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逸撰隊
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尾州屋の店先に、女が立っていた。
それが女であるかどうか一瞬だけ迷ったが、眉や頬・唇に目をやり、やはり女だと甚蔵は思った。
総髪に羽織袴姿の女は、腰には大小ではなく、代わりに脇差と六角鉄短棒を二本差し込んでいる。
どこまでも異様なその女は、禽獣のような鋭い視線を甚蔵に向けた。色黒で、目鼻立ちははっきりとしている。飛び抜けて美人というわけではないが、不細工でもない。
そして、女の背後には武士が五人。どいつもこいつも癖のありそうな、悪い顔をしている。火盗改で培った甚蔵の勘が、こいつらには気を抜くなと囁いている。
「お前さんかい、現場を譲れって言っている奴は?」
甚蔵が改めて訊き直した。
この女は甚蔵の顔を見るなり、「そうよ」といとも簡単に答えた。火盗改に現場を譲れなど、大した度胸だとも思う。
「聞いたと思うけど、さっさと譲ってちょうだい。あたしらは暇じゃないの」
「はぁ?」
「あぁ、だけどそこの親分さんには残ってもらうよ。色々と協力してもらわなきゃいけないし」
後ろに控えていた丸政に向かって、女が言う。急に話を振られた丸政は驚き、恐縮して頭を下げた。
「おいおい。いきなりそう言われて、はいそうですかと譲るお人好しがいるかよ。お前さんは何者だ?」
すると、女は当てつけのように大きな溜息を吐き、懐から印籠を取り出した。
「こういうの、あんまり好きじゃないんだよ」
漆塗りのその印籠は、蒔絵で〔〇に逸〕の字が記されている。
間違いなく、逸撰隊。松平武元と田沼意次の発案によって組織された、〔身分・性別〕を問わない、完全実力主義の治安維持部隊。その活動範囲は、天領・大名領・寺社領と無制限に踏み込む事ができ、隊務の為なら容赦なく斬り捨てる事から、〔人斬り隊〕などと揶揄されている。勇名と悪名は何度か耳にしたが、こうして相対するのは初めてだった。
「逸撰隊とはね」
「そう。それで、あたしは一番組頭の明楽紅子。で、後ろの連中はあたしの部下。わかったなら、さっさと帰ってちょうだい」
そう言って中に上がり込もうとした紅子の前に、甚蔵が立ち塞がった。
「つまり、この印籠が目に入らぬかってか? 俺はそんな啖呵で引き下がるような漢じゃないぜ」
「何よそれ」
「そもそも、何でお前らが出張る。これは盗賊の仕業だぜ。火盗改の領分じゃねぇか」
「それを説明する義務は無いね。それにこれは単なる盗賊の仕業じゃない。あんたが手にしている木簡が良い証拠さ」
木簡。ハッとして、甚蔵は握っていた木簡に目をやった。確かに、紅子とか言う女が言う通り、これは単なる盗賊の仕業ではない事は、痛いほどわかる。
「その様子だと、中は相当のもんだったようだね」
「だからって」
譲れるわけがない。あんな地獄を見たのだ。自分の手で犯人をと、悪人を追う者なら誰しもが思うはずだ。
しかし、そこまで言った甚蔵の袖を引いたのは、戸来だった。
「加瀬様。相手はご老中の直属でございますよ。それに逸撰隊の捜査権は、我々より上にあります。ここは退きましょう」
新米同心に窘められるのも癪だが、言っている事は正しい。正しいが腹は立つ。
甚蔵は頬を寄せた戸来の腹に肘内をかますと、全員の撤収を命じた。
「聞き分けがいいね。お利口さんは大好きだよ」
そう言って微笑む紅子に、甚蔵は顔を寄せ睨みつける。
「どうせ来んなら、もうちょっと早く来てくんねぇかな? こちとら宿直明けでね」
「ご忠告痛み入るよ」
紅子も睨み返し、率いていた五名に声を掛けると、丸政に案内するように命じた。
いつの間に、甚蔵が持っていた木簡は、紅子の手の中にあった。
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
田安門外にある贄市之丞の役宅に戻った甚蔵は、長官たる贄の御用部屋に飛び込んだ。
「入る時は、一声を掛ける。武家作法で一番最初に教わるものですよ」
甚蔵を迎え入れた贄は、文机に向かって報告書に目を通していた。
今年で三十九になるこの男は、色白で小男という冴えない風貌をしている。それ故に軽く見られがちだが、能吏として幕府内では名望高く、いずれは町奉行職にまで登るのでは? と、目されている。また見掛けによらず武闘派で、火盗改の長官となって一年余りだが、既に大きな盗賊団を三つも潰していた。
ただ性格は一々細かく、それでいて嫌味も言う男で、甚蔵はどうにも贄が苦手だった。
「そんな事はどうでもいいんですよ。それより、聞いてください。俺らの現場を横か
ら」
「加瀬さん、あなたは犬ですか。キャンキャンキャンキャンと」
贄が両手で耳を塞ぎ、顔を顰めた。大袈裟な反応は、贄の癖のようなものだ。
「ですがね」
「ちゃんと聞こえています。逸撰隊が出張って来たのでしょう?」
「どうしてそれを」
「実はあなたに出馬を命令した後に、逸撰隊の方から使者が来たのです。尾州屋の押し込みについて、追っている賊徒に関わる事なので現場を譲って欲しいと」
「それで、贄様は?」
「頷くしかないではありませんか。逸撰隊の任務は、何よりも優先されるのですから。追いかけて加瀬さんに知らせようかと思いましたが、それには及ばないと言われましてねぇ」
贄は文机に置かれていた茶を手に取り、熱そうに啜った。
あわよくば、贄を通じて逸撰隊に文句を言ってもらおうかと思ったが、話が通っていたのであれば、もうどうする事も出来ない。
「酷いものでしたよ」
「何が?」
「現場ですよ。赤ん坊が吊るされ、子供の首が仏壇に供えられていました」
贄の表情が俄かに厳しいもの変わった。信じられないとでも思っているのか。ああ、俺だってそう思う。あれは悪鬼の所業のような惨状だった。
「賊の押し込みではなかったのですか?」
「確かに押し込みでしたよ。皆殺しにした挙句、子供を切り刻んでいましたがね」
吐き捨てるように言い放ち、立ち上がろうとした甚蔵を贄が呼び止めた。
「ちょうどよかった。あなたに伝えたい事があったんですよ」
「何です、急に」
「申し訳ないですが、上州へ行ってくれませんか? 出発は明日で構いません」
「上州? それはまたどうしてです?」
「笹子の一味が、上州新田郡を本拠にしている事がわかったのです」
「笹子って、あの鎌太郎が率いる?」
贄がにやりと頷く。
この笹子の鎌太郎という盗賊は、それこそ殺しも厭わない、〔畜生働き〕で有名だった。火盗改としても長年追っていた盗賊の一つだ。
ただ、相手は中々の武闘派。自分一人と新米同心だけでは心許ない。
「そりゃ構いませんが、加瀬組だけでは厳しいですよ。笹子の連中は、殺しも朝飯前って奴らです」
「心配はわかりますが、人材は限られています。現地に協力者がいるので、それで我慢してください」
やはり。この辺りは、贄の厳しいところだ。ただ、この男は無能ではない。いつも相手の戦力をちゃんと考えた上に手を打っている。今回もそうであると信じるしかない。
「しかし、また逸撰隊に邪魔される事はないでしょうね? 夜狐の九平を殺ったのもあいつらって聞きましたよ」
「そこはご心配なく。今回は逸撰隊からのお願いなのですから」
「それ、どういう事です?」
「何でも逸撰隊は大きな仕事を抱えていて、手が回らないらしいのですよ。本来なら、三番組が関八州の凶賊を追捕する役目を負っているのですが、それすらも投入しているらしいので、よっぽど大きなものなのでしょうね」
ふと、紅子とかいう女に取り上げられた、羅刹天の木簡を思い出した。
逸撰隊が総力を挙げて追っているという仕事は、あの木簡に関わる事なのか。
「ま、話はわかりましたが、指揮権はどちらに?」
「当然、人数を多く出すのですから……と、言いたいところですが、捜査権の性質上、火盗改が指揮をするわけにはいかないでしょう」
「なるほど、顎で使われるわけですね」
「貸しを作れるのです。彼らが貸しを貸しだと思えない犬と聞いた事がありませんので、大きな貸しになりますよ」
「物は言い様ですね。まぁいいでしょう。逸撰隊に貸しを作れるなら喜んで行きますよ」
「助かります。では、手短に説明しましょう」
それから、贄から捕縛すべき笹子の鎌太郎について説明を受けた。
驚いた事に、江戸を荒らしていた凶賊の表の顔は、上州新田郡にある沢辺村の庄屋だったのだ。年に一度、江戸に出ては血生臭い押し込みを働く。そして、翌日には人当たりがよい庄屋に戻るのだという。
どういう経緯で庄屋が盗賊になったのか、甚蔵には知る由もないし興味もない。しかし、逸撰隊からもたらされたその情報は精度が高いもので、贄も間違いはないと言った。
「ああ、それと沢辺村は誰の御領地が知っていますか?」
「いえ、生憎他人様の懐には興味がありませんで」
「私は興味がある下世話な人間なので教えてさしあげましょう。沢辺村は阿部志摩守様の領地です」
阿部志摩守と言えば、大身旗本で今を時めく田沼意次の側近の一人である。大奥との繋がりも深く、そちら方面の情報収集や謀略を担当している。
「ですので、あまり派手に働いてはいけませんよ。なるべく穏便に」
最後に念を押されて、贄の御用部屋を出た。
(なるべくね)
甚蔵は鼻を鳴らすと、外では戸来が律義に待っていた。この新米は親父の跡目を継いでまだ三カ月。慣れるまでは自分の後ろをついて回れと言っている。本来なら経験豊かな同心に付けるが、加瀬の組は新米ばかりなので結果そうなってしまう。それについて、何度も贄に文句を言ったが今はもう諦めている。
「戸来、明日から上州に出馬だ」
「えっ、明日ですか」
「上州新田郡。そこで賊退治だよ。今日はこれで解散だ。他の四人にも伝えて来い」
戸来が困惑の表情を浮かべたが、甚蔵は小突くと慌てて駆け去っていった。
(疲れた……)
その背を眺めながら、大きな溜息を吐いた。
本来なら何も無く宿直を終えられるはずだった。それが狂気じみた現場を見せられた挙句に、仕事の横取り。しかも明日から上州だ。
己の不運に腹が立つが、これこそが火盗改だとも甚蔵は思った。
それが女であるかどうか一瞬だけ迷ったが、眉や頬・唇に目をやり、やはり女だと甚蔵は思った。
総髪に羽織袴姿の女は、腰には大小ではなく、代わりに脇差と六角鉄短棒を二本差し込んでいる。
どこまでも異様なその女は、禽獣のような鋭い視線を甚蔵に向けた。色黒で、目鼻立ちははっきりとしている。飛び抜けて美人というわけではないが、不細工でもない。
そして、女の背後には武士が五人。どいつもこいつも癖のありそうな、悪い顔をしている。火盗改で培った甚蔵の勘が、こいつらには気を抜くなと囁いている。
「お前さんかい、現場を譲れって言っている奴は?」
甚蔵が改めて訊き直した。
この女は甚蔵の顔を見るなり、「そうよ」といとも簡単に答えた。火盗改に現場を譲れなど、大した度胸だとも思う。
「聞いたと思うけど、さっさと譲ってちょうだい。あたしらは暇じゃないの」
「はぁ?」
「あぁ、だけどそこの親分さんには残ってもらうよ。色々と協力してもらわなきゃいけないし」
後ろに控えていた丸政に向かって、女が言う。急に話を振られた丸政は驚き、恐縮して頭を下げた。
「おいおい。いきなりそう言われて、はいそうですかと譲るお人好しがいるかよ。お前さんは何者だ?」
すると、女は当てつけのように大きな溜息を吐き、懐から印籠を取り出した。
「こういうの、あんまり好きじゃないんだよ」
漆塗りのその印籠は、蒔絵で〔〇に逸〕の字が記されている。
間違いなく、逸撰隊。松平武元と田沼意次の発案によって組織された、〔身分・性別〕を問わない、完全実力主義の治安維持部隊。その活動範囲は、天領・大名領・寺社領と無制限に踏み込む事ができ、隊務の為なら容赦なく斬り捨てる事から、〔人斬り隊〕などと揶揄されている。勇名と悪名は何度か耳にしたが、こうして相対するのは初めてだった。
「逸撰隊とはね」
「そう。それで、あたしは一番組頭の明楽紅子。で、後ろの連中はあたしの部下。わかったなら、さっさと帰ってちょうだい」
そう言って中に上がり込もうとした紅子の前に、甚蔵が立ち塞がった。
「つまり、この印籠が目に入らぬかってか? 俺はそんな啖呵で引き下がるような漢じゃないぜ」
「何よそれ」
「そもそも、何でお前らが出張る。これは盗賊の仕業だぜ。火盗改の領分じゃねぇか」
「それを説明する義務は無いね。それにこれは単なる盗賊の仕業じゃない。あんたが手にしている木簡が良い証拠さ」
木簡。ハッとして、甚蔵は握っていた木簡に目をやった。確かに、紅子とか言う女が言う通り、これは単なる盗賊の仕業ではない事は、痛いほどわかる。
「その様子だと、中は相当のもんだったようだね」
「だからって」
譲れるわけがない。あんな地獄を見たのだ。自分の手で犯人をと、悪人を追う者なら誰しもが思うはずだ。
しかし、そこまで言った甚蔵の袖を引いたのは、戸来だった。
「加瀬様。相手はご老中の直属でございますよ。それに逸撰隊の捜査権は、我々より上にあります。ここは退きましょう」
新米同心に窘められるのも癪だが、言っている事は正しい。正しいが腹は立つ。
甚蔵は頬を寄せた戸来の腹に肘内をかますと、全員の撤収を命じた。
「聞き分けがいいね。お利口さんは大好きだよ」
そう言って微笑む紅子に、甚蔵は顔を寄せ睨みつける。
「どうせ来んなら、もうちょっと早く来てくんねぇかな? こちとら宿直明けでね」
「ご忠告痛み入るよ」
紅子も睨み返し、率いていた五名に声を掛けると、丸政に案内するように命じた。
いつの間に、甚蔵が持っていた木簡は、紅子の手の中にあった。
◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆
田安門外にある贄市之丞の役宅に戻った甚蔵は、長官たる贄の御用部屋に飛び込んだ。
「入る時は、一声を掛ける。武家作法で一番最初に教わるものですよ」
甚蔵を迎え入れた贄は、文机に向かって報告書に目を通していた。
今年で三十九になるこの男は、色白で小男という冴えない風貌をしている。それ故に軽く見られがちだが、能吏として幕府内では名望高く、いずれは町奉行職にまで登るのでは? と、目されている。また見掛けによらず武闘派で、火盗改の長官となって一年余りだが、既に大きな盗賊団を三つも潰していた。
ただ性格は一々細かく、それでいて嫌味も言う男で、甚蔵はどうにも贄が苦手だった。
「そんな事はどうでもいいんですよ。それより、聞いてください。俺らの現場を横か
ら」
「加瀬さん、あなたは犬ですか。キャンキャンキャンキャンと」
贄が両手で耳を塞ぎ、顔を顰めた。大袈裟な反応は、贄の癖のようなものだ。
「ですがね」
「ちゃんと聞こえています。逸撰隊が出張って来たのでしょう?」
「どうしてそれを」
「実はあなたに出馬を命令した後に、逸撰隊の方から使者が来たのです。尾州屋の押し込みについて、追っている賊徒に関わる事なので現場を譲って欲しいと」
「それで、贄様は?」
「頷くしかないではありませんか。逸撰隊の任務は、何よりも優先されるのですから。追いかけて加瀬さんに知らせようかと思いましたが、それには及ばないと言われましてねぇ」
贄は文机に置かれていた茶を手に取り、熱そうに啜った。
あわよくば、贄を通じて逸撰隊に文句を言ってもらおうかと思ったが、話が通っていたのであれば、もうどうする事も出来ない。
「酷いものでしたよ」
「何が?」
「現場ですよ。赤ん坊が吊るされ、子供の首が仏壇に供えられていました」
贄の表情が俄かに厳しいもの変わった。信じられないとでも思っているのか。ああ、俺だってそう思う。あれは悪鬼の所業のような惨状だった。
「賊の押し込みではなかったのですか?」
「確かに押し込みでしたよ。皆殺しにした挙句、子供を切り刻んでいましたがね」
吐き捨てるように言い放ち、立ち上がろうとした甚蔵を贄が呼び止めた。
「ちょうどよかった。あなたに伝えたい事があったんですよ」
「何です、急に」
「申し訳ないですが、上州へ行ってくれませんか? 出発は明日で構いません」
「上州? それはまたどうしてです?」
「笹子の一味が、上州新田郡を本拠にしている事がわかったのです」
「笹子って、あの鎌太郎が率いる?」
贄がにやりと頷く。
この笹子の鎌太郎という盗賊は、それこそ殺しも厭わない、〔畜生働き〕で有名だった。火盗改としても長年追っていた盗賊の一つだ。
ただ、相手は中々の武闘派。自分一人と新米同心だけでは心許ない。
「そりゃ構いませんが、加瀬組だけでは厳しいですよ。笹子の連中は、殺しも朝飯前って奴らです」
「心配はわかりますが、人材は限られています。現地に協力者がいるので、それで我慢してください」
やはり。この辺りは、贄の厳しいところだ。ただ、この男は無能ではない。いつも相手の戦力をちゃんと考えた上に手を打っている。今回もそうであると信じるしかない。
「しかし、また逸撰隊に邪魔される事はないでしょうね? 夜狐の九平を殺ったのもあいつらって聞きましたよ」
「そこはご心配なく。今回は逸撰隊からのお願いなのですから」
「それ、どういう事です?」
「何でも逸撰隊は大きな仕事を抱えていて、手が回らないらしいのですよ。本来なら、三番組が関八州の凶賊を追捕する役目を負っているのですが、それすらも投入しているらしいので、よっぽど大きなものなのでしょうね」
ふと、紅子とかいう女に取り上げられた、羅刹天の木簡を思い出した。
逸撰隊が総力を挙げて追っているという仕事は、あの木簡に関わる事なのか。
「ま、話はわかりましたが、指揮権はどちらに?」
「当然、人数を多く出すのですから……と、言いたいところですが、捜査権の性質上、火盗改が指揮をするわけにはいかないでしょう」
「なるほど、顎で使われるわけですね」
「貸しを作れるのです。彼らが貸しを貸しだと思えない犬と聞いた事がありませんので、大きな貸しになりますよ」
「物は言い様ですね。まぁいいでしょう。逸撰隊に貸しを作れるなら喜んで行きますよ」
「助かります。では、手短に説明しましょう」
それから、贄から捕縛すべき笹子の鎌太郎について説明を受けた。
驚いた事に、江戸を荒らしていた凶賊の表の顔は、上州新田郡にある沢辺村の庄屋だったのだ。年に一度、江戸に出ては血生臭い押し込みを働く。そして、翌日には人当たりがよい庄屋に戻るのだという。
どういう経緯で庄屋が盗賊になったのか、甚蔵には知る由もないし興味もない。しかし、逸撰隊からもたらされたその情報は精度が高いもので、贄も間違いはないと言った。
「ああ、それと沢辺村は誰の御領地が知っていますか?」
「いえ、生憎他人様の懐には興味がありませんで」
「私は興味がある下世話な人間なので教えてさしあげましょう。沢辺村は阿部志摩守様の領地です」
阿部志摩守と言えば、大身旗本で今を時めく田沼意次の側近の一人である。大奥との繋がりも深く、そちら方面の情報収集や謀略を担当している。
「ですので、あまり派手に働いてはいけませんよ。なるべく穏便に」
最後に念を押されて、贄の御用部屋を出た。
(なるべくね)
甚蔵は鼻を鳴らすと、外では戸来が律義に待っていた。この新米は親父の跡目を継いでまだ三カ月。慣れるまでは自分の後ろをついて回れと言っている。本来なら経験豊かな同心に付けるが、加瀬の組は新米ばかりなので結果そうなってしまう。それについて、何度も贄に文句を言ったが今はもう諦めている。
「戸来、明日から上州に出馬だ」
「えっ、明日ですか」
「上州新田郡。そこで賊退治だよ。今日はこれで解散だ。他の四人にも伝えて来い」
戸来が困惑の表情を浮かべたが、甚蔵は小突くと慌てて駆け去っていった。
(疲れた……)
その背を眺めながら、大きな溜息を吐いた。
本来なら何も無く宿直を終えられるはずだった。それが狂気じみた現場を見せられた挙句に、仕事の横取り。しかも明日から上州だ。
己の不運に腹が立つが、これこそが火盗改だとも甚蔵は思った。
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