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兄と妹

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 三日目の夜。

 ジェイラスの目の下のクマは完全に取れ、顔色もよく、夜中でも体力が有り余るほどだったが、ベッドの上で寝転んだ彼は悶えていた。

「だんだん⋯⋯腹が立ってきたぞ!」
「もう諦めた方が良いのでは?」

 ベッドに乗り、彼の傍らに座っていたセリーヌは慰めるように言ったが、ジェイラスは眉を顰めた。

 彼女がどことなく楽し気であったからだ。

 不勉強な皇帝だと内心、鼻で笑っているのだろう。
 むしろ、数学と言いながら、わざと意味不明な事を織り交ぜて混乱させ、自分の興味を引く算段か。

 その可能性に気づいたジェイラスは、まんまと引っかかっている自分に腹が立ってくる。もしも気を引くために惑わしているのならば、容赦はしない。

 セリーヌの方へ身体を横向きにし、片肘をついて頭を手で支えると、彼女にこう切り出した。

「お前の話している学問は、どこの国で学んだものだ?」

 セリーヌの顔から笑みが消えた。

「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯遠い国のものです」

 長い沈黙の後、ようやく口にしたのは、酷く曖昧なものだ。ジェイラスは冷笑して返した。

「それでは分からない。国の名は」
「⋯⋯⋯⋯」

「言えないのか?」
「⋯⋯言っても、信じていただけないかと思います」

 セリーヌはそう呟いて、目を伏せた。

 嘘をついているんだろうと、ジェイラスは言えなかった。彼女の瞳が、今まで見た事もないほど、酷く寂しそうなものだったからだ。

 息を呑み、目が離せなくなった。気づけば身体を起こし、彼女を見つめてしまう。

 セリーヌは黙ったままだ。

 ジェイラスは少し考えた後、彼女に問いかけた。

「俺がお前の話を聞いて、頭を悩ませている事を誰かに話したか?」

「いいえ」

「何故言わなかった? 好奇心をむき出しにして、聞いてきた奴らがいただろう」

 特に、彼女を送り込んだ宰相や近衛隊長は、根掘り葉掘り聞いたはずだ。セリーヌは、苦笑した。

「いましたけど⋯⋯黙っておきました」
「なぜだ?」

「陛下は私の話を真剣に聞いて、理解しようとしてくれたからです。ふざけて聞き流す人は話になりませんが、真面目にやっても上手くいかない事もあると思います。それは悔しい事ですし、誰だって他人にあまり知られたくはないでしょう?」

「⋯⋯⋯⋯。だったら、なおさら何故俺に言わない。俺がお前の話を真剣に聞く相手だと、思ってくれたんだろう?」

「⋯⋯そうですが⋯⋯あまりに突拍子もない話になりますから」

「お前は俺の不勉強を吹聴して回らなかった。ならば、俺もその誠意に応えるべきだと思う。ただ⋯⋯お前の話が奇怪すぎて、噓かと考え始めていたのも事実だ。すまない。恥ずべきことだな」

 正直に告げてくれた彼に、セリーヌは微笑んだ。

「いいえ。それは⋯⋯無理もないと思いますよ。前に居眠りをした人がいたとお話しましたよね。不得意だったり、興味がなかったりする人にとっては、確かに眠くなるような話です。ただ、陛下が大分お疲れのようでしたので⋯⋯」

「俺が寝れば良いと?」

 素直に頷くセリーヌに、ジェイラスは苦笑して、更に言った。

「そうすれば、俺の相手をしなくて済むものな?」
「そ、そんな事は⋯⋯!」

「お前が万歳三唱しながら俺の部屋から出て行くのを、侍女が見かけたそうだぞ」

「う⋯⋯っ」
「貴族令嬢とは思えない行動をとるやつだな。まぁ⋯⋯分からないでもないが」

 納得顔のジェイラスに、セリーヌは返す言葉もなかった。

 前世ではごく一般的な庶民であっただけに、生まれ変わった自分が規格外の令嬢だと、自覚があるからだ。

 ――――もしや、ガッツポーズも見られたかしら⋯⋯。父様の胃に穴が開きそうだわ。

 自分の奇行が次々に公になって困るのは、間違いなく父親だろう。皇帝の夜伽をして、あわよくば側妃になればという、万に一つの可能性に賭けているからだ。

 だが、早々にジェイラスには呆れられているから――――まぁ無理だろう、とセリーヌは思った。

 彼はそれをすぐに口にした。

「安心しろ。俺が求めるわけがない」
「そ、そうですか⋯⋯」
「あぁ。趣味じゃない」

 そこまで言うかと思ったが、よく考えてみれば、彼は男色の気があった。それに、自分は万歳三唱した後、実はスキップもしていたから、仕方がない。

 セリーヌは納得して、少しだけ肩の力を抜いた。

「⋯⋯陛下」
「話す気になったか?」

 問いかける彼の目は、驚くほど優しくて、セリーヌは勇気が出た。

「私に前世の記憶があると言ったら、驚きますか?」

「⋯⋯なに?」

 さすがに意表を突かれたらしく、ジェイラスは呆気にとられた顔をしたが、セリーヌの眼差しが真剣なものであるのが分かる。視線で先を促した。

 セリーヌは多忙な彼の時間を使っているのだからと、できるだけ簡潔に、かいつまんで自分の記憶にある事を話して聞かせた。

 故郷の国や文化の事、生まれ育った環境や年齢、そして――――大切な家族と、死に際まで一緒にいた兄のこと。

「⋯⋯私はまだ学校に行っていましたが、兄は私の一学年上で、働き始めていました」
「一学年上⋯⋯」

「私の故郷では生まれた月日によって分けられて、同世代の子たちが一緒に学ぶんです。だいたい、同い年の子が集まりますね」
「なるほど」

 ――――兄は一歳年上か⋯⋯。

 ジェイラスは相槌をうちながら、少し考えた後、続けて訊ねた。

「兄はどんな者だ?」
「そうですね⋯⋯私とは似ていないと、よく言われます。得意分野も違いましたね。兄は運動はなんでもそつなくこなしましたが、私はまるでダメで。逆に勉強の方は、私の方が好きでした。偏った、と母が苦笑いしていましたよ」

 家族のことを話す時、セリーヌの目は優しいものになった。特に兄には深い情があるようだと、彼女の口ぶりからジェイラスは感じる。

 兄もさぞ、妹を可愛がっていたのだろう。彼女も兄を慕っていたのだろう。

 二人には、目に見えない深い絆があるように思える。それは、ジェイラスにも少し理解できる気がした。

「⋯⋯兄は一緒に転生しなかったようです。私だけ死んで、兄は奇跡的に助かった、というなら良いんですが⋯⋯たぶん、厳しい状況だったように思います」

 自分が転生したのは、神のいたずらか。母が産んでくれた時も大変な難産で、医師から奇跡だと言われたのだから――もう一度、奇跡が起こって、兄も助けてと願ってしまいそうになる。

 気づけば泣きそうになり、ぐっと唇を嚙んで堪えようとしたが。
 大きな手が、優しく頭を撫でた。

「辛かったな。兄が好きだったか」
「⋯⋯はい」

 沢山喧嘩もしたけれど、明るくて、楽天的な所に何度も助けられてきた。前世で激痛を受けた時も、『せり』と言う声はすぐ近くで聞こえた。そして、抱き締められた気がしたのだ。

 兄は、自分を庇おうとしてくれたのだろう。

「前世の記憶があるのなら、一人で見知らぬ地に産まれた事に戸惑いも大きかっただろう。お前も、よく頑張って生きてきた」

 初めて会った時のジェイラスは酷く荒んで、冷徹さがにじみ出ていたが、睡眠をとり、余裕もうまれたのか、その眼差しは温かい。

 気づけばセリーヌの目から、大粒の涙がボロボロと勝手に落ちた。慌てて堪えようとしたが、それよりも前に彼が袖で拭ってくれた。

 ジェイラスが黙っていてくれたから、これ以上話すのは切なすぎると理解してくれていたから、涙が余計に止まらなくなった。
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