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羅刹道
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久し振りに紅子は、江戸・石川御門の傍で高松藩中屋敷の裏手にある自邸で目を覚ました。
暫くの間、上州から野州を駆け巡り、逸撰隊の屯所に寄ってから帰宅したのが昨日の明け方だった。
紅子は留守を預かっていた奉公人と従僕に熱い風呂の準備を命じ、強張った身体を豆腐のように柔らかくした後で、目が覚めるまで起こすなと命じて床に就いた。
そして、今日という日を迎えた。朝と呼ぶには既に陽が高い。一日と半は眠っていたのだろう。それほどの激務とは思っていなかったが、疲労は着実に蓄積していた。今年で、もう二十八。いつまでも、自由が利く歳ではない。
自室を出ると、待ち構えていたように従僕が駆けてきた。
この従僕は、菊池光助という少年だった。今年で十一歳になる光助は、かつて逸撰隊で組んでいた男の遺児だ。父親が死んで身寄りが無い為に、紅子が引き取って従僕として使っているのだった。
知り合いの子を従僕に雇う事に対して、紅子とて抵抗が無いわけではない。なんなら養子でもいいとは言ったが、本人が従僕として働きたいと言ったのだ。
「紅子様、よくお眠りでございましたね」
光助は、屈託のない笑顔を見せた。
「久し振りによく寝た気がするよ。留守の間、何かあったかい?」
「いえ、特に変わった事は何も。お食事になさいますか?」
「そうだな」
返事を聞いて台所に行こうとした光助を、紅子は呼び止めた。
「道場と塾には?」
「ご心配なく。それにはちゃんと通っております」
光助は従僕という身分ではあるが、近くの町道場と私塾には通わせていた。光助は従僕には過ぎたるものと断ったが、紅子は命令として言いつけた事だった。
「文武を極めないと、紅子様の用人にはなれませんから」
「その意気で励みな。お前が人並み以上の武士になるまで、従僕のままなんだからね」
「では、私は食事をご用意しますので」
光助が紅子の屋敷に来たのは、二年前だった。その時は腕も脚も細く、言葉遣いもなっていなかったが、今では日々凛々しく武士らしい成長を見せている。
父親は、菊池孫兵衛という肥後出身の浪人だった。元々は銭で人を殺す始末屋であったが、その腕を買われて逸撰隊を設立する際に、紅子が直々に隊士として勧誘した男だった。
孫兵衛は、紅子の期待に応えてよく働いた。剣だけでなく、意外にも隊の事を考える思慮深さもあったので、伍長の階級を与えて自分の補佐役に任じた。
伍長となった孫兵衛は、以前にも増して隊に尽くしてくれた。紅子も何度も助けてくれた。天敵である勝安五郎との仲も取り持ってくれたし、目が届かない所まで見ていてくれた。
しかし、孫兵衛は殺された。ある夜、深川で一人で飲んでいた帰りに、何者かに襲われたのだ。翌日、大川の土手で骸になった発見された。全身に十八箇所の刺し傷があり、討伐した賊の報復かと思われたが、下手人は未だ見つかっていない。
紅子が独り身になった光助を引き取ると言い出した時には、当然だが隊内で大いに驚かれた。逸撰隊には隊士の遺族に対しては手厚い保護を設けているので、当面は困らないとは考えたが、身寄りが無い少年を一人で生かせていくには、この江戸は過酷過ぎると思ったからだ。
それに、ちょうど働き手が欲しかったところだった。一人で住むには広すぎる屋敷を隊から与えられ、老僕と住み込みの女中と三人で暮らしていた。しかし、その女中が嫁ぐ事になり、身の廻りの世話をする働き手がもう一人欲しかった。
と、色々理由を考えて自分に言い聞かせたのだが、やはり孫兵衛が紅子にとって特別な存在だった事が大きい。それは、男女の仲というものではなく、相棒という友情の部分でという意味だ。
囲炉裏の間に行くと、葱のよい香りがしていた。台所では、光助が立ってせっせと働いている。
光助は孫兵衛と二人暮らしの時に食事の準備をしていたようで、屋敷に来てからは老僕に教わっていた。
光助は余計な事を訊かないし、喋りもしない。言われた事も守る。一見して歳の割りに大人びているとは思うが、紅子にとっては好ましい事だった。
出されたのは飯の他に、根深汁と鰯の塩焼き、そして古漬けの大根。食事に関しては、こだわりは無い。腹が満たされればいい、それが旨いに越した事はないと思うぐらいだ。わざわざ手の込んだ料理や食材を求めるという生き方はしてこなかった。
食事を終え、光助から二本の六角鉄短棒と脇差の丹波守吉道を受け取り自邸を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
逸撰隊の屯所は、紅子の屋敷からも近い清水門外にある。元々は大身旗本の屋敷だったが、無嗣断絶となった際に接収して屯所に作り替えたのだ。
屯所は局長の役宅も兼ねていて、独り身の甲賀三郎兵衛が侘しく住んではいるが、隊士の為の宿舎や食堂の他、道場や牢屋まである。
門前には、逸撰隊の隊旗が掲げられていた。紅子は足を止めて見上げる。黒字に赤で染め抜かれた、〔逸〕の文字。逸した者だけを撰んだ隊。それが逸撰隊。この旌旗が、隊士たちの誇りになっていた。
紅子はあまり使わない自分の御用部屋に顔を出すと、局長室に来いという伝言が文机に置かれていた。江戸に戻ったその日に屯所には顔を出したが、深夜遅くだった事もあって局長の甲賀には会わなかった。
「おっ、明楽の姐さんがお出ましになりましたか」
そう言った甲賀は、局長室で囲碁に興じていた。その相手は勝だった事に対し、紅子は顔を歪めた。
甲賀は四十路の、何とも怪し気な男だった。ひょろっとした長身だが、猫背で全体的に覇気が無い。それどころか、やる気すら前面に出す事は無く、それでいて自他共に認める悪相の持ち主。趣味は酒と博打と囲碁と釣り。生い立ちや経歴は謎に包まれているが、とある大身旗本の四男坊であった事、妻に逃げられて今は独り身である事、そして時の老中・田沼意次に見込まれて逸撰隊の局長を任された事は知っている。
紅子も、この男の手腕は認めている。外見からは感じさせないが、これでも相当な切れ者なのだ。裏との繋がりも深く、独自の情報網を構築していて、命を救われたのも一度や二度ではない。
「上州から野州と駆け回ってくれてご苦労さん」
「まぁ、隊務ですから」
紅子がどかっと腰を下ろす。勝は碁盤を見つめ、無言で碁石を動かした。
「報告は聞いたよ。色々と大変だったようだな」
「江戸で暢気に碁を打つわけじゃないですからね」
「相変わらず、姐さんは手厳しい事を言う」
「今回は戦死者も出していますし。一番組が一人と、二番組の伍長が一人。江戸にいる組頭さんとは違って、最前線でよくやってたんですがねぇ」
紅子の嫌味に、勝は何も反応しない。碁石に目を向けたままだ。
「まぁ、そう言うな明楽。勝も大事な片腕を失って気落ちしてんだから」
「そうは見えないですけどね」
死んだ二番組伍長の安牧は、確かに勝が見込んでいた男だった。火盗改と組むという隊務も、その能力を買っての事だった。意思統一が為されていない組織と組む事は、困難であり求められる能力も多い。安牧なら出来ると勝は判断したのだった。
「明楽、報告しろ」
勝が言った。
「報告すべき事は無いわ。下野で羅刹道の隠れ家と思われる集落を急襲したけど、そこはもぬけの殻。おまけに山賊に襲われ、隊士を死なす始末さ」
「長い間、江戸を留守にしていた割には収穫無しか」
「留守にしたからって羅刹道の事がわかりゃ苦労しないよ」
そうは言ったものの、紅子にも申し訳なさが無いわけではない。一番組が出張っている間、江戸の事は勝が率いる二番組が支えてくれていたのだ。
「笹子の鎌太郎一味との関係は?」
紅子は首を横に振った。
「聞き出そうにも、沢辺村は羅刹道に皆殺しにされてしまっている。その意味を考えれば浮かび上がるものもあるけど、推測の域を出ない」
「何か感じた事は?」
今度は甲賀が訊いてきた。紅子は少し考えて口を開いた。
「巨大さ。とてつもなく、何か大きな力を相手にしているような気がします」
「巨大な力か」
甲賀が頭を掻きながら、溜息を吐いた。
「局長、浮かない様子ですね」
「わかる? 実は幕閣からお達しがあったんだよ。逸撰隊は、総力を挙げて羅刹道を壊滅すべしと言われたばかりさ。どうやら、阿部志摩守様の口から田沼様の耳に入ったみたいなんだよねぇ」
「阿部と言えば、沢辺村の領主ですね。無理もない」
「とりあえず、暫く一番・二番組は羅刹道に集中してね。それ以外の事件に構う事はないから」
紅子と勝が同時に頷く。
「それと、関八州の治安向上も厳命されちまった。当分の間、三番組は激務だと思うよ」
「あいつなら問題ないですよ」
三番組の組頭には、元々一番組の伍長だった矢倉兵衛門に任じている。矢倉は優秀な伍長で手放したくはなかったが、戦死した組頭の後釜が決まらず、このままでは紅子の兼務も止む無しといった雰囲気になった時、断腸の思いで推薦したのだ。大切な手駒を失うのは痛いが、一番組と三番組を兼務するよりましであるし、矢倉の出世を考えればこれでよかったと思う。それに何処の誰とも知れない者を据えるより、息の掛かった人間を置いた方が色々とやりやすい。
「でもねぇ。四番組の件、考えてくれた?」
「考えるも何も、反対ですね」
紅子が即答すると、甲賀がまた溜息を吐いた。
四番組は、関八州の治安維持を主目的とする三番組の補佐として設置が考えられている。確かに、三番組を休暇で江戸に戻した際に、関八州は手薄になる。その際に四番組がいれば穴を埋める事には変わりはない。
「どうせなら、関八州の治安維持という役目自体を、逸撰隊から切り離せばいいんじゃないですかね。それか、四番組隊士の選抜をあたしに任せるか」
「明楽、お前という奴は」
勝が口を挟む。どうせまた、逸撰隊は私物ではないと言いたいのだろう。そんな事はわかっている。が、このまま純度を薄めて、凡俗な組織に成り下がるのを見て見ぬ振りは出来ない。どんなに人材が不足しても、逸材を撰ぶから逸撰隊なのだ。
「はい、そこまで」
紅子が言い返そうとした瞬間、甲賀が片手を挙げて二人を制した。
「そこまで、そこまで。二人は俺にとって車輪の両輪なんだから、仲良くしてよ」
「ですが、局長」
なおも言い募る勝に、甲賀は「まぁまぁ」と笑顔で宥めた。
「局長」
部屋の外から、声がした。若い隊士だ。名前は知らないが、二番組にいるところを見た事がある。甲賀はホッとした表情で入るように命じた。
「どうしたんだい?」
「お客様がお越しになりました。お約束があるとかで」
「おう。客間に通しておいて」
隊士が去ると、碁石を置いた勝が口を開いた。
「例の男ですか?」
「多分ね。まぁ、万年人材不足の逸撰隊にはありがたい話だが」
「使えるのは先方の折り紙付きでしょう。いくら訳ありとは言え、断るという選択肢はありませんね」
「そう思うかい? そうだ、明楽。お前も一緒に来い」
甲賀が立ち上がって言った。どうやら囲碁は、甲賀の敗北で終わったようだ。切れ者と評判で事実そうだが、この男が囲碁で勝ったところを見た事がない。
「新入隊ですか?」
「そうだ。一番組に回すつもりだから、ちゃんと見てやってくれ」
紅子は立ち上がって頷いた。一番組は最精鋭。常に最前線にいるので損耗も激しいが、故に待遇も良く隊士の憧れでもある。
「勝、お前は?」
「私はよしましょう。安牧がいないので、色々と忙しいのですよ」
そう言って、勝は局長室を辞去した。本来なら、囲碁をする暇も無いのだろう。安牧は、確かに勝の片腕だった。
暫くの間、上州から野州を駆け巡り、逸撰隊の屯所に寄ってから帰宅したのが昨日の明け方だった。
紅子は留守を預かっていた奉公人と従僕に熱い風呂の準備を命じ、強張った身体を豆腐のように柔らかくした後で、目が覚めるまで起こすなと命じて床に就いた。
そして、今日という日を迎えた。朝と呼ぶには既に陽が高い。一日と半は眠っていたのだろう。それほどの激務とは思っていなかったが、疲労は着実に蓄積していた。今年で、もう二十八。いつまでも、自由が利く歳ではない。
自室を出ると、待ち構えていたように従僕が駆けてきた。
この従僕は、菊池光助という少年だった。今年で十一歳になる光助は、かつて逸撰隊で組んでいた男の遺児だ。父親が死んで身寄りが無い為に、紅子が引き取って従僕として使っているのだった。
知り合いの子を従僕に雇う事に対して、紅子とて抵抗が無いわけではない。なんなら養子でもいいとは言ったが、本人が従僕として働きたいと言ったのだ。
「紅子様、よくお眠りでございましたね」
光助は、屈託のない笑顔を見せた。
「久し振りによく寝た気がするよ。留守の間、何かあったかい?」
「いえ、特に変わった事は何も。お食事になさいますか?」
「そうだな」
返事を聞いて台所に行こうとした光助を、紅子は呼び止めた。
「道場と塾には?」
「ご心配なく。それにはちゃんと通っております」
光助は従僕という身分ではあるが、近くの町道場と私塾には通わせていた。光助は従僕には過ぎたるものと断ったが、紅子は命令として言いつけた事だった。
「文武を極めないと、紅子様の用人にはなれませんから」
「その意気で励みな。お前が人並み以上の武士になるまで、従僕のままなんだからね」
「では、私は食事をご用意しますので」
光助が紅子の屋敷に来たのは、二年前だった。その時は腕も脚も細く、言葉遣いもなっていなかったが、今では日々凛々しく武士らしい成長を見せている。
父親は、菊池孫兵衛という肥後出身の浪人だった。元々は銭で人を殺す始末屋であったが、その腕を買われて逸撰隊を設立する際に、紅子が直々に隊士として勧誘した男だった。
孫兵衛は、紅子の期待に応えてよく働いた。剣だけでなく、意外にも隊の事を考える思慮深さもあったので、伍長の階級を与えて自分の補佐役に任じた。
伍長となった孫兵衛は、以前にも増して隊に尽くしてくれた。紅子も何度も助けてくれた。天敵である勝安五郎との仲も取り持ってくれたし、目が届かない所まで見ていてくれた。
しかし、孫兵衛は殺された。ある夜、深川で一人で飲んでいた帰りに、何者かに襲われたのだ。翌日、大川の土手で骸になった発見された。全身に十八箇所の刺し傷があり、討伐した賊の報復かと思われたが、下手人は未だ見つかっていない。
紅子が独り身になった光助を引き取ると言い出した時には、当然だが隊内で大いに驚かれた。逸撰隊には隊士の遺族に対しては手厚い保護を設けているので、当面は困らないとは考えたが、身寄りが無い少年を一人で生かせていくには、この江戸は過酷過ぎると思ったからだ。
それに、ちょうど働き手が欲しかったところだった。一人で住むには広すぎる屋敷を隊から与えられ、老僕と住み込みの女中と三人で暮らしていた。しかし、その女中が嫁ぐ事になり、身の廻りの世話をする働き手がもう一人欲しかった。
と、色々理由を考えて自分に言い聞かせたのだが、やはり孫兵衛が紅子にとって特別な存在だった事が大きい。それは、男女の仲というものではなく、相棒という友情の部分でという意味だ。
囲炉裏の間に行くと、葱のよい香りがしていた。台所では、光助が立ってせっせと働いている。
光助は孫兵衛と二人暮らしの時に食事の準備をしていたようで、屋敷に来てからは老僕に教わっていた。
光助は余計な事を訊かないし、喋りもしない。言われた事も守る。一見して歳の割りに大人びているとは思うが、紅子にとっては好ましい事だった。
出されたのは飯の他に、根深汁と鰯の塩焼き、そして古漬けの大根。食事に関しては、こだわりは無い。腹が満たされればいい、それが旨いに越した事はないと思うぐらいだ。わざわざ手の込んだ料理や食材を求めるという生き方はしてこなかった。
食事を終え、光助から二本の六角鉄短棒と脇差の丹波守吉道を受け取り自邸を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
逸撰隊の屯所は、紅子の屋敷からも近い清水門外にある。元々は大身旗本の屋敷だったが、無嗣断絶となった際に接収して屯所に作り替えたのだ。
屯所は局長の役宅も兼ねていて、独り身の甲賀三郎兵衛が侘しく住んではいるが、隊士の為の宿舎や食堂の他、道場や牢屋まである。
門前には、逸撰隊の隊旗が掲げられていた。紅子は足を止めて見上げる。黒字に赤で染め抜かれた、〔逸〕の文字。逸した者だけを撰んだ隊。それが逸撰隊。この旌旗が、隊士たちの誇りになっていた。
紅子はあまり使わない自分の御用部屋に顔を出すと、局長室に来いという伝言が文机に置かれていた。江戸に戻ったその日に屯所には顔を出したが、深夜遅くだった事もあって局長の甲賀には会わなかった。
「おっ、明楽の姐さんがお出ましになりましたか」
そう言った甲賀は、局長室で囲碁に興じていた。その相手は勝だった事に対し、紅子は顔を歪めた。
甲賀は四十路の、何とも怪し気な男だった。ひょろっとした長身だが、猫背で全体的に覇気が無い。それどころか、やる気すら前面に出す事は無く、それでいて自他共に認める悪相の持ち主。趣味は酒と博打と囲碁と釣り。生い立ちや経歴は謎に包まれているが、とある大身旗本の四男坊であった事、妻に逃げられて今は独り身である事、そして時の老中・田沼意次に見込まれて逸撰隊の局長を任された事は知っている。
紅子も、この男の手腕は認めている。外見からは感じさせないが、これでも相当な切れ者なのだ。裏との繋がりも深く、独自の情報網を構築していて、命を救われたのも一度や二度ではない。
「上州から野州と駆け回ってくれてご苦労さん」
「まぁ、隊務ですから」
紅子がどかっと腰を下ろす。勝は碁盤を見つめ、無言で碁石を動かした。
「報告は聞いたよ。色々と大変だったようだな」
「江戸で暢気に碁を打つわけじゃないですからね」
「相変わらず、姐さんは手厳しい事を言う」
「今回は戦死者も出していますし。一番組が一人と、二番組の伍長が一人。江戸にいる組頭さんとは違って、最前線でよくやってたんですがねぇ」
紅子の嫌味に、勝は何も反応しない。碁石に目を向けたままだ。
「まぁ、そう言うな明楽。勝も大事な片腕を失って気落ちしてんだから」
「そうは見えないですけどね」
死んだ二番組伍長の安牧は、確かに勝が見込んでいた男だった。火盗改と組むという隊務も、その能力を買っての事だった。意思統一が為されていない組織と組む事は、困難であり求められる能力も多い。安牧なら出来ると勝は判断したのだった。
「明楽、報告しろ」
勝が言った。
「報告すべき事は無いわ。下野で羅刹道の隠れ家と思われる集落を急襲したけど、そこはもぬけの殻。おまけに山賊に襲われ、隊士を死なす始末さ」
「長い間、江戸を留守にしていた割には収穫無しか」
「留守にしたからって羅刹道の事がわかりゃ苦労しないよ」
そうは言ったものの、紅子にも申し訳なさが無いわけではない。一番組が出張っている間、江戸の事は勝が率いる二番組が支えてくれていたのだ。
「笹子の鎌太郎一味との関係は?」
紅子は首を横に振った。
「聞き出そうにも、沢辺村は羅刹道に皆殺しにされてしまっている。その意味を考えれば浮かび上がるものもあるけど、推測の域を出ない」
「何か感じた事は?」
今度は甲賀が訊いてきた。紅子は少し考えて口を開いた。
「巨大さ。とてつもなく、何か大きな力を相手にしているような気がします」
「巨大な力か」
甲賀が頭を掻きながら、溜息を吐いた。
「局長、浮かない様子ですね」
「わかる? 実は幕閣からお達しがあったんだよ。逸撰隊は、総力を挙げて羅刹道を壊滅すべしと言われたばかりさ。どうやら、阿部志摩守様の口から田沼様の耳に入ったみたいなんだよねぇ」
「阿部と言えば、沢辺村の領主ですね。無理もない」
「とりあえず、暫く一番・二番組は羅刹道に集中してね。それ以外の事件に構う事はないから」
紅子と勝が同時に頷く。
「それと、関八州の治安向上も厳命されちまった。当分の間、三番組は激務だと思うよ」
「あいつなら問題ないですよ」
三番組の組頭には、元々一番組の伍長だった矢倉兵衛門に任じている。矢倉は優秀な伍長で手放したくはなかったが、戦死した組頭の後釜が決まらず、このままでは紅子の兼務も止む無しといった雰囲気になった時、断腸の思いで推薦したのだ。大切な手駒を失うのは痛いが、一番組と三番組を兼務するよりましであるし、矢倉の出世を考えればこれでよかったと思う。それに何処の誰とも知れない者を据えるより、息の掛かった人間を置いた方が色々とやりやすい。
「でもねぇ。四番組の件、考えてくれた?」
「考えるも何も、反対ですね」
紅子が即答すると、甲賀がまた溜息を吐いた。
四番組は、関八州の治安維持を主目的とする三番組の補佐として設置が考えられている。確かに、三番組を休暇で江戸に戻した際に、関八州は手薄になる。その際に四番組がいれば穴を埋める事には変わりはない。
「どうせなら、関八州の治安維持という役目自体を、逸撰隊から切り離せばいいんじゃないですかね。それか、四番組隊士の選抜をあたしに任せるか」
「明楽、お前という奴は」
勝が口を挟む。どうせまた、逸撰隊は私物ではないと言いたいのだろう。そんな事はわかっている。が、このまま純度を薄めて、凡俗な組織に成り下がるのを見て見ぬ振りは出来ない。どんなに人材が不足しても、逸材を撰ぶから逸撰隊なのだ。
「はい、そこまで」
紅子が言い返そうとした瞬間、甲賀が片手を挙げて二人を制した。
「そこまで、そこまで。二人は俺にとって車輪の両輪なんだから、仲良くしてよ」
「ですが、局長」
なおも言い募る勝に、甲賀は「まぁまぁ」と笑顔で宥めた。
「局長」
部屋の外から、声がした。若い隊士だ。名前は知らないが、二番組にいるところを見た事がある。甲賀はホッとした表情で入るように命じた。
「どうしたんだい?」
「お客様がお越しになりました。お約束があるとかで」
「おう。客間に通しておいて」
隊士が去ると、碁石を置いた勝が口を開いた。
「例の男ですか?」
「多分ね。まぁ、万年人材不足の逸撰隊にはありがたい話だが」
「使えるのは先方の折り紙付きでしょう。いくら訳ありとは言え、断るという選択肢はありませんね」
「そう思うかい? そうだ、明楽。お前も一緒に来い」
甲賀が立ち上がって言った。どうやら囲碁は、甲賀の敗北で終わったようだ。切れ者と評判で事実そうだが、この男が囲碁で勝ったところを見た事がない。
「新入隊ですか?」
「そうだ。一番組に回すつもりだから、ちゃんと見てやってくれ」
紅子は立ち上がって頷いた。一番組は最精鋭。常に最前線にいるので損耗も激しいが、故に待遇も良く隊士の憧れでもある。
「勝、お前は?」
「私はよしましょう。安牧がいないので、色々と忙しいのですよ」
そう言って、勝は局長室を辞去した。本来なら、囲碁をする暇も無いのだろう。安牧は、確かに勝の片腕だった。
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