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第四章 二人の距離

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聞こえた男の声に膝が笑う。自分の身体が大袈裟なほどにブルブルと震えているのが分かった。目の前、広い背中に縋りつきたくて伸ばしかけた手は、泥に塗れ薄汚れていた。

あの時、店から逃げる判断をしたことを後悔はしていない。あのままでは、ドニはきっと店を焼いていただろうから。

イロンの力を借り、以前に入手したままになっていた光石をありったけ光らせて店を逃げ出すことに成功したが、光に目のくらんだドニの側を駆け抜ける際、彼の伸ばした手を避けようとして転んでしまった。泥にまみれながら聞く男の罵声、「殺してやる」と叫ぶドニから逃げ出すため、泥水の中を這い、何とか立ち上がることが出来た後は、ただ無我夢中で走った。

イロンに導かれて逃げ込んだ先に人の姿はなく、ドニもここまでは追って来ないのではないかと、祈るような気持ちで身を潜め続けた。そこに聞こえた声。アリシアと私の名を呼び、大丈夫だと告げるルーカスの声に、これでもう安心だと身体中の力が抜けるほどの安堵を覚えた。

けれど、今は――

「……あんた邪魔だな。そこ、退く気はねぇよな?」

暗闇の中、ドニの声が聞こえる。普通ではない男、本気で店に火を放とうとするような男に、ルーカスが傷つけられてしまうのではと不安が募る。

「なぁ、取引しねぇか?あんたもどうせ、物珍しかっただけだろ?」

ドニが楽し気に笑った。

「ちょっとここらじゃ見ない上玉だもんなぁ?俺らみたいのにとっちゃ、お貴族様なんざ別世界の人間。……あんたも、味見してみたかったんだろ?」

揶揄する彼の言葉に本能的な恐怖を感じ、また身体が震えた。ドニの目に自分がどう映っているのか。決して「好意」とは言えない、ヒトとして見ているのかも怪しい言い様に、自然と後ずさってしまう。

「だからさ。その女、そろそろ手放してもいいんじゃねぇか?もう、散々、楽しんだだろ?ああ、勿論タダでとは言わねぇ。あんたの言い値で買ってやるよ」

その言葉に無言を貫くルーカス。彼が私を売るような真似をするとは思わない。ドニの言葉を拒絶してくれると信じているが、だからこそ、拒絶された男の反応が怖かった。

「なぁ。俺だって、態々あんたをぶっ殺すような手間はかけたくねぇんだよ。あんた、そこそこやるみたいだしさ」

言いながら、ドニが一歩、二歩とルーカスとの距離を縮める。

「けど、まぁ?あんたが、絶対引かねぇってんならしょうがねぇよな?……死ねよ」

言うや否や、暗闇の中、男の影が動くのが見えた。ルーカスに迫る影、一瞬で詰められた距離を、けれど、自身の剣を抜いたルーカスは一歩も引かずにドニの剣を受け止めた。

「チッ!やっぱ、あんた面倒くせぇな!」

その言葉と共に、二人の間に炎が上がる。ドニの剣が燃えていた。

(魔法剣……!?)

剣に施した術式で発動する魔法の力、燃え上がる炎がルーカスに襲い掛かったかのように見えたが――

「っ!クッソが!?てめぇ、魔術まで使うのかよっ!?」

一瞬で消えた炎、ルーカスがかき消したらしきそれに、ドニの怒声が響いた。男の影が、大きく後ろに飛びのいた。

「あー、ったく。最悪だぜ。何でてめぇみたいなのが出張ってくんだよ。やってらんねぇ」

そう呟きながら、ジリと後ずさったドニ。ルーカスとの距離を測るように後退していく男に、ルーカスが動いた。

「っ!グァッ!」

瞬きをする間、目で追うこともできないほどの速さでドニの間合いに入ったルーカスが、彼の剣を弾いた。

「ヒュドラを鉱山に持ち込んだのはお前か?」

ルーカスが静かにそう問いかけたが、剣を弾かれた腕の痛みにドニはうめき声を上げるだけ。剣を収めたルーカスが、ドニの身体に向かい拳を叩き込む。避けきれなかった拳に、ドニが膝から崩れ落ちた。荒い「ハァハァ」という息が聞こえて来る。

「……俺をおびき出すためか?そのためにヒュドラを放ったのか?」

「ハッ!だとしたら、なん、だってんだよ?」

ルーカスの二度目の問いに、呼吸を乱しながら、それでも挑発的に答えるドニの背中を、ルーカスが思い切り踏みつけた。

「グァッ!」

地に伏したドニの口から上がる苦痛に満ちたうめき声に、思わず目を背ける。

「お前のせいで、無駄に人が死にかけた」

「ゥグッ!」

「お前の身柄はギルドに渡す。……二度とアリシアの前に姿を現すな」

ルーカスの言葉はドニに届いているのか。既に、意識を失いかけている男の口から言葉はなく、ただ荒い呼吸が聞こえて来る。ドニを縄で拘束したルーカスが立ち上がり、こちらを振り向いた。

「……アリシア」

「っ!」

呼ばれた名に身体が震えた。ルーカスが怖いわけではない。けれど、初めて目にした暴力の現場に、咄嗟に返事を返すことが出来なかった。私の躊躇いを敏感に感じ取ったルーカスが何かを言いかけ、けれど、何も言わずに口を閉じた。代わりに伸ばされる手。何も言わずに差し出された手に誘われ、ルーカスへと近づく。

重ねた大きな手は、先程、人を痛めつけたとは思えない程の優しさで、私の手を包み込んだ。




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