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第32羽・言葉は簡単に人を傷つける
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ランスは飛ぶ力こそ出なかったが、それでもしばらく休憩すると、歩く力が出てきた。
「ここからなら、前に泊まった屋敷が近い。管理をしている者達もいるから、王宮まで戻るのに手を借りるとしよう。少し歩くぞ」
と言って、エミリアの手を引いて、のんびりと歩き出した。
一国の王子が、手繋ぎで歩いているなんて不思議だと思いながらも、エミリアは顔が綻ぶ。気恥ずかしいのは変わらなかったが、彼の元に戻って来られた喜びの方が大きかった。
道中で、エミリアは改めて向こうの世界で起こった事を詳しく彼に話して聞かせたが、その時、ふと思い出した事があった。
「そういえば……途中で、上司を見かけたわ」
ぴくっとランスが反応したのが、手を通して分かり、エミリアは苦笑する。そういえば彼は以前、梅干しを巡って上司に張り合っていた。
「なんだ。お前がいなくなって、寂しがってでもいたか?」
「そんなんじゃないわよ。職場の上司だって言ったでしょう」
「……それにしてはな」
「え?」
あからさまに不貞腐れた顔をして、まるで独占浴を露わにするように手を握って来たので、エミリアは苦笑しながら続けた。
「むしろ、私は苦手な方だったわね。仕事をやり過ぎて体調を崩した次の日、頑張って行ったら、『お前の仕事なんて誰でもできる。いくらでも代わりがいるんだぞ』って怒られて、嫌になって仕事を辞めてしまったわ」
「……そういうことは、早く言え」
「ごめんなさい。嫌な事から逃げたようなものだし……何だか言いにくくなって」
「そうじゃない。お前を虐めた報いを受けさせる。異世界にいようが、何か手段はあるはずだ」
敵意をむき出しにしたランスに、エミリアは目を丸くし、慌てて続けた。
「待って。私が言いたいのはそうじゃないのよ」
確かにエミリアは、かの上司が苦手だった。奥さんに逃げられるわけだとさえ思ったし、退職したのだからもう会いたくもなかった。
ただ、かつての上司と同僚は、エミリアが暮らしていたアパートのすぐ近くを歩いて、肩を落としていた。
「やっぱり立花さん、帰ってきていないみたいですね」
「…………」
「彼女を街で見かけた奴が、いきなり倒れたかと思ったら、跡形もなく消えたと騒いでいましたが……本当でしょうか?」
有海は転生を拒否し、エミリアは本来の身体の主ではない。魂が二つ存在する有海の身体は、仮初のただの器となり、ひどく脆いものと化した。普通の人間のように、骸となりゆっくりと地に還ることもできず、消滅したのだ。二十一年もよく保てたと、ランスは言っていた。
ただ、異世界の存在を知らない者達にとっては、ただの怪談のように思われる。現に、上司の男も苦々し気に否定した。
「そんなわけあるか。早朝だったというし、寝ぼけたんだろう」
「まぁ、そうですよねえ」
「ただ……辞めた後、いきなり行方不明っていうのがな。……どこかで元気にしてりゃあいいが」
二人の足取りは重くなり、やがてエミリアのいる電線の下で足が止まった。
「彼女……相当、参っていましたからね。辞めるのが遅すぎた方です」
「一人が背負える仕事量じゃねえからな。それなのに、更に責任を負わせて、追い込むあの会社はおかしい。俺も自分の事が手いっぱいだからな……庇いきれねえ」
「みんな、窮屈な思いをしていますからねえ……」
「あぁ。あんなところ、身体を崩してまで、無理に出てきて尽くす必要なんてねえよ。俺たちのやっている仕事なんて、誰でもできるんだよ。俺だってもうすぐ定年だが、すぐに誰かが代わりにやるだろ。俺の居場所なんて、そんなもんだ」
生きていく上で、仕事はしなければならない。すぐに辞められない事情も個々にあるだろう。それでも、心や体を壊してまで居る場所ではないと、彼は断言した。
有海の同僚は頷いて、上司と共に再び歩き出しながら、憂鬱な気分を振り払うように少し明るい声で言った。
「それか、もしかして、彼女は故郷に帰ったのかもしれませんね。実は待っている良い人がいて、荷物は後で取りに来るつもりでいる、とか」
話に聞き入っていたエミリアは、胸がいっぱいになっていたが、かつての同僚が『ボケっとしていた、とろそうな子だったけど、顔はまあまあ可愛かったですし』と付け加えたのもばっちり聞こえて、後ろから頭を突いてやろうかと思った。
色々と余計である。
しかも上司までも同感だとばかりに笑ったものだから、腹立たしい。
「それならいい。羨ましい話だ。俺なんて、この先もずっと独り身だぞ」
「奥さんに逃げられたんでしたっけ?」
職場ではその言葉だけが切り取られて、物笑いの種になっていた。だが、有海の同僚は、上司と他愛のない雑談をすることもあったので、彼の私生活を他の者達よりも少しばかり知っていた。
上司の男はいつになく穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだな。もっと良い所に行くんだって言って、病床でも笑っていたからな。最期まで、明るいやつだったよ」
エミリアは息を呑み、そして、自分の早合点に気づいて恥ずかしくなった。
言葉は簡単に人を傷つける。
それも相手を知り、思いやり、言葉を交わしていけば、同じ言葉でも違う意味を持つはずだった。拒み、離れてしまえば、それもできない。
――――帰ろう。
四十年以上の月日が流れ、それでも待っていてくれたランスに、まだまだ伝えたいことが沢山ある。好奇心の強い彼は、きっと喜んで話を聞いてくれる。自分の言葉で、直接想いを伝えたい。
エミリアは挫けそうな心を励まして、羽を広げた。
「あぁ……綺麗な虹だ。女房が逝っちまった日を思い出す。どこかに渡っていったのかもしれねえな」
上司の言葉に導かれ、エミリアは空を見上げた。雨上がりの空に美しい七色の虹が見え、その中に帰り道がはっきりと見えた。
「――――そう言っていたわ」
黙って聞いていたランスは、小さく息を吐いた。
「……いるかもな。トリシュナの元かどうかは分からないが、温室に留まり続けている卵は幾つかまだある」
「トリシュナさんに、探してもらうわ」
「もし見つけても、俺がまた飛べるようになってからだぞ」
それだけは譲らないと言った彼に、エミリアは微笑み、頷いた。
「ここからなら、前に泊まった屋敷が近い。管理をしている者達もいるから、王宮まで戻るのに手を借りるとしよう。少し歩くぞ」
と言って、エミリアの手を引いて、のんびりと歩き出した。
一国の王子が、手繋ぎで歩いているなんて不思議だと思いながらも、エミリアは顔が綻ぶ。気恥ずかしいのは変わらなかったが、彼の元に戻って来られた喜びの方が大きかった。
道中で、エミリアは改めて向こうの世界で起こった事を詳しく彼に話して聞かせたが、その時、ふと思い出した事があった。
「そういえば……途中で、上司を見かけたわ」
ぴくっとランスが反応したのが、手を通して分かり、エミリアは苦笑する。そういえば彼は以前、梅干しを巡って上司に張り合っていた。
「なんだ。お前がいなくなって、寂しがってでもいたか?」
「そんなんじゃないわよ。職場の上司だって言ったでしょう」
「……それにしてはな」
「え?」
あからさまに不貞腐れた顔をして、まるで独占浴を露わにするように手を握って来たので、エミリアは苦笑しながら続けた。
「むしろ、私は苦手な方だったわね。仕事をやり過ぎて体調を崩した次の日、頑張って行ったら、『お前の仕事なんて誰でもできる。いくらでも代わりがいるんだぞ』って怒られて、嫌になって仕事を辞めてしまったわ」
「……そういうことは、早く言え」
「ごめんなさい。嫌な事から逃げたようなものだし……何だか言いにくくなって」
「そうじゃない。お前を虐めた報いを受けさせる。異世界にいようが、何か手段はあるはずだ」
敵意をむき出しにしたランスに、エミリアは目を丸くし、慌てて続けた。
「待って。私が言いたいのはそうじゃないのよ」
確かにエミリアは、かの上司が苦手だった。奥さんに逃げられるわけだとさえ思ったし、退職したのだからもう会いたくもなかった。
ただ、かつての上司と同僚は、エミリアが暮らしていたアパートのすぐ近くを歩いて、肩を落としていた。
「やっぱり立花さん、帰ってきていないみたいですね」
「…………」
「彼女を街で見かけた奴が、いきなり倒れたかと思ったら、跡形もなく消えたと騒いでいましたが……本当でしょうか?」
有海は転生を拒否し、エミリアは本来の身体の主ではない。魂が二つ存在する有海の身体は、仮初のただの器となり、ひどく脆いものと化した。普通の人間のように、骸となりゆっくりと地に還ることもできず、消滅したのだ。二十一年もよく保てたと、ランスは言っていた。
ただ、異世界の存在を知らない者達にとっては、ただの怪談のように思われる。現に、上司の男も苦々し気に否定した。
「そんなわけあるか。早朝だったというし、寝ぼけたんだろう」
「まぁ、そうですよねえ」
「ただ……辞めた後、いきなり行方不明っていうのがな。……どこかで元気にしてりゃあいいが」
二人の足取りは重くなり、やがてエミリアのいる電線の下で足が止まった。
「彼女……相当、参っていましたからね。辞めるのが遅すぎた方です」
「一人が背負える仕事量じゃねえからな。それなのに、更に責任を負わせて、追い込むあの会社はおかしい。俺も自分の事が手いっぱいだからな……庇いきれねえ」
「みんな、窮屈な思いをしていますからねえ……」
「あぁ。あんなところ、身体を崩してまで、無理に出てきて尽くす必要なんてねえよ。俺たちのやっている仕事なんて、誰でもできるんだよ。俺だってもうすぐ定年だが、すぐに誰かが代わりにやるだろ。俺の居場所なんて、そんなもんだ」
生きていく上で、仕事はしなければならない。すぐに辞められない事情も個々にあるだろう。それでも、心や体を壊してまで居る場所ではないと、彼は断言した。
有海の同僚は頷いて、上司と共に再び歩き出しながら、憂鬱な気分を振り払うように少し明るい声で言った。
「それか、もしかして、彼女は故郷に帰ったのかもしれませんね。実は待っている良い人がいて、荷物は後で取りに来るつもりでいる、とか」
話に聞き入っていたエミリアは、胸がいっぱいになっていたが、かつての同僚が『ボケっとしていた、とろそうな子だったけど、顔はまあまあ可愛かったですし』と付け加えたのもばっちり聞こえて、後ろから頭を突いてやろうかと思った。
色々と余計である。
しかも上司までも同感だとばかりに笑ったものだから、腹立たしい。
「それならいい。羨ましい話だ。俺なんて、この先もずっと独り身だぞ」
「奥さんに逃げられたんでしたっけ?」
職場ではその言葉だけが切り取られて、物笑いの種になっていた。だが、有海の同僚は、上司と他愛のない雑談をすることもあったので、彼の私生活を他の者達よりも少しばかり知っていた。
上司の男はいつになく穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだな。もっと良い所に行くんだって言って、病床でも笑っていたからな。最期まで、明るいやつだったよ」
エミリアは息を呑み、そして、自分の早合点に気づいて恥ずかしくなった。
言葉は簡単に人を傷つける。
それも相手を知り、思いやり、言葉を交わしていけば、同じ言葉でも違う意味を持つはずだった。拒み、離れてしまえば、それもできない。
――――帰ろう。
四十年以上の月日が流れ、それでも待っていてくれたランスに、まだまだ伝えたいことが沢山ある。好奇心の強い彼は、きっと喜んで話を聞いてくれる。自分の言葉で、直接想いを伝えたい。
エミリアは挫けそうな心を励まして、羽を広げた。
「あぁ……綺麗な虹だ。女房が逝っちまった日を思い出す。どこかに渡っていったのかもしれねえな」
上司の言葉に導かれ、エミリアは空を見上げた。雨上がりの空に美しい七色の虹が見え、その中に帰り道がはっきりと見えた。
「――――そう言っていたわ」
黙って聞いていたランスは、小さく息を吐いた。
「……いるかもな。トリシュナの元かどうかは分からないが、温室に留まり続けている卵は幾つかまだある」
「トリシュナさんに、探してもらうわ」
「もし見つけても、俺がまた飛べるようになってからだぞ」
それだけは譲らないと言った彼に、エミリアは微笑み、頷いた。
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