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第二章 嫁入りと恋の季節

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顔に差す光に、徐々に意識が覚醒する。馴染みのない寝具の感触に、眠気が一瞬で吹き飛んだ。

「っ!」

(…どこだっけ?)

見回してみるも、覚えのない部屋に暫し戸惑う。飾り気のない部屋、壁紙無しのむき出しの木の壁に何も敷かれていない木の床、家具と言えば、今、自分が寝転がっている巨大サイズのベッドぐらいのもので―

(あ、そうか。ユーグの部屋。)

昨日の夜、ここに確かにあった彼の姿、それが今はどこにも見当たらなくて不安になる。慌てて昨日脱ぎ捨てた服を身にまとい、髪もとかしたところで、少し、冷静になってきた。ならざるを得なかったというか、

「…私、臭いかも。」

正確に言えば、臭いのは私自身ではなく、着ているワンピースが、なのだけど、匂うことにかわりはない。一応、ハルハテで一泊するつもりで肌着くらいは肩掛け鞄に詰め込んで来ていたけれど、それ以外の替えは一切持っていない。着たきりのワンピースを洗濯できたのも、道中一度きりで、「服屋に寄りたい」とユーグに言い出す勇気が持てなくて、結局、ここまで来てしまった。

「…服、買わないと。」

ひょっとしたら、他にも必要なものがあるかもしれない。男の人の一人暮らしに飛び込んだのが、前世合わせても初めてだから、何が有って何が無いのかもわからない。一応、鞄の中に全財産―と言っても、貨幣としての私の財産なんてたかが知れているけれど―入っているので、当面は何とかなるはず。

「よし…」

することができて、どうにか気持ちを前向きに切り替えることができた。

部屋を出て階段を下りる。二階を通りすぎて一階まで階段を降りた先、見えた食堂は昨夜目にした姿よりは幾分か健全さを取り戻していて、そのことに少しホッとした。

朝早い時間のためか、店内に客の姿はなく、開け放たれた窓とドア。清掃のためか、椅子が卓上に上げられていて、昨夜のむせ返るような匂いもほとんど消えかけている。

(…ということは、逆に私の臭さはバレるんじゃ?)

別の不安は芽生えたけれど、それを解決するためにも、避けられない接触。カウンターを拭き上げているトキさんに、乙女的にギリギリ、絶妙な距離を保って声をかけた。

「おはようございます。」

「おはよう…」

にこやかに挨拶を返してくれたトキさんだけど、その視線が私を値踏み?確認?するように見つめてきて、

「?あの?トキさん?」

「ああ、ごめん。起きるの早いね?長旅で疲れてるんじゃない?」

「ありがとうございます。疲れはもう全然ないので、大丈夫です。…あの、ユーグは?」

「仕事で出掛けてるよ。どうしても団長が必要な仕事っていうのがあって、ユーグが暫く街をあけてたから、ね?…何か食べる?」

「あ、今は…」

(緊張で胸がいっぱい。お腹が空かない。)

気を遣ってくれるトキさんの言葉に首を振る。

「あの、トキさん、この辺に洋服屋さんってありますか?」

「洋服?」

「はい。私、服とか全く持って来ていなくて。まあ、服以外もなんですけど。とりあえず、着替えが欲しいなぁ、と…」

「ああ、なるほど。」

そう言ったトキさんの視線が、私の身体にサッと走るのがわかった。全く不快さのない、本当に確認しただけ、という感じの。だけど、こちらは今、乙女的にナーバスになっているので、疑心暗鬼になってしまう。

(もしかして、この距離でも臭う?臭い?ひょっとして、獣人の人って、人間より嗅覚がいいとか!?)

気持ち、ジリッと後退した。それに気づいたかどうかはわからないけれど、トキさんが困ったように眉根を下げて、

「確かに、服は無いと困るよね。ユーグはそういうこと気にしないし、何の準備もさせずに連れてきたんでしょう?」

「いえいえ、いいんです!それは、本当に!」

逃がすまいと前のめり気味にユーグについてきたのは私の方なので。

「うーん、でも、君を外に出すのには、今はちょっと問題があるんだよね。」

「問題、ですか?」

「…クロエは、『獣人』について、どれくらい知ってる?」

「えっと、実は、ほとんど…というか、全く知りません。」

前世の知識にある想像上の生き物としての獣人は知っている。けれど、この世界における「獣人」に関する知識はほぼ皆無。「獣人」という種族がいる、という話を聞いたことはあったけれど、ユーグに出会うまで実際に目にしたことは無かった。テレビも新聞も無い小さな村で、獣人に関する情報に触れることもなく、だから、

「すみません、もっと勉強しておけば良かったです。」

「謝るようなことではないから、それはいいんだけど。君がこれからユーグと…この街で暮らしていくつもりなら、ある程度、獣人に関する知識は必要だと思うよ。」

「はい…」

「まぁ、ユーグじゃその辺り頼りにならないからね。何かあれば俺に聞いてくれればいいよ。俺も、君に伝えておいた方が良いって思ったら、話をする。」

「ありがとうございます!」

「うん。じゃあ、まず、初めに知っておいて欲しいのは、この街の住民は半数以上が獣人だってこと。」

「あ!それは何となく。昨日、街を歩いてて、結構、見かけたので。」

「…嫌じゃない?」

「え?」

「嫌悪とか、感じなかった?」

「…獣人の方に対してってことですか?」

トキさんが頷いた。ぼかしてはいるけれど、この聞き方は、多分、人種の違いに対する差別とか拒絶とかそういうことなんだろうと思う。私が知らないだけで、この世界にもそういうものがあるのかもしれない。

「嫌悪、は無いです。正直、ちょっと恐かったりはしましたけど、それって別に獣人の人がっていうより、この街の人が、こう、全般的に…」

正直な思いを吐露すれば、トキさんが軽く笑う。

「うん、愚問だったね。ユーグを選んだくらいなんだから、獣人が嫌ってことはないか。あれ?でも、ユーグは恐くなかったの?」

「…緊張、はしました。あと、無視されたり、拒否されたりしたら恐い、とは思いましたけど…」

「なるほど…」

「まぁ、街の皆さんが恐いっていうのも、失礼な話ですよね。話したこともない相手を見た目で勝手に判断して、」

「いや。」

言いかけた言葉を遮られた。

「この街で暮らしてくなら、その『恐い』っていう感覚は大事にして。」

「…」

「もう気づいてるとは思うけど、ここはそんなにお上品な街じゃない。暴力沙汰なんて日常茶飯事だし、犯罪まがいの事件も多いからね。昼はともかく夜なんて、女性や子どもは絶対に一人歩きをしない。」

トキさんの淡々とした忠告にコクコク頷いた。

「ごめんね、脅すようなことを言っちゃったけど、本当は、まあ、日のある内の一人歩きくらいは大丈夫なんだよ。本来なら、ね?」

「本来、ですか?」

「そう、通常の時期なら。だけど今、この季節は、さっきも言った『問題』っていうのがあってね。」

苦笑するトキさんの言葉を待てば、

「今、この季節は、獣人にとっては繁殖期の始まり、発情の季節なんだ。」

「っ!?」

いっそ、清々しいほどの爽やかさで、当の獣人であるトキさんがそんなことを言うから。

上手い返しの言葉も見つからずに、ただ、あっという間に顔に上っていく熱を強く意識した―




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