彼を愛した前夜祭

七海みなも

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彼を愛した前夜祭4

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 通い慣れたサークル棟、歩き慣れた廊下——過ごし慣れた、空き部屋。
 電灯の切れた薄暗い廊下で俺は、空き部屋の扉を前に緊張していた。
 まだ暑さの残る午後、専攻を同じくする同級生にこき使われている最中届いた、短いメッセージ。

 『いつもの部室で待ってるね』

 飾り気のないアヤさんらしいそれに、一瞬とはいえ顔を綻ばせてしまったのは内緒だ。
 そしてすっかり陽の落ちた今、件の空き部屋の前までやって来たのだが。
 散々開け閉めしてきた扉が別物に見えるほど、緊張する自分がいる。
 告白するでもなし、今更緊張などお笑い種もいいところだ。
 一つ二つ深呼吸をして扉を開けると、薄暗闇の中、よく知る背中が机に腰掛け、楽しそうに足を揺らしていた。

 「アヤさん」

 窓から射し込むキャンプファイヤーの灯り。呼び声に応じて振り向く彼の顔を、揺れる火の明るさがなぞる。
 炎に照らされた彼の姿は精緻な人形のように美しく、愛らしかった。

 「早かったね、もう少しかかると思ってたんだけど」
 「勉めて励んだんだよ、褒めてくれる?」

 平静を装い軽口を叩くと、机からぴょんと飛び降りたアヤさんは、

 「ふふっ、俺でよければ。偉い偉い、よく頑張ったねー」

 雑な科白と共に俺の頭をわしわし撫でた。

 「……何か違くない?」
 「ちゃんと褒めてるでしょ、文句言わないの」

 まるで犬をあやすような手つきである。
 それでも彼の体温や掌の柔らかさを肌で感じて喜んでしまうのだから、やはり俺はアヤさんを諦められないのだ。
 そう。
 未練たらしいと思いつつ、この思いを大事にしたいと望む自分も、確かにいる。

 「……キャンプファイヤー、どう? ここからだと綺麗に見えるんじゃない?」

 俺の髪を楽しそうに梳く彼から眼を逸らし、逃げるように話題を変えた。

 「どんどん人が少なくなってって、びっくりした。もっと大きい輪が出来ると思ってたんだけどなぁ」
 「アヤさん……もしかして気づいてない?」
 「え、何が?」

 きょとりと眼を丸くするアヤさんに、俺は思わず顔を覆った。
 この人はどこまで鈍感なのか。それもまた彼の魅力の一つなのだけれど。

 「ほら、あれだよ。前夜祭のジンクス。みんなそっちに流れちゃったんだって」
 「……ああ! すっかり忘れてた、そんなのあったね」
 「そんなのって……まあ、いいけどさ」

 ありがちな話だがこの大学には、前夜祭に告げた愛は成就するというジンクスが存在する。
 誰が言い出したか知らないし、はっきり言って眉唾ものだが、毎年それなりに盛り上がる恒例行事のようなもの。
 前夜祭を楽しむ生徒の殆どが承知している筈のそれは、俺が緊張していた理由でもある。
 前夜祭に空き教室で二人きり——。
 この状況を少しでも意識してくれたら、と期待していたのだが、

 「だって俺には関係ないもん。格好良い恋人がいるんだから」
 「そう、だね……」

 現実は残酷である。
 口を尖らせ拗ねる彼に、返事をするのが精一杯。
 彼にはもう、愛しい人がいる。
 そんなことは初めから分かっていた筈なのに、勝手に期待して緊張までして——まるで道化のようだ。
 凹む俺に気づかぬアヤさんの意識は、すっかりキャンプファイヤーに移ってしまったらしい。
 窓辺へ移動した彼は、子供のように眼を輝かせてグラウンドを見つめている。
 炎の映える彼が、火柱を覗くように首を伸ばした瞬間、

 「ぁ……、」

 遊びの少ない襟の縁から、大判の絆創膏が覗いた。
 否が応にも想起される、晩夏に見た生々しい情交の跡。
 案外不器用な彼が自分で貼ったとは思えない。
 ならばこれは、アヤさんの恋人の手によるものだ。
 温かみのない肌色のテープはあたかも俺を牽制しているようで、ひどく神経を逆撫でされる。
 ——本当に、狡い。
 俺は気持ちを告げることすら出来ないのに。
 顔も知らぬ『彼』は何処にいても主張してくるのだ。
 お前の知らないアヤを俺は知っていると、いい加減諦めと嗤うように。
 窓の縁に手をつき、真っ白な肌を火の色に染める彼は美しいけれど、この一瞬で知らない人になってしまったみたいだ。
 嫌だ。
 そう、強く思った。
 炎に誘われるまま、手の届かない場所へ飛び立ってしまいそうな彼の腕を掴み、

 「——ひゃっ!」

 光源から奪うが如く引き寄せ、腕に囲った。
 突然の抱擁に瞬きを繰り返していたアヤさんだが、ただの戯れと判断したのか、おかしそうに笑い始めた。

 「なにこれ、何の遊び? オクラホマ・ミキサーかジェンカでも踊りたいの?」

 それともマイム・マイムかな? と肩を揺らす彼に答えもせず、その痩躯へ回した腕に力を込める。
 丁度眼前へ移動して来た首筋に息がかかるらしく、擽ったそうに捩る身体。
 くふくふ笑う声から、逃げられているのではないと分かっているのに、逃がすものかと細腰を抱いた時、

 「ちょ、ちょっと……傑?」

 アヤさんの声に焦りが混じった。
 流石に異常な状況だと思い直したようだ。俺の二の腕や肩を優しく叩いて、解放を促してくる。

 「ねえ、ほんと何? 何で返事してくれないの?」

 言える筈がない。本音を告げれば、逃げてしまうではないか。
 逃げはせずとも、聞きたくない言葉を寄越すではないか。

「傑、力強いよ……苦しいってば。腕、緩めてよ」

 緩めたらそのまま距離を取るくせに。
 今も胴を動かして、俺の隙を探っているくせに。
 隙など作る気はないと、藻掻く身体を抱え直した瞬間、

 「——やだ……ッ!」

 彼の抵抗が強まった。
 先までとは違い、明確な意思を持って足掻く身体を、抑えるようにして抱き込む。

 「アヤさんお願い、大人しくして」
 「しないって……っ、もういいでしょ、離してよ!」

 腕に力を入れるほど、彼の拒絶は大きくなっていく。
 腕力では敵わないと悟ったアヤさんの手が、俺の背中を叩いて抗議する。
 違う、そうではない。
 叩いて欲しいわけじゃない。力一杯抱き締めて、なんて贅沢も言わない。
 優しく添えて欲しいだけ。緩く、柔らかくその手をこの背に添えて欲しいだけなのだ。
 しかしそんな小さな願いも許されないらしい。

 「んぅ……っ、だから苦しいってば……!も、やだ……っ!」

 抗う動きと共に強まる拒絶の声が、俺の心の柔い部分を切りつけてくる。
どうか落ち着いてくれと、甘い匂いのする首に頬を寄せた途端、どん、と彼の掌が俺の背を激しく打った。

 「やだって言ってるじゃん! 離してっ!」
 「——今だけだから!」
 「ひっ、」

 小さな悲鳴を上げて彼の肩が跳ねる。
突然の大声に強張る身体を、それでも離すものか抱き寄せ、乞う。

 「今だけ……こう、させてよ」
 「……な、にも……しない?」
 「うん、しない……。だから、もう少しだけ……抱き締めさせて」

 この手で、この口では愛せない。
 睦言すら紡げない。
 だから優しい彼に甘えて身体を寄せるのだ。
 今だけと前置きをして、腕に囲って愛すのだ。
 それは疑似的でひどく切ない愛し方だけれど。
 ジンクスにあやかる気はないが、言葉の代わりにせめて、温もりを交じ合わせたかった。
 アヤさんの身体から少しずつ、力が抜けていく。
 それに反するように、俺は腕に力を込めた。
 彼の背が反ってしまうほどきつく抱き、僅かな隙間すら埋める。
 しかし彼の腕は。
 俺の背に回ることはなかった。


 彼を愛した前夜祭。
 浮かれた空気に包まれる校内で、ここだけが異世界のように静かだった。
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