彼は亡国の令嬢を愛せない

黒猫子猫(猫子猫)

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1.彼女が助けてと叫べた日

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 昼過ぎだというのに、屋敷の執務室は薄暗い。窓辺に立って曇天を見つめていたセシリアの元夫は、彼女に背を向けたまま素っ気なく告げた。

「明日の朝、君の従者たちと一緒に、出て行ってくれ」

 セシリアは机の上に置かれていた離縁状に視線を落とす。先に夫の名が書かれ、教会の承認印も押されていた。準備の良い事だと思いながら、先ほどセシリアも記名を終えている。

 五年間に及んだ結婚生活の終わりは呆気ないものだ、とセシリアは思った。妻の祖国が滅びるや否や、すぐに離縁を求めた夫へ、もう怒りも悲しみも湧かない。

 敵国に攻め込まれた時、セシリアは故郷の家族を救うべく奔走したが、できた事は限られた。
 名ばかりの正妻という立場は、この屋敷に居る者は誰でも知っているから、何の権限もない。夫も救援を拒み、むしろ敵国を刺激したくないとセシリアの行動を厳しく制限した。

 夫には結婚した当初からすでに寵愛している妾たちがいて、セシリアの両親に頼まれたから応じたという態度をありありと出していた。初夜をすっぽかしてセシリアに屈辱を与え、彼女の祖国が滅びた日も、何番目かの妾と戯れていた男だ。

 愛されたいとも思わず、求められもせず、夫婦となっても寝室を共にすることはなかった。とっくに愛想も尽きた夫に、それでもセシリアは最後の頼みごとをした。

「承知いたしました。一つだけ⋯⋯お願いがございます――」
 そう切り出したセシリアに、彼は怪訝そうな顔をした。



 翌日、セシリアは二十人弱の従者たちと一緒に、五年暮らした屋敷を後にした。道中の食糧や着替えなどの荷物を積んだ馬車が一台と、セシリアが望んだ人が乗れる馬車がもう一台。従者や侍女の殆どは徒歩だ。
 そんな人々の周囲を固める騎士たちはセシリアの元夫の部下で、全員が騎乗している。彼らは国境まで無事に送り届けるのが最後の務めだと言いながら、注意を払っているのはセシリアたちの動向である。

 セシリアには彼らの目論見が透けて見えていた。

 滅びた祖国は今、敵国ルーフス軍の占領下にある。

 故郷の王都は陥落し、王族は皆殺しの憂き目にあっていた。セシリアの実家は王家の血の流れを汲んでいた公爵家ということもあり、家族や親類もみな犠牲になった。
 両親が半ば強引に縁談を進めたのも、不穏な空気を察知して、せめて娘だけは国外へ逃れさせようと考えたのだろうと、セシリアは今になってようやく分かる。

 だが、そんな両親の願いを元夫は容易く踏みにじった。

 ルーフス軍は残党狩りを始めている。王家や名だたる貴族の者を、彼らは目の色変えて追っていた。他国へ嫁いでいた者にまで圧力をかける程の徹底ぶりだ。

 真っ先にルーフスに尻尾を振り、妻と離縁して差し出したのが、セシリアの元夫である。

 このまま帰れば待っているのは、処刑だ。国境までの警備というから、恐らくそこで全員がルーフス軍に引き渡されるだろう。

 セシリアと一緒に、祖国から同行してきた従者達まで一緒に送り帰されるのは、ルーフス軍の意向によるものだろう。警護の兵の一人がセシリアだけでいいのではないかと面倒がっていると、

『ルーフスが、全員を生かして連れてこいとよ』
 と別の者が小声で話しているのが聞こえたからだ。

 公爵家一門を大々的に処刑すれば、よい見せしめになる。情け容赦なく蹂躙したルーフス軍の考えそうなことだった。

 ――みすみす殺されるわけにはいかないわ⋯⋯。

 今一度、セシリアは自らを奮い立たせた。

 元夫の領地はセシリアの祖国と隣接していたこともあり、夕方に差し掛かる頃には、一行は山道を登り始めていた。山を越えた先にある川が国境線だ。日が落ちる前に進もうと、騎士たちは人々を急かす。
 セシリアは元夫に頼んで用意してもらった馬車には乗らず、従者たちと共に徒歩で進んでいた。衣服も地味なもので、周囲の者たちに完全に溶け込んでいる。

 セシリアは頬を打った冷たい雨に顔を上げた。空一面を覆う黒い雲は、まだ夕方の早い時間にも関わらず、周囲を薄暗くしている。山に入り、標高が高いせいか、薄っすらと霧も出始めていた。

 ――良かった⋯⋯。

 セシリアは少しだけ安堵して、周囲を見回す。従者たちの顔は皆暗く、中には泣いている者もいた。彼らの涙も雨はかき消してくれるだろう。そして、霧は逃げる自分の姿をうまく隠してくれるに違いない。



 雨は次第に激しさを増し、大きな雨粒が大地を打つ。川辺で待機していたルーフス軍は、川の増水を嫌って、自国が占領している領内の山へと一時陣を移した。ルーフス兵たちが移動する姿を、近くの木の枝の上から苦々し気に見つめる一人の若い男がいた。

 その瞳には敵意しかなかったが、十を数える騎士たちに対し、彼はたった一人である。剣も佩かず平服の彼が、甲冑を纏い武器を持つ者達に挑むには分が悪いように思える。

 男はルーフス兵達をそのままやり過ごすと、ルーフス兵達とは反対の方向へと進んだ。彼の目的は食糧探しであり、断じてルーフス兵と一戦することではない。

 むしろ、絶対にそんな真似をするなと、上役から釘を刺されてもいる。

 彼は苦渋の想いを抱えながら、山の中を進む。激しい雨音は足音も消してくれて丁度良かったが、食料になる獲物も見つけにくい。手ぶらで帰る訳にもいかない――そう思っていた彼の眉間に、更に深い皺が刻まれた。

「そっちに行ったぞ! 逃がすな!」
「殺すなよ! 生け捕りにしろ!」

 そんな物騒な会話を交わす複数の男の声が聞こえたからだ。

 面倒事に巻き込まれてはたまらないと、彼は周囲を見回し、再び木の上へと登った。そのまま先程のようにやり過ごせれば、何の問題もないはずだった。

 だが、茂みをかき分けて、すぐ傍に飛び出してきた者を視界に捉えた時、彼は一瞬、呼吸を忘れた。

 女もたった一人だった。背が高い上に、雨や髪が衣服に張り付いて、よりいっそう細い身体が目立つ。兵隊に追われているのは、彼女だろうとすぐに察しがついた。

 ――何者だ。どうする。

 彼のそんな躊躇は、一瞬だった。完全に気配を消していたはずだというのに、彼女は彼のいる木の前で足を止めると、すっと顔を上げた。

 目が合った。
 それは時間にしてほんの数秒ほどだったが、彼の本能を引きずり出すのに十分すぎるものだ。

 セシリアは必死だった。
 国境に辿り着く前に、何としても従者たちだけは逃がさなければならない。

 そのために、元夫の騎士達を追い払ってくれる強者がどうしても必要だ。山の方から強い『気配』を感じていたセシリアは霧を好機と捉え、賭けに出た。この男ならば、きっと勝てる。彼女は一つの確信を得て、叫んだ。

「お願い、何でもするから、助けて!」

「じゃあ、俺と結婚してくれ!」

 聞き間違えでなければ、初対面のこの男は今、自分に求婚してこなかっただろうか。そんな、まさか。呆気にとられた顔で彼を見上げると、男の方も驚いたように目を見開いていた。

「あの⋯⋯?」
「⋯⋯俺は何を言ってるんだ⁉」
「さ、さぁ⋯⋯」

 ――私は救いを求める相手を間違えたかもしれないわ⋯⋯。

 セシリアは少しばかり後悔した。
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