殿下、今日こそ帰ります!

猫子猫

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第3羽・帰っておいで

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 翌日、午後も半ば過ぎた頃。

 王宮の大広間で、エミリアはそっと上を見上げた。

 眩いばかりの豪奢なシャンデリアに、落ちたら大変だと庶民的な思考に走る。写実的な麗しい天井画はもっと衝撃的だ。白い壁紙を貼って終わりとは限らないんだと、掠れた笑みが出た。

 下を見れば、高いヒールの靴の下に、技巧の凝らした赤い絨毯がある。茶会が開かれる王宮の大広間へたどり着くまで廊下は、美しく輝く黒の大理石の床だった。ヒビでも入れてしまったら弁償できないという悩みから解放されたかと思えば、高級品を踏みつけるという苦行である。
 せめて土足厳禁と書いておいて欲しかった。

 だが、広間に集まった大勢の貴族たちは見慣れた光景なのか、部屋の豪華さなど誰も目もくれない。大広間の中央には大勢の令嬢たちが集まり、少し離れた所で彼女たちをエスコートしてきた家族たちが控え、どちらも何やら熱心に話しこんでいる。

 令嬢たちの中には物珍しそうにエミリアを見て、気にする者達もいたが、黙って立っている彼女に敢えて話しかけてくる者はいなかった。エミリアは青白い顔をして、目は虚ろだ。自分たちのライバルになりえないと、判断したようである。

 そして、エミリアは、吐きそうだった。

 少しでも王子の関心を引くためにという、男爵の命令を受けた侍女たちによって、コルセットを思いっきり締められていたからだ。大広間に用意されていたお茶や菓子など、到底口にできるものではない。

 ――――もう、なんでも良いから……早く終わって……。

 願うばかりであった時、王子の来訪を告げる侍従の声が響き渡り、大広間の騒めきは次第におさまっていく。そして、扉が開かれて、一人の若い男が姿を現した。

 正妃の子にして、次期王位継承者と目されている第一王子ランスは、一瞬にして人々の目を魅了した。

 藍色の短髪に、紫がかった濃青の瞳。精悍な顔立ちをした長身の男で、二十代半ばほどだろうか。紅色の礼服に、胸には金の徽章が輝く。髪の下から覗く左の耳には緑の宝石が嵌まったピアスをつけていた。

 そんな華やかな装いが、完璧に似合っている。

 まるで絵本や映画の中の王子様のようだ、とエミリアはまず感心する。

 ――――それにしても、派手な人ねぇ……。青に、赤に、緑……クジャクみたいだわ。その内、花でも背負ってくるんじゃないかしら。

 令嬢たちも艶やかに着飾ってはいたが、彼は色彩も鮮やかなせいか、際立って目立つ。数多の視線を浴びても堂々としているものだから、いっそう引き立つのだろう。

 彼の姿を見るや否や、多くの令嬢がきゃあっと黄色い声を上げた。確かに格好良い、とエミリアは思ったが。

 ――――でも、この人……絶対怖い人だわ!

 また、別の記憶が蘇る。

 田舎から出て上京する時、ご近所のおばちゃんやおばあちゃんたちに、『都会の若い派手な男には気をつけろ』と心配されたものである。一見人が良さそうに見えても、腹の中で考えている事が違う人間は目で分かるという。

 華のある王子は令嬢たちの声に丁寧に応じてはいたが、目がまったく笑っていない。

 近寄りがたい空気を発しているとしか見えない。現に、彼の少し後に続いた護衛らしき兵たちの顔が引きつり、目が泳いでいる。主の不穏な空気と、凍てつくような目に気づいているらしかった。

 こんな冷徹そうな王子に、うっかり見初められて妾になどされてはたまらないと、エミリアは密かに身震いする。令嬢たちの中に埋もれて息を潜めていたが、もう逃げ出したくて仕方が無かった。さりとて、ここで妙な行動を取ると目につくと、意を決して。

「きゃ、きゃーきゃー……?」
と、オウムのように、必死で令嬢たちの声真似をしてみる。

 その瞬間、ぴくっと王子が軽く身じろぎしたのが見えた。エミリアはまさかと思いながらも、声真似は止めた。ランスは黙って令嬢たちを一瞥した後、何やら思案気にした後、茶会を始める旨を告げた――――。


 茶会が始まっても、令嬢たちはお菓子などに目もくれず、王子を囲んで熱心に話しかけている。

 エミリアもその中に巻き込まれたが、それとなく後ろへとじりじりと後退し、無事に集団から離脱した。広間には令嬢たちの家族が広がって談笑を始めており、集団から押し出されて彼らの元に行く令嬢もいたので、エミリアは大して目立たない。

 養父である男爵は窓際の椅子に座って、のんびりと一人でお茶を啜っていた所だったが、エミリアが逃げてきたのを見て、慌てて立ち上がった。

「こらっ……何をしている!」
「気分が悪くなりました。吐きそうです!」
「む……っ」

 さすがに吐かれては堪らないと思ったのか、男爵は一時、離席を許した。これ幸いと、エミリアは身を翻し、ドレスの端を摘まんで軽く持ち上げ、人々の間をするすると抜けて出口へと急ぐ。

 そして、やっとの事で扉の前まで辿り着くと、近くにいた王宮の侍従が気を利かせて開けてくれた。礼を言って、そのまま通り抜けようとした時――――ふと視線を感じて、振り返ってしまった。

 離れた場所で、ランスが真っすぐに自分を見返していた。

 たまたま、だ。

 と、思いたかったが、彼は急に歩き出した。

「ひぃ⁉」

 思わず変な声が出る。侍従が目を見張った瞬間、彼は突然その場にへなへなと座り込んだ。

「え……っ⁉」

 大丈夫かと、声をかけようとしたが、今度は大広間にいた人々までも軒並み、腰を抜かしていく。立っていたのは、ランスとエミリアだけである。
 彼は目を細め、口元に笑みを浮かべた。凍りつくエミリアから視線を外すことなく、すっと手を差し伸べた。

「大丈夫だ。帰っておいで」

 静寂が包んだ室内に、ランスの甘く誘う声だけが響く。優しく微笑み、あの冷徹な空気の微塵もない。恐ろしいまでの美貌と派手な装いが際立つ。

 ――――これは、あれだわ……。

 エミリアは知っている。

 世の中には、甘い蜜で誘う花、あるいは輝く光で惑わす魚がいる。
 誘惑に負けて、ふらふら近寄った獲物は――――ばくっと容赦なく、思いっ切り食われるのだ。自然界でよくある光景である。

 エミリアは聞こえないふりをして、廊下へ飛び出した。
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