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第二回 ヴィラン/マスト・ダイ

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――面倒くせぇ、でも許せねぇ。外道は、このヴィランが必ず殺すぜ――

<あらすじ>
南町奉行所本所見廻・大佛丹次郎は小悪党である。
小悪党は生きていてもいい。しかし、外道は違う。
外道は真っ当に生きる者の為、死ななければならないのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「面白くねぇ……」

 大佛丹次郎おさらぎ たんじろうは、そうぼやきながら上之橋を渡り今川町に入った。
 全く、面白くない。こんな事なら、八丁堀の自宅で昼寝をしていた方がマシというものである。
 南町奉行所同心である丹次郎が、定町廻から本所見廻に組替えされて一年になる。組替えになった理由は、単なる欠員が出たからであるが、何故それが自分なのか、不満に思ったものである。

(こんな、ドブ癖ぇ所に押し込みやがって)

 定町廻なら好きな所へ行けたものだが、本所見廻となると職掌は本所と深川に限定されているので、そうはいかない。
 丹次郎の脳裏には、忌々しい筆頭同心の顔が浮かんだ。
 本所深川は、奢侈と貧困が入り混じる、欲の肥溜めのような町である。それだけに面白い事件が起こる事もあるが、ここ数ヶ月は陳腐な殺しや盗みばかりで、丹次郎の無聊ぶりょうを慰めるものは起きていない。
 丹次郎にとって、事件の面白さこそ、この稼業の愉しみだった。貧困や痴情故の事件など、手間が増えるだけで面倒なだけだった。
今川町を抜け、佐賀町が見えて来た辺りで、丹次郎は蝉が鳴いているのに気付いた。
 どうやら蝉は、稲荷の社の側にある立派な楠木にいるようだ。

(煩ぇなぁ)

 丹次郎は、その大楠の下で足を止め、蝉の声がする辺りを見上げた。
 もう季節は秋である。朝晩は肌寒さすら覚えるが、そんな時分に蝉とは季節外れも甚だしい。
 すると、黒い塊が丹次郎の目の前に落ちて来た。さっきまで鳴いていた、蝉である。仰向けになった蝉は、足を弱々しく動かしながら、断末魔のような最後の声を挙げていた。
 死にぞこないの蝉。丹次郎の脳裏に、一人の老武士の顔が浮かんだ。
 かの赤穂浪士の生き残りである。討ち入りの数か月前に、大石内蔵助から密命を帯びて離脱したが、その大石が本懐を遂げた事で密命は無意味なものになり、男にはただ、赤穂浪士を抜けたという汚名だけが残った。
 その男は、虚無と自虐の中で酒に溺れ、血を吐いて死んだ。それが丹次郎の祖父である。
 丹次郎は、七つまでその祖父に育てられたのである。母は名前を出すのも憚れるほどの大身旗本の妾であり、その間に生まれた丹次郎は母の実家に預けられ、そして祖父が死ぬと、同心である大佛家に養子に出された。
 そこまで遠ざけられたのは、庶子であるが嫡男でもあったからだ。そこまでしなければ、跡目相続争いになると母は考えたのだろう。
 祖父は、丹次郎を大切に育ててくれた。卑怯な真似をするな。正しい道を選ぶ武士になれ。それはまるで、丹次郎を縛る呪詛のようでもあったが、三十を迎えた丹次郎はそれに反する武士になってしまった。

(嫌な記憶もんを思い出してしまったぜ)

 死にぞこないの蝉ほど、哀れで見苦しいものはないのだ。
 丹次郎は鼻を鳴らし、まだ鳴く蝉を踏み殺した。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 永代寺門前山本町まで来ると、流石に人通りは多くなった。
 この辺りは永代寺への参詣者目当ての茶屋が多く、中には庶民が逆立ちしても口に出来ないような、高級な料理茶屋もある。つまり永代寺門前は、本所深川の奢侈の部分だった。

「おっ」

 丹次郎は、前方にある若い娘を認めると、そっと物陰に身を隠した。
 その若い女は、奉行所でも目を付けている掏摸スリなのである。
 確か、名前は〔堅川たてかわのお吉〕と言ったか。歳は十五か十六と若い。中々すばしっこい女であり、掏摸の手並みも見事なもので、奉行所でも手を焼いていた。
 今も一人、談笑しながら歩いている商人が財布を抜かれている。

(我ながら因果なものだぜ)

 運が良いのか悪いのか。こうした小悪党に、丹次郎はよく出会うのだ。しかし、その大半を見逃している。捕縛しても手間が増えるだけで、銭を貰って見逃した方が実利に繋がる。それに、世の中このぐらいの小悪党がいた方が健全というものである。

(来たか)

 お吉が近付いてくる。丹次郎は一つ溜息を吐いて、行く手を塞いだ。

「女、話がある」

 お吉が、顔面蒼白になる。全てを察しているのだ。丹次郎は口の端を緩め、女の手を引いて、物陰の暗がりに引き込んだ。

「お役人さん、こんな所に引き込んで何なのさ。あたしは夜鷹じゃないんだよ」
「堅川のお吉とは、お前だな」
「知らないね、そんな名前」

 お吉が御侠おきゃんに応える。
 暗がりは、人が向かい合ってやっと二人通れる幅しかない。向かい合うと、お吉の緊張した息遣いまで伝わってくる。こうしてみると、器量も中々のものだ。

「まぁ、お前が堅川のお吉であろうがなかろうが、俺にとってはどうでもいい」
「なら、何だってんだい?」
「懐にある、お前が盗んだ財布を出せ。それで見逃してやろう」
「さぁ、何の話さね」

 しらばっくれるお吉の顔を、丹次郎は掴み上げた。

「俺を舐めるなよ」
「糞野郎」
「口減らずの小娘め」

 と、丹次郎はお吉の口を吸い、右手を胸元に滑り込ませた。
 まだ育ちきれていない乳房をひと揉みした後、財布を抜き取った。

「何をしやがるんだ」
「まだ未通女おぼこか。ま、お前の身体でもいいのだが、昨夜出したばかりでね」

 丹次郎は女を突き飛ばすと、また永代寺門前山本町の表通りに戻った。
 奪った財布に手をやる。思ったより軽い。

しわいな」

 どこも不景気なのだろう。そういえば、袖の下も減りつつある。
 丹次郎は舌打ちし、来た道を戻る事にした。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 翌朝。南町奉行所へ出仕すると、丹次郎は筆頭同心の中田鹿五郎なかた しかごろうから、深川要橋側の木塲で女の死体が見つかったという報告を受けた。

「殺しですかねぇ」

 欠伸混じりに聞くと、中田は顔を顰め、

「それを調べるのが、大佛さんの仕事ですよ。ほら、行った行った」

 と、丹次郎の背を押した。
 中田は丹次郎より四歳若い二十六であるが、頭の良さとおべんちゃらで、筆頭同心の座に着いている。それについて、丹次郎が思う事はない。出世したい奴は頑張ればいいのだ。自分には、その欲はないのだから頑張らない。出世した所で、面倒が増えるだけなのだ。
 女の死体は、材木置き場の側にあった。筵が掛けられており、側には岡っ引きの松吉が丹次郎の到来を待っていた。

「これは、旦那」

 と、慇懃に頭を下げる。松吉まつきちは深川界隈を縄張りにする岡っ引きで、今年で四十になる。日に焼け筋骨逞しいこの岡っ引きは、経験もあり態度も悪くないので、同心にも界隈の町人にも信頼されていた。目下、女房に任せっきりだが、表の生業が餅屋な事から、〔餅屋の松吉〕などと呼ばれている。

「殺しかい?」
「旦那は殺しとなると俄然やる気になりやすねぇ」
「親分、人聞きの悪い事を言っちゃいけねぇよ」
「ふふふ。どうでしょうかねぇ」

 丹次郎は骸に一度片手拝みをして、筵をめくった。

「こりゃ、まぁ……」

 丹次郎は目を見開き、そして鼻を鳴らした。殺されたのは、堅川のお吉だったのだ。
 袈裟斬りにされている。一刀で始末したようだ。財布を取られた形跡も、犯された形跡もない。

「旦那、お知り合いですかい?」
「こいつは堅川のお吉だ」
「何ですって? あの女掏摸の」
「そうさ。昨日会ったばかりなんだがねぇ」
「会ったって、そりゃ」
「掏摸をするのを見掛けたのさ。そこを見咎めてな。生憎逃げられてしまったが」
「そうですかい」
「俺が掴まえときゃ、殺される事も無かったものを」

 そうは言ったものの、銭をせしめた事は松吉に伏せた。この松吉という男は頑固一徹で、袖の下というものを極端に嫌うのである。

「旦那は剣に詳しゅうござんしたね。この太刀筋どうですかい?」
「どうですも、こうですもねぇよ。太刀筋を見ただけで、なんたら流だの玄人だの判るほど、俺は達人じゃねぇ」
「また、そう憎まれ口を叩いて」
「へん。これも例の殺しだろうな」

 すると、松吉は一転して神妙な面持ちになり、頷いた。
 ここ最近、若い女を狙った辻斬りが多発していた。十日前には日本橋で〔お唐〕が、そして三日目には浅草田原町で〔おせん〕という女が二人殺されている。現在、南奉行所を上げて捜査を進めているが、上から妙な圧力があり難航しているようだ。

「とりあえず、筆頭同心殿に報告しておくか」
「へぇ。では、あっしは女の身許を洗います」
「頼むよ」

 それから丹次郎は、今川町にある料理茶屋〔きせ〕へと足を向けた。
 この店は個室を幾つか抱えた堅苦しい料理茶屋であるが、土間に机を並べただけの気軽な席もあり、昼は飯と魚、夜は酒を出している。

「これは大佛様」

 出迎えたのは、この〔きせ〕の主である彦蔵である。
 笑顔であるが、どこか陰気でもある。それは店の名前が、亡くした女房の名前だからだろうか。どこか過去に囚われている。そんな印象を、この男には覚える。

「飯、食いにきたぜ」
「へぇ、喜んで」

 彦蔵は丹次郎を土間の席に案内すると、板場に向かって声を掛けた。彦蔵は料理をしない。ただ客あしらいをするだけである。
 出されたのは、秋刀魚の塩焼きと味噌汁、それに香の物と丼飯だった。丹次郎は、それを無心で頬張った。秋刀魚の旨さが、そうさせたのである。全て平らげると、また陰気な笑顔を浮かべて、彦蔵が近寄ってきた。

「お気に召したようで嬉しく思います」
「旨かったぜ」
「そういえば、死体が見つかったようですね」
「ああ」
「また、例の辻斬りでしょうか」
「それをお前さんに言う義理はねぇなぁ」
「へぇ、確かに。しかし、場所が場所なだけに気になるもんでして」

 彦蔵は苦笑いを浮かべ、一分金をすっと机に置いた。
 丹次郎はそれを一瞥し、咳払いをして袖に頬り込んだ。

「奉公人にも、夜道にゃ気を付けろと言わねばなりませんし」
「そうか。そうだな。それも店主の務めか。そうお前の言う通り、例の辻斬りかもしれんなぁ。少なくとも、身体目的でも物取り目的ではない」
「そうですか。特に若い女衆には気を付けるように言い聞かせておきます」
「おう、そうしな。また殺されたら、俺の面倒が増えるだけだ」

 銭を払わずに店を出ると、松吉が待っていた。構わず歩き出すと、松吉は横にピタリと並んだ。

「何か分かったかい?」
「いえ」

 松吉の声は沈んでいた。

「ですが、荻生丸おぎゅうまるから連絡がございやして」

 荻生丸は、深川界隈の抱非人かかえひにんである。普段は掃除や木戸番をしている。

「へぇ」
「益屋様がお呼びです」
「……」
「すぐにでも巣鴨へ来いって事で」
慈寿荘じじゅそうか」

 松吉は丹次郎の問い掛けに返事をせず、ただ頷いて応えた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 竹林の小道を抜けると、そこは広大な寮があった。
 両国広小路での両替商を中心に、米問屋、材木商、薬種問屋、海運業と手広くやっている益屋の寮である。そこは慈寿荘と名付けられ、その主の名は益屋淡雲ますや たんうんといった。
 丹次郎が訪ないを入れると、若い娘が出て来た。初めて見る顔である。女は愛想の一つもなく、丹次郎を出迎えた。全ての人間が敵と思い込んでいるような険が、その顔にはある。

「益屋はいるかい?」
「あい」

 それだけしか答えない娘に導かれたのは、離れの茶屋だった。

「よう来てくださいました」

 淡雲が笑顔で言った。
 歳は六十ほどのこの男は、小太りで中背。終始笑顔で人の善さそうな印象を受けるが、目の奥は笑ってはいない。きっと、心から笑った事などないのだろうと、丹次郎は思っている。
 何せ彼は、根岸一帯を仕切る裏の首領おかしらであるのだ。一応、表向きには蝮の五郎蔵という男を首領おかしらにしているが、その実彼は淡雲の手下に過ぎない。

「また若い娘を雇ったのかい?」
「ええ」
「好きだねぇ、あんたも」
「人手は多い方がいいと思いましてねぇ。あの娘には身寄りもございませんし」
「ふん、篤志家気取りか。で、急に呼び出したりして、何の用なんだい?」
「一人、して欲しい外道がいまして」
「だろうと思ったぜ、篤志家さんよ」

 丹次郎は、淡雲が抱える刺客の一人だった。殺すのは、生きていては世の為にならない外道だけである。淡雲が何故そんな事をするのか、丹次郎は知らないし、知りたくもない。ただ、自分がそれに納得だけすればいいのだ。
 世の中を万事斜に構えて見ている丹次郎だが、他人の命を面白半分で足蹴にする外道だけは許せないと思っていた。

「面倒だな。あの隻眼の色男にでも頼めばいいだろう。俺は今、殺しの捜査で忙しいんだよ」
「まぁまぁ、そう言わずに。それに、あの方は旅に出てましてねぇ」
「へん、呑気なもんだ」
「ですから、大佛様にお任せするので。当然、お代は弾みますよ」
「それほどの外道かい?」

 すると、淡雲は力強く頷いた。

「最近、話題の辻斬りはご存知ですよね」
「……ああ。今朝も死体を見て来たところだよ」
「その辻斬りが、今回のまとにございます」
「下手人を知っているのか?」
「勿論。そして、南町奉行の牧野成賢まきの しげかた様もご存知ですよ」
「そりゃ、どういう事だい?」
「下手人は、青山靱負あおやま ゆきえという大身旗本でしてね。知っておりますか?」
「俺にそれを訊くか」

 すると、淡雲はしたり顔になった。

「青山と言えば、かの田沼が信頼している青山大隅あおやま おおすみの一族の者だろう」
「左様。靱負は、その甥にございます」

 丹次郎は思わず笑っていた。これが圧力がかかった理由だ。それ以上に、面白い事が一つ。青山靱負は、母を妾とした青山選方あおやま よりかたの息子なのだ。つまり、靱負は異母弟となる。

「それにしても、辻斬りなど」
「血の病なのでしょうねぇ。酔うと人を斬りたくなるようですよ」
「なるほど。そう言えば、靱負の父親も酔うと暴れた」
「存じております。そうして、御母堂様をお手打ちにされたのですね」
「だから、殺した。一応、実の父親だったがな」
「それも、存じております」
「そりゃ、お前さんが手助けしてくれたからねぇ」

 丹次郎はおもむろに立ち上がり、

「受けるぜ、今回の外道狩り」

 と、言い捨て茶室を出た。
 また、愛想の無い小娘が出て来た。静かに頭を下げる。丹次郎は肩を竦めた。

(そういや、俺もあんなんだったな)

 母を殺され、復讐に燃えた俺を助けたのは淡雲だった。そして俺を刺客に引き込んだ。どうやら、死んだ祖父も刺客だったそうだ。赤穂浪士を抜けた贖罪とばかりに、外道狩りをしていたそうだ。それを知ったのは、青山選方を殺した後だった。
 世の中には、死ななくてはならない外道がいる。そうした外道を見ると、どうしても殺したくなる。

(俺も血の病だな……)

 そう自嘲し、丹次郎は竹林の小道を抜けた。

〔了〕
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