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一章

2 悪役令嬢10歳

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静かな室内に、お嬢様がペンを走らせる音だけが聞こえる。

王太子殿下とのご婚約が調った六歳の砌より、お嬢様には過酷とも言える王太子妃教育が施されるようになった。そのあまりの非道さに、何度、ご当主様に嘆願申し上げたことか。お嬢様が寝込んでしまわれるほどの教師陣の苛烈さを、「娘のため」と言って憚らない当主の姿に、このままではお嬢様の命すら危ういと、思い余って王家への嘆願を果たそうとしたところで、己の勇み足を止めたのもまた、お嬢様の一言だった。

-そんなことしたら、ジェイクが怒られちゃう

あどけもなくも、何の打算もなく、ただ己のしもべを思いやって下さるお言葉に受けた衝撃。情けなく涙した己を、お嬢様は困ったように「泣かないで」と笑って下さった。

(…お優しいお嬢様。)

そのお嬢様の専属執事に任命されてより一年、お嬢様に相応しい己であることを目標に研鑽する、この幸福な日々がいつまでも続くことを願い-

「あ!」

「お嬢様?」

「今、庭に何かいた!猫か犬かも!何か餌あげたい!ジェイク、取ってきて!逃げられないよう、先行ってるから!」

言うなり、部屋から飛び出して行ったお嬢様にクスリと笑う。未だ十を数えたばかり、本来なら、もっと子どもらしい生活を送れているはずのお嬢様の、ほんの息抜き、その共犯になるならばと、屋敷の厨房へと足を向ける。

(…それにしても、やはり、うちのお嬢様はお優しいですね。)

小さき命のため駈けていった、あの輝くばかりの笑顔。

己の太陽-

(…王太子殿下は、お嬢様のあの笑顔をご覧になったことがないのでしょうか。)

婚約者であらせられる王太子とのお茶会で、お嬢様の笑顔は固く、どこかぎこちない。大勢に囲まれて常に自身の一挙手一投足を注目される。お嬢様がどんなに完璧に振る舞おうと、そこに何かしらの瑕疵を見いだす悪意の中にあって、お嬢様が上手く笑えないのは致し方ないこと。

しかし、それでも、王太子殿下がお嬢様に寄り添って下さりさえすれば-

(…いえ、これ以上は、お嬢様の執事に過ぎない私が考えることではありませんね。)

浮かびそうになった不敬な思いを振り払い、厨房で手に入れた昼食の残りを持って急ぐ。

(ふふっ。お嬢様と猫。きっと麗しい光景に違いありません。ああ、お嬢様と犬というのも…)

想像上のお嬢様が犬と猫にまみれ、笑い声を上げていらっしゃる。

たどり着いた中庭、生垣の側でしゃがみ込むお嬢様を見つけて近寄った。お嬢様が腕に抱えた生き物を覗きこもうとして-

「ヒッ!?お、お、お、お嬢様ぁぁぁああああ!!?」









「ああ、ジェイク。…コレ痛い、めちゃくちゃ痛い。」

「あた、当たり前です!なぜ、スライムが庭に!?お放し下さい!そのスライムを早く捨てて下さい!」

ジェイクが両手を振り回して叫んでる。

(そっか。コレってスライム。)

茂みでガサゴソしていた小動物を追い詰めて、漸く観念したらしきソレを思いっきり捕まえて抱き締めた結果がコレ。

「…顔と手が痛い。」

「あっ!?ああ!お顔が!?お嬢様の美しいお顔が!溶けて!?」

「痛い。痛いけど、…あれ?なんか、痛くなくなって、きた…?」

「お、お嬢様、お顔が、も、元に…。」

「え?マジで?それはスゴくない?てか、ちょっとしたホラー。」

「…よ、良かった、良かった…」

すぷらったぁな見た目だっただろうに、嫌がりも怖がりもせず、ただひたすらに「良かった」を繰り返して泣くジェイク。

「ごめんごめん、ジェイク。もう大丈夫だからさー、いい年した男が、このくらいで泣かないでよー。」

「いい年ではありません!私はまだ十六です!…わた、私は、お嬢様の執事なのですよ?ご、護衛ではないのです。こんな時、お嬢様をお守りすることも…」

言って、綺麗な双眸からボロボロと涙を流すジェイクに、罪悪感でヒリヒリする。

「…ジェイク、ごめん…」

「もう、もう、二度とこのような無茶な真似はなさらないで下さい。お願いです、お嬢様、もう二度と…」

「え?あ、うん?」

そう答えて、気がついた。

「あ、いや、でも、ジェイク、触ってみてよコレ。スライムに溶かされたとこ、お肌スベスベ。驚異のピーリング力。」

「…お嬢様。」

「…薄めて、薄めて使えば、ね?」

「…」

腕の中、すっかり大人しくなったスライム。商魂という名の魂の叫びによって、ジェイクにはスライム飼育を認めてもらった。

「よし!じゃあ、ちょっと町まで行って、商品開発と販路開拓してこようか!」

「…承知、致しました。」

ノーの言えない可哀想な執事を巻き込んで、王都の中心街へと向かった。









「はー、さすが、王都。何でもあるし、何でも売れるもんだねぇ。」

「…左様でございますね。」

ジェイクのお追従に元気が無い。スライムを使ったピーリング化粧品の開発と販売はその道のプロに任せることになり、アイデア料として、売上からいくらかのマージンを頂くことで契約は完了。マージンを払わなければ、二度とこの国で商売が出来ないくらいに魔法契約でガッチガチに縛ってきた。

(後は、無駄遣いせずにコツコツと。)

逃亡資金はいくらあってもいい。そう決めて、寄り道も買い食いもせずに家へと向かうその道すがらに見かけた少年少女のカップル。少年の方にはなにやら見覚えがー

「あ。ギャレン様だ。」

「え?」

「魔法で髪の色変えてるみたい。お忍び、なのかな?」

「王太子殿下が、ですか?」

「うん。市井についても学びたいって言ってたからなぁ。」

小さい内から大変だなぁと遠目に眺めたその光景に、ふと感じた既視感。

「あ、ヤバい。これ、回想シーンにあるやつ。ギャレン様とエンジェちゃんの、実は子どもの頃会ってましたイベントだ。」

別名、「昔一緒に遊んだ王子さまが実は本当に王子さま」イベント。

「えー、不味いなぁ。これ、トゥルーエンドのフラグ回収されちゃったってことか。うーん、どうしよう、私のギロチン処刑エンドが確実に近づいてくる…」

「お嬢様?如何されましたか?」

「ううん、何でもないよー。」

「…」

浮かれ気味だった気分は急降下。ちょっと、これはマズい流れ。胃がキリキリする。

「お嬢様?」

「ん?なに?」

「…アイス、食べて帰りましょうか?」

「アイス?」

「お屋敷の皆には内緒、ですよ?」

「う。心惹かれる。でも、たった今、節約しようって決めたところなんだよね。」

「問題ありません。私のお小遣いで買いますから、ね?」

「…」

ばっちり、ウインクまで決めてくる十六歳。

「…ジェイクって、モテるんだろうねぇ。」

「な、な、な、何をおっしゃっているんですか!お嬢様っ!?わ、私がモテる!?そ、そんな、そのようなことはっ!?」

「あ、うん、ごめん。私の勘違いだった。」




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