殿下、今日こそ帰ります!

黒猫子猫(猫子猫)

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第29羽・エミリアの居場所

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 ランスが袖を捲り上げたことで、真っ先に右手の薬指の指輪が現われた。だがエミリアの視線はそちらではなく、彼の右腕に無数に刻まれた深い傷跡をとらえた。

 すでに癒え、古い傷跡ではあったが、当時どれ程の深手を負ったか想像に容易いほどだった。ランスはずっと肌を晒さずにきた。その傷跡がエミリアに恐怖を与えた過去を蘇らせ、心身を不安定にさせかねないからだ。

 エミリアは震える手で傷跡に触れ、労わるようにそっと撫でた。

「……死喰鳥の仕業ね」

 魂の渡りは、渡世鳥と守護鳥の対のみで行われる。トリシュナのような治癒鳥は、せいぜい二・三階程度の低い場所しか飛び上がれず、両者に委ねるしかない。また、身体の無い魂は非常に無垢であり、味方と定めた者以外の関与を嫌い、他の鳥の力を拒む質がある。他の能力者は同行できない。
 有海の魂を導こうとした時、渡世鳥のエミリアは空で死喰鳥に襲われ、守護鳥として同行していたランスは、単独で戦うしかなかった。

『行け、俺に構うな』

 渡世鳥の力によって異世界への道を拓き、ランスの一喝を受けて、エミリアは後ろ髪引かれる思いで世界を渡った。渡世鳥に戦闘能力はなく、留まっていても彼の足手まといになるからだ。異世界への道を渡る最中、エミリアは我慢できずに振り返り、彼が――――七色の鳥が傷だらけの身体で、落ちて行く姿を見た。

 その時の傷は今もなお、ランスの身体に残っている。
 ただ、彼の表情は穏やかだった。

「飛べなくなった訳じゃない。俺も飛べると言っただろう?」
「……えぇ」

下手糞へたくそになったのは確かだ。短期間に繰り返し飛ぶと痛みが長引くし、後に響いて力が入りにくくなる。一ヵ月くらい力を溜めておくと、無理なく長く飛べる」
「……苦しかったわね」

 エミリアは声が震えた。
 もう言葉が出なくなってきたが、彼は目に大粒の涙をためるエミリアを見て、静かに告げた。

「こんな傷よりも、お前を怖がらせた方が余程悔しかった。お前が戻ってこないのは、まだ死喰鳥が待ち構えていると思っているせいかもしれないとも思ったから尚更だ。奴も俺と一緒に落ちて行方を晦ましたが、今度会ったら必ず仕留める」

 ランスは戦う事を止めようとしない。

 トリシュナが自分の仕事だと誇らしげに言うように、彼もまた異能の力を持ち三人で魂を還す事を、大切な役割だと思っていたからだ。

「私も……無事にあの二人の魂を渡してあげたいわ。貴方に……また傷を負わせてしまうかもしれない事は、怖いけれど」

 ぽつりと呟いたエミリアに、ランスはなだめるように笑って見せた。

「俺は傷がまた増えても構わないぞ。俺の名前にはちょっとした由来があってな。お前の世界でよく知られている鳥の名から取ったそうだ。そいつの子は、親鳥があまりに美し過ぎると餌を食べない。だから、わざと羽を汚すと聞く。俺も傷があるくらいがちょうどいい」

「もう……」

 澄ました顔をして言う彼に、エミリアはようやく笑った。トリシュナの鳥の姿は、やはり『スモウドリ』のままだ。彼の鳥の姿の名前もぱっと思いつかない。

 それでもきっと、素敵な鳥だろうと、エミリアは顔を綻ばせた。

 そして、傷だらけの彼の右腕を見つめ、三足鳥の紋章が刻まれた指輪が輝く右手をそっと取った。手首近くまで傷跡はあり、袖で隠していたのはこれだろうと理解する。

 ランスが自分を守ってくれた証しだった。

「……私がまだ人形のように自我が無かった時、一つだけ自分からやる事があったそうなのよ」

「食事か?」

「……貴方は私をどれだけ食いしん坊だと思っているの!」

 真顔で睨んでやると、ランスが少し怯んだ顔をして目を泳がせる。

「いや……生きる上で、一番大事なことだぞ?」
「そうだけど、違うわよ!」

 彼の誤解を正さなければならない事は多々ありそうだと思いながら、エミリアは怒りを和らげて告げた。

「一ヵ月に一度、庭に出て、空を飛んで行く七色の鳥を見るの。私が自我を取り戻したのも、その時よ」
「…………」
「貴方だったのね」

 エミリアは柔らかく笑った。その蕩けそうな極上の笑顔にランスは魅せられ、短い沈黙の後で呟いた。

「……お前が異世界に去っていった場所を……毎年、月に一度飛んだ」

「四十年以上?」

「あぁ。周りには諦めろと言われたが……俺はお前を待つと。いつか必ず帰ってくると信じて、想い続けた」

 エミリアはランスを見つめ、微笑んだ。

 今日も、彼の新しい一面を見つけてしまったからだ。ランスは今にも泣きだしそうな顔をしていた。沢山の彼の感情を間近で見られることが、今は心から嬉しく思えた。

「私が帰りたかったのは――――家でも、故郷でもなかったのね」
「…………」

「きっと貴方の傍よ、ランス」

 慈しみと愛おしさがこみ上げてきて、エミリアは彼の瞼の上にそっと口づけを落とした。ランスは彼女の身体を抱きしめて、絞り出すようにして告げた。

「お前と出会ってから……渡りの時期が近くて、俺たちが一緒に過ごせた時間は長くはなかった」
「そう……私は貴方と、どんな関係だったのかしら?」

「お前ははじめ、男爵の命でやって来て、俺たちを手伝う見返りにお前を正妃にさせろと父親が言っていると話した。ただ、お前は妾でも良いと言った」
「…………」

「静かに生きたいと寂しそうに呟いていたのが、どうにも心苦しくてな。俺の本能もあるのかもしれないが、お前も護らなくてはと思った。最初は多分……義務感だったんだろうな」

 聞き入るエミリアを見つめ、ランスは穏やかな口調で続ける。

「でも、俺やトリシュナに慣れていくうちに、お前は少しずつ笑ってくれるようになった。それに、まだ眠っている魂の卵に向かって、真面目に話していたりしてな。お前は昔から本当に可愛い」
「……それはちょっとズレていると言うんじゃないかしら? 不思議ちゃんと言うやつよ!」

 思わずツッコミを入れてしまったエミリアに、ランスはくすくすと笑った。

「それに、今のだ」
「なに?」

「お前は大人しいとばかり思っていたんだが、口を開くと中々鋭く指摘してくる。男爵に黙らされてきた分、色々と腹の中で考えていたんだろうな。おまけに俺にちっとも譲らない。楽しくて仕方がない」

「……それは不敬と言うんじゃないかしら? 貴方は王族だったじゃない」

「今もだが?」

「そうだったわ!」

 うっと言葉に詰まるエミリアに、ランスはまた笑い出した。顔を真っ赤にして睨む彼女に、ランスは何とか笑うのを止め、優しく告げた。

「時間さえ許してくれれば、きっともっと本来の、こういうお前の姿が見られると思った。俺が引き出してやりたかった。死喰鳥に不覚を取った負い目もなかったわけではないんだが……義務感だけで四十年も続くわけが無い。だから、俺は昔からお前に惹かれ初めていたんだろうな。帰ってきたら、すでに素が思いっきり出ていて、俺はもう……色々我慢できなくなった」

 エミリアの容姿は、昔も今も美しい。だが、それだけならば、大勢の貴族令嬢の中にも人目を引く者は大勢いた。ただ、彼女の言動は数多の美女すら霞む程だ。

 今も頬を薄っすらと染めて恥じらう姿も、ランスの目を捕えて離さない。

「エミリア……どこに行っても、お前が帰って来るのは、ここだ。忘れるな」

「……えぇ」

 エミリアは柔らかく笑った。

 心からのその笑顔は、ランスをまた魅せた。
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