殿下、今日こそ帰ります!

猫子猫

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第19羽・王家の紋章

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 ランスはイザーク王国の第一王子として産まれ、長子に王位継承権が与えられる慣例に則り、将来の国主と位置づけられた。ただ千年生きる長寿の地であるだけに、譲位は急がれるものではない。

 正妃の子にして、嫡男。

 生まれた時から何不自由ない生活を保障され、幼い頃から際立つ美貌も相まって、周囲からもてはやされて育った。父王は母以外にも妾を何人も抱えて子を産ませていたが、母は全く動じていなかった。

 強く気高い母は、ランスにとって誇りだった。

 順調に成長したランスが二十歳を迎えた時、一人の少女と運命的な出会いを果たした。

 ランスは、母から決して立ち入ってはいけないと言い含められていた王宮の中庭に、興味本位で潜り込んだ時の事だ。木々が鬱蒼うっそうと生い茂り、密かに行動するにはもってこいだが、視界が悪い。

 それでも進んでいると、少し開けた場所で一人、膝を抱えてすすり泣いていた子どもがいた。

 身体の線も細く、見るからにはかなげな少女だった。

「どうした?」

 そう声をかけるが、返事がない。怯えた顔をしたまま見返してくる彼女に、ランスは思い切って自分の名を名乗ると、ようやく『トリシュナ』と名乗ってくれた。

 そして、ぽろぽろと涙を流しながら、彼女は抱えていた物を見せてくれた。大きな白い卵が、真っ二つに割れて壊れていた。中身はない。

「……死喰鳥しくいちょうが、壊して奪っていってしまったの」

 心を込めて、大切に育てていたのに。

 そう続けて呟いて声を殺して泣くトリシュナに、ランスは彼女が何の力を持っているのか気づいた。

 癒しの力だ。

 そして、母親がこの中庭から自分を遠ざけていた理由も理解した。自分の力が、彼女と共鳴するかもしれないからだ。やがて、こみ上げてきたのは激しい怒りだった。

 彼女の癒しの力、自分の護る力――――そして、もう一つの力。

 これら三種の異能の力は、人間が世界から与えられた役割だとも言われている。何のためにあり、どういうものなのか、この地に暮らす人間ならば知っているはずだ。母も知らないわけが無い。

『貴方の力と共鳴する子が現われるまで、力は大切に秘めておきなさい』
と言ってきたからだ。単独では本領を発揮できない力だと、母はしっかり理解していた。

 そもそも、王家は現存しない鳥を象った紋章を使っている。

 紋章の鳥は大きな身体を三つの脚で支え、産まれ落ちた異世界の魂を、『癒し、導き、護れ』と告げているではないか。
 新たに産まれる前の未熟な命を狙う『死喰鳥』が、時に死傷者を出すほど凶暴であるのがなんだというのだ。
 救いを求めている者を見捨てる男が、国主など務まるものか。

 義憤ぎふんに駆られると同時に、ランスはぬくぬくと育っていた自分を恥じた。こんなにも近くで苦しんでいた者がいたのに、自分は気づかず、護ってやれなかったのだ。

「次にそいつが来たら、僕が追い払う。護るのが、僕の力の役目だ」

 ランスはトリシュナにそう誓い、彼女の手を取って立ち上がらせた。触れ合った瞬間、まるで通じ合うかのように温かい感覚が身を包んだことを、ランスは今でも忘れていない。

 それが共鳴だと、彼女こそ共に力を使う仲間だと、誰に教わらずとも本能的に理解した。

 ただ、ランスがトリシュナと出会った事を知った母妃は、黙っていなかった。

 すぐにトリシュナを自分の元に呼びつけた。それを聞いたランスがトリシュナに同行し、自分が戦って彼女たちを護ると決めたのだと母に訴え懸命に庇うと、母は今まで見たこともないような冷たい眼差しで彼女を睨んで詰った。

「お前のせいで、この先ランスは何度も死喰鳥と戦い、危険な目に遭う。この子が死んだら、私はどうなる!」

 トリシュナは泣き出し、ランスの心は凍った。

 自分はしょせん、母親の立場を守る道具だったのだと瞬時に理解したからだ。

 父王は、昔から冷めた目で子を見る男だった。大勢の子がいるからいつでも替えがきく、と思っていたのだろう。むしろ厄介な力を持って生まれ、死ぬ危険性が高い息子よりも、何の力も無い子どもの方が後継ぎには良い、と考えている節もある。

 だが、母にしてみれば、嫡男のランスは自分の地位を保つ生命線だ。父の妾が子を産んでも動じなかったのは、強さでもなんでもなかった。

 蒼白になるランスにも、母妃はお前も余計な真似をしたと、一緒に叱責した。

 その日から、ランスは両親と距離を置いた。

 他国に付け入る隙とならぬよう、今まで通り良好な親子関係を装いながらも、誰にも自分の心の内を話さなくなった。トリシュナだけは気軽に会話ができたが、酷い言葉に傷つけられた彼女に心労を重ねたくなくて、言葉を選んだ。

 やがて、心の開き方など、忘れた。

 その後も、トリシュナは方々で卵を見つけてきては、甲斐甲斐しく世話をした。死喰鳥が何度もつけ狙ってきたが、全てランスが追い払った。やがて卵が孵る時が来たが、力が足りない事態に直面した。

 トリシュナの癒しの力、自分の護る力――――もう一人の力が必要なのに、ランスの母妃が激怒した事を知って、誰も名乗り出てくれなかったのだ。

 二人で肩を落としている時、やって来たのはガラルド男爵の一人娘『エミリア』だった。

「私がお手伝いしますわ」

 エミリアはまだ社交場へのデビュタント前だったが、ランスの后候補として名が挙がってもいた。それもあって、父親から自分たちの力についても聞いていたのだという。
 彼女の力は、ランスとトリシュナが、ずっと求めていたものだ。

「ただし、私が帰ってきたら、殿下の妃にしてくださいませ」
「なに……?」
「それが、父の願いです」

 ランスの胸に不快感がこみ上げ、トリシュナも顔を曇らせた。自家の繁栄を願い、娘の力を利用して成り上がろうとする、いかにも貴族らしい申し出だ。
 苦い顔を隠せずにいる二人を見つめ、エミリアは淡々と告げた。

「父は正妃の座を求めよと言っていましたが、私は妾でもかまいません。名ばかりの存在でも結構です」
「何が目的だ」

 ランスが厳しく問うと、エミリアは静かに見つめ、呟いた。

「……あの家に帰りたくないのです」

 男爵夫妻は、エミリアを自分達の立身出世の道具としてしか見なかった。少しでもエミリアが自分の希望を口に出そうとすれば、話も聞かずに潰してきた。言いなりになるしかない家は、彼女にとって地獄でしかない。

 それならば、せめて家を出たい。王宮の片隅にでも置いて欲しい。
 両親に煩わされることなく、静かに生きたい。

 ランスはエミリアの告白に驚き、そして彼女の深く傷ついた瞳を見つめた。

 愛情を知らない、寂しい目だった。

「……分かった。だが、俺たちに手を貸してくれたお前を、名ばかりの存在などにはしない。礼を尽くして、妃に迎え入れる」
「殿下。そんなに気負われることでは……」
「約束する。だから、必ず俺の元に帰ってこい」

 そう告げると、エミリアはようやく、僅かに笑ってくれた。

 そして、彼女が帰ってこなかった。

 ――――俺のせいだ。

 その思いは、ランスの胸の奥で深く大きな傷となり、誰も癒すことができないまま、時だけが過ぎた。



「殿下?」
 エミリアの呼ぶ声に、ランスははっと我に返った。

「……すまない。なんだ?」
「いいえ、ただ珍しくボンヤリとされているから……」

 海岸で抱きしめられた後、しばらくして彼は離してくれたが、その後はいつもの軽口がぐんと減った。そのまま移動して、一行は近くの街へ向かい、ランスが所有しているという大きな屋敷へと入った。

 普段の管理は街に住んでいる使用人たちが行っており、ランスの来訪が事前に知らされていたらしく、丁重に迎え入れられた。彼らはエミリアに対しても礼儀正しく、不躾な視線や詮索などせず、自分達の仕事に徹していた。

 侍女に一階の奥にある広い居間へと案内され、ランスに同行していた者たちもそれぞれにあてがわれた部屋へと下がった。エミリアは案内役の侍女に私の部屋はありますかと聞く前に、ランスに手を引かれ、やはり彼と二人きりになった。

 いつものようにソファーに並んで座り、程無くして夕食が運ばれてきて、食事を始めたが。ランスがどうも心ここにあらずなのが気になって、手を止めて声をかけたのだ。
 心配そうに見つめるエミリアに、ランスは微笑んだ。

「お前もあの渡り鳥たちのように、帰りたかっただろうと思ってな」
「なぜ過去形なの。今もよ⁉」

 いつになったら生まれ故郷に帰れるのだと、半泣きの眼差しで睨んでくるエミリアに、ランスは優しく微笑んだ。

 護れなかった責任を取らなければ、と最初は思っていた。

 茶会の場での彼女の顔は不安と緊張で強張り、やはり傍には強欲な男爵がいたからだ。

 あの家になど帰さない。

 ただ、かつてとは異なり、エミリアは打てば響くように、答えてきた。大人しく貴族令嬢をやっていたのは、ほんの一瞬である。声が明るくて、表情も溌剌としていた。怒った顔まで何だか愛らしい。

 笑う事などとっくに忘れたはずだったのに、今はエミリアが傍にいるだけで、自然と笑みが零れた。

 他愛の無い話をするのが、こんなにも楽しいと思ったのは何年ぶりだろう。

 もっと知りたい。どんな些細なことでも教えてほしい。
 問いかけが止まらず、無為に過ごしていた自分の事など話す時間も惜しくなる。

 二十一年間、お前はどうやって生きてきたのだろう。
 また苦労はしなかっただろうか。辛く悲しい時、誰かが傍にいてくれただろうか。

 幸せに、生きただろうか。
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