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武揚会

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 屯所に戻ると、すぐに局長室に呼び出された。
 部屋には、甲賀の他に、紅子と勝が揃っている。三人とも真剣な面持ちだ。

「ただいま戻りました」

 甚蔵がそう言って腰を下ろすと、甲賀は疲れた顔で「ごくろうさん」と迎え入れた。
 部屋の空気が重い。それは今にも雨が降り出しそうな空模様のせいではなさそうだ。とすると、どうやらお叱りを受けるらしい。

「加瀬、慈光宗の件はどうなった?」

 紅子が口火を切った。機嫌が悪いという事は、口調だけでわかる。

「どうって、まぁまぁだな。局長が『出来るだけ秘密裏』と言ったんで、出来るだけはしたが。……それが何か?」
「それだ」

 幹部隊士全員の声が揃った。

「いやね、慈光宗には関わるな、というお達しがあってねぇ」

 と、甲賀が頭を掻きながら言った。

「何故です?」
「俺も聞いたんだが、何も教えてくれなくてねぇ。嫌になっちゃうよ」
「それ誰からですか?」
御側御用取次おそばごようとりつぎ小笠原若狭守おがさわら わかさのかみ様という爺さんだ」
「御側御用取次と言えば、上様の側近。ああ、なるほど。それで」

 甚蔵は、明楽弥十郎が現れた事に得心した。慈光宗をあれこれ訊く事を不快に思った連中が、上に報告したのだろう。その声が小笠原に入り、圧力をかけたという事か。

「何かあったのか?」
「公儀御庭番とかいう連中に囲まれましてね。慈光宗から手を引けと言われたんですよ。剣呑な感じで」
「早速動いてきたか」

 勝が腕を組んだ。

「で、そいつは明楽弥十郎という奴で、いけ好かない野郎でしたよ」

 甚蔵は紅子を一瞥した。弥十郎の名前にさしたる反応を見せず、「あたしもそう思うよ」とだけ言った。

「しかし、妙なんですよ」
「何が?」

 勝が訊いた。

幕閣うえも、そこまで耄碌していないと思うんだよねぇ。もし、智仙から何らかの苦情が入ったとして、逸撰隊おれたちが動いている理由ぐらい訊くんじゃねぇか?」
「幕閣を通さない、大奥からの線もある。高岳から上様の耳に入り、小笠原様へと伝わったのかもしれん」
「まぁそうかもしれんが、俺には違うようにも思える」
「どう違う?」
「俺たちが調べているんだ、お前たちは手を引けっていう」
「なるほどな」

 そう言うと、勝は甲賀に目をやった。すると甲賀はやれやれと苦笑いを浮かべた。

「世話役の意知様に諮ってみるよ。でも、今は動いちゃ駄目だからな。加瀬も羅刹道の調べに戻れ」
「ちょっと、局長。慈光宗はそのままでいいんですか?」
「そりゃ、慈光宗は何となく怪しいと思うよ。でも、何となくなんだ。証拠があるわけでもない。そんで、我々の急務は羅刹道。両者の関係がわからない今の段階で、表立って動けないわけさ」
「しかしこうしている間に、奴らは何かを企んでいるかもしれません」

 すると、紅子が割って入った。

「加瀬、あんたの考えは?」
「おそらくだが……羅刹道は、慈光宗の軍では」

 甚蔵の言葉に、三つの溜息が零れる。

「どうしてそう思う?」
「羅刹道がった人間を、身分や職業毎に分けて考えたんですがね。宗教関係では、圧倒的に真宗が多いんです。真宗と言えば、阿弥陀如来を敬っている。しかし慈光宗の智仙は阿弥陀如来の現生と言われていますよね。その事に批判の声も多かった」
「他の宗派にも聞き込みしたのか?」
「当然。それで一番批判が多かったのが真宗だ。そして、羅刹道に殺されたのも」

 ここ数日、慈光宗の寺院と共に真宗の寺院も廻り、評判を聞いてまわっていた。行く先々で聞かされるのは、智仙への批判の数々である。勿論、そこには妬心もある。今や智仙は大奥だけでなく将軍にも大きな影響力を与えている存在なのだ。

「つまり、お前は羅刹道が慈光宗にとって都合の悪い存在をしていたというのだな?」

 甲賀の質問に、甚蔵は頷く。

「あくまで推測ですが、真宗僧を狙った殺しを隠す為に、無差別な殺人を重ねたのでしょう。無差別だと思わせる為に」
「押し込みもしているが、それについては?」
「軍資金でしょう。銭は何をするにも必要です」
「だが、羅刹道は白阿寺を襲い、智仙の命を狙ったぞ」
「偽装でしょう。被害者になれば、誰も怪しまない。そして、もう一つ。これは俺の推測でも、もっとも空想に近いのですが」
「言ってみろ」
「殺しの訓練です。精強な兵を育てる為に」

 また三つの溜息が聞こえた。

「推測の域を越えんが、怪しいねぇ」
「局長、しかし流石に今動くのはまずいですよ」

 勝だった。こういう席では、勝は自分の意見より抑えに回る事が多い。それが隊内に於ける勝の役割なのだろう。

「わかってるさ。でも、こんな事もあろうかと、信者の中に手の者を潜り込ませて、内偵をさせているのよ」

 紅子と勝が頷く。おそらく、幹部隊士だけが知っていた事なのだろう。それよりも、教団内部に密偵を送り込んでいた甲賀の手腕の方が驚いた。これが、甲賀が切れ者と言われる所以らしい。

「しかし、今は内偵だけだ。これは俺が主導でやるよ」
「それなら、山江坊円兼という男に注目してくれませんか?」
「そいつが何か?」
「俺と一緒に襲われたんですが、慈光宗に対して懐疑的になっています。こちらに転ばせられるかもしれません」

 甚蔵は懐疑的と感じた、円兼の発言を説明した。

「知ってしまったのです。無力さを。岩に隠れて震えていました。そして見ていたのですよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えながらも、無惨に殺されていく巡礼者たちを。どんなに、御門主が阿弥陀如来の現生した存在でも、仏眼を持つ存在でも、助けてはくれませんでしたよ」

 そう語った時の、円兼の暗く諧謔的な表情が忘れられない。

「わかった」
「そしてもう一つ。これは益屋に聞いたんですが」
「お前、また益屋に会ったのか」

 勝が言った。

「隊規に反するかい?」
「そうではないが、相手は武揚会だ。やくざとも違う。会う時は一言あってもいい。それに、べったりするのも良くない」
「礼を伝えに行っただけさ。それに奴のお陰で羅刹道の狂信者を、何人か捕縛出来たわけだし」
「貸しを作ったわけだ」

 白阿寺で捕縛した一味は、屯所内の牢に収監されているが、適切な治療を受けている。折角捕縛したのだ。傷で死なせてはならないという、甲賀の指示である。

「まぁまぁ、いいじゃないの。重要な情報を得たんだからさ。で、浅草の大獄院って奴を調べろってか」
「はい。局長、これは嘘には感じません」

 益屋が紹介した盗賊が行方不明になっている一件を含めて、甚蔵は伝えた。

「まぁ、頭の片隅に入れておくよ」

 話はそれで終わった。
 甚蔵が解放されると、外は雨が降っていた。頭が妙に重いのも、空模様のせいだったかもしれない。

「待ちな」

 詰め所への回廊を歩いていると、追ってきた紅子に呼び止められた。勝手に益屋に会った事へのお叱りだろうか。

「益屋に会った事か? それとも、慈光宗の……」
「はずれ。そんな事はどうでもいい」
「じゃ、義弟おとうとさんか」
「そうね、あいつ、何か言ってた?」
「まぁ……『復讐なんて止めて家に帰って来いと』と」

 すると、紅子が鼻を鳴らした。

「あたしの事は伊平次に訊いたかい?」
「ああ。全部な」

 嘘を吐いてもいずれわかると思い、甚蔵は素直に白状した。

「気に病む事はないよ。訊かれたら答えろと、伊平次には事前に言っていたんでね」
「あいつ」

 甚蔵は伊平次の顔を思い浮かべて、吐き捨てた。折角の恩を安売りどころか、タダでやってしまったではないか。

「弥十郎は、あたしを許せないのさ」
「どうして?」
「あたしには、弁之助べんのすけという息子がいてね。今年で四つになる」

 一瞬、空が光った。甚蔵は視線を遠くの山に移す。やっと雷鳴が鳴った。遠雷というやつだ。それにしても、雨脚は強くなるばかりである。

「その息子を捨てた」
「復讐の為に」

 紅子は少し考えて頷いた。

「じゃ、今は義弟おとうとが養育しているのか?」
「正確には祖母だけどね」
「なら引き取ればいいじゃないか。この稼ぎだ。育てられない理由は無いだろう」

 すると、紅子は甚蔵をひと睨みした。それは甚蔵でさえたじろく凄みがある。

「あんたにはわからんだろうが、子どもを産んだからって、誰もが親になるとは限らないんだよ」
「意味がわからんね」
「あたしは母親になっちゃいけない女だったんだ。可愛いと思えない以上、一緒にいるべきでもない。お互いの為にね」
「やはり、男の俺にはわからん。だが一つだけ確かだ。お前さんの身勝手なこだわりによって、両親の温かみを知らぬまま育つ弁之助が不憫という事だ」

 そう言うと、紅子は鼻を鳴らした。

「毎月、決まった額は送っている。最低限の事はしているよ」

◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆

 翌日から羅刹道の捜査に甚蔵は戻った。
 まず甚蔵がした事は、羅刹道の犯行と思われる事件の洗い出しだった。
 今までの報告書を引っ張り出し、読み直して精査する。犯行場所・殺された人間・手口。それを関八州一円の地図に書き込んでいく。

「あんた、頭は慈光宗で一杯のようだね」

 詰め所に紅子が現れて言った。

「駄目かい?」
「まぁ、考えるだけならいいさ」

 夕方になり、梯と末永が土蔵から引き揚げてきた。どっぷりと汗をかいている。おそらく口を割らす事に苦労しているのだろう。この二人と三笠・服部の四人で、捕縛した羅刹道門徒の尋問をしていた。
 死なないように傷を癒した上で、たたいて話を聞きだす。皮肉なものだ。

「どうだい、加瀬の旦那。俺らが汗と血臭でむせる牢に籠っている間、ここで地図に朱色を入れて何かわかったかい?」
「まぁ、羅刹道の根城は至る所にあるって事ぐらいか」
「そんなのわかってら」

 梯の皮肉にも慣れてきた。そして、こういう事に末永は無関心である。二人を無視して、茶を啜っている。

「それより尋問はどうなんだ。何か話したか?」
「いや、奴らは羅刹道の素晴らしさしか話さねぇ。やるだけ無駄のような気がしてきた」
「そうか。末端は何も知らんだろうな」

 それから無言で読み込んでいると、紅子がやってきた。

「羅刹道と思われる殺しだ。場所は染井村。加瀬、梯、末永行くぞ」
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