殿下、今日こそ帰ります!

黒猫子猫(猫子猫)

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第10羽・温室の麗人

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 王宮の一室がランスの激怒によって身も凍るような寒々しい事になっていることなど、エミリアは知る由もない。ベッドを降りて靴を履き、隣の居間へと移動していた。

 どこをどう見ても高価そうな豪奢なソファーを見て、そこで靴を脱いで正座し、一人悩んでいた。

 畳の上でもあるまいし、正座など必要はないはずなのだが、何だか怒気を感じて、背筋を伸ばしていたくなる。

 ――――なぜかしら。私に対してという感じはしないけど……。

 はてな、と思いながらも、頭の中を占めるのは、今後についてである。
 退職していた身とはいえ、このまま貴族令嬢になって王子の妾になるなんて、まっぴらごめんだ。さりとて男爵家に逃げ帰ったところで、王子の元に戻れと追い返されかねない。

 ――――本当に私を帰す気、あるのかしら……。

 随分熱心に口説いてくるランスからは、そんな気配を微塵も感じられない気がしてならない。

 自分からもっと帰る手段を捜し歩いた方が良いのではないか。

 そんな思いに駆られていた時、エミリアはふと視線を感じて窓を見た瞬間、目を丸くする。

 バルコニーの手すりに、白い鳥が止まっていたからだ。

 小鳥なら分かる。まぁ、可愛いで済む。だが、この白い鳥の身体は丸々と太っていて、両腕で抱えても持ち上がるかどうか分からないほどの巨大鳥だ。

 黒いくちばしは長く、先が鋭い。身体の貫禄に対して、赤い足は枝のように細かった。その見かけだけであれば、動物園で見た事があった気がしたが、名前が思い出せない。それに、こんなにも身体が大きかっただろうか。

 お相撲さんみたいな鳥だから、名前はスモウドリでどうだろうかとエミリアは思ってしまう。

「な……なに……?」

 エミリアがその正体を確かめようと、靴に目を落として足を入れ、もう一度窓を見ると、鳥はもういなくなっていた。

 窓を開けてバルコニーへと出てみると、白の巨大鳥が大きなお尻を振りながら、とことこと下を歩いていくのが見える。足音が聞こえる距離ではないが、確実にズシンズシンと振動を与えそうな重さが動きから伝わってきた。

 どうやら飛び降りたらしい。

 下に目を落として見れば、そこには整備された中庭が広がっていた。それもかなりの広さだ。植栽が植えられていたが、ふと木々の合間から小屋のようなものが垣間見えて、巨大鳥もそちらへと向かっていき、やがて木の陰に入って姿が見えなくなった。

 ――――あれは鳥小屋……? もしかして、他の鳥もいるのかしら。

 七色の鳥の事がどうしても気にかかり、エミリアは居てもたってもいられなくなった。部屋を出て、下まで回っていこうかとも思ったが、向きかけた足が止まる。

 さきほど興味本位で寝室から廊下へ繋がる扉を開けて外を覗いたら、大勢の人々が一斉に見てきて、『なにか御用ですか?』と勢いよく聞いてきたからだ。ランスは何人か、などと言っていたが、軽く十人は超えていた。慌てて首を横に振って、中に逃げ込んだエミリアである。

「ここ……人間でも降りられなくはないわね!」

 王子の私室に連れ込まれた際、途中で階段を上ったから、部屋は二階だ。それなりに高さはあったが、田舎でさんざん木登りをしてきた身であるだけに、恐怖心はない。バルコニーに手をかけて、ひょいっと身を宙に躍らせると、庭先へと着地した。

 風圧でスカートが捲れあがり、慌てて抑えたが、幸い周囲に人の気配はない。エミリアはそのまま庭を抜け、上から見えた小屋を捜し歩いた。

 だいたいの位置が分かっていたこともあり、程無くして目的の小屋に辿り着いた。屋根も壁も半透明で、まるでビニールハウスのように見えたが、壁に触れてみると木のように硬い。
 中も色んな木々で埋め尽くされていて、見通しはよくない。扉は半開きになっていて、エミリアが「ごめんください」と試しに声をかけてみると、中から優しい女性の声がした。

「どうぞ。入って」

 エミリアは意を決して、中へと足を踏み入れた。

 壁が半透明なこともあって、室内は外の光を通して明るい。空気も循環しているのか、爽やかな風が頬を撫でた。下は芝生で、木々の周りだけ土が見える。庭の中にさらにまた小さな庭があるような不思議な空間だ。

 ただ、とても居心地が良い。心が穏やかになる。

 そんなことを考えていると、奥の方からひょっこりと姿を見せたのは、聞こえた鈴の鳴るような声に違わず、たおやかな若い女性だった。

 全体的に線が細く、肌は色白で、手足が長い。まっすぐの艶やかな栗毛は腰ほどまであり、大きな漆黒の瞳の持ち主だった。繊細な刺繍が施された白いドレスを身に纏い、淡い水色のショールをかけている。
 どことなく儚げな印象を与える、美しい麗人だった。彼女は人懐っこそうな笑みを浮かべた。

「いらっしゃい。エミリアさん」
「……私の事をご存じなんですか?」

「もちろん。昨日、ランス殿下が茶会を放り出して貴女を連れて行ったって、王宮中が大騒ぎになっていたわ。主に女性たちだそうだけれど」
「あ……ははは……そうですか」

 エミリアはもう頭が痛い。あの場で冷静だったのは、やはりランスだけだ。なんとも言いがたい顔をしたエミリアに、彼女は笑みを深めた。

「私はトリシュナよ。この温室は私が管理している場所だから、許可なく他の方は立ち入ってこないわ。どうぞ、楽になさってね」
「ありがとうございます。温室だったんですね……」

 確かに、室内は温かい。光が燦燦さんさんと差し込んでいる事もあるだろう。

「そうよ。ここで卵がかえるの。私はいつもお世話をしたり、見守ったりしているわ」
「卵……?」

 トリシュナは優しく微笑んで、ほっそりとした指で低木の枝の上を指さした。幹から伸びる枝の上に、小枝で作られた鳥の巣と共に、白い大きな卵が垣間見えた。さきほどの大きな白鳥の子どもだろうか。

よ」

 その声は変わらず穏やかなものだったが、どこか誇らしげだった。自分のなすべき事に対して真摯に向き合い、前向きに日々を過ごしている女性のように思える。
 そんな彼女は外見以上に美しく、眩しく見えて、エミリアは少し羨ましくなった。

「素敵ですね。私にも仕事があって――――」

 上司に怒鳴られた記憶が蘇り、言葉が途切れる。

 いくらでも代わりがいる、と言われた通り、今では自分が必死でこなしていた仕事は他の誰かがやっているだろう。両親が亡くなって身寄りもいない。自分が行方不明になっても、誰も探していないだろう。
 そう思うと気分が沈んだが、にこやかに微笑むトリシュナにそれを告げるのは気まずい。

「――――頼まれて……運んだり……」
 零さないように、そっとお茶を運んだのに、床に置かれていた荷物を蹴飛ばして、全てぶちまけたり。

「えぇ。大任ね!」

「……渡したり……」
 必要書類をコピーして上司に渡したはずが、紙のサイズを間違えたり。

 我ながら、ろくでもない新人だったと、エミリアは頭が痛くなってくる。だんだん仕事に慣れてきてからは、失敗も減ったが、次から次へと新たな仕事が増えていき、忙殺されたものだ。

 挙句に辞めてしまった。

 仕事と聞くと、もう苦い思いがしてくるのに、眼前の麗人は今にも感涙しそうな勢いである。根っからの善人らしい。

 目をキラキラと輝かせ、
「貴女も頑張っているのね!」
と言うと、エミリアの手を取ってぎゅっと握り締めた。

 細い手だったが、意外にも力が強い。

 そんなことを思っていると、彼女と自分の手がほぼ同時にぽうっと光を放った。

 温室の中なのに、ふわりと髪が軽く舞い上がる。心なしか体まで浮き上がったような気がした。光が消えると、何だか身体も少し軽くなったような感覚を覚える。

 自我を取り戻してからというもの、怒涛の勢いで環境が変わったせいなのか、それとも王子と一夜を共にした後だからか、身体が重だるく感じていたのに、今はそれがない。

 トリシュナは微笑んだ。

「身体が楽になったかしら」
「えぇ……今のは?」
「私の力よ。を与えるの」

 王宮の者たちを軒並み卒倒させるという、とはまた異なるもののようだ。トリシュナの治癒は、感謝され喜ばれるものに違いない。しかも、彼女は見知らぬ自分に対しても、惜しみなく力を使ってくれた。

 にこやかに笑う顔が、本当に可愛い。守ってあげたくなる愛らしさだ。

 エミリアはふと自分の手を握りしめたままの彼女の柔らかな手に違和感を覚えて、視線を落とし、息を呑んだ。
 彼女の右手の薬指に銀色の指輪がはまっていた。

 ――――これ、婚約指輪だわ……。
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