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慈光宗

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 円兼を馬に縛り付け、江戸に戻ったのはその日の夜だった。
 屯所へ帰還すると、「田沼意次の上屋敷に来い」という甲賀からの伝言を、留守居から聞いた。
 紅子は円兼を牢に放り込むと、隊士を率いて神田橋御門内にある上屋敷へ向かった。返り血もそのままだが、そんな事は気にしなかった。田沼意次は紅子にとって、叔父のような存在である。祖父・松平武元が死の直前に、意次と紅子に叔父と姪の関係を結ぶように命じたのだ。
 意次は、世間で言われているような悪辣な男ではない。賄賂は受け取っているが、それは全て天下国家の為に使われている。それ故に無理難題を逸撰隊に投げかけて来るが、私心の無い姿勢を知っているからこそ、どうしても嫌いになれないのだ。

「何者か」

 上屋敷を守る相良藩士に誰何された。無理もない。十三名の騎馬が、老中の屋敷に詰めかけたのだ。紅子は、馬上からひと睨みした。

「逸撰隊一番組頭、明楽紅子。叔父貴に会いに来た」

 返り血を拭わぬままの顔で凄まれた藩士は、竦み上がって屋敷内に駆け込んだ。
 すぐに代わりの男が現れた。長身で、通った鼻筋。そしてやや垂れた甘い瞳。役者のような顔立ちに紅子は見覚えがあった。

「相変わらずですなぁ、紅子殿」

 男は長谷川平蔵だった。平蔵は、西の丸仮御進物番を務めており、いわば意次の賄賂係である。

「どうしてあんたがここに? 田沼家の家臣にでもなったのかい?」
「まさか。あなたに逢えると聞いて、駆け付けたんです」
「何を言ってやがる。寝言は寝て言うもんだよ」
「ふふ。そうこなきゃ、面白くない。そう、残念ながらあなたを口説く為じゃない。今は非常時なので、馳せ参じた次第」

 そう言って、平蔵は涼し気な笑みを見せた。
 遠呂智の平蔵と呼ばれるが、またの名を〔女殺し〕。若い頃、本所だけでなく、旗本御家人の間でも、かなりの浮名を流している事で有名だった。

「どうせ、謀事はかりごとなんだろ」

 平蔵は西の丸仮御進物番という役目だが、その実は意次の策謀を実現する間諜として働いている。剣も使える上に、頭も切れる。本人はおくびにも出さないが、逸撰隊に対抗心を抱いているという噂だった。

「それは内緒。抱かせてくれるなら言いますけど」
「煩い、早く叔父貴のところへ案内しろ」

 平蔵は肩を竦める。どうやら、背後の隊士たちの鋭い視線に気付いたようだ。
 紅子は下馬の合図を出し、門前での待機を出して中に入った。随行したのは、勝だけである。

「お連れしました」

 平蔵が襖を開けると、意次は自身の御用部屋で、甲賀と何やら話し込んでいた。
 一国の宰相たる身分でありながら、御用部屋小さく豪奢なものは何一つ置いていない。それどころか、黴臭く感じる。それもこれも、ところ狭しと書物を積み上げているからだ。前回この部屋に来たのは一年前。その頃より積み上がった高さが増したような気がする。

「紅子、よう来たな」

 意次は、深い皺の顔に笑みを浮かべた。笑顔を受けべているが、憔悴の色を微かに感じた。

「叔父貴、また痩せたんじゃないのかい?」

 老中なのだ。特に祖父が死んでからは、幕政を一人で背負っている。その苦労は並々ならぬものがあるという事は想像に容易い。
 これでも、以前は美男子で鳴らしていたそうだ。紅子が初めて意次に会った時、四十路ではあったが、かなりの男前だった。それが今では総白髪の爺さんになっている。

「ふむ。気苦労が絶えなくてなぁ」
「いっその事、倅に跡目を譲ればいいんだよ」

 紅子のぞんざいな言葉遣いに、勝が肘打ちをする。しかし、そうした態度を咎める者はいない。甲賀も平蔵も、田沼家の重臣も、そして意次自身も無作法な紅子を許しているのだ。
 そもそも、意次からして破格の男だった。今や能力より血統が重視される武家社会にいながら、意次はいにしての曹操が〔唯才是挙ゆいざいぜきょ〕を掲げたように、徹底した能力主義を敷いていた。
 故に、意次の重臣は浪人や百姓・商人、果ては旗本や軍学者など、多種多彩な異色の家となっている。

「その前に、諸事を解決してやらんと、倅に負債を残せぬからのう」

 倅とは、逸撰隊の世話役をしている田沼意知である。明るく聡明な息子を、意次は溺愛していた。

「その負債の一つ、羅刹道を壊滅したよ。耶馬行羅も捕らえたけど、その正体が慈光宗の坊主だったんだ」
「やはり」

 そう言って、甲賀が腕を組んだ。
 もう少し喜ぶと思ったが、そうでない様子に困惑していると、意次が渋い表情で口を開いた。

「上様は慈光宗の取り調べを了承された。そして、大奥の高岳は軟禁した。だがな……」
「叔父貴、まさか」
「智仙に逃げられた。それどころか、主だった坊主も消えた」
「智仙は目が見えない。その上、肥えてもいる。そう簡単に逃げられるとは思えない」
「今は手の者に命じて、上州へ続く道という道を調べている」
「最後に確認できたのは三日前だ」

 甲賀が口を挟んだ

「とすると、もう金山御坊かもしれないね」

 意次が深い溜息を吐いて、頭を抱えた。

「挙兵するとの噂もある。鉄砲の話を聞けば、それが単なる噂とは言い難い」
「……」
「紅子、すまぬが金山御坊へ行ってくれないか」
「それは構わないけど、城攻めになるよ。逸撰隊こっちは十三名。上州で三番組と合流しても、二十三だ。勝ち目は無い」
「上様の手前だ。各藩の兵を連合させるような大軍は動かせぬ。もしそんな事をすれば、上様が悪僧の詐術に惑わされたと、天下に喧伝する事になる」
「叔父貴、金山御坊は寺とか言ってるけど、あそこは新田金山城を利用した城塞なんだ。いくらなんでも」
「御庭番も加勢するように頼んだ」

 御庭番と聞いて、紅子の顔が歪んだ。
 明楽家は御庭番を継ぐ家の一つ。その伝十郎と紅子は夫婦になったのだ。そして紅子の実家も、御庭番の倉知家なのだ。
 紅子は明楽の姓こそ名乗れど、倉知家も明楽家も捨てた身である。捨てて、逸撰隊に入った。故に御庭番からは裏切り者の扱いを受けている。

「そう危惧するな。その為に、総大将には誰も文句を言えぬ者を用意している。その者の軍だけは動かすつもりだ」
「数は?」
「一千は出せるだろう。叛乱ならば、最大の兵力で速やかに叩けと命じた」

 一千という数が多いのか少ないのか、紅子にはわからない。如何せん、慈光宗の兵力が不明なのだ。

「長谷川も随行する。紅子、頼む」

 時の老中に頭を下げられる。そこまでされて断りようが無い。
 その時だった。けたたましい足音と共に、家人が部屋に駆け込んできた。

「殿様、江戸市中の各所で火の手が」
「しまった、してやらた」

 意次が、膝を叩いた。甲賀はすぐさま立ち上がると、障子を開け放った。
 江戸の夜空が赤く染まっている。

「火の手は?」

 平蔵がたまらずに訊く。

「およそ五か所。谷中・深川・牛込・芝・京橋。火の手は小さいですが、更に増えている模様です」
「紅子」

 甲賀が叫んだ。

「お前たちは上州へ向かえ。俺は、田沼様と事態の収拾を図る」
「あいよ」
「それと伊平次は置いていけ。こっちで使う」

 紅子は、勝と平蔵に目配せをした。
 慈光宗は、思った以上に凶悪なものになっていた。
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