殿下、今日こそ帰ります!

黒猫子猫(猫子猫)

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第28羽・帰りたい

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 トリシュナは、信貴と有海の世話をすると言って去っていき、ランスはエミリアを連れて、王宮の私室へと入った。不在のはずの王子がいきなり姿を見せたものだから、王宮の人々は目を丸くしたが、彼は「構うな」とだけ言って、下がらせた。

 廊下を歩く間、ランスはエミリアの右手を握り締めて離さなかった。突然屋敷から姿を消したせいだろうとエミリアは思いながらも、まるで恋人のような扱いをされて、なんだか気恥ずかしい。

 私室に入って二人きりになっても、彼が手を繋いだままだったので、エミリアは堪え切れずに立ち止まった。ランスは振り返り、エミリアが頬を赤く染めて軽く俯いているのを見て、ようやく手を離した。

「……ねえ。私は本当に……有海ではないの?」
「あぁ。言った通りだ。お前は本当にエミリアなんだよ。俺やトリシュナと同じ異能の持ち主だ。トリシュナは魂を癒し、お前が運び、俺が護る。三つが合力して、初めて魂は転生を果たし元の世界に戻れる」
「だけど、私は帰ってこなかった……」

 目を伏せるエミリアに、ランスは顔を歪めた。

「有海の身体を乗っ取ったわけじゃないと言っただろう。あの娘の魂は、転生を拒否したんだ。信貴が――恋した男がいなければ嫌だといって拒絶した。それを見過ごしたのはトリシュナだが、元はといえばお前を護ってやれなかった俺の失態だ」

「…………」

「お前は優しいと俺は思う。自分が身代わりになって、お前の大事な人生の時間を使ってやったんだからな」

 有海が転生を拒絶したことで、彼女の魂が宿るはずだった身体は、そのまま力尽きてもおかしくなかった。だが、有海の魂を見捨てられず、また身体がそのまま滅びることを良しとしなかったのだろうと、彼は続ける。

 そして、エミリアの頬から伝った涙を、優しく拭った。

「お前から向こうの世界の事を聞いた時、ご両親がお前を本当に可愛がって育ててくれたことが伝わってきた。昔も今も、男爵はお前を立身出世の道具としてしか見ていなかったから……お前を大事にしてもらえて、俺は本当に嬉しかったんだ」

「……ここにいた昔の私の事は、あまり思い出せないわ」

「思い出したくないんだろう。無理をしなくていい。心が許せば、次第に戻ってくる。それに、当時のお前は……悲しく寂しそうだった」

「…………」

「でも、今は随分と明るくなったな。向こうでご両親や周りの者がお前を愛情深く育ててくれたお陰だろう。俺に噛みつくくらい元気になって戻ってきたから、初めは驚いたんだが、今はもう可愛くて仕方がない」

 エミリアは早々に令嬢という立場を投げ捨てた自覚があるだけに、頬が赤く染まる。

「……まぁ、向こうの女性って結構自由なのよ」
「そうみたいだな。怒るとちゃぶ台とやらをひっくり返すんだろう?」

「ま……まだ覚えていたのね」
「無論だ」

「うーん……」

 彼の誤った認識をどう正したものだろうと、エミリアが悩んでいると、ランスは静かに問いかけた。

「まだ帰りたいと思うか?」
「…………」

 正直な所、エミリアはもう分からなかった。自分の生まれ故郷はここだと知り、有海でもなかった。それならば、なぜいつも自分はあんなにも『帰りたい』と思っていたのだろう。どこに帰ろうとしていたのだろう。

 分からなくて答えられずにいると、ランスが言いにくそうにしながら、告げた。

「……気持ちは分かる。向こうのご両親は、お前の事を心配しているだろうからな。だが、お前が帰って来たということは、有海の身体はもう滅んでいる。今のその姿では分からないだろう」

「…………。両親はもういないのよ」
「なに?」

「海に還ったの」

 顔を上げて、エミリアは淡く微笑んだ。そして、両親が亡くなった時の経緯を話すと、聞き入っていた彼はやがてエミリアを黙って抱きしめた。

「……頑張ったな。お前も、ご両親も」

「そうね。でも、希望を叶えられて良かったわ。有海という名前は、向こうの字で『海に有る』という意味があるの。海を生業としていた父がつけたそうよ。有海の身体はもうないかもしれないけれど、海に還った両親と……きっと一緒にいるわ」

 大事な両親が亡くなった時、エミリアは哀しくて仕方がなかった。だが、船の上で海に還した時、自分の名を思い出して、心が慰められた。

 泣き笑いの顔をしたエミリアに、ランスもようやく微笑んで、目を和らげた。

「男爵家でも、使用人たちはお前を大事にしてくれていた。有海の魂を取り込んでいたせいで、心身の均衡が崩れて自我が外に出せなかったんだろうが……本当はもっと早く見つけてやりたかった」

「前にも言ったけれど、私は何の覚えもないから辛くはないのよ。世話してくれた人たちの方が、よっぽど大変だったと思うわ?」

「俺がやってやりたかった。全部」

「…………。遠慮するわ⁉」

 今でさえ、食事で散々甘やかされている自覚があるエミリアは、頬を染めた。きっと太るどころじゃない気がするのだ。

 何だか気恥ずかしくなって、ランスの腕の中から逃れる。ランスは苦笑して、長く立ち話をしている事にも気づき、ソファーに座るように促した。エミリアは大人しく従ったが、ランスはやはりいつものように右隣に座ってくる。

「殿下は……油断も隙も無いわね」
「ん?」

「私が帰りたいと言っても、すぐにかわすし……」
「男爵家になど帰すわけが無いだろう。使用人がいなければ家を潰してやるところだ」

 にこやかだったはずの男の目が、ぎらりと光る。時々こうやって冷徹なところが出るものだから、エミリアは目が泳ぐ。

「魅惑の目は使ってくるし……」
「お前が死喰鳥を見て錯乱したからだ。普段は一切使っていない」

「……いえ、違う気がするわ」
「使ってない。お前を口説いた覚えはあるがな」

 ランスは不本意だったのか、断言してくる。むっとした顔をして、何だか不貞腐ふてくされているようで、エミリアはまたついうっかり可愛いと思ってしまった。

 着替えてきたランスはやはり美麗で、魅了される。初めは、ただそれだけだった。だが、彼と過ごしている中で、様々な姿を目にしてきた。虹色の鳥のように、彼はその時々で色を変える。冷たい青を彷彿させる冷徹な姿を見せたかと思えば、赤く情熱的に口説いてくる。緑豊かな草原のように穏やかな時もあれば、黄金のように光り輝く時もある。

 どれも、エミリアの目を捕えてくる。

 そんな時、不意に目の前に過ったのは、遠い記憶に刻まれたランスだった。

『……あの家に帰りたくないのです』

 何故自分がそんなことを言ったのかまでは思い出せない。ただ、ランスは虚を突かれたような顔をしていた。そして、気遣うような視線を向けてくれた。同じ痛みを知っているかのようだった。

 ――――……貴方も寂しい眼をしていたわね……。

 でも、今は、本来の姿は、違うのだ。

 どんな時もエミリアを魅せ、優しく、そして、必ず護ろうとしてくれる。ランスが傍にいるだけで、なんて心強いのだろう。

 今も優しい眼差しで見返してきて、エミリアは目が離せなかった。もうどうしようもなく恥ずかしくなって、うつむいたが、彼はその逃避を許さない。

「顔をあげろ」
「い……や」

 右手で顎を引かれ、また指輪が視界に入ったが、彼に目を奪われるままになる。

「これからも、俺しか見ることは許さない」

 エミリアは息を呑み、そして堪えきれずに、とうとう小さく頷いた。ランスは小さく安堵の息を吐き、顔を綻ばせて、彼女を抱きしめた。

「やっと応えてくれたな」

 喜びが隠しきれない彼の声に、エミリアはますます頬が赤らんだ。ただ、身体に力はもう入らず、彼の胸に身を預ける。抱きしめてくる左腕は、痛いほどに力が強い。

「……私……ここにいて良いのね」
「もちろんだ。俺はお前の居場所になりたくて、ずっと求愛してきたんだからな」

 ランスの言葉は揺るぎない。ずっと一心に思ってくれた事が、エミリアに勇気を与えた。心が満たされていく温かい感覚が、エミリアの最も辛い記憶をも呼び覚ました。

 ――――……私が怖かったのは……これだったのね。

 ランスに深く尋ねることを避けたのも。死喰鳥に感じた底知れぬ恐怖も。最も辛く苦しい事から、目を背けていたからだ。

 エミリアは彼の胸からそっと離れた。ランスは今にも泣きだしそうな顔をしているエミリアに、羞恥ではない感情を見た。

「エミリア?」
「ねえ……右手を見せてくれる?」

「…………」
「大丈夫……だから」

 ランスは躊躇したが、エミリアの瞳に揺るぎない意志を感じ、頷いてみせた。それでも慰めるように軽く額にキスをして、彼は右腕の袖に手をかけた。
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