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第一章 絶望の始まり

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翌朝、日が昇り始めた頃、階下で人の気配がする前に一階へと降りていけば、既に朝食の準備を始めていたゼルマに桶一杯のお湯を渡された。家を追い出されてから一週間以上、たまに身体を拭く以外には全く身体を清めることが許されていなかった身には、とてもありがたいお湯だった。

部屋へと戻り、濡らしたタオルで身体を拭く内、桶の中で黒くなっていくお湯とは反対に少しは身体がすっきりした。同時に、頭も少しだけクリアになっていく。寝不足ではあるが、気持ちが上向いてきた。

(……結局、私にできることは一つしかないんだから)

自分の身を差し出せない以上、私がここを抜け出すためには、精一杯働くしかない。端から無理だと可能性を捨て去ってしまえば、心が先に死んでしまう。

(無理でも、やるしかない……)

そう心に決めて、階下へと降りた。既に、他の人たちも起き出す時間。食堂へと足を踏み入れれば、昨日と同じように複数の視線を向けられる。なるべく気にしないようにしながら、ゼルマから朝食を受け取った。一番端、誰も人の居ない席へ向かおうとしたところで、背後から大きな声が聞こえる。

「やだ、臭い!」

聞き覚えのあったその声に、身体がビクリと反応した。振り返れば、昨日の三人がこちらを睨んでいる。

「ちょっと、やだ!獣臭いわ!」

「朝から最悪よね?獣が入り込んでるなんて」

「本当!これじゃ、食事が台無しよ!」

彼女達の口から次々に放たれる悪意ある言葉に、目の奥が熱くなる。

恥ずかしい、逃げ出したい、消えてしまいたい――

耐えきれず、食事を手にしたまま食堂を飛び出した。そのまま、自身の部屋へと逃げ込む。テーブルなんて置かれていない部屋、床の上に置いた朝食の皿を前にへたり込めば、嗚咽がこみ上げて来る。

(……なんで!)

なんで、こんな目に合わなくてはいけないのだろう。私が一体何をしたというのか。犯してもいない罪をなすりつけられ、ヒトとして扱ってもらうことも出来ない。惨めで情けなくて、声を殺して泣き続けた。

それでも――

「……お腹、空いた」

泣き続ければ、身体は空腹を訴える。冷めきった朝食にノロノロと手を伸ばし、ちぎったパンを一口、二口と口の中へと運べば、「美味しい」と感じることが出来た。

(……うん。こんなことで泣いてる場合じゃない)

中傷されるくらいが何だというのだ。昨日の夜、一睡もできずに感じていた恐怖に比べれば、中傷など大したことではない。馬鹿にされたところで、怪我をすることも死ぬこともないのだから。

朝食を食べ終えたことで、また少しだけ復活することが出来た。朝食の皿を下げるために階下へ降りれば、既に三人の姿はなく、心配したゼルマが声をかけてくれた。彼女に朝食の礼を言い、ついでに、ハサミを貸してもらえないかと頼む。「そんなもの何に使うのか」と心配するゼルマに、馬鹿なことはしないと約束して部屋へと戻った。

今、自分がどんな姿をしているのか、部屋に鏡なんて無いから分からない。ただ、身体を清めはしたが、水では洗い流せなかった汚れのせいで自分が匂っていることは分かる。特に髪。下ろしたままの長い髪は櫛を通すこともできず脂ぎっていた。

「……よし」

髪を掴み、肩の長さでハサミを入れた。脂のせいか思うほど簡単に切れない髪にザクザクと何度も刃を立てて、切り落としていく。床に散らばる黒を見下ろすと、また勝手に涙が込み上げて来た。

この世界における女性の象徴の一つ、長い髪を失うことが、自分で思った以上に堪えているようだった。

(こんなの平気、平気)

前世の自分とそう変わらない髪の長さ。悲しむようなことじゃない。そう思うのに、ボロボロと流れ落ちる涙が止まらなかった。

「……うん、こんなものかな」

目で見えない分、手で触った感触でしか分からないが、それなりに長さが揃ったと思えたところで手を止める。少しドキドキしながらハサミを返しに階下へと降りれば、こちらを見たゼルマが一瞬ハッとしたのが分かった。それでも、何も言わずにハサミを受け取ってくれたゼルマの優しさに背中を押されて、宿舎を出る。

皆がこちらを見ている。そんな気がしてたまらない。視線が怖くて下を向いたまま、真っすぐにギルドへと向かった。

既に時間が遅いためか、足を踏み入れたギルドの中は閑散としていた。受付とかかれたカウンターに並ぶ人はおらず、置かれたいくつかのテーブルで談笑する人の姿もまばら。それでも、その数少ない人間の視線がこちらに集中するのが分かる。周囲を見ないように受付へと向かうが、中から向けられる視線の厳しさに思わず足が止まった。朝、こちらを見て嗤ったケイト達が座る受付を避け、一番端、初めて目にする女性が座る受付へと足を向ける。

「……あの」

小さくかけた声に、手元の書類に何かを書き込んでいた女性が顔を上げる。金に近い薄茶の髪、銀縁の眼鏡の奥の水色の瞳は冷たそうに見えるが、彼女が私に顔をしかめることはなかった。

「すみません。今日からここで働く者ですが……」

勝手がわからない。そう目線で訴えれば、書類を横にやった女性が、別の書類を取り出した。

「あなた、字は読めますか?」

女性の問いかけに頷けば、黙ってその書類を手渡される。

「鉱山における労働の内容、規則等についてはそちらに細かい規約が載っています。正規労働者も鉱山奴隷も共通のものなので、必ず目を通しておいてください。後は、鉱山奴隷に関する諸注意ですが……」

そう言った女性が、私の負わされた労役についての説明をしてくれる。この地の犯罪奴隷は収監されるわけではなく、生活は基本自由にしてよいとのことだった。ただしそれは、最低限の生活も保障されないということで、宿舎も一年後に出て行かなければならない。刑期も存在しないため、死ぬまで、或いはギルド長に言われたように自分で自分を買い戻すまで、鉱山での労役は続くということだった。

絶望的な状況を淡々と説明する女性の話を最後まで聞いたところで、彼女から麻袋に入れられた採掘道具一式を手渡された。

「こちらの道具類はギルドからの貸し出しとなります。仕事終わりには必ず返却をお願いします。ああ、それから、採掘された鉱石類はあなた個人の資産となります。ギルドでも買取は行っていますが、他所で売却されても構いません」

そう言って眼鏡を指先でクイと持ち上げた女性は、最後に小さく「お気をつけて」と口にした。その言葉に頭を下げる。彼女の小さな気遣い、恐らく、少しくらいは本気で案じてくれていただろう言葉は、けれど無駄になる。

ギルドを出てから数刻後、私は初めて足を踏み入れた鉱山の暗闇の片隅で、襲い来る恐怖に小さくなって震えていた。




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