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1巻
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◇◇◇
部屋を出てから三時間後。
私はマイヤースとは別のホテルにいた。
それなりに信頼の置ける情報網を使って辿り着いた場所だが、ホテル全体にうら寂れた雰囲気が漂っている。その廊下を周囲を警戒しながら歩き、目的の部屋を見つけた。
(本当に、ここ……?)
どことなくくすんで見える部屋の扉は、お世辞にも「高級」とは言い難い。
こんな場所に目的の人物がいるのだろうかと訝しみつつ、扉をノックする。
二度、三度。
徐々に扉を叩く手に力を込めるも、部屋の中からはなんの反応もなかった。
四度目。今度は部屋の主の名と共に扉を叩くと、漸く、中から不明瞭な呻き声が返ってくる。それを、「入室許可」だと判断し、扉を開けた。
途端、視界に飛び込んできた光景の悲惨さに、思わず息を呑む。同時に、広くはない部屋の奥で寝転がったままの男と目が合った。
一拍の沈黙の後、彼が何か言おうとするのに先んじて、こちらが口を開く。
「まぁ、なんと言いますか、その……」
何を言えばいいのか分からない。
相手の気分を害さぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「今の私が言うには、少々、差し障りがある気もいたしますが……」
挨拶の、最初の一言に苦慮する。
「……取り敢えず、『ご機嫌いかが?』とは、お伺いしないほうがよろしいみたいですね」
多少、的を外した気はするが、微笑んでおく。
酒瓶が無造作に転がる卓を前に、長椅子に肢体を投げ出していた男が、ゆっくりとその身を起こした。
寝ていたわけではなさそうだが、取り次ぎもなしに押しかけたせいか、男は不機嫌な態度を隠そうともしない。
そんな彼に向かって、ニッコリと笑みを深める。
「ご機嫌をお伺いするまでもなく、『まさに散々』といった有様でいらっしゃいますものね、ロベルト様?」
左頬に治りかけの痣を残した男――ロベルト・クロイツァーがこちらを睨んだ。
仏頂面をする彼に、少しだけ、「マズかったかな?」と反省する。
(うーん。これはどうやら、タイミングが悪かったみたい……)
場を和ますための冗談のつもりだったのに。
それがどうやら、彼にとっては最悪なタイミングの最悪な挨拶だったようだ。
(まぁ、そうよね。私だって、三時間前の状態を人に見られたら、暴れたくなるもの)
そう考えると、黙って睨むに留めているロベルトの対応は、ずいぶん紳士的だと言える。
そんな彼の紳士な態度に応えるのなら、ここは一旦引いて、最適なタイミングを見計らって再訪するのが望ましいだろう。
ただ、残念なことに、私には次のタイミングを悠長に待つ時間がなかった。
だから、もう一度、ニコリと最上級の笑みを浮かべる。
「ロベルト様。今日は、貴方にお願いがあって参りました。どうか、私の話を聞いていただけないでしょうか?」
単刀直入に訪問の理由を告げた。
ロベルトの口元に薄い笑いが浮かぶ。
「未来の公爵夫人ともあろうお方が、供も連れずに男の部屋を訪ねてくるとはね。更には、『お願いがある』ときた。いやはや、一体全体、どんなお願いを聞かされるのやら」
不摂生な生活ゆえか、シニカルに嗤う彼の顔には、疲労の色が濃い。一見して、酒気が残っているようだったが、こちらを窺う瞳には油断のない理知の輝きが残っていた。
互いに互いを観察し合ううち、不意にロベルトが口を開く。
「ここに君がいることを、エドワードは承知しているのか?」
語気鋭い問いに一種の威圧を感じ、小さく首を横に振る。
(こういうところは、『腐っても』って感じ……)
名ばかり伯爵家とはいえ、ロベルトは現クロイツァー家当主。夭逝した先代の跡を継いで、六年前、二十歳という若さで伯爵位に就いている。元夫となったエドワードとは同年の従兄弟同士だ。
(まぁ、『仲の良い親族』ではないけれど……)
エドワードがロベルトの名を口にすることは滅多になかった。
偶に社交界で顔を合わせても、彼はロベルトを無視する。それに対して、ロベルトが一方的に絡むという構図が成り立っていた。今の私にはロベルトのその気持ちが分からなくもない。
ボーッと考え込んでいると、彼がやれやれと肩を竦める。
「まったく、高貴なお方の考えは分からないね。夫に内緒でこんな場所まで来て。こんな酔いどれに、一体何を望むと?」
ジロジロと不躾に向けられる碧い瞳は故意だろう。
こちらを不快にさせて追い払おうとする彼に、再び首を横に振って応える。改めて、その瞳を見つめ返した。
(よく見ても、やっぱり、エドワードとは似ていない)
野性味溢れる美丈夫の元夫と比べると、ロベルトは線が細い。瞳の色はそっくりな碧なのに、貴公子然とした美しさを持つロベルトの瞳はどこか甘く、受ける印象がエドワードとは全く違った。
(この人はもっとちゃんとしていれば、『王子様』のイメージそのものなのに)
残念ながら、ロベルトの「ちゃんとした姿」を目にした記憶はない。
そして今、想像上の王子様は服を着崩し、生気のない顔でだらしなく背もたれに体を預けていた。
(今の姿は、どこぞのマダムの愛人って感じ)
そう揶揄してみても、美しいことに変わりはない。
長い四肢を気だるげに投げ出す様は、確かに落ちぶれて見える。それでも、退廃的な美しさを感じてしまうのは、彼の美貌が全ての欠点を補って余りあるからだ。
これだけの美しさがあれば、人生などイージーモード。うらぶれる必要などないと思うが、この世界、貴族である彼にとってはそう簡単な話ではない。
視線を、彼の顔から少しずらす。
あの夜、会場のあかりに煌めいた金糸は、彼の背の中ほどまである。白に近い輝きを持つ長髪が、今は無造作に下ろされていた。
(流浪の民の血、か……)
国を持たない流浪の民は諸国を旅して回り、多くは行商や芝居で生計を立てている。そんな彼らの特徴とも言えるのがその髪色、金糸銀糸だ。
カーテンを閉め切った室内では分かりにくいが、ロベルトの煌めく光沢は、本来、この国の人間が持ち合わせない美しさだった。
(この国の人の髪って、基本、艶なしマットカラーなんだよね)
だから、「髪に光沢がある」のは、異端でしかない。「美しい」どころか、奇異なものとして見られるのだ。
ジロジロ見すぎたせいか、ロベルトが私の視線の先に気付く。彼の顔が僅かに歪んだ。
しかし、一瞬の後には、その表情は綺麗に消し去られる。
「……酔いどれでなくとも、俺のような下賎の者が未来の公爵夫人のお役に立てるとは、到底思えませんけどね」
そう言って、彼は自らを貶めて嗤う。
「なんてことない」というふりで、つけられた傷を決して見せないようにして。
この感じを、私はよく知っている。
(人のこと言えないけど、卑屈だなぁ……)
ただ、彼の場合はそれも仕方ないのかもしれない。
この世界において、髪の色は魔力の質を表し、その濃度は魔力の量を示す。
赤、青、黄の三色を髪色の根源とするこの国では、三色から遠い髪色を持つ者は忌避され、時に差別の対象となる。
ロベルトの髪色は貴族社会においては禁忌に近く、彼が今までどのような扱いを受けてきたのか、容易に想像できた。
(これだけの美形でも、この国では胸を張って生きていけないのか……)
そんなふうに思考するうちに、どうやら意識を飛ばしていたらしい。
ロベルトは黙って待つことに飽きたのか、立ち上がって扉近くの卓へ向かう。置かれた水差しを掴んだ彼は、行儀悪く、そのまま口をつけて呷り始めた。
反った背で金糸が揺れる。気付くとまた、その煌めきに惹きつけられていた。
(こんなに綺麗なのに……)
濡れた口元を袖でぬぐった男が、こちらを振り向く。
「……それで?」
長髪が、臆すことなく晒される。
忌まれる髪を短く刈ることも隠すこともせず、社交界を渡り歩く。この男の捻くれた思考が、私は嫌いではなかった。
「結局、俺に何をやらせたいって?」
ロベルトの言葉に、現実に引き戻される。
そろそろ、こちらも覚悟を決めなければならない。無意識に、下腹に手が伸びた。
(うん。やっぱり、この人がいい……)
直接言葉を交わして、私の復讐に必要なのは彼だと確信した。
なんとしても彼が欲しい。その思いで、最初の一言を口にする。
「エドワード様と、離縁いたしました」
「なんだとっ……!?」
ロベルトの目が驚愕に見開かれる。彼のその反応に、心から安堵した。
どうやら、初手は成功のようだ。
彼の関心を引けた今、最後まで話を聞いてもらえるよう、彼の気を引き続けねばならない。
「私は既に、次期公爵夫人ではありません」
「待て! ちょっと待て……!」
言って、ロベルトが頭を振る。
思考をクリアにするためだろうか。案外、最初のショックからの立ち直りは早そうだ。鈍くない反応に、彼への好感が増す。
彼が次にこちらを向いた時、その瞳は完全に落ち着きを取り戻していた。
「……別れたのか? エドワードと」
「はい」
首肯すると、ロベルトが目を細める。彼の口から、一人の名前が零れ落ちた。
「シンシアか……」
確信を持った呟きに、小さく感嘆する。
ヒントもなしに答えに行き着くとは。ロベルトはやはり愚鈍ではない。
(もしくは、誰でも気付くくらい、エドワードの態度が分かりやすかったか……)
浮かんだ皮肉に口元が歪む。
ロベルトは何事かを考え込み、こちらの存在を忘れているようだ。私は黙って、彼の言葉の続きを待つ。
やがて、何かを得心した様子のロベルトが顔を上げる。
「……なるほど。そういうことか」
こちらに視線を向けた彼の片頬が、歪に持ち上がった。
「つまり、あんたは公爵夫人の座を追われて味方がいない。だから、はぐれ者の俺なんかに助けを求めに来たってわけだ」
ロベルトが「ニヤリ」と音がしそうな笑みを浮かべる。端整な顔には不似合いな表情。彼の小物感が一気に増した。
(なんだろう。なんて言うか、すごく残念……)
美形の無駄遣いとしか思えない。
だが、当の本人はいたって楽しそうにしている。
「大方、俺と組んで、エドワードとシンシアを別れさせようって魂胆だろうが、まぁ、悪くはない人選だ。それで? どうやって、あの二人を引き離すつもりだ?」
ロベルトが嬉々として尋ねる。放っておくと、「シンシアを攫う」とでも言い出しそうだ。
(それできっと、手痛いしっぺ返しをくらうんだろうな)
追い詰められた末に、エドワードに刺されるか、崖から落とされるか。
あっけない最期を迎える姿が目に浮かぶ。
(冗談でしょう。そんなの、絶対に嫌)
手本のような咬ませ犬街道。まっしぐらに突き進ませるつもりはない。
「私はお二人の仲をどうこうしようとは考えていません」
「なぜだ? エドワードとの復縁が目的ではないのか?」
「まさか、あり得ません!」
生憎、そんな建設的な思考は持ち合わせていない。
繰り返し「ない、ない」と否定すると、ロベルトの眉間に怪訝そうな皺が刻まれる。
「……だったら、あんたは一体、何がしたいんだ?」
「復讐です」
彼の問いに、間髪容れずに答えた。
「復讐……?」
「ええ」
眉間の皺を深くするロベルトに、頷いて返す。
「私が望むのはエドワード様とシンシア様への復讐です。エドワード様には特に、心の底から『自分が間違っていた』と後悔していただきたいと思っています」
想像して口元が弛む。
「私を切り捨てたことを悔いて悔いて悔いて……。心が蝕まれるほどの後悔に一生囚われてほしいんです」
そして叶うならば――
(私の足元にひれ伏し、這いつくばって謝罪してほしい……)
捨てた女に縋って、許しを乞う彼の姿が見たかった。
そんな望みを吐露すると、ロベルトの表情が険しくなる。
「……無理だろう。あいつのそんな姿は想像できない」
「ええ。……残念ながら、私もそう思います」
彼の言葉に再び頷く。
エドワードの性格的に、格下と見なした相手に膝を折ることは決してないだろう。
(分かってる。だけど、せめて、思いっきり悔しがる顔を見たい!)
私が味わった脳が焼き切れそうなほどの屈辱。その一欠片、一万分の一でもいい。彼にも味わわせてやりたかった。
そして、言ってやるのだ。
「『ざまぁ見ろ』って……」
「?」
「言ってやりたいじゃないですか。……一度でいいから」
私の言葉に、ロベルトの顔から表情が抜け落ちる。虚ろな視線が暫し虚空を彷徨った。
「もし、本当にそんなことができるなら。俺は……」
ポツリと呟いた彼の瞳が、徐々に元の光を取り戻す。
次にこちらを向いた時、彼の眼差しには強い生気が漲っていた。
「……具体的に何をするつもりだ? 俺に何をさせたい?」
ロベルトは未だ警戒しつつも、声の調子に期待の色を隠せていない。
(そんな目をされたら、ちょっと心苦しい……)
巻き込む以上、彼に対してフェアでなくては駄目だ。
だから、思いついたこと――復讐の内容を、全て明かすことにした。
「私の復讐は、『賭け』なんです」
「賭け?」
「はい。ですから、この復讐は『必ず成功する』、『必ず勝てる』とは限りません」
正直に告げると、ロベルトの眉間に再び皺が寄る。彼が口を開いた。
「勝算は?」
その問いに、体の力がフッと抜ける。
ロベルトが口にしたのは拒絶ではなく問い。少なくとも、賭けに乗るかを検討する気があると知って、安堵した。
どうやら、気付かぬうちにだいぶ緊張していたらしい。
「勝算は、どのくらいなんでしょうね? 五割、くらいでしょうか?」
正確なところは、自分でもよく分からない。ただ、結果は二つに一つしかなかった。
曖昧な答えに、ロベルトが胡乱な目をこちらに向ける。それに、肩を竦めて応えた。
「騙そうとしているわけではないですよ。ただ本当に、五分五分かなぁ、と」
もう一度、自らの腹部に触れてみる。
(ここに、いるかいないか……)
そのどちらかだ。
ロベルトが難しい顔でこちらを観察していた。私の言葉の真偽を探っているのだろう。
やがて、小さく嘆息した彼が、「いいだろう」と告げる。
「その賭けとやらで、俺は何をすればいい?」
至極真面目に尋ねる彼に、内心で苦笑する。
(私の『賭け』に乗ってくれるんだ……)
よくて勝算五割しかない怪しい賭け。しかも、よく知りもしない相手に、彼は賭けようとしている。
復讐の相手が公爵家の人間というだけで、普通の感覚の人間なら、即刻「お断り」だろうに。
(だけど、ロベルトは相手がエドワードだからこそ、勝負に出ようとしてる)
彼の感情につけ込む罪悪感はあるが、やはり、彼ほど復讐のパートナーに相応しい人はいない。
(私の選択は間違ってなかった)
自然に顔が笑う。笑ったまま、自らの願いを口にした。
見上げる碧い瞳に、心からの同族意識を込めて――
「ロベルト様、私と結婚してください」
◆◆◆
一瞬、目の前の女の言葉が理解できなかった。
数拍の沈黙の後、理解した言葉の意味に、頭が芯まで冷える。
どうやら、また、くだらない冗談に引っかかったらしい。
そうと気付かず、一時でも女の戯言を本気にした自分に腹が立った。
(クソッ……!)
こんな女と関わったのが間違いだ。丁重に追い出し、さっさとしまいにしよう。
そう思うが、上手く笑えない。静かに見上げてくる翠の瞳が、無性に苛立たしかった。
「……俺を、馬鹿にしているのか?」
知らず、口から言葉が零れ落ちる。
低い声。出すつもりのなかった言葉には、怒り、恨み――隠しようのない己の感情がこめられていた。だが、女――イリーゼは、顔色一つ変えずに、「いいえ」と首を横に振る。
「馬鹿になどしていません。勿論、冗談を言っているわけでもありません」
「では、なぜ……」
声が掠れた。みっともない。
なのに、言葉が止まらなかった。
「なぜ、そんな話になる。俺と結婚だと……?」
問いはしたが、答えが欲しかったわけではない。「冗談ではない」というイリーゼの言葉を信じたわけでもなかった。
ただ、ひどく混乱していた。
本当に質の悪い冗談だ。彼女がそんなことを言い出した理由が分からない。
重い何かが胸を塞ぐ。
「あの、ロベルト様……?」
名を呼ばれ、声のしたほうへ漫然と視線を向けた。己を見上げるイリーゼの表情に、僅かに虚を衝かれる。
(なぜ、そんな顔をする……?)
困ったような、辛そうな、泣き出しそうな顔。その表情の意味を考えて、ゾッとした。
もし、それが己への同情なら、彼女が自分に憐憫を向けているのだとしたら。
――耐えられない。
堪らず視線を逸らすと、イリーゼがフッと笑う気配がする。視線を戻すと、彼女の顔に先ほどまでの表情はなかった。
「ごめんなさい。誤解させるつもりはなかったんですが、無神経でした。でも、何度でも言いますが、ロベルト様に結婚してほしいのは本当です」
真剣な眼差しは一瞬のこと。
彼女はニッと――何かを企む悪女のような笑みを見せる。
「ねぇ、ロベルト様。私は先ほど、『私の復讐は賭けだ』と言いましたよね」
意味ありげに、彼女が笑みを深める。
その先を知りたくて、「ああ」と答えた。
「だがなぜ、その賭けが俺との結婚に繋がる?」
何かを期待しているわけではない。しかし、イリーゼが何を考えているのかは気になる。
己の問いに、彼女は小さく笑うと、右手で自身の腹に触れた。
「私、妊娠しているかもしれません」
「な……っ!?」
とんでもない告白に、言葉を失う。信じられない思いで、彼女の顔と右手の置かれた腹を交互に確かめる。
(嘘をついているようには見えない、が……)
いくら眺めてみても、厚いドレスの下の体型など確かめようもない。
では、それ以外。顔や手足に変化があるかと観察するが――
(ふくよかになったというより、むしろ……)
「あの、本当に妊娠しているかは分かりません。それに、もし妊娠していたとしても、まだ初期ですから、見た目には……」
「あ、ああ」
彼女に言われ、「不躾だった」と、慌てて視線を逸らした。
逸らした先、薄汚れたホテルの壁を眺めつつ、思考する。
仮に、イリーゼの言葉を「真」とするなら、あのエドワードが彼女との離縁を望むだろうか。
いくらシンシアに逆上せ上がっていたとしても、イリーゼの腹の子はソルフェリノの直系。あの男が、自らの血を引く子を手放すはずがない。
そこまで考えて、ハタと気付く。
(まさか……っ!)
イリーゼに向かい、浮かんだ疑念を口にする。
「腹の子の父親は、誰だ……?」
その言葉に、イリーゼが目を見開く。そしてすぐに、皮肉げな笑みを浮かべた。
「ロベルト様、なかなかに最低な質問をしてくださいますね」
言われてハッとする。確かに、彼女に対してかなり無礼な発言だ。
謝罪しようと開きかけた口は、彼女の言葉に阻まれる。
「子ができていれば、当然、エドワード様の子です」
迫力あるイリーゼの言葉に無言で頷き返す。
だが――だとしたら、エドワードが妊娠の可能性のある妻を手放したのは不自然だ。
考えられるとしたら――
「あいつは知らないんだな? 子どものことを……」
自分でも半信半疑。そんなことがあり得るだろうかと思って口にした問いに、イリーゼが嗤う。
「知らないも何も、私自身、まだ判断がつきませんから」
部屋を出てから三時間後。
私はマイヤースとは別のホテルにいた。
それなりに信頼の置ける情報網を使って辿り着いた場所だが、ホテル全体にうら寂れた雰囲気が漂っている。その廊下を周囲を警戒しながら歩き、目的の部屋を見つけた。
(本当に、ここ……?)
どことなくくすんで見える部屋の扉は、お世辞にも「高級」とは言い難い。
こんな場所に目的の人物がいるのだろうかと訝しみつつ、扉をノックする。
二度、三度。
徐々に扉を叩く手に力を込めるも、部屋の中からはなんの反応もなかった。
四度目。今度は部屋の主の名と共に扉を叩くと、漸く、中から不明瞭な呻き声が返ってくる。それを、「入室許可」だと判断し、扉を開けた。
途端、視界に飛び込んできた光景の悲惨さに、思わず息を呑む。同時に、広くはない部屋の奥で寝転がったままの男と目が合った。
一拍の沈黙の後、彼が何か言おうとするのに先んじて、こちらが口を開く。
「まぁ、なんと言いますか、その……」
何を言えばいいのか分からない。
相手の気分を害さぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「今の私が言うには、少々、差し障りがある気もいたしますが……」
挨拶の、最初の一言に苦慮する。
「……取り敢えず、『ご機嫌いかが?』とは、お伺いしないほうがよろしいみたいですね」
多少、的を外した気はするが、微笑んでおく。
酒瓶が無造作に転がる卓を前に、長椅子に肢体を投げ出していた男が、ゆっくりとその身を起こした。
寝ていたわけではなさそうだが、取り次ぎもなしに押しかけたせいか、男は不機嫌な態度を隠そうともしない。
そんな彼に向かって、ニッコリと笑みを深める。
「ご機嫌をお伺いするまでもなく、『まさに散々』といった有様でいらっしゃいますものね、ロベルト様?」
左頬に治りかけの痣を残した男――ロベルト・クロイツァーがこちらを睨んだ。
仏頂面をする彼に、少しだけ、「マズかったかな?」と反省する。
(うーん。これはどうやら、タイミングが悪かったみたい……)
場を和ますための冗談のつもりだったのに。
それがどうやら、彼にとっては最悪なタイミングの最悪な挨拶だったようだ。
(まぁ、そうよね。私だって、三時間前の状態を人に見られたら、暴れたくなるもの)
そう考えると、黙って睨むに留めているロベルトの対応は、ずいぶん紳士的だと言える。
そんな彼の紳士な態度に応えるのなら、ここは一旦引いて、最適なタイミングを見計らって再訪するのが望ましいだろう。
ただ、残念なことに、私には次のタイミングを悠長に待つ時間がなかった。
だから、もう一度、ニコリと最上級の笑みを浮かべる。
「ロベルト様。今日は、貴方にお願いがあって参りました。どうか、私の話を聞いていただけないでしょうか?」
単刀直入に訪問の理由を告げた。
ロベルトの口元に薄い笑いが浮かぶ。
「未来の公爵夫人ともあろうお方が、供も連れずに男の部屋を訪ねてくるとはね。更には、『お願いがある』ときた。いやはや、一体全体、どんなお願いを聞かされるのやら」
不摂生な生活ゆえか、シニカルに嗤う彼の顔には、疲労の色が濃い。一見して、酒気が残っているようだったが、こちらを窺う瞳には油断のない理知の輝きが残っていた。
互いに互いを観察し合ううち、不意にロベルトが口を開く。
「ここに君がいることを、エドワードは承知しているのか?」
語気鋭い問いに一種の威圧を感じ、小さく首を横に振る。
(こういうところは、『腐っても』って感じ……)
名ばかり伯爵家とはいえ、ロベルトは現クロイツァー家当主。夭逝した先代の跡を継いで、六年前、二十歳という若さで伯爵位に就いている。元夫となったエドワードとは同年の従兄弟同士だ。
(まぁ、『仲の良い親族』ではないけれど……)
エドワードがロベルトの名を口にすることは滅多になかった。
偶に社交界で顔を合わせても、彼はロベルトを無視する。それに対して、ロベルトが一方的に絡むという構図が成り立っていた。今の私にはロベルトのその気持ちが分からなくもない。
ボーッと考え込んでいると、彼がやれやれと肩を竦める。
「まったく、高貴なお方の考えは分からないね。夫に内緒でこんな場所まで来て。こんな酔いどれに、一体何を望むと?」
ジロジロと不躾に向けられる碧い瞳は故意だろう。
こちらを不快にさせて追い払おうとする彼に、再び首を横に振って応える。改めて、その瞳を見つめ返した。
(よく見ても、やっぱり、エドワードとは似ていない)
野性味溢れる美丈夫の元夫と比べると、ロベルトは線が細い。瞳の色はそっくりな碧なのに、貴公子然とした美しさを持つロベルトの瞳はどこか甘く、受ける印象がエドワードとは全く違った。
(この人はもっとちゃんとしていれば、『王子様』のイメージそのものなのに)
残念ながら、ロベルトの「ちゃんとした姿」を目にした記憶はない。
そして今、想像上の王子様は服を着崩し、生気のない顔でだらしなく背もたれに体を預けていた。
(今の姿は、どこぞのマダムの愛人って感じ)
そう揶揄してみても、美しいことに変わりはない。
長い四肢を気だるげに投げ出す様は、確かに落ちぶれて見える。それでも、退廃的な美しさを感じてしまうのは、彼の美貌が全ての欠点を補って余りあるからだ。
これだけの美しさがあれば、人生などイージーモード。うらぶれる必要などないと思うが、この世界、貴族である彼にとってはそう簡単な話ではない。
視線を、彼の顔から少しずらす。
あの夜、会場のあかりに煌めいた金糸は、彼の背の中ほどまである。白に近い輝きを持つ長髪が、今は無造作に下ろされていた。
(流浪の民の血、か……)
国を持たない流浪の民は諸国を旅して回り、多くは行商や芝居で生計を立てている。そんな彼らの特徴とも言えるのがその髪色、金糸銀糸だ。
カーテンを閉め切った室内では分かりにくいが、ロベルトの煌めく光沢は、本来、この国の人間が持ち合わせない美しさだった。
(この国の人の髪って、基本、艶なしマットカラーなんだよね)
だから、「髪に光沢がある」のは、異端でしかない。「美しい」どころか、奇異なものとして見られるのだ。
ジロジロ見すぎたせいか、ロベルトが私の視線の先に気付く。彼の顔が僅かに歪んだ。
しかし、一瞬の後には、その表情は綺麗に消し去られる。
「……酔いどれでなくとも、俺のような下賎の者が未来の公爵夫人のお役に立てるとは、到底思えませんけどね」
そう言って、彼は自らを貶めて嗤う。
「なんてことない」というふりで、つけられた傷を決して見せないようにして。
この感じを、私はよく知っている。
(人のこと言えないけど、卑屈だなぁ……)
ただ、彼の場合はそれも仕方ないのかもしれない。
この世界において、髪の色は魔力の質を表し、その濃度は魔力の量を示す。
赤、青、黄の三色を髪色の根源とするこの国では、三色から遠い髪色を持つ者は忌避され、時に差別の対象となる。
ロベルトの髪色は貴族社会においては禁忌に近く、彼が今までどのような扱いを受けてきたのか、容易に想像できた。
(これだけの美形でも、この国では胸を張って生きていけないのか……)
そんなふうに思考するうちに、どうやら意識を飛ばしていたらしい。
ロベルトは黙って待つことに飽きたのか、立ち上がって扉近くの卓へ向かう。置かれた水差しを掴んだ彼は、行儀悪く、そのまま口をつけて呷り始めた。
反った背で金糸が揺れる。気付くとまた、その煌めきに惹きつけられていた。
(こんなに綺麗なのに……)
濡れた口元を袖でぬぐった男が、こちらを振り向く。
「……それで?」
長髪が、臆すことなく晒される。
忌まれる髪を短く刈ることも隠すこともせず、社交界を渡り歩く。この男の捻くれた思考が、私は嫌いではなかった。
「結局、俺に何をやらせたいって?」
ロベルトの言葉に、現実に引き戻される。
そろそろ、こちらも覚悟を決めなければならない。無意識に、下腹に手が伸びた。
(うん。やっぱり、この人がいい……)
直接言葉を交わして、私の復讐に必要なのは彼だと確信した。
なんとしても彼が欲しい。その思いで、最初の一言を口にする。
「エドワード様と、離縁いたしました」
「なんだとっ……!?」
ロベルトの目が驚愕に見開かれる。彼のその反応に、心から安堵した。
どうやら、初手は成功のようだ。
彼の関心を引けた今、最後まで話を聞いてもらえるよう、彼の気を引き続けねばならない。
「私は既に、次期公爵夫人ではありません」
「待て! ちょっと待て……!」
言って、ロベルトが頭を振る。
思考をクリアにするためだろうか。案外、最初のショックからの立ち直りは早そうだ。鈍くない反応に、彼への好感が増す。
彼が次にこちらを向いた時、その瞳は完全に落ち着きを取り戻していた。
「……別れたのか? エドワードと」
「はい」
首肯すると、ロベルトが目を細める。彼の口から、一人の名前が零れ落ちた。
「シンシアか……」
確信を持った呟きに、小さく感嘆する。
ヒントもなしに答えに行き着くとは。ロベルトはやはり愚鈍ではない。
(もしくは、誰でも気付くくらい、エドワードの態度が分かりやすかったか……)
浮かんだ皮肉に口元が歪む。
ロベルトは何事かを考え込み、こちらの存在を忘れているようだ。私は黙って、彼の言葉の続きを待つ。
やがて、何かを得心した様子のロベルトが顔を上げる。
「……なるほど。そういうことか」
こちらに視線を向けた彼の片頬が、歪に持ち上がった。
「つまり、あんたは公爵夫人の座を追われて味方がいない。だから、はぐれ者の俺なんかに助けを求めに来たってわけだ」
ロベルトが「ニヤリ」と音がしそうな笑みを浮かべる。端整な顔には不似合いな表情。彼の小物感が一気に増した。
(なんだろう。なんて言うか、すごく残念……)
美形の無駄遣いとしか思えない。
だが、当の本人はいたって楽しそうにしている。
「大方、俺と組んで、エドワードとシンシアを別れさせようって魂胆だろうが、まぁ、悪くはない人選だ。それで? どうやって、あの二人を引き離すつもりだ?」
ロベルトが嬉々として尋ねる。放っておくと、「シンシアを攫う」とでも言い出しそうだ。
(それできっと、手痛いしっぺ返しをくらうんだろうな)
追い詰められた末に、エドワードに刺されるか、崖から落とされるか。
あっけない最期を迎える姿が目に浮かぶ。
(冗談でしょう。そんなの、絶対に嫌)
手本のような咬ませ犬街道。まっしぐらに突き進ませるつもりはない。
「私はお二人の仲をどうこうしようとは考えていません」
「なぜだ? エドワードとの復縁が目的ではないのか?」
「まさか、あり得ません!」
生憎、そんな建設的な思考は持ち合わせていない。
繰り返し「ない、ない」と否定すると、ロベルトの眉間に怪訝そうな皺が刻まれる。
「……だったら、あんたは一体、何がしたいんだ?」
「復讐です」
彼の問いに、間髪容れずに答えた。
「復讐……?」
「ええ」
眉間の皺を深くするロベルトに、頷いて返す。
「私が望むのはエドワード様とシンシア様への復讐です。エドワード様には特に、心の底から『自分が間違っていた』と後悔していただきたいと思っています」
想像して口元が弛む。
「私を切り捨てたことを悔いて悔いて悔いて……。心が蝕まれるほどの後悔に一生囚われてほしいんです」
そして叶うならば――
(私の足元にひれ伏し、這いつくばって謝罪してほしい……)
捨てた女に縋って、許しを乞う彼の姿が見たかった。
そんな望みを吐露すると、ロベルトの表情が険しくなる。
「……無理だろう。あいつのそんな姿は想像できない」
「ええ。……残念ながら、私もそう思います」
彼の言葉に再び頷く。
エドワードの性格的に、格下と見なした相手に膝を折ることは決してないだろう。
(分かってる。だけど、せめて、思いっきり悔しがる顔を見たい!)
私が味わった脳が焼き切れそうなほどの屈辱。その一欠片、一万分の一でもいい。彼にも味わわせてやりたかった。
そして、言ってやるのだ。
「『ざまぁ見ろ』って……」
「?」
「言ってやりたいじゃないですか。……一度でいいから」
私の言葉に、ロベルトの顔から表情が抜け落ちる。虚ろな視線が暫し虚空を彷徨った。
「もし、本当にそんなことができるなら。俺は……」
ポツリと呟いた彼の瞳が、徐々に元の光を取り戻す。
次にこちらを向いた時、彼の眼差しには強い生気が漲っていた。
「……具体的に何をするつもりだ? 俺に何をさせたい?」
ロベルトは未だ警戒しつつも、声の調子に期待の色を隠せていない。
(そんな目をされたら、ちょっと心苦しい……)
巻き込む以上、彼に対してフェアでなくては駄目だ。
だから、思いついたこと――復讐の内容を、全て明かすことにした。
「私の復讐は、『賭け』なんです」
「賭け?」
「はい。ですから、この復讐は『必ず成功する』、『必ず勝てる』とは限りません」
正直に告げると、ロベルトの眉間に再び皺が寄る。彼が口を開いた。
「勝算は?」
その問いに、体の力がフッと抜ける。
ロベルトが口にしたのは拒絶ではなく問い。少なくとも、賭けに乗るかを検討する気があると知って、安堵した。
どうやら、気付かぬうちにだいぶ緊張していたらしい。
「勝算は、どのくらいなんでしょうね? 五割、くらいでしょうか?」
正確なところは、自分でもよく分からない。ただ、結果は二つに一つしかなかった。
曖昧な答えに、ロベルトが胡乱な目をこちらに向ける。それに、肩を竦めて応えた。
「騙そうとしているわけではないですよ。ただ本当に、五分五分かなぁ、と」
もう一度、自らの腹部に触れてみる。
(ここに、いるかいないか……)
そのどちらかだ。
ロベルトが難しい顔でこちらを観察していた。私の言葉の真偽を探っているのだろう。
やがて、小さく嘆息した彼が、「いいだろう」と告げる。
「その賭けとやらで、俺は何をすればいい?」
至極真面目に尋ねる彼に、内心で苦笑する。
(私の『賭け』に乗ってくれるんだ……)
よくて勝算五割しかない怪しい賭け。しかも、よく知りもしない相手に、彼は賭けようとしている。
復讐の相手が公爵家の人間というだけで、普通の感覚の人間なら、即刻「お断り」だろうに。
(だけど、ロベルトは相手がエドワードだからこそ、勝負に出ようとしてる)
彼の感情につけ込む罪悪感はあるが、やはり、彼ほど復讐のパートナーに相応しい人はいない。
(私の選択は間違ってなかった)
自然に顔が笑う。笑ったまま、自らの願いを口にした。
見上げる碧い瞳に、心からの同族意識を込めて――
「ロベルト様、私と結婚してください」
◆◆◆
一瞬、目の前の女の言葉が理解できなかった。
数拍の沈黙の後、理解した言葉の意味に、頭が芯まで冷える。
どうやら、また、くだらない冗談に引っかかったらしい。
そうと気付かず、一時でも女の戯言を本気にした自分に腹が立った。
(クソッ……!)
こんな女と関わったのが間違いだ。丁重に追い出し、さっさとしまいにしよう。
そう思うが、上手く笑えない。静かに見上げてくる翠の瞳が、無性に苛立たしかった。
「……俺を、馬鹿にしているのか?」
知らず、口から言葉が零れ落ちる。
低い声。出すつもりのなかった言葉には、怒り、恨み――隠しようのない己の感情がこめられていた。だが、女――イリーゼは、顔色一つ変えずに、「いいえ」と首を横に振る。
「馬鹿になどしていません。勿論、冗談を言っているわけでもありません」
「では、なぜ……」
声が掠れた。みっともない。
なのに、言葉が止まらなかった。
「なぜ、そんな話になる。俺と結婚だと……?」
問いはしたが、答えが欲しかったわけではない。「冗談ではない」というイリーゼの言葉を信じたわけでもなかった。
ただ、ひどく混乱していた。
本当に質の悪い冗談だ。彼女がそんなことを言い出した理由が分からない。
重い何かが胸を塞ぐ。
「あの、ロベルト様……?」
名を呼ばれ、声のしたほうへ漫然と視線を向けた。己を見上げるイリーゼの表情に、僅かに虚を衝かれる。
(なぜ、そんな顔をする……?)
困ったような、辛そうな、泣き出しそうな顔。その表情の意味を考えて、ゾッとした。
もし、それが己への同情なら、彼女が自分に憐憫を向けているのだとしたら。
――耐えられない。
堪らず視線を逸らすと、イリーゼがフッと笑う気配がする。視線を戻すと、彼女の顔に先ほどまでの表情はなかった。
「ごめんなさい。誤解させるつもりはなかったんですが、無神経でした。でも、何度でも言いますが、ロベルト様に結婚してほしいのは本当です」
真剣な眼差しは一瞬のこと。
彼女はニッと――何かを企む悪女のような笑みを見せる。
「ねぇ、ロベルト様。私は先ほど、『私の復讐は賭けだ』と言いましたよね」
意味ありげに、彼女が笑みを深める。
その先を知りたくて、「ああ」と答えた。
「だがなぜ、その賭けが俺との結婚に繋がる?」
何かを期待しているわけではない。しかし、イリーゼが何を考えているのかは気になる。
己の問いに、彼女は小さく笑うと、右手で自身の腹に触れた。
「私、妊娠しているかもしれません」
「な……っ!?」
とんでもない告白に、言葉を失う。信じられない思いで、彼女の顔と右手の置かれた腹を交互に確かめる。
(嘘をついているようには見えない、が……)
いくら眺めてみても、厚いドレスの下の体型など確かめようもない。
では、それ以外。顔や手足に変化があるかと観察するが――
(ふくよかになったというより、むしろ……)
「あの、本当に妊娠しているかは分かりません。それに、もし妊娠していたとしても、まだ初期ですから、見た目には……」
「あ、ああ」
彼女に言われ、「不躾だった」と、慌てて視線を逸らした。
逸らした先、薄汚れたホテルの壁を眺めつつ、思考する。
仮に、イリーゼの言葉を「真」とするなら、あのエドワードが彼女との離縁を望むだろうか。
いくらシンシアに逆上せ上がっていたとしても、イリーゼの腹の子はソルフェリノの直系。あの男が、自らの血を引く子を手放すはずがない。
そこまで考えて、ハタと気付く。
(まさか……っ!)
イリーゼに向かい、浮かんだ疑念を口にする。
「腹の子の父親は、誰だ……?」
その言葉に、イリーゼが目を見開く。そしてすぐに、皮肉げな笑みを浮かべた。
「ロベルト様、なかなかに最低な質問をしてくださいますね」
言われてハッとする。確かに、彼女に対してかなり無礼な発言だ。
謝罪しようと開きかけた口は、彼女の言葉に阻まれる。
「子ができていれば、当然、エドワード様の子です」
迫力あるイリーゼの言葉に無言で頷き返す。
だが――だとしたら、エドワードが妊娠の可能性のある妻を手放したのは不自然だ。
考えられるとしたら――
「あいつは知らないんだな? 子どものことを……」
自分でも半信半疑。そんなことがあり得るだろうかと思って口にした問いに、イリーゼが嗤う。
「知らないも何も、私自身、まだ判断がつきませんから」
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