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第23羽・王子の右手
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――夜。
庭先で死喰鳥に襲われてからというもの、屋敷に入って入浴などの雑事を済ませる時間を除いて、ランスは片時もエミリアの傍を離れようとしなかった。今も寝室に二人きりのまま、エミリアは彼の傍で深い眠りに落ちていた。
ランスは彼女の穏やかな寝顔を見つめ、胸を撫で下ろす。
死喰鳥は、魂の渡りを妨げる最大の障害だ。彼女が怯え、錯乱状態に陥るのも無理はないと思う。ただ、かつて人形のようだったというエミリアも、次第に昔の記憶を思い出しているようだった。
少しずつでいい。
ランスは、自制もかねて、そう心で呟く。
かつてこの世界で生きていたエミリアも――繊細な心の持ち主だった。
『あの家に帰りたくないのです』
実の親に愛されず、深く傷ついた瞳は、自分とも重なった。
守護鳥としての本能か、それとも同じ思いをした彼女への憐憫か。それでも、妃として迎え入れると告げたのは、偽りのない気持ちだ。
妾の一人として、ひっそりと生きたい。そう言った彼女は、ランスと身体的な関係を持つことを望んでいない。それでも良いと思った。一夫多妻制の国において、経済力もあるランスが彼女を庇護することは難しい事ではないからだ。
実際、魂の渡りの時期が来るまで、彼女は王宮に滞在することが増え、男爵夫妻を喜ばせたが、ランスには挨拶程度で、大抵はトリシュナと一緒に過ごしていた。そして、ランスとは目を合わせようともしない。魅惑の力のせいだろうと、ランスは思った。お飾りの妻を望む彼女が、自分に魅せられたくないと思うのは当然だ。
そんなある日、ランスは温室に立ち寄った。エミリアが王宮に来ていると聞いて、二人でまた温室にいるだろうと思ったのだ。ただ、中から聞こえてきたのは、エミリアの声だけだった。
「貴女の生きていた世界も、とても素敵よ。コルセットで身体を締めつけなくて良いし、礼儀作法もこちらほど煩くないわ」
トリシュナの前でも口数が少ないと聞いていたので、ランスはあまりに意外に思った。ただ、エミリアは真面目な顔で、まだ応えることができない卵に話をしている。
「美味しい物もいっぱいあるそうじゃない。私、食べる事が好きよ? 羨ましいわ」
「そういうことは、早く言うといい」
あまり立ち聞きしても悪いからと思いランスが声をかけると、エミリアは目を丸くして、卵を落としそうになった。
「きゃあ!?」
エミリアは真っ青になって悲鳴を上げたが、ランスは素早く手を伸ばして受け止める。
「大丈夫だ。悪い、驚かせたな」
彼女を宥めつつ、元の場所を尋ねて置いて安心させてから、改めて尋ねた。
「これはまだ応えないだろう。どうして話しかけていた?」
「何か、お役に立てないかと思って……ごめんなさい」
また顔を曇らせてしまった彼女に、ランスは目を和らげた。
「謝る事はない。お前にとっても必要な事だ。きちんと自分の力に向き合っていて、偉いな」
エミリアは軽く目を見張り、そして小さく嬉しそうに笑った。ほんの僅かに口元を緩めただけだったが、ランスは何だか嬉しくなった。その後、悲鳴を聞いて飛んできたトリシュナが、「殿下に威圧されたの!?」と詰って来たのは、余計だが。
ランスはその日から、彼女が王宮を訪れると、時間を作って逢いに行った。初めはまだ戸惑った顔をしていたが、次第に慣れてきたのか、エミリアは穏やかな表情で迎え入れてくれるようになった。
特に塩辛いお菓子を好むらしく、ランスが用意させると、嬉しそうに丁寧に礼を言ってくれた。聞けば、男爵家では体型を気にされて、あまり食事を取らせてもらえなかったのだという。
エミリアはもっと食べるべきだ、とランスは心から思った。
しかし、翌日になると、エミリアは申し訳なさそうにしながら、お菓子を断ってきた。尋ねると、帰ってから男爵夫妻に叱責されたのだという。また表情が暗くなっていて、ランスは夫妻を苦々しく思った。
早くあの夫妻から彼女を引き離したい。
エミリアはもっと優しく笑うのに。穏やかな顔ができるのに。
その思いは日々募り、ランスは出立の日が近づく頃、エミリアを海へと連れ出した。男爵家の屋敷で過ごすことの多かった彼女が、海を見たことが無いと話してくれていたからだ。
小うるさい従者達を追い払い、二人きりで浜辺を歩いた時、エミリアが被っていた帽子が風で舞い飛んで、波打ち際に落ちた。
「ここで待ってろ、取ってくる」
エミリアを残して、海に入ったまでは良かった。だが、突然波が打ち寄せて近くの岩にぶつかり、跳ね返った水が、ちょうど身を屈めていたランスの頭にかかる。
彼女の帽子は離さなかったが、半ばずぶ濡れだ。
「大丈夫ですか!?」
戻って来た彼に、エミリアは慌てて駆け寄ってハンカチで水を拭ったが、ランスの髪は濡れて張りついている。普段あまり醜態を人に晒さない男であるだけに、どうしてもしかめっ面になった。
そこに一羽のカラスが飛んできて、上空で『アホウ』と鳴いた。決してわざとではない。ただそう聞こえるだけだが、ランスは顔をひきつらせた。二度にわたって、エミリアの前で無様な姿を晒した彼に、止めを刺したのだ。
「俺に喧嘩を売ったな、クソガラス。鶏肉にしてやろうか」
「あ、あの殿下……鳥の殺生は禁じられていますわ?」
王家の紋章にも使われている烏に、王族が敵意をむき出しにしてどうする。
エミリアの焦りも尤もだが、ランスも引かない。
「いいか。あれは鳥じゃない」
「鳥ですわ?」
「そう見えるだけだ。鳥以外の何かだ」
「鳥ですね」
「お前も譲らないな」
「殿下こそ、頑固ですわ」
二人はにらみ合い、そして同時に吹き出した。しばらく笑い合った後、ランスはエミリアを見つめた。帽子がなく、また両親から離れていることもあって、ここにきてエミリアの表情は更に穏やかになっていた。
「楽しいか」
「えぇ」
「俺もだ」
エミリアの頬が、夕暮れの空と同じくらい赤くなった。直視したランスはもう目が離せない。
「……本当に形だけの妻でいいのか?」
エミリアの瞳が軽く見開かれ、小さく首を横に振った。
「今は……もう、分かりませんわ」
薄っすらと頬を赤らめるエミリアが、あまりに可愛い。
「では、お前が戻ってきたら、今度は俺ともっと過ごしてくれ。お前の世界を変えてみせる」
「殿下……」
「帰ってこい。必ず」
エミリアは今にも泣きだしそうな顔をした。それも初めて見る彼女の表情だ。ランスは微笑んで、エミリアを抱きしめた――。
深夜になって、エミリアは目を覚ました。寝返りを打とうとして強い力で引き戻されたからだ。
隣で身体を横たえていたランスを見上げれば、無意識の行動だったのか、彼は目を閉じたまま静かな寝息をたてていた。腕を外そうとしても難しく、仕方なくまた目を閉じた。エミリアは夜着姿だったし、彼も服を着ていたが、それでも温もりが伝わってくる。優しい感覚に誘われて、瞼が重くなっていた。
ただ――――。
「エミリア」
愛おしそうに名を呼ぶ美声に、一気に意識が引き戻される。心臓に悪い。彼は自分を寝かせる気があるのかと思い、また見上げると、今度はしっかりと目が合った。
「起きていたの?」
「今、な」
ランスは頬を赤く染めている彼女に、目を細め、
「怖い夢でも見たか?」
と問いかけた。
死喰鳥に襲われた事を気遣ってくれているのだろうと、エミリアは理解した。
「大丈夫。貴方の魅惑の力も、身体から抜けたみたいよ……」
兵士たちが中々立ち上がれなかったように、エミリアも心身を虜にされたような感覚に大いに悩んだが、それも今は落ち着いている。
「そうか。俺に見惚れた顔をするお前も、可愛かったんだがな」
「魅惑の力のせいよ!?」
そうだ。自分が彼に度々魅入ってしまうのは、彼の容姿が際立って目立つ上に、いつも派手に着飾っているせいだ。さっきは魅惑の力を使われたせいだ。
可愛いと連呼されて、照れている場合じゃない。この身体は、自分のものではないのだから。
「何度も言うけれど、私は元いた世界に帰るのよ」
「あぁ」
「仕事もしなくちゃいけないの」
失職した身だが、働かざる者食うべからずだ、とエミリアは思う。帰ったらすぐに職探しだ。
「分かってる」
ランスは応じながらも、エミリアの頭を軽く右手で撫でて微笑んだ。左腕は彼女の身体の下にあり、背に回されて抱きしめたまま離そうとしていない。
本当に分かっているのだろうか、と思いたくなるほど、ランスはエミリアを傍に置きたがった。どうしたものだろうと悩んでいると、ランスが問いかけてきた。
「向こうの親は漁を生業にしていると言っていたな。お前はその仕事を一緒にしなかったのか?」
「お前は向いてないからって、教えて貰えなかったのよ。船に乗せてもらったり、手伝いはしたけど、跡は継がせないって言われて。まぁ……力仕事だし、男の人が多かったから、お父さんの言い分も分かったけど、ちょっと頑固よね」
ただ、それだけでも無いと、後で気づいた。
初めに病に倒れたのは父だ。有海はまだ高校に在学中だったが、すでに手遅れの状態で、一月も経たずに寝たきりになってしまったため、卒業後も進学はせずに家に留まった。日々衰えていく父を献身的に看病していた母も、次第に元気がなくなり、やがて父が逝くと、母も後を追うようにして旅立っていった。
有海は一人娘だった。身寄りもない。母は父が亡くなると墓じまいをしていた。自分も死期を悟っていたのだろう。身の回りの品を綺麗に片づけて、最期に願った。
『私たちを、海に還して』
それは、海で生計をたてていた父の願いでもあった。
有海は両親の願いに応え、全てを終えると、借家だった実家を離れ、町を出て上京した。両親が遺してくれたお金はあったが、それこそ身一つになった。
貴女の好きなように生きなさい。
それが、母の最期の言葉だ。
家業を継がなければいけない、という義務感に縛られなくて良い。自分の人生を歩めと言って、両親は一緒に旅立っていった。そんなことを思い出しながら、エミリアは続けた。
「お母さんは、本当に優しい人よ」
「料理が上手なんだろう?」
「そうなの。思いやりがあるし、根性もあるし、お父さんととっても仲が良くて、どこに行くにも二人は一緒なの……」
両親の自慢が止まらなくなってきたエミリアは、はっと我に返る。また半ば一方的に過去の話をしていたと気付いたからだが、ランスを見ればまた随分と嬉しそうだ。
「良いご両親だ。お前は向こうで、大事に育ててもらったんだな」
「今でも大好きよ!」
「そうか。少し妬けるな」
彼の声は優しい。本気で嫉妬しているわけではないと伝わってくる。そして、慈しむように、エミリアの頬に触れる。その甘い感覚にまた惹かれそうになり――――薬指にある指輪を見て、エミリアはふいと顔をそむけた。
「貴方はそういう事ばかり言うわね」
「他に言うことが無いんだ」
右耳の上にキスを落とそうとしてきて、エミリアは慌てて彼の腕の中を抜け出した。「おい」と咎める声も聞かず、起き上がって座ると、横たわったままの彼を見据える。
「貴方はどうなの。自分の事を全然話さないじゃない」
「俺の話か?」
「えぇ」
そう強く頷くと、ランスは黙りこんだ。その内しゃべるだろうと思ったが、彼は一向に口を開かない。エミリアは気まずくなってきた。
「言いたくないなら……いいのよ?」
「いや。何を話せばいいか分からない。片っ端から話せば膨大な量になるぞ。俺がお前の言っている事に一々説明を求めるように、お前もここについて、まだ多くを知っているわけじゃないだろう」
話の中で出てくる聞きなれない単語を一々聞いていたら、それこそ何年たっても帰れない。エミリアは納得して、話題を絞る事にした。
「じゃあ、貴方のご両親はどんな方なの?」
そう聞くと、ランスは先ほどとは異なり、一気に顔が強張った。それこそ、言いたくないことだったらしい。ただ、エミリアが気遣う前に、彼は先に口を開いた。
「お前のご両親とは真逆だ。二人とも外面は良いが、私事ではお互い無関心だ。母は正妃だが、父は他にも大勢の妾を抱えて、子を産ませている。だから、俺には異母兄弟が十人いる」
「そ、そんなに……いるの」
「一夫多妻制だからな。養う経済力と地位があれば、問題にならない。母は俺一人しか子を産まなかったし、父も後継ぎが俺だけでは心許ないと思ったんだろう。王として、至極当然だと周りは言う」
「…………」
「だが、俺は両親には極力会いたくないし、お前にもなるべく関わらせたくない。特に母親だ」
エミリアに対しては、大概口調が優しい彼にしては珍しく、厳しいものだった。それが、親子の確執を感じさせた。
「どうして?」
「あの人は、俺を自分の地位を護るための道具としか見ていない。俺が死んだら自分はどうなると、はっきり言われた事もある」
苦々し気に言うランスに、エミリアは表情を曇らせた。
「……言葉も武器ね。簡単に人を傷つけるわ」
エミリアは、王宮に留まっている自分に、王宮の人々が関わってこようとしなかった理由はこれなのだろうと思った。不要な詮索や心無い言葉から、彼は守ろうとしてくれていたのだろう。
ただ、ランスは。
傷を抱えながら、生き続けているのではないだろうか。
何だか無性に涙が出そうになって目が潤むと、彼は慌てて言った。
「すまない。気にするな。俺は余計な事を言ったな」
「……私が聞いたからよ」
夜も遅いから、寝ましょう。エミリアはそう続けて話を終えると、横たわって毛布を手繰り寄せ、包まった。ランスはまた手を伸ばしかけたが、自分に背を向けた彼女を見つめ躊躇した後、止めた。
寝室に静寂が包む中、エミリアは目を閉じる。
両親の話をしたせいか、脳裏に蘇ってきたのは、有海として生きた二十一年間の日々だ。辛い事もあったが、楽しい時もいっぱいあった。愛情を込めて育ててくれた両親がいたからだ。二人が逝ってしまった後も、思い出は心の支えになった。
実家を引き払った有海にはもう、帰る故郷はない。それなのに、何の思い入れもない古いアパートで一人過ごしながら、時々こみ上げる想いが一つあった。
ランスは、左手をついてゆっくりと身体を起こし、小さくため息を吐く。嫌な思いをさせる両親の話などしなければ良かった。
少しでも彼女の気が休まればいいと心を砕いてきたというのに、きっとまた――。
「……帰りたいわ」
ぽつりと呟いた悲しげなエミリアの声に、ランスは顔を歪める。たまらず名を呼ぶと、彼女は少し間を置いて、寝返りを打って、ランスをぼんやりと見返してきた。半ば眠っていたのだろう。寝言でも口にするほど、郷愁の念が強まっている。
ランスは小さく頷いて見せた。
「俺もお前と一緒に行けたら良かったな」
「あなたは……無理よ」
ランスは王族だ。母の道具だと自嘲していたが、それでも彼には両親がいる。大勢の部下もいる。何よりも、彼を慕っているトリシュナがいる。
一緒にいけるはずがない。エミリアはそう思い静かに告げると、眠りに落ちた。
眠るエミリアを見つめ、ランスはしばらく何も言えなかった。ただ、彼女の頬から一筋の涙が落ちるのが見えて、咄嗟に右手を伸ばす。その手は肌に触れず、力なく落ちた。
「信貴と一緒に帰してやるしかないか」
右腕に視線を落とし、袖の下から垣間見えたものに顔を歪める。
「……ちくしょう……」
ぎりと唇を噛み、右手を強く握り締めた。
庭先で死喰鳥に襲われてからというもの、屋敷に入って入浴などの雑事を済ませる時間を除いて、ランスは片時もエミリアの傍を離れようとしなかった。今も寝室に二人きりのまま、エミリアは彼の傍で深い眠りに落ちていた。
ランスは彼女の穏やかな寝顔を見つめ、胸を撫で下ろす。
死喰鳥は、魂の渡りを妨げる最大の障害だ。彼女が怯え、錯乱状態に陥るのも無理はないと思う。ただ、かつて人形のようだったというエミリアも、次第に昔の記憶を思い出しているようだった。
少しずつでいい。
ランスは、自制もかねて、そう心で呟く。
かつてこの世界で生きていたエミリアも――繊細な心の持ち主だった。
『あの家に帰りたくないのです』
実の親に愛されず、深く傷ついた瞳は、自分とも重なった。
守護鳥としての本能か、それとも同じ思いをした彼女への憐憫か。それでも、妃として迎え入れると告げたのは、偽りのない気持ちだ。
妾の一人として、ひっそりと生きたい。そう言った彼女は、ランスと身体的な関係を持つことを望んでいない。それでも良いと思った。一夫多妻制の国において、経済力もあるランスが彼女を庇護することは難しい事ではないからだ。
実際、魂の渡りの時期が来るまで、彼女は王宮に滞在することが増え、男爵夫妻を喜ばせたが、ランスには挨拶程度で、大抵はトリシュナと一緒に過ごしていた。そして、ランスとは目を合わせようともしない。魅惑の力のせいだろうと、ランスは思った。お飾りの妻を望む彼女が、自分に魅せられたくないと思うのは当然だ。
そんなある日、ランスは温室に立ち寄った。エミリアが王宮に来ていると聞いて、二人でまた温室にいるだろうと思ったのだ。ただ、中から聞こえてきたのは、エミリアの声だけだった。
「貴女の生きていた世界も、とても素敵よ。コルセットで身体を締めつけなくて良いし、礼儀作法もこちらほど煩くないわ」
トリシュナの前でも口数が少ないと聞いていたので、ランスはあまりに意外に思った。ただ、エミリアは真面目な顔で、まだ応えることができない卵に話をしている。
「美味しい物もいっぱいあるそうじゃない。私、食べる事が好きよ? 羨ましいわ」
「そういうことは、早く言うといい」
あまり立ち聞きしても悪いからと思いランスが声をかけると、エミリアは目を丸くして、卵を落としそうになった。
「きゃあ!?」
エミリアは真っ青になって悲鳴を上げたが、ランスは素早く手を伸ばして受け止める。
「大丈夫だ。悪い、驚かせたな」
彼女を宥めつつ、元の場所を尋ねて置いて安心させてから、改めて尋ねた。
「これはまだ応えないだろう。どうして話しかけていた?」
「何か、お役に立てないかと思って……ごめんなさい」
また顔を曇らせてしまった彼女に、ランスは目を和らげた。
「謝る事はない。お前にとっても必要な事だ。きちんと自分の力に向き合っていて、偉いな」
エミリアは軽く目を見張り、そして小さく嬉しそうに笑った。ほんの僅かに口元を緩めただけだったが、ランスは何だか嬉しくなった。その後、悲鳴を聞いて飛んできたトリシュナが、「殿下に威圧されたの!?」と詰って来たのは、余計だが。
ランスはその日から、彼女が王宮を訪れると、時間を作って逢いに行った。初めはまだ戸惑った顔をしていたが、次第に慣れてきたのか、エミリアは穏やかな表情で迎え入れてくれるようになった。
特に塩辛いお菓子を好むらしく、ランスが用意させると、嬉しそうに丁寧に礼を言ってくれた。聞けば、男爵家では体型を気にされて、あまり食事を取らせてもらえなかったのだという。
エミリアはもっと食べるべきだ、とランスは心から思った。
しかし、翌日になると、エミリアは申し訳なさそうにしながら、お菓子を断ってきた。尋ねると、帰ってから男爵夫妻に叱責されたのだという。また表情が暗くなっていて、ランスは夫妻を苦々しく思った。
早くあの夫妻から彼女を引き離したい。
エミリアはもっと優しく笑うのに。穏やかな顔ができるのに。
その思いは日々募り、ランスは出立の日が近づく頃、エミリアを海へと連れ出した。男爵家の屋敷で過ごすことの多かった彼女が、海を見たことが無いと話してくれていたからだ。
小うるさい従者達を追い払い、二人きりで浜辺を歩いた時、エミリアが被っていた帽子が風で舞い飛んで、波打ち際に落ちた。
「ここで待ってろ、取ってくる」
エミリアを残して、海に入ったまでは良かった。だが、突然波が打ち寄せて近くの岩にぶつかり、跳ね返った水が、ちょうど身を屈めていたランスの頭にかかる。
彼女の帽子は離さなかったが、半ばずぶ濡れだ。
「大丈夫ですか!?」
戻って来た彼に、エミリアは慌てて駆け寄ってハンカチで水を拭ったが、ランスの髪は濡れて張りついている。普段あまり醜態を人に晒さない男であるだけに、どうしてもしかめっ面になった。
そこに一羽のカラスが飛んできて、上空で『アホウ』と鳴いた。決してわざとではない。ただそう聞こえるだけだが、ランスは顔をひきつらせた。二度にわたって、エミリアの前で無様な姿を晒した彼に、止めを刺したのだ。
「俺に喧嘩を売ったな、クソガラス。鶏肉にしてやろうか」
「あ、あの殿下……鳥の殺生は禁じられていますわ?」
王家の紋章にも使われている烏に、王族が敵意をむき出しにしてどうする。
エミリアの焦りも尤もだが、ランスも引かない。
「いいか。あれは鳥じゃない」
「鳥ですわ?」
「そう見えるだけだ。鳥以外の何かだ」
「鳥ですね」
「お前も譲らないな」
「殿下こそ、頑固ですわ」
二人はにらみ合い、そして同時に吹き出した。しばらく笑い合った後、ランスはエミリアを見つめた。帽子がなく、また両親から離れていることもあって、ここにきてエミリアの表情は更に穏やかになっていた。
「楽しいか」
「えぇ」
「俺もだ」
エミリアの頬が、夕暮れの空と同じくらい赤くなった。直視したランスはもう目が離せない。
「……本当に形だけの妻でいいのか?」
エミリアの瞳が軽く見開かれ、小さく首を横に振った。
「今は……もう、分かりませんわ」
薄っすらと頬を赤らめるエミリアが、あまりに可愛い。
「では、お前が戻ってきたら、今度は俺ともっと過ごしてくれ。お前の世界を変えてみせる」
「殿下……」
「帰ってこい。必ず」
エミリアは今にも泣きだしそうな顔をした。それも初めて見る彼女の表情だ。ランスは微笑んで、エミリアを抱きしめた――。
深夜になって、エミリアは目を覚ました。寝返りを打とうとして強い力で引き戻されたからだ。
隣で身体を横たえていたランスを見上げれば、無意識の行動だったのか、彼は目を閉じたまま静かな寝息をたてていた。腕を外そうとしても難しく、仕方なくまた目を閉じた。エミリアは夜着姿だったし、彼も服を着ていたが、それでも温もりが伝わってくる。優しい感覚に誘われて、瞼が重くなっていた。
ただ――――。
「エミリア」
愛おしそうに名を呼ぶ美声に、一気に意識が引き戻される。心臓に悪い。彼は自分を寝かせる気があるのかと思い、また見上げると、今度はしっかりと目が合った。
「起きていたの?」
「今、な」
ランスは頬を赤く染めている彼女に、目を細め、
「怖い夢でも見たか?」
と問いかけた。
死喰鳥に襲われた事を気遣ってくれているのだろうと、エミリアは理解した。
「大丈夫。貴方の魅惑の力も、身体から抜けたみたいよ……」
兵士たちが中々立ち上がれなかったように、エミリアも心身を虜にされたような感覚に大いに悩んだが、それも今は落ち着いている。
「そうか。俺に見惚れた顔をするお前も、可愛かったんだがな」
「魅惑の力のせいよ!?」
そうだ。自分が彼に度々魅入ってしまうのは、彼の容姿が際立って目立つ上に、いつも派手に着飾っているせいだ。さっきは魅惑の力を使われたせいだ。
可愛いと連呼されて、照れている場合じゃない。この身体は、自分のものではないのだから。
「何度も言うけれど、私は元いた世界に帰るのよ」
「あぁ」
「仕事もしなくちゃいけないの」
失職した身だが、働かざる者食うべからずだ、とエミリアは思う。帰ったらすぐに職探しだ。
「分かってる」
ランスは応じながらも、エミリアの頭を軽く右手で撫でて微笑んだ。左腕は彼女の身体の下にあり、背に回されて抱きしめたまま離そうとしていない。
本当に分かっているのだろうか、と思いたくなるほど、ランスはエミリアを傍に置きたがった。どうしたものだろうと悩んでいると、ランスが問いかけてきた。
「向こうの親は漁を生業にしていると言っていたな。お前はその仕事を一緒にしなかったのか?」
「お前は向いてないからって、教えて貰えなかったのよ。船に乗せてもらったり、手伝いはしたけど、跡は継がせないって言われて。まぁ……力仕事だし、男の人が多かったから、お父さんの言い分も分かったけど、ちょっと頑固よね」
ただ、それだけでも無いと、後で気づいた。
初めに病に倒れたのは父だ。有海はまだ高校に在学中だったが、すでに手遅れの状態で、一月も経たずに寝たきりになってしまったため、卒業後も進学はせずに家に留まった。日々衰えていく父を献身的に看病していた母も、次第に元気がなくなり、やがて父が逝くと、母も後を追うようにして旅立っていった。
有海は一人娘だった。身寄りもない。母は父が亡くなると墓じまいをしていた。自分も死期を悟っていたのだろう。身の回りの品を綺麗に片づけて、最期に願った。
『私たちを、海に還して』
それは、海で生計をたてていた父の願いでもあった。
有海は両親の願いに応え、全てを終えると、借家だった実家を離れ、町を出て上京した。両親が遺してくれたお金はあったが、それこそ身一つになった。
貴女の好きなように生きなさい。
それが、母の最期の言葉だ。
家業を継がなければいけない、という義務感に縛られなくて良い。自分の人生を歩めと言って、両親は一緒に旅立っていった。そんなことを思い出しながら、エミリアは続けた。
「お母さんは、本当に優しい人よ」
「料理が上手なんだろう?」
「そうなの。思いやりがあるし、根性もあるし、お父さんととっても仲が良くて、どこに行くにも二人は一緒なの……」
両親の自慢が止まらなくなってきたエミリアは、はっと我に返る。また半ば一方的に過去の話をしていたと気付いたからだが、ランスを見ればまた随分と嬉しそうだ。
「良いご両親だ。お前は向こうで、大事に育ててもらったんだな」
「今でも大好きよ!」
「そうか。少し妬けるな」
彼の声は優しい。本気で嫉妬しているわけではないと伝わってくる。そして、慈しむように、エミリアの頬に触れる。その甘い感覚にまた惹かれそうになり――――薬指にある指輪を見て、エミリアはふいと顔をそむけた。
「貴方はそういう事ばかり言うわね」
「他に言うことが無いんだ」
右耳の上にキスを落とそうとしてきて、エミリアは慌てて彼の腕の中を抜け出した。「おい」と咎める声も聞かず、起き上がって座ると、横たわったままの彼を見据える。
「貴方はどうなの。自分の事を全然話さないじゃない」
「俺の話か?」
「えぇ」
そう強く頷くと、ランスは黙りこんだ。その内しゃべるだろうと思ったが、彼は一向に口を開かない。エミリアは気まずくなってきた。
「言いたくないなら……いいのよ?」
「いや。何を話せばいいか分からない。片っ端から話せば膨大な量になるぞ。俺がお前の言っている事に一々説明を求めるように、お前もここについて、まだ多くを知っているわけじゃないだろう」
話の中で出てくる聞きなれない単語を一々聞いていたら、それこそ何年たっても帰れない。エミリアは納得して、話題を絞る事にした。
「じゃあ、貴方のご両親はどんな方なの?」
そう聞くと、ランスは先ほどとは異なり、一気に顔が強張った。それこそ、言いたくないことだったらしい。ただ、エミリアが気遣う前に、彼は先に口を開いた。
「お前のご両親とは真逆だ。二人とも外面は良いが、私事ではお互い無関心だ。母は正妃だが、父は他にも大勢の妾を抱えて、子を産ませている。だから、俺には異母兄弟が十人いる」
「そ、そんなに……いるの」
「一夫多妻制だからな。養う経済力と地位があれば、問題にならない。母は俺一人しか子を産まなかったし、父も後継ぎが俺だけでは心許ないと思ったんだろう。王として、至極当然だと周りは言う」
「…………」
「だが、俺は両親には極力会いたくないし、お前にもなるべく関わらせたくない。特に母親だ」
エミリアに対しては、大概口調が優しい彼にしては珍しく、厳しいものだった。それが、親子の確執を感じさせた。
「どうして?」
「あの人は、俺を自分の地位を護るための道具としか見ていない。俺が死んだら自分はどうなると、はっきり言われた事もある」
苦々し気に言うランスに、エミリアは表情を曇らせた。
「……言葉も武器ね。簡単に人を傷つけるわ」
エミリアは、王宮に留まっている自分に、王宮の人々が関わってこようとしなかった理由はこれなのだろうと思った。不要な詮索や心無い言葉から、彼は守ろうとしてくれていたのだろう。
ただ、ランスは。
傷を抱えながら、生き続けているのではないだろうか。
何だか無性に涙が出そうになって目が潤むと、彼は慌てて言った。
「すまない。気にするな。俺は余計な事を言ったな」
「……私が聞いたからよ」
夜も遅いから、寝ましょう。エミリアはそう続けて話を終えると、横たわって毛布を手繰り寄せ、包まった。ランスはまた手を伸ばしかけたが、自分に背を向けた彼女を見つめ躊躇した後、止めた。
寝室に静寂が包む中、エミリアは目を閉じる。
両親の話をしたせいか、脳裏に蘇ってきたのは、有海として生きた二十一年間の日々だ。辛い事もあったが、楽しい時もいっぱいあった。愛情を込めて育ててくれた両親がいたからだ。二人が逝ってしまった後も、思い出は心の支えになった。
実家を引き払った有海にはもう、帰る故郷はない。それなのに、何の思い入れもない古いアパートで一人過ごしながら、時々こみ上げる想いが一つあった。
ランスは、左手をついてゆっくりと身体を起こし、小さくため息を吐く。嫌な思いをさせる両親の話などしなければ良かった。
少しでも彼女の気が休まればいいと心を砕いてきたというのに、きっとまた――。
「……帰りたいわ」
ぽつりと呟いた悲しげなエミリアの声に、ランスは顔を歪める。たまらず名を呼ぶと、彼女は少し間を置いて、寝返りを打って、ランスをぼんやりと見返してきた。半ば眠っていたのだろう。寝言でも口にするほど、郷愁の念が強まっている。
ランスは小さく頷いて見せた。
「俺もお前と一緒に行けたら良かったな」
「あなたは……無理よ」
ランスは王族だ。母の道具だと自嘲していたが、それでも彼には両親がいる。大勢の部下もいる。何よりも、彼を慕っているトリシュナがいる。
一緒にいけるはずがない。エミリアはそう思い静かに告げると、眠りに落ちた。
眠るエミリアを見つめ、ランスはしばらく何も言えなかった。ただ、彼女の頬から一筋の涙が落ちるのが見えて、咄嗟に右手を伸ばす。その手は肌に触れず、力なく落ちた。
「信貴と一緒に帰してやるしかないか」
右腕に視線を落とし、袖の下から垣間見えたものに顔を歪める。
「……ちくしょう……」
ぎりと唇を噛み、右手を強く握り締めた。
応援ありがとうございます!
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