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第五章 さようなら
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「あの、ルーカス?」
出迎えに現れたローグを警戒するルーカスの袖を引く。こちらを見下ろした金の瞳に「大丈夫だ」と頷いて前に出れば、ローグが、半歩、身を引いた。
ギルドへ訪れていた時と違い、帯剣していないローグはかつてと同じ、公爵家のお仕着せに身を包んでいる。
「……どうぞ、アリシア様。旦那様がお待ちです」
温度の無い声でそう告げられて怯みそうになるが、その気持ちを押しやって前へと進む。開かれた扉から一歩、中へ足を踏み入れたところで、違和感を覚えた。
(……何だろう?)
自身が出て行った時とは何かが異なる家の雰囲気。先導するローグの後を追いながら周囲を見回す内に、その違和感の正体に気づいた。
(汚れてる……)
流石に床は綺麗に掃かれているが、窓ガラスや階段の手すりには落としきれていない汚れが目に付く。かつては、手すりの真鍮一つ一つまで磨き上げられていた生家、それが、客の目に触れる場所でさえ掃除の手が行き届いていない現状に、この家の凋落を感じて何とも言えない気分になった。
廊下を進み、私がこの家で最後に父と言葉を交わした部屋、父の執務室へとたどり着いた。ローグが部屋の扉を叩くも、中から返る返事はない。それが分かっていたのか、再び扉を叩くことはせずにローグが扉を開いた。
「……どうぞ」
促され、あの日の記憶の沁みついた部屋へと足を踏み入れる。
「……お父様……」
踏み入れた途端、部屋の中にこもる匂いに不快を覚えた。酒と煙草、それから何かしら甘い匂いのする膿んだ空気の中、部屋の長椅子にだらしなく横たわる父の姿があった。
「……誰だ」
言いながら半身を起こした父の瞳がぼんやりとこちらに向けられた。恰幅の良かった父が瘦せている。サイズの合わない服を身に着け、落ちくぼんだ目には生気が見られなかった。
「……アリシアか?」
「はい」
未だぼんやりとしたままの父の問いにそう答えれば、不意に、父の瞳に力が宿った。目を見開き、こちらの存在を確かめるかのように伸ばされた父の手に、思わず身じろぐ。
「アリシア、アリシアか!本当にアリシアなんだな!?今まで何をしていた!なぜ、さっさと戻って来なかったんだ!?」
突如叫び出した父が立ち上がろうとするが、バランスを失って床に転がり落ちた。床に倒れ込んだまま、右手を伸ばした父の叫び声が続く。
「アリシア、お前のせいだ!お前のせいで、キャンドラーはもうおしまいだ!頼む、助けてくれ!」
「お父様、一体何を……」
「我が家はもうだめだ。だが、お前が帰って来たのであれば、まだ望みはある。お前が王太子妃にさえ成れば!」
支離滅裂な父の言葉、なぜ急に王太子殿下の話になるのだろう。そもそも、殿下はシェリルを選んだのではないのか。混乱するが、当初の目的、私が父に伝えたかったことは一つ。
「お父様、私が戻ったのは、鉱山について話をしに……」
「鉱山?鉱山だとっ!?そんなことはどうでもいい!なぜだ!なぜ、私の言うことが聞けぬ!?」
錯乱したかのように叫び続ける父が、口から泡を吹きながらまくしたてる。
「どいつもこいつも!なぜ、私の命が聞けぬのだ!」
そう言った父が、血走った目を私の背後に立つルーカスへと向けた。
「なんだこいつは!こいつは何だ、アリシアッ!」
「……お父様、彼は関係ありません」
「お前もかっ!?この!この、阿婆擦れがぁっ!」
激昂した父が、床に転がったグラスを掴んだ。危ないと思った瞬間には既に父の手を離れたグラスがこちらへ飛んでくる。ただ、それも、父の力が足りずに、私へと届く前に床へと落ちて砕け散った。
「……おしまいだ。もうおしまいだ。キャンドラーは終わりだ……」
床に蹲り、そう繰り返す父の姿を唖然と眺める。掛ける言葉が見つからない。成す術なく立ち尽くす私の肩に、大きな手が置かれた。
「アリシア、帰ろう」
声の主、ルーカスを見上げれば、小さく首を横に振られた。
「無理だ。これでは話にならん」
そう口にしたルーカスの手が肩を離れ、促すように私の背をそっと押す。抗う気も起きないままに、ルーカスに寄り添われて父の執務室を出た。部屋を出たところで、廊下に控える男の姿を捉える。
今の状況、父のあの有様について、彼なら何かを知るだろうと声を掛けた。
「ローグ、お父様に一体何があったのか話して」
「私の口からは何も申し上げられません」
間髪入れずにそう返って来た言葉に思案する。ローグが話せないと言うのなら。
「お兄様はどこ?お兄様と話がしたいわ」
その問いに、今度は少しの間があってから、ローグが動いた。
「こちらへ、ご案内します……」
出迎えに現れたローグを警戒するルーカスの袖を引く。こちらを見下ろした金の瞳に「大丈夫だ」と頷いて前に出れば、ローグが、半歩、身を引いた。
ギルドへ訪れていた時と違い、帯剣していないローグはかつてと同じ、公爵家のお仕着せに身を包んでいる。
「……どうぞ、アリシア様。旦那様がお待ちです」
温度の無い声でそう告げられて怯みそうになるが、その気持ちを押しやって前へと進む。開かれた扉から一歩、中へ足を踏み入れたところで、違和感を覚えた。
(……何だろう?)
自身が出て行った時とは何かが異なる家の雰囲気。先導するローグの後を追いながら周囲を見回す内に、その違和感の正体に気づいた。
(汚れてる……)
流石に床は綺麗に掃かれているが、窓ガラスや階段の手すりには落としきれていない汚れが目に付く。かつては、手すりの真鍮一つ一つまで磨き上げられていた生家、それが、客の目に触れる場所でさえ掃除の手が行き届いていない現状に、この家の凋落を感じて何とも言えない気分になった。
廊下を進み、私がこの家で最後に父と言葉を交わした部屋、父の執務室へとたどり着いた。ローグが部屋の扉を叩くも、中から返る返事はない。それが分かっていたのか、再び扉を叩くことはせずにローグが扉を開いた。
「……どうぞ」
促され、あの日の記憶の沁みついた部屋へと足を踏み入れる。
「……お父様……」
踏み入れた途端、部屋の中にこもる匂いに不快を覚えた。酒と煙草、それから何かしら甘い匂いのする膿んだ空気の中、部屋の長椅子にだらしなく横たわる父の姿があった。
「……誰だ」
言いながら半身を起こした父の瞳がぼんやりとこちらに向けられた。恰幅の良かった父が瘦せている。サイズの合わない服を身に着け、落ちくぼんだ目には生気が見られなかった。
「……アリシアか?」
「はい」
未だぼんやりとしたままの父の問いにそう答えれば、不意に、父の瞳に力が宿った。目を見開き、こちらの存在を確かめるかのように伸ばされた父の手に、思わず身じろぐ。
「アリシア、アリシアか!本当にアリシアなんだな!?今まで何をしていた!なぜ、さっさと戻って来なかったんだ!?」
突如叫び出した父が立ち上がろうとするが、バランスを失って床に転がり落ちた。床に倒れ込んだまま、右手を伸ばした父の叫び声が続く。
「アリシア、お前のせいだ!お前のせいで、キャンドラーはもうおしまいだ!頼む、助けてくれ!」
「お父様、一体何を……」
「我が家はもうだめだ。だが、お前が帰って来たのであれば、まだ望みはある。お前が王太子妃にさえ成れば!」
支離滅裂な父の言葉、なぜ急に王太子殿下の話になるのだろう。そもそも、殿下はシェリルを選んだのではないのか。混乱するが、当初の目的、私が父に伝えたかったことは一つ。
「お父様、私が戻ったのは、鉱山について話をしに……」
「鉱山?鉱山だとっ!?そんなことはどうでもいい!なぜだ!なぜ、私の言うことが聞けぬ!?」
錯乱したかのように叫び続ける父が、口から泡を吹きながらまくしたてる。
「どいつもこいつも!なぜ、私の命が聞けぬのだ!」
そう言った父が、血走った目を私の背後に立つルーカスへと向けた。
「なんだこいつは!こいつは何だ、アリシアッ!」
「……お父様、彼は関係ありません」
「お前もかっ!?この!この、阿婆擦れがぁっ!」
激昂した父が、床に転がったグラスを掴んだ。危ないと思った瞬間には既に父の手を離れたグラスがこちらへ飛んでくる。ただ、それも、父の力が足りずに、私へと届く前に床へと落ちて砕け散った。
「……おしまいだ。もうおしまいだ。キャンドラーは終わりだ……」
床に蹲り、そう繰り返す父の姿を唖然と眺める。掛ける言葉が見つからない。成す術なく立ち尽くす私の肩に、大きな手が置かれた。
「アリシア、帰ろう」
声の主、ルーカスを見上げれば、小さく首を横に振られた。
「無理だ。これでは話にならん」
そう口にしたルーカスの手が肩を離れ、促すように私の背をそっと押す。抗う気も起きないままに、ルーカスに寄り添われて父の執務室を出た。部屋を出たところで、廊下に控える男の姿を捉える。
今の状況、父のあの有様について、彼なら何かを知るだろうと声を掛けた。
「ローグ、お父様に一体何があったのか話して」
「私の口からは何も申し上げられません」
間髪入れずにそう返って来た言葉に思案する。ローグが話せないと言うのなら。
「お兄様はどこ?お兄様と話がしたいわ」
その問いに、今度は少しの間があってから、ローグが動いた。
「こちらへ、ご案内します……」
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