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スマホ煮込み
しおりを挟むキッチンに立って、使い古して少し凹んだ雪平鍋に水を張り、
ガスコンロを点火し、湯を沸かす。
ふつふつと水の表面が気泡を作って湯気を昇らせると、
僕は右手に持っていたスマートフォンをゆっくりと鍋の中に浸けた。
スマートフォンは気泡に押されて
鍋の底でコトコトと音を立てながら茹でられていく。
湯気の中に見える角ばった黒いスマートフォンを、
まるでインスタントラーメンを茹でるかのように、ぼんやりと見ていた。
3分程茹でたらそこに砂糖と醤油を足して、そこから5分。
これで砂糖と醤油で甘辛くコーティングされたスマホ煮込みの完成だ。
『自分のスマートフォンを煮込むと未来が分かります』
行きつけの近所の小さな図書館で借りた小説の中に挟まっていた古紙に、
か弱い筆圧で書かれたそれを僕は食い入る様に読んだ。
『煮込み終わってガスコンロの火を切ってから、立ち昇ってくる湯気の中に貴方の未来が映し出されます』
嘘臭いと思った。
大体スマホを煮込むってなんだよ。とは思いつつも、
結婚を視野に入れていた加奈に振られたばかりで自暴自棄になっていた僕は軽い気持ちでそれを試した。
その時のスマホの中身は彼女との思い出で詰まっていたから逆に丁度良いとも思った。
食欲をそそるような甘辛い匂いを漂わせる湯気の中、
ぼんやりと見えてくるのは加奈との同棲生活と思われるシーンだった。
僕と加奈は結婚をする前に、1年の同棲期間を設けてからにしようと話し合って決めた。
ところが同棲を始めて1か月を超えた頃、加奈に他に好きな人が出来たと告げられあっさりと終わりを迎えた。
湯気の中での2人の同棲生活は楽しそうで、辛いながらも暫くの間、立ち尽くしてただそれを眺めていた。
湯気の中に映し出される思い出を見ているとある事に気付いた。
その中の僕と加奈は左手の薬指に指輪を嵌めていたのだ。
最初は、こうなれば良かったなぁ、という自分の願望を映し出している映像だと思っていたのだが
それが未来の物を映し出していると気が付いたのはリビングに飾られた写真立てからだった。
写真立ての中に飾られていたのは、
僕と加奈の結婚式の時の写真の様で、レースを幾重にも重ねた女性らしいシルエットの水色のウェディングドレスを纏って、華やかな笑顔をして僕の横に立つ加奈とぎこちない笑顔をした僕。
そのフレーム部分には
2025・02・05という数字が刻まれていた。
現在2022年。
3年後の2月5日。
彼女の誕生日に僕と加奈は結婚しているというのか。
信じられなかったけど、そんな未来が迎えられたらどんなに幸せだろう。
僕は何とも言えない気持ちに襲われてしまって、
冷めきらない鍋の中身をシンクに流してから
スマホをそっと触ってみた。
勿論、熱湯に浸かっていたわけだから火傷しそうな程に熱くなっていた。
だが驚いたのは、煮込んだにもかかわらず、
冷めて触れるようになってから普通に起動できたという事。
壊れて当然だと思っていたのだが、普通に使えたのは買い替える出費も無く済んだのもあって少し嬉しかったし、
湯気の中の未来を見てから、加奈との思い出を消すのも惜しい気がしていたのだった。
スマホ煮込みで未来を見てから3か月しない内に、新しい彼女が出来た。
告白をしてきたのは向こうからだった。
その時丁度暇をしていたし、告白の了承をしたのだけど
加奈と比べると容姿も気遣いも劣っていたし、何よりその人の事を僕は別に好きではなかった。
勿論、告白をしてくれたのは嬉しかったし、
湯気の中に見た加奈との未来は現実になるかは分からないから新しく彼女を作っても良かったのだけど、
あの日、甘辛い匂いのする湯気の中に見た加奈との写真が頭から離れなくて、
新しい彼女とは
『私の事を全然見てくれませんね』と
言われて呆気なく終わりを迎えた。
それからは恋愛と疎遠になって、仕事一筋の日々が続いた。
2025年の加奈の誕生日は刻一刻と迫っていた。
やはりあの湯気の中で見たものは幻想だったのか、
加奈の誕生日まで2か月を切っているというのに僕の毎日に加奈が加わることは無かった。
しかし2025年1月18日、仕事を終えてスマホの画面を開いて目に入ってきたのは、
電話帳から消さずに残していた加奈からの着信だった。
僕はやっと加奈との未来を現実に出来ると、心臓を直接拳で叩いてくるような気持ちの昂りを感じ、
躊躇することなく加奈へ電話を掛けると、2コールもしない内に鈴の音の様な加奈の声が耳元からしっとりと伝わった。
「ずっとずっと貴方の事が忘れられなくて」
加奈の声を聴くと付き合っていた頃の思い出が鮮明に甦る。
僕はおかしいと思う。
他に好きな人が出来たと一方的に別れを告げられて、
こうやって勝手な事を言って僕との仲をまた再開させようとしている加奈と結婚しようとしているのだから。
でもそれでいい。
スマホを煮込んで見た未来で僕と加奈は笑っていた。
あの未来が見えた僕にはそんな彼女の自分勝手なところだって別に全然平気だった。
2025年2月5日。
加奈の28回目の誕生日に僕と加奈は結婚式を挙げた。
見覚えのあるぎこちない笑顔を作って写真撮影もした。
何だかんだ加奈とは順調に結婚生活を送っていたと思う。
結婚してから1年を過ぎた頃から加奈の仕事の帰りが段々遅くなってきた事も分かっていたし、
服の趣味や持ち物が変わってきた事も気付いていた。
でも彼女が浮気していようと僕は平気だ。加奈の事を心から愛しているし、この先もずっと一緒に居るだろうし、少しの浮気くらい目を瞑ろう。
それは僕も加奈も特に予定の無い休日の事。
お互いダラダラとした時間を過ごしていた。
昼飯はインスタントラーメンでいいか、と加奈とキッチンに立った時、あの時の感覚が思い出される。
今スマホを煮込んだら何が見えるのだろう。
沸かした湯に封を切ったインスタント麺ではなくスマホを浸けてみる。
隣に立つ加奈は「えっ」と頓狂な声を出した。
「なにしてんの!」と声を荒げる加奈を横目に、
砂糖と醤油を足して僕は湯気の中に目を凝らした。
それは加奈にも見えているようで、湯気へと視線を止めた。
暫くして湯気の中から見えてきたのは、僕ではない誰かの横で笑顔でピンクのウェディングドレスを纏った加奈の姿だった。
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