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前編 四月晦日
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鳥のさえずりで、蛭子十郎太は目を覚ました。
鼻腔を突く朝露の香り。火が消えた焚き火の傍から身を起こした十郎太は、身体を大きく伸ばした。
柏手山の中腹。眼下には、神部藩三万石の城下町が靄の中で霞んで見える。
「さて、今日からが本番かね」
十郎太は独り言ちに呟くと、竹筒の水に口をつけた。
江戸を発ったのは約一ヶ月前。敦賀から船に乗り、日本海に浮かぶ神部島に上陸したのは昨日の事だった。
神部島へ入った時、身分改めの役人に旅の目的を訊かれた。一応は、剣術の廻国修行としたが、実際は違う。
それは不思議と言うべきか、全くもって不可解なお役目だった。
十郎太が殉職した父に代わり、十七歳で家督と御庭番の役目を継いで十年。抜け荷や隠れ切支丹の探索など、危険なお役目を見事に完遂させ、数々の手柄を立ててきた。
過酷な日々でありながら、今もこうして生きている。御庭番にあっては、生き残っている事が優秀である証拠だった。
その自分が、こんな不可解で馬鹿げた役目を与えられた事が腑に落ちなかった。いや、そもそも御庭番が請け負うべき役目ではないとも、最初は思ったものだ。
「ありのままを見て来い」
御側御用取次である小笠原若狭守に江戸城内の一室に呼び出され、そう命じられた。
「ありのままとは?」
十郎太は、思わず訊き返していた。今までに、このような要領を得ないお役目は無かった。
「ありのままと言えば、ありのままだ。如月のひと月、神部藩でお前の身に起きた事、見た事、聞いた事を報告せよ」
「具体的に、神部藩に何か隠している事があるのですか?」
十郎太がなおも問うと、若狭守は皺首を横にした。
「それは教えられん。御庭番として優れたお前の両眼で、確かめて欲しいのだ」
若狭守は御側御用取次として、十年以上御庭番を率いている老武士。手練手管を用いて、幕府の中枢に今の地位を築いた男なら、自分の言い様が奇妙な事ぐらいはわかっているはず。その男が頑なに言わないというのは、それなりの理由があるからなのだろう。或いは、嫌疑が曖昧なので何も知らない目と耳で判断しろという事か。
それならそれで、見くびられたものだとは思う。自分は〔嫌疑ありき〕での探索はしない。事実、精妙な探索で何度か嫌疑は誤りだったと報告した事もある。探索の理由を聞かされたとしても、玄人の眼が曇る事は無い。
(ただ、神部藩というのがキナ臭い……)
なるほど、それは俺に任されると思えるほど、神部藩は公儀にとって理由ありな藩なのだ。
藩祖は松平長頼。かの駿河大納言・徳川忠長の私生児なのである。長く放浪していた長頼は、天草島原の乱で幕府軍に参加し命懸けの活躍で手柄を挙げ、三代将軍であり叔父である徳川家光によって、神部島三万石を治める大名に取り立てられた経緯があった。
(謀叛か、抜け荷か……)
立地を考えれば、抜け荷だろう。しかし色々と考えても、どれも推測に過ぎない。結局、十郎太は何も知らないままで、神部藩へと向かう事となった。
昨日めし屋で握ってもらった塩辛い握り飯で腹を満たすと、十郎太は山を駆け下りた。
山裾には目一杯の田畠が広がっている。山が多く耕作地が少ない神部島では、平地と言う平地は開墾地となっているようだった。
その田畠で、百姓達が齷齪と働いている。何かに追われているように忙しそうな様子だが、別段不審な点は無い。どれも長閑な田舎の風景だ。
「城下への道はこちらでいいのかね?」
十郎太は、路傍で一息を吐いていた老婆に声を掛けた。
「へぇ、左様でございますよ。この道を真っ直ぐいきますと、太い街道筋にでますから、そこを西へ曲がりますとすぐでございます」
「そうか。申し訳ないな」
十郎太は軽く頭を下げると、老婆は十郎太の顔を眺めながら薄ら笑みを浮かべていた。
「何か?」
微笑とは言えない奇妙な笑みが、十郎太には気になるものだった。
「お武家様は、神部へ来られるのは初めてかと思いましてねぇ……」
「ああ、まぁ初めてだ。私は廻国修行をしている身でね。敦賀から渡ってきたところだ」
十郎太は、自分を旅の武芸者という事にしていた。野袴に筒袖。そして打裂羽織と、それらしい恰好もしている。
「しかし、本当にそれだけか?」
すると老婆は莞爾として笑った。
「うんにゃ、男前だのうと思いまして。死んだ亭主にそっくりでございますよ」
「なるほど。すると、お婆は後家か」
「あら、やだぁ。お武家様は誘っておるんで?」
「あと五十年若ければな」
十郎太は片手を挙げて歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
名も知れぬ野鳥の鳴き声や、労働に励む百姓達の声に耳を傾けながら、老婆の言う通りの道順で歩くと、昼前には城下へと辿りついた。
遠くに見えるのは、四層五階の天守閣。三万石にしては豪華過ぎるように見えるが、それは駿河大納言の血筋というものだろうか。
十郎太は、ふらふらと町筋を歩いた。
天守閣を中心に、周囲を武家地が取り囲み、その周りを寺町、更に町人地と取り囲むようになっている。この城下の広さも、石高には見合わないものだ。
(なるほど。石高を詐称しているというわけか)
まず、身の丈に合わない治政というのが気になる。三万石に相応しくない天守と城下町。
やはり、気になる。十郎太は、自らが抱いた違和感というものを大事にしているし、長年の役目で培ったものだと思っている。これも、一つの可能性として心に止めておこう。
町人地は活気は、三万石にしては〔こんなものだろう〕という程度だ。湊はあるが、暗礁が多いらしく栄えているとは言い難い。立地的に北前船の寄港地として栄えそうではあるが、島全体を暗礁で囲まれているからか、上手いように活用できていない。
十郎太も、東浦という湊から上陸したのだが、敦賀の湊に比べて、まるで通夜のような静けさだった。
寺町に入ると、更に静かなものになった。真宗寺院がやや多いが曹洞宗に真言宗、日蓮宗と宗派に偏りは無い。ただ離島という立地もあるので、耶蘇の寺院が無いとも限らない。今までに仏教寺院の皮をした耶蘇寺が無かったわけではない。そのような例を、十郎太は筑前と肥前で暴いた事がある。必要があれば、寺町への探索も必要だと記憶に止めておく事にした。
武家地で目を引いたのは、道場の多さだった。一刀流・新陰流・冨田流・東軍流と様々な流派が軒を連ね、気持ちのいい竹刀の音が鳴り響いている。
(これは武道を愛する駿河大納言以来の気風かね)
と思ったが、十郎太はすぐに内心で否定した。
寛永年間の御前試合の顛末を知れば、忠長が武道を理解し愛していたとは言い難い。あれはただの殺し合いで、忠長はそれを見たかっただけなのだ。
(まぁ、剣自体が殺し合いが本分ではあるのだがな)
十郎太自身は柳生新陰流を基礎に腕を磨いたが、剣というものに対しては冷笑的だった。
剣術に理論づけて精神修練の一環としてありがたがるが、詰まるところは殺し合いに過ぎない。十郎太も剣の理を追求していたが、実戦を経験してしまうと、生き残る為には流派の名前などどうでもいいと思うようになってしまった。故に十郎太は、流儀を訊かれると〔蛭子新陰流〕と嘯いている。
町人地の上呉服町にある旅籠に宿を取ったのは、城下が茜色に染まる頃だった。
一階が食堂兼客間、二階は全て客間という造りだ。城下からは、やや離れた所にある。今日はどうしてか旅の者が多く、五軒も断られた先の旅籠だった。
十郎太は五日分の宿代を先に渡して〔武州浪人 玉粕三十郎〕と宿帳に偽名を記すと、応対した若い娘に
「祭りでもあるのか?」
と、訊いた。
「さて、何ででしょうねぇ」
「なら、いつもこんなに儲かっているのかね」
「いえ。あたしは何もわかりません。ただ今日は手伝いをしているだけで」
若い娘は困惑した表情を浮かべて言い淀み、さっさと十郎太を二階の一番奥の部屋へと導いた。
人が多いから手伝いをしているのか。それならわかるが、どうにも引っ掛かる。
その夜は、一階の食堂で夕餉を摂る事にした。
出されたのは、麦飯と焼き魚、そして漬物と酒である。焼き魚は真鯵で、海に囲まれているからか、流石に江戸では口に出来ない代物だった。
十郎太は夕餉に舌鼓を打ちながら、周囲の会話に耳を傾けようと思ったが、誰もが口を噤んでいる。
客は浪人風の武士が多く、あとは町人や百姓、渡世人風と様々だ。しかし、家族連れだの、仲間連れという姿は無い。見た感じだが、全員が一人旅のようだ。
(やはり、何かある)
日本海に浮かぶこの島自体に、ありがたがって渡って来る者など、そうそういるものではない。だからこそ、何かがある。あるからこそ、人が集まる。必ず、この神部藩には人々を惹きつける何かがある。
御庭番として磨いた感覚が、そう思わせていた。
鼻腔を突く朝露の香り。火が消えた焚き火の傍から身を起こした十郎太は、身体を大きく伸ばした。
柏手山の中腹。眼下には、神部藩三万石の城下町が靄の中で霞んで見える。
「さて、今日からが本番かね」
十郎太は独り言ちに呟くと、竹筒の水に口をつけた。
江戸を発ったのは約一ヶ月前。敦賀から船に乗り、日本海に浮かぶ神部島に上陸したのは昨日の事だった。
神部島へ入った時、身分改めの役人に旅の目的を訊かれた。一応は、剣術の廻国修行としたが、実際は違う。
それは不思議と言うべきか、全くもって不可解なお役目だった。
十郎太が殉職した父に代わり、十七歳で家督と御庭番の役目を継いで十年。抜け荷や隠れ切支丹の探索など、危険なお役目を見事に完遂させ、数々の手柄を立ててきた。
過酷な日々でありながら、今もこうして生きている。御庭番にあっては、生き残っている事が優秀である証拠だった。
その自分が、こんな不可解で馬鹿げた役目を与えられた事が腑に落ちなかった。いや、そもそも御庭番が請け負うべき役目ではないとも、最初は思ったものだ。
「ありのままを見て来い」
御側御用取次である小笠原若狭守に江戸城内の一室に呼び出され、そう命じられた。
「ありのままとは?」
十郎太は、思わず訊き返していた。今までに、このような要領を得ないお役目は無かった。
「ありのままと言えば、ありのままだ。如月のひと月、神部藩でお前の身に起きた事、見た事、聞いた事を報告せよ」
「具体的に、神部藩に何か隠している事があるのですか?」
十郎太がなおも問うと、若狭守は皺首を横にした。
「それは教えられん。御庭番として優れたお前の両眼で、確かめて欲しいのだ」
若狭守は御側御用取次として、十年以上御庭番を率いている老武士。手練手管を用いて、幕府の中枢に今の地位を築いた男なら、自分の言い様が奇妙な事ぐらいはわかっているはず。その男が頑なに言わないというのは、それなりの理由があるからなのだろう。或いは、嫌疑が曖昧なので何も知らない目と耳で判断しろという事か。
それならそれで、見くびられたものだとは思う。自分は〔嫌疑ありき〕での探索はしない。事実、精妙な探索で何度か嫌疑は誤りだったと報告した事もある。探索の理由を聞かされたとしても、玄人の眼が曇る事は無い。
(ただ、神部藩というのがキナ臭い……)
なるほど、それは俺に任されると思えるほど、神部藩は公儀にとって理由ありな藩なのだ。
藩祖は松平長頼。かの駿河大納言・徳川忠長の私生児なのである。長く放浪していた長頼は、天草島原の乱で幕府軍に参加し命懸けの活躍で手柄を挙げ、三代将軍であり叔父である徳川家光によって、神部島三万石を治める大名に取り立てられた経緯があった。
(謀叛か、抜け荷か……)
立地を考えれば、抜け荷だろう。しかし色々と考えても、どれも推測に過ぎない。結局、十郎太は何も知らないままで、神部藩へと向かう事となった。
昨日めし屋で握ってもらった塩辛い握り飯で腹を満たすと、十郎太は山を駆け下りた。
山裾には目一杯の田畠が広がっている。山が多く耕作地が少ない神部島では、平地と言う平地は開墾地となっているようだった。
その田畠で、百姓達が齷齪と働いている。何かに追われているように忙しそうな様子だが、別段不審な点は無い。どれも長閑な田舎の風景だ。
「城下への道はこちらでいいのかね?」
十郎太は、路傍で一息を吐いていた老婆に声を掛けた。
「へぇ、左様でございますよ。この道を真っ直ぐいきますと、太い街道筋にでますから、そこを西へ曲がりますとすぐでございます」
「そうか。申し訳ないな」
十郎太は軽く頭を下げると、老婆は十郎太の顔を眺めながら薄ら笑みを浮かべていた。
「何か?」
微笑とは言えない奇妙な笑みが、十郎太には気になるものだった。
「お武家様は、神部へ来られるのは初めてかと思いましてねぇ……」
「ああ、まぁ初めてだ。私は廻国修行をしている身でね。敦賀から渡ってきたところだ」
十郎太は、自分を旅の武芸者という事にしていた。野袴に筒袖。そして打裂羽織と、それらしい恰好もしている。
「しかし、本当にそれだけか?」
すると老婆は莞爾として笑った。
「うんにゃ、男前だのうと思いまして。死んだ亭主にそっくりでございますよ」
「なるほど。すると、お婆は後家か」
「あら、やだぁ。お武家様は誘っておるんで?」
「あと五十年若ければな」
十郎太は片手を挙げて歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
名も知れぬ野鳥の鳴き声や、労働に励む百姓達の声に耳を傾けながら、老婆の言う通りの道順で歩くと、昼前には城下へと辿りついた。
遠くに見えるのは、四層五階の天守閣。三万石にしては豪華過ぎるように見えるが、それは駿河大納言の血筋というものだろうか。
十郎太は、ふらふらと町筋を歩いた。
天守閣を中心に、周囲を武家地が取り囲み、その周りを寺町、更に町人地と取り囲むようになっている。この城下の広さも、石高には見合わないものだ。
(なるほど。石高を詐称しているというわけか)
まず、身の丈に合わない治政というのが気になる。三万石に相応しくない天守と城下町。
やはり、気になる。十郎太は、自らが抱いた違和感というものを大事にしているし、長年の役目で培ったものだと思っている。これも、一つの可能性として心に止めておこう。
町人地は活気は、三万石にしては〔こんなものだろう〕という程度だ。湊はあるが、暗礁が多いらしく栄えているとは言い難い。立地的に北前船の寄港地として栄えそうではあるが、島全体を暗礁で囲まれているからか、上手いように活用できていない。
十郎太も、東浦という湊から上陸したのだが、敦賀の湊に比べて、まるで通夜のような静けさだった。
寺町に入ると、更に静かなものになった。真宗寺院がやや多いが曹洞宗に真言宗、日蓮宗と宗派に偏りは無い。ただ離島という立地もあるので、耶蘇の寺院が無いとも限らない。今までに仏教寺院の皮をした耶蘇寺が無かったわけではない。そのような例を、十郎太は筑前と肥前で暴いた事がある。必要があれば、寺町への探索も必要だと記憶に止めておく事にした。
武家地で目を引いたのは、道場の多さだった。一刀流・新陰流・冨田流・東軍流と様々な流派が軒を連ね、気持ちのいい竹刀の音が鳴り響いている。
(これは武道を愛する駿河大納言以来の気風かね)
と思ったが、十郎太はすぐに内心で否定した。
寛永年間の御前試合の顛末を知れば、忠長が武道を理解し愛していたとは言い難い。あれはただの殺し合いで、忠長はそれを見たかっただけなのだ。
(まぁ、剣自体が殺し合いが本分ではあるのだがな)
十郎太自身は柳生新陰流を基礎に腕を磨いたが、剣というものに対しては冷笑的だった。
剣術に理論づけて精神修練の一環としてありがたがるが、詰まるところは殺し合いに過ぎない。十郎太も剣の理を追求していたが、実戦を経験してしまうと、生き残る為には流派の名前などどうでもいいと思うようになってしまった。故に十郎太は、流儀を訊かれると〔蛭子新陰流〕と嘯いている。
町人地の上呉服町にある旅籠に宿を取ったのは、城下が茜色に染まる頃だった。
一階が食堂兼客間、二階は全て客間という造りだ。城下からは、やや離れた所にある。今日はどうしてか旅の者が多く、五軒も断られた先の旅籠だった。
十郎太は五日分の宿代を先に渡して〔武州浪人 玉粕三十郎〕と宿帳に偽名を記すと、応対した若い娘に
「祭りでもあるのか?」
と、訊いた。
「さて、何ででしょうねぇ」
「なら、いつもこんなに儲かっているのかね」
「いえ。あたしは何もわかりません。ただ今日は手伝いをしているだけで」
若い娘は困惑した表情を浮かべて言い淀み、さっさと十郎太を二階の一番奥の部屋へと導いた。
人が多いから手伝いをしているのか。それならわかるが、どうにも引っ掛かる。
その夜は、一階の食堂で夕餉を摂る事にした。
出されたのは、麦飯と焼き魚、そして漬物と酒である。焼き魚は真鯵で、海に囲まれているからか、流石に江戸では口に出来ない代物だった。
十郎太は夕餉に舌鼓を打ちながら、周囲の会話に耳を傾けようと思ったが、誰もが口を噤んでいる。
客は浪人風の武士が多く、あとは町人や百姓、渡世人風と様々だ。しかし、家族連れだの、仲間連れという姿は無い。見た感じだが、全員が一人旅のようだ。
(やはり、何かある)
日本海に浮かぶこの島自体に、ありがたがって渡って来る者など、そうそういるものではない。だからこそ、何かがある。あるからこそ、人が集まる。必ず、この神部藩には人々を惹きつける何かがある。
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