か。それでも、命を助けてもらって、この訳のわからない状況を説明してくれるかもしれない相手だ。何とか立ち上がって頭を下げた。
『…ありがとう、ございます。助けていただいて』
顔をあげて相手の反応をうかがうが、返事はない。やはり、言葉が通じないのだろうか。
『…Thank you』
得意ではない英語でお礼を言うが、これに対する反応も鈍い。せっかく人に会えたのに、どうしたらいいかわからなくて、項垂れる。
「…ナユタの森の民か?」
低い、男の声にハッとして頭を上げる。動かない表情としばし見つめ合って、男の言葉の響きに全く聞き覚えがないことに気づく。
突然、見知らぬ場所に立っていて、出会った人は聞いたこともない言葉を話す。それに、魔法のように仕舞われた熊の毛皮。そう、魔法のようだった。
嫌な想像が、どんどん膨らむ。ひょっとして、ここは、自分は―
自分の考えに沈んでいれば、男が何も言わずに立ち去ろうとする。
『あ!待って下さい!』
「…」
言葉は通じないけれど、それでも頼れそうな相手。あんな生き物が出てくるような、どこともわからない場所に置いていかれたら、次はきっと本当に死んでしまう。
『すみません。どこか安全な、街とかまで連れていってもらえませんか?』
「…ナユタの言葉は、わからん」
どうしよう。私の言葉も通じていないだろうけど、彼が何を言っているのかもわからない。こんな状況で言葉が通じないなんて、本当にどうしたら。
男がまた、背を向けて歩き出した。彼がなんて言ったのかはわからない。迷惑なのはわかっているけれど、でも、他にどうすればいいかがわからないから。彼の後を、黙って歩き出す。一度、チラリとこちらを振り向いた男は、何も言わずにまた前を向いた。
『グギャァアア!』
覚悟した痛みはなく、代わりに響いた恐ろしい獣の雄叫び。そっと目を開くと、ズシンという地響きをたてて巨体が倒れこむところだった。その巨体に、頭部がない。血を噴き出す体から離れたところに、白目を剥き、口から舌を垂らした熊の頭が転がっている。
「っ!?」
差し迫った命の危機は去ったのだろうが、その異様すぎる光景に腰がぬけて立ち上がれない。何が起きたのかを確かめたいのに。震えたまま動けずに居れば、熊の巨体の向こう、大きすぎるそれの死角になっていた場所に男が立ち上がった。
「…」
一瞬だけ、男と目が合った気がした。けれど気づいているはずの男は、こちらを気にかける様子もなく熊にナイフを立て、器用にその皮を剥いでいく。
立ち上がれずに、上手く回らない頭で男の行動を唖然と眺める。状況から、熊を殺したのはこの男。男が背中に背負っている大きな剣、あれで熊の首を切り落としたのだろうか。背筋がブルリと震えた。
淡々と作業を続ける男は、180はありそうな長身で、体格がいい。ナイフを立てる度に、腕の筋肉がぐっと盛り上がっている。力はありそうだから、あんなに大きな剣を使えるのだろうが、それでもあんなに太い熊の首を切り落とすなんて信じられない。
髪も目も、それに顔を覆う伸び放題の髭も黒いけれど、顔立ちが日本人とは丸っきり違う。彼に声をかけるタイミングを見計らってはいるけれど、言葉が通じるか、自信がない。それでも、このままこうしているわけにもいかないから。作業を終えたらしい男に話しかけようとして、出かけた言葉を寸でで飲み込んだ。
あの巨大な熊の、それに見合うだけの体積があった毛皮が、男の腰に下げられた小さなポーチに入ってしまったのだ。するすると、吸い込まれるように。
『…うそ。何、今の』
唖然としてこぼれた言葉に、男がこちらを振り向いた。
何も言わずに、じっとこちらを見つめる男の眼光は鋭い。髭に覆われているから、表情がよみにくいけれど、友好的な雰囲気でないのは確か。それでも、命を助けてもらって、この訳のわからない状況を説明してくれるかもしれない相手だ。何とか立ち上がって頭を下げた。
『…ありがとう、ございます。助けていただいて』
顔をあげて相手の反応をうかがうが、返事はない。やはり、言葉が通じないのだろうか。
『…Thank you』
得意ではない英語でお礼を言うが、これに対する反応も鈍い。せっかく人に会えたのに、どうしたらいいかわからなくて、項垂れる。
「…ナユタの森の民か?」
低い、男の声にハッとして頭を上げる。動かない表情としばし見つめ合って、男の言葉の響きに全く聞き覚えがないことに気づく。
突然、見知らぬ場所に立っていて、出会った人は聞いたこともない言葉を話す。それに、魔法のように仕舞われた熊の毛皮。そう、魔法のようだった。
嫌な想像が、どんどん膨らむ。ひょっとして、ここは、自分は―
自分の考えに沈んでいれば、男が何も言わずに立ち去ろうとする。
『あ!待って下さい!』
「…」
言葉は通じないけれど、それでも頼れそうな相手。あんな生き物が出てくるような、どこともわからない場所に置いていかれたら、次はきっと本当に死んでしまう。
『すみません。どこか安全な、街とかまで連れていってもらえませんか?』
「…ナユタの言葉は、わからん」
どうしよう。私の言葉も通じていないだろうけど、彼が何を言っているのかもわからない。こんな状況で言葉が通じないなんて、本当にどうしたら。
男がまた、背を向けて歩き出した。彼がなんて言ったのかはわからない。迷惑なのはわかっているけれど、でも、他にどうすればいいかがわからないから。彼の後を、黙って歩き出す。一度、チラリとこちらを振り向いた男は、何も言わずにまた前を向いた。
4
お気に入りに追加
710
あなたにおすすめの小説
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
異世界召喚されたけどヤバい国だったので逃げ出したら、イケメン騎士様に溺愛されました
平山和人
恋愛
平凡なOLの清水恭子は異世界に集団召喚されたが、見るからに怪しい匂いがプンプンしていた。
騎士団長のカイトの出引きで国を脱出することになったが、追っ手に追われる逃亡生活が始まった。
そうした生活を続けていくうちに二人は相思相愛の関係となり、やがて結婚を誓い合うのであった。
【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。
早稲 アカ
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。
宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。
彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。
加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。
果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?
選ばれたのは私ではなかった。ただそれだけ
暖夢 由
恋愛
【5月20日 90話完結】
5歳の時、母が亡くなった。
原因も治療法も不明の病と言われ、発症1年という早さで亡くなった。
そしてまだ5歳の私には母が必要ということで通例に習わず、1年の喪に服すことなく新しい母が連れて来られた。彼女の隣には不思議なことに父によく似た女の子が立っていた。私とあまり変わらないくらいの歳の彼女は私の2つ年上だという。
これからは姉と呼ぶようにと言われた。
そして、私が14歳の時、突然謎の病を発症した。
母と同じ原因も治療法も不明の病。母と同じ症状が出始めた時に、この病は遺伝だったのかもしれないと言われた。それは私が社交界デビューするはずの年だった。
私は社交界デビューすることは叶わず、そのまま治療することになった。
たまに調子がいい日もあるが、社交界に出席する予定の日には決まって体調を崩した。医者は緊張して体調を崩してしまうのだろうといった。
でも最近はグレン様が会いに来ると約束してくれた日にも必ず体調を崩すようになってしまった。それでも以前はグレン様が心配して、私の部屋で1時間ほど話をしてくれていたのに、最近はグレン様を姉が玄関で出迎え、2人で私の部屋に来て、挨拶だけして、2人でお茶をするからと消えていくようになった。
でもそれも私の体調のせい。私が体調さえ崩さなければ……
今では月の半分はベットで過ごさなければいけないほどになってしまった。
でもある日婚約者の裏切りに気づいてしまう。
私は耐えられなかった。
もうすべてに………
病が治る見込みだってないのに。
なんて滑稽なのだろう。
もういや……
誰からも愛されないのも
誰からも必要とされないのも
治らない病の為にずっとベッドで寝ていなければいけないのも。
気付けば私は家の外に出ていた。
元々病で外に出る事がない私には専属侍女などついていない。
特に今日は症状が重たく、朝からずっと吐いていた為、父も義母も私が部屋を出るなど夢にも思っていないのだろう。
私は死ぬ場所を探していたのかもしれない。家よりも少しでも幸せを感じて死にたいと。
これから出会う人がこれまでの生活を変えてくれるとも知らずに。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
お金目的で王子様に近づいたら、いつの間にか外堀埋められて逃げられなくなっていた……
木野ダック
恋愛
いよいよ食卓が茹でジャガイモ一色で飾られることになった日の朝。貧乏伯爵令嬢ミラ・オーフェルは、決意する。
恋人を作ろう!と。
そして、お金を恵んでもらおう!と。
ターゲットは、おあつらえむきに中庭で読書を楽しむ王子様。
捨て身になった私は、無謀にも無縁の王子様に告白する。勿論、ダメ元。無理だろうなぁって思ったその返事は、まさかの快諾で……?
聞けば、王子にも事情があるみたい!
それならWINWINな関係で丁度良いよね……って思ってたはずなのに!
まさかの狙いは私だった⁉︎
ちょっと浅薄な貧乏令嬢と、狂愛一途な完璧王子の追いかけっこ恋愛譚。
※王子がストーカー気質なので、苦手な方はご注意いただければ幸いです。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
モブの私がなぜかヒロインを押し退けて王太子殿下に選ばれました
みゅー
恋愛
その国では婚約者候補を集め、その中から王太子殿下が自分の婚約者を選ぶ。
ケイトは自分がそんな乙女ゲームの世界に、転生してしまったことを知った。
だが、ケイトはそのゲームには登場しておらず、気にせずそのままその世界で自分の身の丈にあった普通の生活をするつもりでいた。だが、ある日宮廷から使者が訪れ、婚約者候補となってしまい……
そんなお話です。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる